子兎とシープドッグ

篠原皐月

(2)綾乃の困惑

 居酒屋で眞紀子に愚痴を零して幾らかすっきりした綾乃は、翌日きちんと定刻に出社し、いつも通り業務に勤しんでいた。午前中まず取り組んだのは単純な数値データの入力作業だったが、綾乃は集中して順調に処理していく。


(平常心平常心。眞紀子さんの言う通り、偶々タチの悪い人に当たっただけなんだから。その人を基準に都内在住の人間が全てそんな人ばかりだなんて考えは、失礼極まりないわよね)
 自分自身にそう言い聞かせつつ、完成させたデータをチェックして貰う為上司のPCに送信した綾乃は、ホッと一息ついた。その拍子につい前日の事を思い返す。


(だけど、本当に昨日は怖かったな。いきなり本人が出て来るんだもの。心臓が止まりかけたわ)
 そこで冷静にその時の事を振り返ってみた綾乃は、ある事実に気が付いた。
(でも、あの人、何となく予想してたイメージよりは、乱暴者って感じじゃ無かったけど……。って、あれ? ちょっと待って?)
 そして顔色を変えながら、密かに自問自答する綾乃。


(そう言えばあの時……、あの人何か言いながら、頭を下げようとしてたような……。ひょっとして電話で怒鳴った事、謝ろうとしてくれてたとか!?)
 そこまで考えた綾乃は、その時の自分の行動を思い出して変な動悸を覚えた。
(私、思いっきり突き飛ばしちゃった……。絶対怒ってるよね? 謝ろうとした分、怒り倍増だよね? 道ですれ違ったら問答無用で殴りかかられるかも!)
 本人がそれを知ったら「女相手にそんな事するかっ!」とまた怒鳴られそうな事を考えた綾乃は、後ろ向きな考えで現実逃避を図った。


(でも……、向こうは私の名前も知らないんだし、また遭遇する可能性は殆ど無いに等しいから、大丈夫だよね? ……取り敢えずあのお店は、もう使わない様にしよう)
 そこでこれまで心ここに在らずと言った感じで、ぼんやりとPCのディスプレイを眺めていた綾乃は、社内メールが届いている事を示すアイコンに気が付いた。


(あれ? 社内メールが来てる。誰からだろう……)
 怪訝に思いつつ、殆ど何も考えずに新着メールを開いてみた綾乃だったが、その中身を確認すると同時に目一杯目を見開き、呻きとも叫びとも取れる妙な声を上げた。
「……ふげっ!」
 その声に、綾乃の隣席で指導役であるベテランの笹木が、棘のある口調で詰問してくる。


「君島さん? いきなり何なの?」
「あの……、いえ、すみません。何でもありませんのでっ!」
 狼狽しながら頭を下げた綾乃に、笹木が溜め息を吐いた上、短く言い捨てて自分の仕事を続行させる。
「……勤務時間中に、変な声を出さないで頂戴。周りの迷惑よ」
「申し訳ありません」
 そのやり取りを耳にした周囲からは失笑が漏れていたが、綾乃はそれを気にする余裕など皆無だった。


(えぇぇっ!? だって! どうしてこんなメールが来てるのよ!?)
 そんな動揺著しい綾乃の目の前には、件名〔こんにちは、君島綾乃さん〕から始まる、驚愕のメール内容が表示されていた。


〔実は俺、昨日君に目一杯ど突かれた高木祐司の片割れの、遠藤弘樹だけど覚えてる? 覚えてても覚えて無くても、一時間以内に返信をくれるかな? くれなきゃそこに押し掛けるよ?〕
(ひょっとして……、ひょっとしなくても、二人ともここの社員だったわけ? でも私、名乗って無いよね? じゃあ無くて、そんな事よりまず返信しないと! 職場で乱闘騒ぎなんか嫌ぁぁっ!)


 ダラダラと冷や汗を流しつつ、綾乃は涙目になりながら震える手で〔覚えています。どの様なご用件でしょうか?〕と返信した。その姿を当人が目にしたならば「お前のせいで俺まで暴力男扱いだぞ?」と友人に毒吐く事確実の状態だったが、そんな事とはつゆ知らない彼からは、何とも呑気なメールが五分も経たずに返ってくる。


〔祐司の奴が、是非例の件について君に謝りたいって言ってるんだ。だけどあいつの顔をチラッと見ただけで君が遁走しそうだから、まず俺から声をかけてみたってわけ。悪いけど、ちょっと時間取って会ってくれないかな?〕
 それを見た綾乃は青い顔を白くして、慌てて再度返信した。


〔いえ、謝罪はもう結構ですから、お構いなくと高木さんにお伝え下さい〕
 しかし相手も食い下がる。
〔そうは言ってもさ、あいつも同じ社員なんだし、この先どこで顔を合わせるか分からないから、お互いにすっきりさせておいた方が良くない?〕
(……やっぱり同じ勤務先だったんだ。神様の意地悪)
 決定的な事実を突き付けられて、綾乃は涙目でうなだれた。そして相手の言う事にも一理あると考えた為、諦めて了承の言葉を打ち込む。


〔分かりました。それでは具体的にどうすれば良いでしょうか?〕
〔お詫びの印に、あいつが食事奢るそうだから。好きな料理やお店を教えてくれないかな〕
(はあ? 別にそこまでして貰わなくても……)
 提案された内容に、綾乃は本気で困惑した。その上極力関わり合いになりたく無いという気持ちも相まって、遠回しに拒否の意向を伝えてみる。


〔お気持ちは大変ありがたいのですが、同じ社内に居るんですから、休憩時間とかにちょっと頭を下げに来て貰えれば、私はそれで構いませんよ?〕
 しかしそれに対し、相手は些か意味不明な言葉を返してきた。
〔それだと君島さんの立場が悪くなるかもしれないから。俺達の事、本当に知らないんだ〕
 それを読んだ綾乃は、首を捻った。


〔知らないって、何についてですか? 確かにお二人のお名前以外は存じませんが〕
〔悪い事は言わないから、大人しく奢らせておけば良いよ。あいつと二人きりになるのが怖いなら俺が付き合うし、君も誰か友達を同席させれば良い。全員分の費用を負担する様にあいつに言っておくから〕
 宥めすかす様なその文面に、綾乃は少しだけ眉を寄せて考え込んでから、慎重に一文を打ち込んだ。


〔申し訳ありませんが、少し考えさせて下さい〕
 少し心配しながら待っていたが、すぐに綾乃の元に返信が届いた。
〔了解。気長に待ってるよ。その間あいつには君に接触させないようにしておくから〕
〔宜しくお願いします〕
 一応最後にお礼の言葉をと、綾乃は真面目にその文を打ち込んでから、ぐったりしながらメールボックスを閉じた。


(つっ、疲れたっ……、最近心臓に悪い事ばかり……)
 両手を机の縁に付いて突っ伏したい気持ちを懸命に堪えた綾乃だったが、ここで今更ながらの疑問が頭を掠めた。


(私の勤務先が分かったのも不思議だけど、どうして遠藤さんって人に、私の社内メルアドが分かったわけ? それに直接社内で頭を下げるのがまずいって、変にプライドが高い人なのかしら?)
 そこまで考えて、綾乃は避けられそうに無い提案を思って泣きそうになった。
(短気な上、変にプライドが高い人と一緒に食事なんて……。絶対、食べた気がしないと思う……)
 そんな現実から意識を逸らす為、綾乃が無我夢中で仕事をこなしていると、あっという間に昼時になり、同僚達は一人二人と席を立って昼食に向かった。
 綾乃も仕事に一区切り付けて立ち上がると、斜め前の席の先輩である宮前香奈も立ち上がり、二人で社員食堂に出向く事にする。
 そして廊下を歩き出した二人だが、部屋を出てすぐに香奈が心配そうに声をかけてきた。


「ねえ、綾乃ちゃん、どうかしたの? 何か今日変だよね? 午前中変な呻き声上げたかと思ったら、真っ青になって仕事してたし。さっきから溜め息ばかり吐いてるし。具合が悪いなら無理しちゃ駄目よ?」
 面倒見の良い香奈が、本心から心配してくれているのが分かった綾乃は、気配りして貰って嬉しいと思う反面、個人的な事で心配をかけてしまって申し訳ないと思った。その為、なるべく笑顔を心掛けながら、心配要らない事を告げる。


「ご心配おかけしてすみません、香奈先輩。大した事はありませんので」
「それなら良いんだけど」
 幾分不思議そうな顔をした香奈だったが、不必要に追及したりはせず、あっさりと話を終わらせた。そこで綾乃がふと思い付いた事を口にしてみる。


「……先輩、ちょっとお聞きしても良いですか?」
「何かしら?」
「その……、ここの社員数って結構居ると思いますが、遠藤弘樹さんと高木祐司さんって言う方が、どういう人達なのかご存知ですか? 所属は分からないんですが……」
(う……、流石に名前だけでは無理かしら?)
 歩きながらそんなやり取りをしていた二人だったが、香奈が急に足を止め、綾乃の顔を凝視しながら驚きの声を上げた。


「はあぁ?」
「え?」
 香奈の反応に綾乃も驚き、同様に足を止めて当惑の表情で相手を見返す。すると香奈は如何にも疑わしげに問いかけてきた。
「何? まさかあの二人を知らないとか、言わないわよね?」
「その、まさか、なんです……。社内では知られた方なんでしょうか?」
 申し訳無さそうに綾乃が俯くと、香奈は無言で何度か瞬きしてから、小さく溜め息を吐いた。


「そうか、周りの新人達はキャアキャア言ってたけど、綾乃ちゃんはそういうタイプじゃ無かったわね……。知らないのも無理はないわ」
「……すみません」
 思わず小さく頭を下げた綾乃の背中を軽く叩いて促しつつ、香奈は社員食堂への道を再び歩き始める。
「謝る事は無いわよ。浮ついた噂話に花を咲かせたりしてないって事だから。誉めてるのよ?」
「はい」
(まあ、そんな所が、同期の子達の中でも浮いてる感じがするんでしょうけどね)
 困った様に横目で綾乃を眺めてから、香奈は取り敢えず先程の質問に答える事にした。


「じゃあ取り敢えずその二人の事を、分かる範囲で教えるわね? 遠藤さんは商品開発部第三課の係長、二十九歳で彼女多数、ついでに言うとうちの社長の息子」
「しゃ、社長令息なんですか?」
 サラッと言われた言葉に綾乃が驚いて確認をいれたが、香奈は嫌そうに顔を歪めながら話を続けた。
「ええ。そうでなかったらあのチャランポラン男が、三十前に係長になれるわけ無いわよ」
「か、香奈先輩。こんな人目がある場所でそんな事……」
 周りは同様に昼食を取る為に食堂や外部の店に出向く社員が行き来しており、その人達に聞かれてはと顔色を変えたが、香奈はあっさりとしたものだった。


「皆言ってる事だし、本人もそれを耳にしてもヘラヘラ笑ってるから大丈夫よ。それに私、そもそもタレ目って生理的に受け付けないのよね」
 あまりにも露骨な蔑む様な物言いに、綾乃は流石に同意するのを躊躇われた。
(えっと……、確かに目尻が下がってたけど、その分人懐っこそうな印象だったけどな……。だけど私の所属先を調べたり、社内メールを送れた訳が分かったわ。思い切り公私混同したって事だよね。確かにチャランポランのバカボンかも……)
 香奈に負けず劣らず失礼な事を考えていた綾乃に、香奈が続けてもう一人の人物について言及する。


「高木さんも同じ二十九歳で、遠藤さんとは大学時代からの親友だそうよ。所属は営業二課で今の所は一応フリー? 取り敢えず遠藤さんみたいに同時進行してない分、マシだとは言えるけど、相手に飽きたらすぐにこっぴどく振るって噂なのよね」
「あ、あの……、同時進行って……」
「二股三股四股って事」
「…………本当に居るんですね、そういう人」
 思わず疑問を呈した綾乃だったが、淡々と返されて言葉を失う。それを見た香奈が、肩を竦めつつ客観的事実を述べた。


「まあ、タイプは違うけど二人ともそれなりに顔立ちは整ってるし、遠藤さんは社長の息子、高木さんは営業部のホープで将来性はあると思われてるのよね。加えて遠藤さんは誰彼構わず愛想が良いし、高木さんは無愛想だけどその冷たい所が良いって、社内独身女の格好の標的なのよ」
「はぁ……」
 半ば呆然と綾乃が相槌を打つと、通路の向こう側から社員食堂へと入ろうとしている一団が目に入った。それ見た瞬間綾乃は表情を凍らせ、横から香奈が呆れた口調で解説を入れてくる。


「……ああ、噂をすれば影だわ。相も変わらず取り巻きを引き連れて、ご苦労な事。遠藤さんの周りに居るのがその四股かけられてる連中で、高木さんの周りに居るのが恋人の座狙いの連中よ」
(うっ、やっぱりあの二人……)
 さり気なく香奈の背後に隠れる様に移動しつつ、こっそり様子を伺いながら観察すると、そんな綾乃の行動を不審に思いながらも、香奈が斜め後ろを振り返りつつ再度確認を入れた。


「でも綾乃ちゃん、本当にあの二人の事、今まで知らなかったの?」
「……はぁ」
(いつもあんなに引き連れて歩いてるなら、気付いててもおかしくないのに、やっぱり私、相当鈍いのかな?)
 日頃気にしている事を思い返した綾乃が密かに落ち込んでいると、香奈が急に厳しい口調になって言い出した。


「言っておくけど綾乃ちゃん、あの二人に不用意に近付いちゃ駄目よ? あの取り巻き連中に睨まれて、えげつない嫌がらせをされるわよ?」
「え?」
「以前、私の同期が連中の隙を見て果敢にアタックしたけど、バレて嫌がらせされた挙げ句、自主退職に追い込まれちゃったのよ」
「…………」
 予想外の事を聞かされて、完全に絶句して固まってしまった綾乃に、香奈が容赦なく追い討ちをかける。
「あの連中も一見仲良さげだけど、陰で本人達に分からない様に結構激しい鍔迫り合いしてる筈だし。あの二人にとっての一番、唯一になろうとしてね?」
「怖っ……」
 思わず涙目で本音を漏らすと、香奈は真顔で言い聞かせてきた。


「でしょう? だから綾乃ちゃんみたいな若くて可愛いタイプは、あの二人を見かけたら回れ右した方が良いわよ。普通に挨拶しただけでも、取り巻き連中に嫉妬されて難癖付けられかねないわ。あの人達揃ってアラサーで、色々焦ってるしね」
「いえっ……、それはっ……」
 後半はどこか面白がっている様に聞こえたが、可愛いと言われた事に綾乃がわたわたと動揺しながら弁解しようとした。それと同時に先程のメールで気になった内容の意味が納得できる。


(分かった、あの人が直接社内で謝りに来れないわけ。誰の目に触れるか分からない場所でそんな事されたら、絶対噂になって下手すれば『何頭下げさせてるのよ!』とか難癖付けられて、忽ち制裁対象……)
 そこまで考えて通路に立ち尽くしたまま真っ青になった綾乃を見て、香奈は少々焦った表情になって声をかけた。


「ねぇ、綾乃ちゃん本当に大丈夫? 何だか顔色が真っ青よ?」
「だっ、大丈夫です! 何でもありませんから、お気遣い無くっ!」
「そう? それなら良いんだけど」
 そんなやり取りをしながら何気なく食堂の入り口に目をやると、件の一行が中に入るところだった。そして一瞬中心にいた人物の視線と綾乃のそれが絡み合う。
(……え、何か今、目が合った?)


 そう思ったのは一瞬で、すぐに一行は食堂内に消えたが、綾乃は恐れおののいた。
(どっ、どうしよう……、もう結構ですって言っても引いてくれないみたいだし……。変に関わり合いになりたくないのに……)


 結果として「やっぱり今日は食堂は止めて外に行きましょう」と、常には無い強引さで綾乃が香奈をその場から引きずって行き、そんな綾乃の態度に香奈はひたすら首を捻ったのだった。



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