子兎とシープドッグ

篠原皐月

(16)純粋培養天然娘

「……それで! 今日は幸恵さんにお弁当を食べて貰えたんです!」
「そうか、良かったな」
「はい! しかも『美味しかったわ』とか、『お料理上手なのね』って、誉めて貰えまして!」
「……あいつには珍しく、随分素直だな。気持ち悪い位だ」
「それに、今度お誘いしたいので、メルアドを教えて下さいってお願いしたら、メルアドと一緒に携番まで教えて貰っちゃったんですぅぅぅっ!! 嬉しいぃぃぃっ!!」
「…………お疲れ様」
 夜に綾乃の携帯にかけてみると予想外のハイテンションな声が返って来た為、祐司は携帯片手に顔を引き攣らせた。これは公子から「幸恵さんの前で騒ぎ立てると彼女が気分を悪くするだろうから、嬉しくてもグッと我慢して押さえておきなさい」とアドバイスを受けた為、幸恵の前では喜びを抑えていた反動で、話の流れでそれに祐司が触れた途端、綾乃の理性のタガが外れてしまった結果だったが、詳しい事情など知る由もない祐司は、話を続けるかどうか僅かに迷ってから、何とか気合いを入れ直して口を開く。


「その……、幸恵と仲直り、と言うか和解、と言うのも少し変だが、とにかく何とかなって良かったな」
「はいっ! これから幸恵さんともっと仲良くなれる様に頑張ります!」
「……そうだな。ところで話は変わるんだが、幸恵の方の問題は今回の事で片が付いたと思うし、そろそろ保留になってる俺への返」
「ぅあぁぁぁっ!! しゅっ、すみゅばせん! 私、今日、眞紀子さんに電話しないと、いけなかったでした!」
「え?」
 さり気なく祐司が話題を変えようとしたところで、いきなり綾乃が奇声をあげ、微妙に噛む様な口調でまくし立てた内容に、祐司の顔が軽く引き攣った。しかし電話の向こうの綾乃は、祐司に構わないまままくし立てる。


「この間幸恵さんの事で色々相談に乗って貰ってましたし、散々愚痴も零してたから絶対心配してます! 今から電話しますので、申し訳ありません、失礼しますっ!!」
「あ、ちょっと待った!!」
 慌てて祐司は制止の叫び声を上げたが、如何にも慌ただしく電話が切られ、耳に無機質な信号音のみが届いた。そこでて祐司ががっくりと項垂れる。


「……切られた」
 しかし一分も経たないうちに着信音が鳴り響き、祐司は速攻で相手を確認もせず、嬉々として電話に出た。
「はい、もしもしっ!?」
「あら? 随分張り切ってるのね祐司。例のお好み焼きの綾乃ちゃん、だったかしら? 二人仲良く順風満帆? 結婚式には呼んでね~」
 しかし如何にも楽しげな声が耳に届いた瞬間、祐司は前にも増して暗い顔で俯いた。


「姉貴……」
「え? ちょっと何か、いきなり声が暗くなった感じがするけど、どうかしたの?」
「姉貴、俺ちょっと浮上できないかも……」
「はぁ? あんた何を言ってるの?」
 怪訝な声で問いかけられた祐司は、少しも隠す事無く、この間の話していなかった経過を、溜め息と共に語って聞かせたのだった。


 ※※※


「えっと……、幸恵さん、本当にすみません。お昼休みに付き合って貰って」
「構わないわよ? 誘うなと言った覚えは無いし……。それで? この面子で相談って何なの?」
(何かまたもの凄く、面倒な事になりそうな気がするのは、私の気のせいかしら?)
 綾乃からの「お昼を食べながらご相談したい事があるので、ご都合はどうでしょうか?」のメールを受けて快諾し、二人連れ立って出向いた店に公子と香奈が待ち受けていた事で、幸恵は無意識に眉間に皺を寄せた。それを見た二人が、どう見ても面白がっている表情で口を開く。


「それは、やっぱり『あれ』よね? 例の高木さんからの交際申し込み」
「それ以外有り得ないわ~」
「ななな何で分かるんですか!?」
 途端に幸恵の正面に座った綾乃が動転した声を上げたが、幸恵の隣の公子と綾乃の隣の香奈が、事も無げに解説する。
「だって君島さんなら、仕事上の事で分からない事があったら放置したりしないで、すぐに教わったり聞いたりするでしょう?」
「綾乃ちゃん、ここ暫く挙動不審だったものね~」
「仕事はきちんとこなしてたのは、誉めてあげるけど」
「……ありがとうございます」
 狼狽著しい綾乃だったが、先輩二人にあっさり断言されて面目なさげに俯いた。それを見て幸恵は、精神的な疲れを覚える。


(だから……、どうしてそんな事で私が呼ばれるわけ? この子、意外に性格が悪くて、元カノの私に自慢したいとかじゃないわよね?)
 綾乃に対して軽くそんな疑いを抱いてしまった幸恵だったが、次に綾乃が発した言葉に本気で面食らった。
「それで、幸恵さんにご相談と、笹木さんと香奈先輩にご意見を頂きたいんですが……」
「だから何?」
「どうやって高木さんにお返事すれば良いでしょうか?」
「……はぁ?」
 たっぷり二十秒は固まってから、幸恵は正面に座る綾乃に注意深く問い返した。


「あの、ちょっと待って。どうすればって……、携番とかメルアドとかは交換してるのよね?」
「はい」
「それなら普通に電話するなりメールするなり、それこそフロアは違うけど同じ職場なんだから、休憩時間にでも直接話せば」
「できないんです……」
 下手するとこの世の終わりの様な暗い表情で呻いた綾乃に、幸恵は思わず顔を引き攣らせる。
「……どうしてって、理由を聞いても良い?」
 すると綾乃は、涙目になって幸恵に切々と訴え始めた。


「だって、電話越しにその話題になっただけで緊張しちゃって、思わず話を逸らしたり切っちゃうんです! メールを打とうとしたらどんな文面にしたら良いか悩んで、携帯握り締めたまま寝落ちしちゃったり、変な形で固まってたら指が攣っちゃうし!」
「それにこの子、この前社員食堂の前で高木さんに遭遇したら、パニクって凄い勢いで遁走したんですよ」
「昨日なんか、終業時に廊下で待ち伏せしてた高木さんに向かってまっすぐ駆け出したから、面白そうだと思って見物してたんだけど、凄い勢いで高木さんに体当たりして転がして逃げて行ったのよ。予想とは違う意味で見物だったわ」
「すっ、すみませんでした! 体が勝手に動いてしまって! 決して悪気とか他意があったわけでは無くてですね!」
「それ……、本人に向かって謝ろうね?」
「相当切羽詰まってるわね」
(何それ……、有り得ないから……)
 予想外の三人のやりとりを聞いた幸恵は、文字通り頭を抱えて脱力した後、疲れた様に確認を入れた。


「要するに、今まであなたは交際を申し込んだ事もされた事も、勿論誰かとお付き合いした事も無いわけね?」
「……う、……はい」
 如何にも面目なさげに頷いた綾乃に幸恵は今度は目眩を覚えたが、二人の横では淡々とした会話が続く。
「やっぱり君島さんは年齢=彼氏居ない歴でしょうね」
「そうですよねぇ……、普通相手の元カノに色々相談を持ちかけたりしませんし」
「え? そ、そうですか?」
「そりゃあそうでしょう。普通の神経なら無理よ」
「男女の機微が全然分かってないと謗られても、文句は言えないわ」
 先輩二人にそこまで容赦なく断言されて、綾乃は今にも泣き出しそうな情けない表情で幸恵を見詰めてきた。その為、幸恵は若干焦りつつ言葉を繰り出す。


「あのっ、別に私は気を悪くしていないから大丈夫よ? 第一祐司とは別れて一年近く経ってるし、全然気にしてないから!」
 その言葉に、綾乃が生真面目に軽く頭を下げる。
「ありがとうございます。それで幸恵さん、どうすれば良いでしょうか?」
「どうすれば、って、ねぇ……」
(私の所に連日お弁当を運んで来てた、あの勢いはどこに行ったのよ。あの勢いで『私とお付き合いして下さい』って言えば、あっさり事は済むのに何て難儀な……。ちょっと待って、お弁当……)
 綾乃からの縋り付く様な視線を痛いほど浴びつつ、幸恵は真剣な顔で考え込んだ。そして公子と香奈も(何事?)と不審そうな表情で幸恵の顔色を窺う中、何を思ったか幸恵が僅かに口元を歪めつつ、徐に口を開く。


「ねえ……、一応確認させて貰うけど、祐司が気に入らないとか、金輪際顔も見たくなくて付き合いたくないとかは言わないわよね?」
「言いません! と言うか、どうして私みたいに地味で目立たない人間に、高木さんの様な方からそういう話がきたのか、全く分からないんですが」
「それなら、祐司の家に食材持参で訪ねて、手料理をご馳走すれば?」
「高木さんのお宅、ですか?」
 いきなり予想外の事を言われた綾乃は目を丸くし、傍観者に徹する事にした公子と香奈は(面白そうな事になってきた)と、テーブルを挟んで人の悪い笑みを交わす。そんな三人の反応には構わず、幸恵は淡々と自論を展開した。


「ええ。余計な事は何も言わずに『これまでのお詫びに、お食事を作らせて下さい』って言うだけで良い筈よ」
「あの、えっと……、それはどうしてでしょうか?」
 まだ全然話の流れが分かっていない綾乃が再度問いかけると、幸恵はしたり顔で続けた。
「わざわざ相手の家を訪ねて手料理をご馳走するなんて、相手に対する好意が無いと出来ない事でしょう? 祐司はあなたより七歳年上なんだから、何も言わなくてもそれ位察するわよ」
「なるほど、それはそうですね」
「だから、あなたの方から言いにくい恥ずかしい事は一切言わなくても、そこは祐司の方で自然に解釈するだろうし安心しなさい。それにもしあなたの料理の腕前が壊滅的だったら、逆に別れ話を切り出してるのか? と誤解されかねないけど、この前のお弁当でそこの所は心配要らないと断言できるしね」
「あ、ありがとうございます」
 幸恵に楽しげに料理の腕前を肯定して貰った綾乃は、照れくさくなって顔を僅かに赤くしつつ俯き加減に礼を述べた。その反応に気を良くした幸恵が、再度綾乃を促す。


「そんなわけで、どう? 祐司のマンションの場所を教えてあげるから、明日は土曜日だし早速作りに行ってみない? この際だから祐司が好きな料理とかも教えてあげるけど」
 その申し出に、綾乃は一も二も無く飛びついた。
「本当ですか? 宜しくお願いします!」
「今まで待たせたんだし、どうせだから予告なしに行って驚かせてみない? そうしたら嬉しさ倍増だと思うんだけど」
「はい、そうしてみます!」
 そこで頼んだランチプレートが来た為、ひとまずその話を中断して食べ始めたが、綾乃と香奈が楽しげに上映中の映画の事などを話しているのを見ながら、公子が隣の幸恵に囁いた。


「ちょっと荒川さん。あんな世慣れてない子を狼の巣穴に送り込むだなんて、何を考えてるの?」
 しかし咎める口調とは裏腹の表情を横目で見た幸恵は、呆れた様に囁き返す。
「……笹木さん、顔が笑ってます。あの祐司の性格からして、幾ら懐に飛び込んで来られても、こんな世慣れてない子に早々に手を出したりできませんから、危険性は低いですよ。それは笹木さんだってお分かりでしょう?」
 その指摘を受けて、公子はくぐもった笑い声を漏らした。


「それで高木さんが悶々とするのを、陰で笑っておこうって事? しかも押しかけた時に動転させる為に、内緒でいきなり訪問する様に誘導するなんて意地が悪いったら。振られた意趣返しとしては、まあ、許される範囲内かしら?」
「意趣返しだなんて人聞きの悪い。私は純粋な親切心から、迷える子羊にささやかなアドバイスをしただけです」
 そんな事をすまして言ってのけた幸恵を見て、公子は必死に笑いを堪えた。
「高木さんも本当に大変ねぇ……。背後に虎と熊と狐と蛇が付いている、天然無自覚娘を攻略しなくちゃならないなんて」
「何ですか? 今の虎とか熊っていうのは?」
 公子の台詞を聞きとがめた幸恵が、思わずナイフとフォークの動きを止めて隣に顔を向けると、公子は平然と言ってのけた。


「だって君島さんのお父さんは『虎』で上のお兄さんは『熊』って、この前の懇親会に来た下のお兄さんが言ってたでしょう?」
 そう問いかけられてその時の会話を思い返した幸恵は、納得した様に頷いた。
「ああ、なるほど。そう言えばそんな事を言ってましたね。それであの下のお兄さんが『狐』ですか。言われてみれば、確かに人当たりが良さそうな顔付きでしたけど、どことなく狡猾そうな感じでした」
「きっと地元では父親やお兄さん達の目が光ってて、ちょっかい出す男なんていなかったんでしょう」
「確かにそういう状況下なら、こんな無防備娘が育成されたのも道理ですね。それにちょっかい出されても本人がそれに気付く前に、陰で木っ端微塵に粉砕されてそうです」
「でしょうね」
 そう言って公子は小さく笑ったが、ここで幸恵はある事に気が付いた。


「でも、笹木さん。そうすると『蛇』って言うのは誰の事ですか?」
 本気で首を捻った幸恵に、公子が悪戯っぽく笑う。
「あら、自覚無し?」
「って! ちょっと待って下さい、私ですか!? 私のどこが蛇なんですかっ!?」
 思わず目を見開いて声を荒げた幸恵だったが、公子は食べる手を休めずに淡々と言ってのけた。


「あら、だってあなた、素直じゃないけど結構この子の事、気に入っているでしょう?」
「いえ、それとこれとは別問題で!」
「幸恵さん、笹木さん、どうかしたんですか?」
「何の話をしてるんです?」
 そこで不思議そうに向かい側の綾乃と香奈が声をかけてきた為、幸恵と公子はその場を取り繕った。
「いえ、何でも無いのよ。気にしないで」
「そう、ちょっとした意見の相違だから」
「それよりさっきの話だけど、今日中に祐司の住所と好きな料理を纏めて、そっちの携帯にメールで送っておくから」
「はい、ありがとうございます!」
 そして満面の笑みで頷いた綾乃に幸恵も何とか笑い返して食事を再開すると、横から軽く体を寄せてきた公子が、また小さく囁いてきた。


「こっそり後を付けて、高木さんの驚いた顔を見てみたいわね」
 そしてにっこり笑った公子の顔を見やった幸恵は、(やっぱりこの人は苦手だわ……)と思いつつ、非礼にならない様に溜め息を吐くのを必死に堪えたのだった。





コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品