子兎とシープドッグ

篠原皐月

(6)それぞれの悩み

 仕事の合間にトイレに行き、さあ戻ろうかと廊下に出て歩き出した途端、どこからともなく現れた突風に腕を掴まれて引っ張られた弘樹は、流石に面食らった。
「すみません遠藤さん、ちょっとこっちに来て下さい!」
「うおっ!? っと、……って、綾乃ちゃん?」
 突風、もとい綾乃が必死の面持ちで、周囲の様子を窺いつつ人目のつかない曲がり角の方へ誘導するのに驚きながらも、弘樹は大人しくそれに従った。そして周囲を見回し、他人の目が無い事を確認した綾乃が、遠藤に向き直って深々と頭を下げる。


「あのっ! 届け物のついでに商品開発部のフロアの様子を覗きに来たら、遠藤さんの姿が見えたので……。申し訳ありません! 昼休みとか出勤退社時は、どうしても人目に付き易いので……」
「いや、それは構わないし、綾乃ちゃんのお誘いを無碍に断る程野暮じゃ無いつもりだけど……、どうかしたの?」
(この娘に限って、こっそり俺のプライベート番号やアドレスを聞き出そうとする筈は無いしな)
 同様のシチュエーションは何度も経験済みの弘樹だったが、それらとは用件は異なるだろうと判断し、何か困った事でも起きたのかと真顔で尋ねた。すると綾乃が俯きながら事情を説明する。


「以前から、社内メールを私用で頻繁に使うのは、まずいと思ってはいたのですが……、一昨日隣席の先輩にそれがバレてしまいまして。他の方には内密に、注意を受けてしまいました」
「ああ、そうなんだ」
(それは仕方ないだろうな……。そもそも俺も、人事部のデータを半ば強引に見せて貰ったし)
 自分でもあまり褒められない事をしていたと自覚していた弘樹は、苦笑いして慰めようとしたが、それより早く綾乃が予想外の事を口にした。


「それで……、もし差し支え無かったら、遠藤さんの個人的な連絡先を教えて貰えませんか?」
「へ?」
 真剣味溢れる顔付きで自分を見上げてきた綾乃を見た瞬間、弘樹が思った事は(これを祐司が知ったら、暴れるか落ち込むかのどちらだろうな?)というものだった。


「よう、祐司。シケた面して食ってんな。しかも一人なんてお前らしくも無い。追っ払うのも面倒だから、適当にあしらうって方針は転向したのか?」
 社員食堂で珍しく一人できつねうどんを食べていた祐司の姿を見つけた弘樹は、冷やかし半分で声をかけつつ隣に座った。どうやら遠巻きに祐司の方をチラチラと見ている女性社員はいるものの、そのあまりにも不機嫌そうな顔付きに近寄れなかったらしく、弘樹の苦笑いが深くなる。
 対する祐司は「近寄るな」とまでは言わなかったものの、如何にも面白く無さそうに隣を見ながら皮肉っぽく言い出した。


「……お前こそ一人で食いに来るとは、俺以上に珍しいじゃないか。社内で噂になってるぞ? 女全員と別れたって本当なのか?」
「ああ、まあね」
 箸とご飯茶碗を取り上げてそっけなく言った弘樹に、祐司がどこか探るような目つきで尋ねる。
「……何でだ?」
「心境の変化?」
 淡々と言って食べ始めた弘樹に、祐司は舌打ちしそうな表情になった。


「そんな事は分かってる。……親父の言う通り、身辺を綺麗にする気になったのか?」
「親の言いなりになってる訳じゃ無いがな。結果的にそうだな。……何だよ、変な顔で睨むな」
 流石に弘樹も気分を害しながら文句を言ったが、ここで祐司が低い声で確認を入れた。
「……本気で見合いでもするわけか?」
「はあ?」
 一瞬(いきなり何を言ってんだ? こいつ)とは思ったものの、少し前に一緒に社長室に呼ばれた際のやり取りを思い出した弘樹は、(なるほどねぇ……)と納得しつつ、笑いを堪えながら祐司を宥めた。


「ひょっとして、綾乃ちゃんの事か? それは無いから安心しろ」
「いや……、別に彼女の事だとか、そんなんじゃなくてだな。俺はただ……」
 歯切れ悪く弁解じみた言葉を返した祐司に、弘樹が肩を竦める。
「確かに可愛いけどさ、強いて言えば世慣れない妹を見守ってる気分? 女関係を清算したのは、彼女とは別に本気で落としたい女が出来たから。あれは片手間でやっても無理だろうし、本腰入れてかかることにした」
 いつに無く真剣な口調の弘樹に、祐司は思わず興味を誘われた。


「え? 誰だそれ?」
「分からないか?」
 含み笑いでそう問いかけられ、(って事は、俺も知ってる人物って事だよな?)と思いつつ考え始めた祐司は、すぐに一人の女性を頭の中に思い浮かべた。そして恐る恐るその名前を口にしてみる。
「……まさか、榊さんじゃないよな?」
「ピンポーン!」
 自分の問いかけに瞬時に能天気な返事を返してきた弘樹に対し、祐司は周囲を憚りながら小声で毒吐いた。


「アホか! いっぺん死んでこい。無理だろ、お前みたいな軟派な奴に、あんなキツい性格の女は!」
「やってみなけりゃ分からないし、逃げられると追い掛けたくなるものだろ? 男は基本的にハンターだからな」
「言ってろ!」
 呆れ果て、もう何も言う気力をなくして無言でうどんをすすった祐司の横で、弘樹が楽しそうに言い出した。


「しっかし手強いよな、彼女。この前お好み焼き屋で試し書きして貰った番号、咄嗟に書くなら普通自宅か携帯番号だろうと思って、暗記しておいたそれに電話してみたら、どこにかかったと思う?」
 完全に面白がっているとしか思えない口調に、祐司はうんざりしながら先を促してみた。
「もっと他の事に頭を使えよ……。まあ、それは置いておいて、どこにかかったんだ?」
「警視庁刑事部捜査第二課課長席」
「はあぁ!?」
 思わず箸を取り落とした祐司の反応に、弘樹は益々笑みを深めて事情を説明した。


「いや~、参ったよ。番号を間違ったかとかけ直したら二回ともそこでさ。相手に平謝りだ。後で綾乃ちゃんにさり気なく電話で聞いてみたら、眞紀子さんの兄が若くして警視正でそこの課長さんだったらしくてな。俺の下心を推察して、さり気なく兄貴の職場の電話番号を書く様な抜け目の無い所なんか、益々惚れたね」
「そこ、感心するところじゃないし、それだけバリバリ警戒されてるって事だろうが!? 第一……、何でお前が君島さんの電話番号を知ってる?」
 本気で頭を抱えてから、ふと放置できない事実に気がついた祐司が問いただしてみると、弘樹が事も無げに答えた。


「うん? この前彼女と携番とメルアド交換したから」
 サラッと言われた内容に、祐司は完全に弘樹の方に向き直って凄んだ。
「お前……、眞紀子さん狙いだの何だのと言っておきながら……、その女好きはもう病気だ、きっちり治せ!」
「おいおい誤解するなよ? 彼女から頼まれたんだぜ? 何でも『極めてプライベートな事柄に関して相談に乗って貰いたいので』って」
「何だそれは?」
 益々怪訝な顔をした祐司だったが、弘樹も同様の表情で返した。


「さあ……。それ、先週の話なんだが、それ以降別に何も相談とかされてないんだよな。俺から電話をかけて眞紀子さんの家族構成とか聞き出した時も、特に何も言わなかったし。……あ、だけどお前、本当にまだ綾乃ちゃんの直接の連絡先知らないんだ」
「……悪いか」
 そこでふてくされて再び食事を再開した祐司に、今度は弘樹が向き直って僅かに責める口調で問い質した。


「って言うかお前、この半月以上何やってたんだよ? さっさと彼女から直に連絡先を聞き出して、デートを兼ねて彼女が納得するお好み焼き屋に誘って、連れて行けば良いだろ?」
「デートって……、別に彼女に対して恋愛感情云々は無いから」
 弁解がましくそう言った祐司に、弘樹は本気で呆れた表情になって告げる。
「お前、この期に及んで、何寝言言ってんだ?」
「お前が何を勘違いしているのかは知らないが、俺は単に罪悪感から解放されたいから、彼女にきちんと謝罪を受け入れて貰いたいし、その方法を模索しているだけだ」
「……好きなだけ勝手に言ってろ。もう俺は知らん」
 そう言って大きな溜め息を吐いた弘樹は食事を再開したが、そこで横から祐司の呟き声が聞こえてきた。


「それで……、実は今姉貴から、広島風お好み焼きを焼く特訓を受けてるんだ」
「はぁ? なんだよそれは。それこそ聞いてないぞ?」
 驚きに目を見張った弘樹に、祐司は小さく肩を竦める。
「一々お前に言うほどでもないと思ったからな。姉貴に言わせれば『店の選択で失敗したんだから、単に他の店を見つけて連れて行くだけじゃなくて、この際手ずから作ってもてなす位しないと駄目』らしい」
「まあ……、一理あるかもな」
 多少考え込みながら大人しく同意を示した弘樹に、ここで祐司が個人的な弊害を伝えた。


「それで……、作った物は全部責任を持って俺が食ってるから、この半月で体重が三キロ以上増えた……」
「…………」
 それを聞いた弘樹は、さりげなくいつもと同じ様に引き締まって見える祐司の全身を上から下まで眺めてから、(まだ体型に明らかな変化は見られ無いが、そのせいでいつも昼食はしっかり食っているこいつが、きつねうどん一つだけだったのか)と納得し、思わず憐憫の情を覚えた。


「……色々な意味でそろそろ限界っぽくないか?」
「ああ、激しく同感だ。それにそろそろ姉貴からゴーサインが貰えそうだし、今度の週末に作った物を食べて貰おうと思ってる」
「そうか。それは何よりだな」
「場所は姉貴のマンションを貸して貰うから、彼女に声をかけてくれ。……連絡先、知ってるんだろ?」
 皮肉混じりの口調で、刺すような視線で睨まれた弘樹は、疲れた様に溜め息を吐いて応じた。


「そう睨むなよ……。それじゃあ眞紀子さんに同伴して貰って良いよな? 綾乃ちゃんは知らない人物の家で、男と二人きりになりたがるタイプじゃ無いだろうし」
「そうだろうな。だがそうなると……、当然お前も来るんだろう?」
「勿論」
 如何にも当然と言わんばかりの笑顔で頷いた弘樹を見て、今度は祐司が肩を落とした。
「……人数分、食材を用意しておく」
「宜しくな」
 そして二人は周囲の女性達からの物言いたげな視線を物ともせず、手早く昼食を済ませてそれぞれの職場へと戻っていった。





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