猫、時々姫君

篠原皐月

3.束の間の交友

 日当たりの良い人気が無い庭園の片隅で、石造りの細長いベンチに丸くなってうつらうつらしていたシェリルは、ふいに頭上から降ってきた戸惑いを含んだ声に、思わず頭を上げた。


「ひょっとして……、シェリル?」
「ディオン?」
 視線の先に、左目の周囲を隠す様に、些か不自然に前髪を斜めに流している彼を認めたシェリルは、ちょっと驚いて名前を呼んだ。するとディオンが、恐縮しながら頭を下げてくる。


「ああ、やっぱりシェリルだ。……いや、王女様だからシェリル殿下、ですね。申し訳ありません。知らなかった事とはいえ、散々名前を呼び捨てにしていまして」
 急に畏まった物言いをされても、シェリルとしては今更としか思えず、笑って相手を宥めた。


「それは良いの。あの時は、詳しい話をする状況じゃ無かったし。普通にシェリルって呼んで?」
「それはさすがに、人前ではちょっと……。でも、今は人影は無いから良いか」
 そう言ってあっさり割り切って笑ったディオンは、シェリルが前脚でトントンと叩きながら「とにかく立ち話もなんだから座って」と促した、隣の空いているスペースに腰を下ろした。そして彼が落ち着いたのを見て取ったシェリルが、不思議そうに問いかける。


「でも、誰から私の話を聞いたの? 確かにシェリルとは名乗ったけど……」
 それを聞いたディオンが、苦笑しながら説明した。
「シェリルが俺の火傷の痕をきちんと治療してくれるように、王妃様に頼んでくれたんだろう? 取り調べ中俺が軟禁されていた部屋に、薬師と一緒に治療の為に出向いてくれたエリーシアさんが、こっそり教えてくれたんだ。ほら、最初から比べると、随分良くなったよ? 半年から一年は、継続して治療を受ける必要があるらしいけど」
 ディオンがそう言いながら、前髪をかき上げて左目からこめかみにかけての範囲を披露すると、確かに変色して引き攣れた状態のままではあるものの、皮膚の硬く変質した感じやどす黒くなっていた色調が、改善しているのが一目で分かった。それを認めて、シェリルがほっとした表情で頷く。


「良かった……。でも、私が時々猫になってる理由や、その事情は公には秘密になっている筈だけど、ディオンに話して構わないのかしら?」
「一応、事情を教える事については、俺が十分信用するに値する人間だとの意見を付けて、彼女が陛下の了承を取ったそうだよ? 『シェリルがお世話になったみたいだし、当事者の一人だから、詳しい事情を知っておいても良いわよね』って言ってた」
「エリーらしいわ」
 ちょっと心配になったものの、義姉の抜かりなさを再認識してシェリルは笑ってしまった。すると何故かでィオンが、急に神妙な顔付きになって言い出す。


「その……、これまで大変だったんだね、シェリル。それと、ごめん」
「え? 何が?」
 いきなりの謝罪の言葉にシェリルは面食らったが、彼は真顔で続けた。


「シェリルの事、実はちょっとだけ、良家のお姫様が遊び半分で猫に変身して、密偵ごっこでもしてるのかなって思っていたから……」
 そう言って口ごもったディオンの前で、きょとんとしてその話を聞いたシェリルは勢い良く噴き出し、次いでおかしくてたまらないと言った感じで、彼の太腿をペシペシと叩いた。


「もぅ~、ディオンったら!! わざわざそんな事、正直に言わなくて良いのに。私が言うのもなんだけど、人が良すぎるわ」
 目の前でお腹を抱えて笑われてしまった為、ディオンは軽く頭をかいて、苦笑いしながら話を続ける。


「それは、宰相様と話している時にも言われた。それで気に入って頂けたらしい。実は俺、今度正式に、王宮に文官として採用されたんだ」
「本当!?」
「ああ。それで暫く実務を叩き込むから、来年か再来年には、シェリルの領地の総管理官として赴任するように言われてる」
「私の領地?」
 途端に首を捻ったシェリルに、ディオンは困惑した表情で告げた。


「あれ? 聞いてない? 今回の騒動で、ライトナー伯爵領の半分が王家に返納されて、直轄領になったんだけど?」
「ああ、あれの事ね。聞いたけど、全く実感が無くって。土地なんか貰っても、どうすれば良いか分からないし」
 難しい顔になって考え込んだシェリルを見て、(猫でも眉間に皺が寄るんだ)とディオンは笑い出したくなったが、それを堪えながら真面目くさって話を続けた。


「だろうね。だからそこの管理する為に、人を派遣するっていう説明は受けた?」
「そう言えばそうだったわ」
「それで、その直轄地。うちの領地と接してる側なんだよね」
 にこにこしながらディオンがそう告げると、シェリルは漸く事の次第が飲み込めた。


「え? ……あ、そうか! ディオンがそこに管理官として赴任すれば、王都に居るより楽にハリード男爵夫妻に会いに行く事ができるのね!?」
 そう確認を入れてきたシェリルに、ディオンが笑顔で頷く。


「そういう事。ハリード男爵家は領地は保持されたけど、両親は王都に五年間立入禁止を言い渡されたから、こちらには来られない。でも俺にはその罪状は及んでいないから、俺が王宮内に文官として在籍して王都の屋敷も管理していれば、最低限貴族階級内での対面は保てるし必要な交流はできるし、君の領地に派遣されている間は、仕事のついでに親の顔を見に行く事もできるだろう?」
「なるほどね。陛下や宰相様がハリード男爵家にも一応適正な処分をしつつ、なるべく影響が少ない様に配慮してくれたのね?」
「ああ。ラミレス公爵とライトナー伯爵は、領地の半分に加えて王都内の屋敷も没収。当主も交代させられた上、新旧当主は十年間入都禁止を言い渡されたからね。貴族内での交流が途絶えて、家勢が衰退するのは確実だ。それと比べると、我が家に対する厚遇ぶりには、感謝してもしきれないよ」
「そうね。改めて言われてみると、随分差を付けたのね。でもそれ位当然だわ!」
 ディオンがしみじみと語るうちに、シェリルは話題に上った両者の厚顔無恥さと横暴さを思い出して腹を立てたが、そこでディオンが顔付きを改めてシェリルに申し出た。


「今回ハリード男爵家は、未来永劫、王家に忠誠を誓ったから。勿論、シェリルの領地もきちんと管理するから、安心して欲しい。是非直にお礼を言いたかったんだけど、後宮を訪問するには身分上手続きが煩雑だし、シェリル王女殿下と俺はまだ公式には顔を合わせていない事になってるから、少し時間がかかると思ってたんだ。ここで会えて良かったよ」
「私も、ディオンがどうしているか心配だったから、ここで会えて嬉しいわ。それにご領主様なんて言われても、全然分からないし頼りにしてるわ。これからも宜しくね? ディオン」
 そう言って差し出された黒い細い脚を、ディオンは慎重に右手で受けて軽く握りつつ笑い返した。


「こちらこそ。王女様にこんな事言ったら、不敬に当たると思うんだけど、髪も瞳の色も同じだし、他人の気がしないんだ。強いて言えば、兄妹みたいな感じ?」
 ディオンがそう口にした途端、シェリルもこくこくと首を縦に振りながら、嬉しそうに同意した。


「あ、それは私も、ディオンを初めて見た時から、同じ様な事を思ってたの。今までエリーと二人きりだったから、レオン達の他にまた兄弟が増えたみたいで嬉しいわ」
「俺も実子が居ない両親に引き取られた一人息子だから、そんな風に感じてくれたら嬉しいな。これからも仲良く……」
 シェリルの脚を軽く握りつつ、満面の笑みで会話していたディオンだが、何故か急に全身を強張らせて固まった。そして瞬時に顔を青ざめさせる。


「ディオン? 急に黙ってどうかしたの?」
 そんな劇的な変化を目の当たりにして、シェリルは怪訝な表情になったが、ディオンは弾かれたように彼女の脚から手を離しつつ立ち上がり、慌てて別れの言葉を口にした。


「あの、ごめん、シェリル! 俺、もう行かないと! 今、租税調整官の見習いをやってて、休憩時間に庭園の散策に来たところだったんだ。そろそろ休憩時間が終わりそうだし、遅れたら上官に叱責されるから!!」
「え、ええ、それじゃあ、急いでいかなくちゃね。さようなら、ディオン。頑張ってね」
「ああ、それじゃあまた!」
 狼狽気味に言うだけ言って、脱兎の如く執務棟に向かって駆け出して行ったディオンを見送ったシェリルは、本気で困惑した。


「どうしたのかしら? 時間が無くて慌てたというより、何か怖い物にでも遭遇した感じだったけど……」
「おや、今日はこんな所で日光浴ですか? 姫」
「あ、ジェリドさん。こんにちは」
 再び頭上から降ってきた聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには公式に自分の婚約者となったジェリドが、穏やかな笑顔で自分を見下ろしていた。



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