猫、時々姫君

篠原皐月

6.術式解除

 翌朝、クラウスから再度連絡があり、二人は差し向けられた馬車に乗り込んで王宮に向かった。動き出した馬車の窓から景色を眺めながら言葉少なに話しているうちに、外の様子が様変わりしていくのを認めたエリーシアは、馬車が静かに停止したことで目的地に到着したのを悟った。


「到着したようね」
「エリー?」
「大丈夫よ。何があっても、シェリルの事は守ってあげる。でも一応、護衛の騎士の人達まで今回の話を知っているかどうか確認するのを忘れたから、念の為に言葉は話せない状態にしておいて」
「そうね、うっかり悲鳴とか出てしまったら拙いわね」
 腕の中で不安そうに見上げてくるシェリルに、エリーシアはすこぶる冷静に指示を出した。それを受けて、シェリルは自身の首輪に半ば埋め込まれている五つのガラス玉のうち、中央の緑色の物に前足で触れる。そして見た目が全く変わらないシェリルを抱えたエリーシアは、御者に扉を開けて貰って地面に降り立った。すると馬車の停車位置で待ち構えていたらしい集団の中から、見覚えのある人物が歩み寄って来る。


「やあ、待っていたよ、シェリル」
「ご苦労様、エリー、こっちだ」
「はい」
 豪奢な衣装のレオンに続き、王宮専属魔術師の制服である裾の長い紫色のローブを身に纏ったクラウスが現れ、エリーシアを先導して目の前の建物の中に入った。そこは王宮専属魔術師の執務棟であり、開放されていたドアから奥へと進む。そこで先程自分達の前に現れた集団がそのまま同行しているのに気がついたエリーシアは、無意識に眉根を寄せた。


「まるで見世物ですね」
「すまない。だが極めて稀な術式だし、魔術師としてはそれが展開される機会を見逃せないから」
「そう言われても」
「みゃ~う?」
 憮然として呟いたエリーシアだったが、腕の中からシェリルが呼び掛けてきた事で、すぐに気持ちを切り替えた。


「それなら、すぐ取り掛かれますね?」
「ああ、準備万端だ。しかし彼女は今、人の言葉が話せないのか?」
 先程シェリルが鳴いた事に関してクラウスが尋ねると、エリーシアが苦笑いで囁く。
「周りの人間が、どこまで事情を知っているかが分からなかったものですから、一応念の為に、人語を話せる術式を解除しておきました」
「なるほど。相変わらず用心深いな、エリー」
 そこで彼と共に苦笑したエリーシアは、すっかり緊張が解れた。
 少ししてクラウスが足を止め、とある重厚な扉をゆっくりと押し開けると、その向こうには吹き抜けの広い空間が広がっていた。その室内に入りながら彼が口の中で小さく呪文を唱えると、何も無かった床面から細い光が何本も滲み出る。それは凄い勢いで床面を走り、瞬く間に何重にもなった円形とその隙間を埋めるように幾何学模様と古代文字がびっしりと描かれた複雑な術式が浮かび上がった。
 それを目にしたエリーシアは、殆ど同一の物をこれまで何度も目にしていたことで、その完成度に思わず目を見張る。


「これは……」
「エリー。君の目から見て、これはどうだろうか?」
 その問いかけにエリーシアは直接答えず、右手を中空に伸ばしながら簡潔に呪文を唱え始める。
「リーディ・ラン・ジス・レクト・ユルツ」
 すると彼女の指先から、先程の床から放出された光と同様の物が何本も噴き出し、それが床の上で完成している術式に上書きする様に軌跡を描いた。しかし魔術に長けた者が良く見ると、上書きされた方は所々欠損している場所が有り、それを確認したエリーシアがいかにも悔しそうに小さく歯軋りする。


「ここまでは作っていました。本当に、あともう一歩だったわ」
 そう呟いたエリーシアが指を鳴らして上の術式を消し去ると、クラウスが心底感心した声をかけた。


「凄いな。かけた術者や構築形式が判明しているならともかく、こんな複雑極まりない代物を、全く白紙の状態からあそこまで構築できるとは」
「半分以上は、父さんが構築した物です」
「土台がそれにしてもアーデンは五年も前に亡くなっているし、精密に上書きしていったのは君だろう? 前々から思っていたが王妃様が提案された通り、是非この機会に君を王宮専属魔術師として招聘したい」
「正直、堅苦しいのは御免ですが」
「細かい話は後だ、エリー。早速この術式を、この子で試してみよう」
「はい」
 魔術師として、目の前の高難度の術式を見て興奮する気持ちをなんとか抑えながらエリーシアは屈み込み、腕に抱えていたシェリルを床に下ろした。


「シェリル、首輪を外すわよ」
「な~ぅ」
 床に座って大人しく顔を上げたシェリルの首から、後ろの結び目を解いて革製の首輪を取ったエリーシアは、変わらず床に淡く光っている術式を指差しながら指示を出した。
「じゃあシェリル、あそこの術式の中央に座って」
「みゃ~ぅ」
 一声鳴いて指し示された場所に大人しく歩いて行ったシェリルは、僅かに躊躇う素振りを見せながらも、淡く光る術式に足を踏み入れてその中央で足を揃えて座った。それを確認したエリーシアが、緊張感を漲らせた表情でクラウスを振り返る。


「おじさん、詠唱呪文はなんですか?」
「通常の術式解放呪文だ」
「それなら分かりますので、私自身で試してみても良いですか? シェリルの事に関して、なるべく他人任せにしたくありません」
 その要求を聞いて背後の魔術師達に僅かに動揺が走ったが、申し出た彼女の真剣な表情を見て、クラウスは当然といった風情で頷いた。 


「彼女のたった一人の家族としては、当然の要求だな。分かった、ここは任せる。もし不測の事態が発生しても、私達がフォローするから安心してくれ」
「ありがとうございます」
 素直に礼を述べたエリーシアは、部屋の隅に佇んでいるクラウスと同様の出で立ちの男性たちに向かって軽く会釈した。そして先程の会話を聞いていた彼等が、静かに頷き返してきたのを視界に収めてから、エリーシアは徐に足元の術式に向けて両手を伸ばし、それを発動させるための呪文を唱え始める。


「デラ・スーリム・ファイリス」
 するとエリーシアが言葉を紡ぎ出したと同時に、床に浮かび上がっている軌跡の光量が徐々に増してきた。
「……ル・ガゥ・ノルド!」
 そしてエリーシアが全て唱え終わった瞬間、室内に目が眩むほどの光が一気に発生し、術式の周りから外に向かって物凄い突風が湧き起こった。


「きゃあっ!!」
「エリー、大丈夫か!?」
 咄嗟に吹き飛ばされそうになったエリーシアを、すぐ背後にいたクラウスが捕まえて辛うじて支えたが、部屋の中に喧騒が満ちた。


「魔術師長! 大丈夫ですか!?」
「心配要らない! それより猫は!?」
「シェリル!!」
 クラウスに支えられながらエリーシアは光源の中心を確認しようとしたが、眩しくて不可能だった。しかし唐突に突風が止むと同時にあっさり光が消えうせると、先程まで術式が浮かび上がっていた場所に、人の姿になったシェリルが長い癖の無い黒髪を纏わり付かせた全裸の姿で、放心して座り込んでいるのを確認する。その瞬間、エリーシアはクラウスの腕の中から飛び出し、義妹に駆け寄った。


「大成功よ、シェリル!! 満月の光を浴びなくても、人の姿に戻っているわ!」
 勢い良く抱き付いて歓喜の叫びを上げたエリーシアに、シェリルがまだ幾分信じられない表情をしながら問い返す。
「……本当?」
「本当よ! 良かった!! 父さんが生きていたら、どんなに喜んだかっ……」
 それから感極まったように抱き付いたまま泣き始めたエリーシアに、自身も涙ぐみながらシェリルが礼を述べる。


「エリー、ありがとう。今までずっと面倒を見てくれて」
「何を馬鹿な事を言っているの、二人きりの家族じゃない! ……ああ、そうだ。クラウスおじさんにお礼を言わないと。おじさん、この度はどうもありがとうございました」
 思い出したようにシェリルから体を離したエリーシアは、慌てて背後を振り返って頭を下げた。


「たいした事はしていないよ。取り敢えず姫様に、服を着て貰って良いかな? 私達は部屋を出ているから、着替えが終わったらドアから出て来てくれ。場所を変えて今後の事について、詳しく話をしよう」
 予め用意されていたらしく、女性用衣類一式をクラウスが差し出してきた。それでエリーシアは、漸くシェリルを裸のまま人目に晒す訳にいかない事に気が付く。そして慌てて周囲を見渡すと、同様の理由からか先程まで経過を見守っていた者達は彼女達三人を残していつの間にか室内から姿を消しており、恐らくはクラウスの配慮だろうと感謝した。


「着替えまでは考え付きませんでした。お借りします」
「じゃあ私は、ドアの外で待っているよ」
 鷹揚に頷いたクラウスは、エリーシアの陰に隠れたシェリルにも小さく会釈してからドアに向かって歩き出した。そしてドアが閉められて二人きりになってから、エリーシアが安堵した表情で義妹を促す。


「取り敢えずシェリル、服を着て頂戴」
「でも……、こんな上質そうな服、本当に着て良いの?」
「一応、王女って確定したし、大丈夫でしょう。取り敢えず、考えるのは後! さっさと移動して、話とやらを聞きましょう。これから色々大変だと思うし」
「そうね。急いで着るわ。外でクラウスさんを待たせているし」
 そこで父の形見の首輪を放り出していたのを思い出したエリーシアがそれを拾いに行っている間に、シェリルは慌ただしく着慣れない衣類を身に着けた。そして着替えを終えた二人は待っていたクラウスに先導されて廊下を歩き出したが、人払いでもされているのか王宮の一角である筈なのに全く人の気配が感じられず、その異常さにエリーシアは僅かに渋面になる。さすがにシェリルも心細く感じたらしく、義姉の腕を軽く引きながら囁いてきた。



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