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アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

第28話 乗りかかった船

 大人二人がちゃんとしたお膳を食べ始めた横で、美郷はどこからともなく取り出した、所謂栄養補助食品と言われる類のブロック状のクッキーをもぐもぐと食べ、パックされているカロリー飲料で胃に流し込んでいた。さすがに気まずい気分になった二人のうち、泉が恐る恐る娘に声をかける。


「あの……、美郷? 一緒にお膳を食べましょう? と言うか、それはどこにしまってたの?」
 その問いかけに、美郷はチラッと母親に視線を向けてから、淡々と答える。
「これは、机の引き出しに隠しておいた非常食。わざわざ片倉さんに『おとうさんがひどいからやけぐいしたいの!』って嘘ついて、いつもより大盛りにして貰ったんだから、それはお母さんがちゃんと食べて。妊婦だって事、自覚して頂戴。栄養補給と睡眠保持は最優先よ。それに仮にもお客様に、こんな物食べさせるわけにはいかないでしょう」
「……はい」
「恐縮です」
(どうして私、立場が逆転した母娘と一緒に、ご飯を食べる事になってるのかしら?)
 娘に言い聞かされて反論できない泉を見て、幸恵は思わず遠い目をしてしまった。そして傍観していても始まらないと、自分がここに連れて来られた理由を探ってみる事にする。


「あの……、美郷ちゃんは随分しっかりしてるのね。さっきまでとは豹変と言うか何と言うか」
 取り敢えずこの辺から切り込んでみようと思った幸恵に、美郷は事もなげに真実を伝えた。
「さっきまでの年相応のあれは演技です。本当の私を知ってるのは、お母さんとお祖母ちゃんだけです」
「どうしてそんな事をしてるの?」
「素で生きていると、上手く世渡り出来ないからです。可愛げが無いと思いませんか?」
「いえ、可愛いとか、可愛くないとかの問題じゃないと思うけど……」
 真顔で答えにくい事を尋ねられ、幸恵は無意識に顔を引き攣らせた。そんな彼女の反応は十分予想済みだったらしく、美郷はどこかやさぐれた表情でわざとらしく「ふっ……」と溜め息を吐いてから、皮肉っぽく質問を繰り出す。


「例えばですが、家の廊下でお母さんに文句を付けてるいけ好かない後援会の幹部オヤジに向かって、『母の悪口を言うのは止めて下さい』と注意したらどうなると思います?」
「ど、どうなるって言われても……」
「『何だ、このくそ生意気なガキは! 母親の躾がなってないな!』って、余計に喚き立てるのがオチです。でも『おじさんがいつもおとうさんをたすけてくれてるって、おかあさんからきいてます。これからもよろしくおねがいします』って頭下げてにっこり笑えば仏頂面なんかできないで、愛想笑いして帰ります。ガキの掌の上で転がされる程度の洞察力しか無い人物ですが、集票マシンとしてはそこそこ有能なので、頭を下げる位何ともないです。私子供なので、変なプライドとか持ってませんから」
 事もなげにそう言い放って、もぐもぐと食べるのを再開した美郷を見て、幸恵は本気で戦慄した。
(例え話じゃなくて絶対実例で、特定の人物を指してる……。だけど美郷ちゃん、本当に五歳なの!? 末恐ろしいわ)


「何か、美郷ちゃんが居れば、君島家は安泰って気がしてきたわ」
 思わず幸恵が漏らした感想に、美郷が真顔で頭を下げた。
「ありがとうございます。将来は日本憲政史上初の女性首相就任を目指していますので、これ位は処世術の一環ですが」
「……随分壮大な夢を持ってるのね」
「夢の大きさは、身体の大きさと反比例でちょうど良いかと思います。小さい頃から慎ましやかな夢しか持っていないと大成なんかおぼつきませんけど、成人してからも分不相応な夢を見ていたら、単なる痛すぎる馬鹿です」
「…………」
 もう何も言えなくなって思わず頭を抱えたくなった幸恵に、泉が涙目になって頭を下げてきた。


「すみません幸恵さん。娘が色々と生意気で」
「気にしなくて良いわよ。お母さんの育て方が悪いわけじゃなくて、持って生まれた頭の中身と性格故なんだから」
(何か本当に、嫁姑関係は良好みたいだけど、それ以外で気苦労が絶えなさそう、泉さん……)
 幸恵が思わず泉に同情してしまった所で、あっさり自分の分を食べ終わった美郷が、幸恵の皿の中身を眺めながら声をかけてくる。
「ところで、幸恵さん。だいぶ食事も進んだみたいですので、そろそろ本題に入っても良いですか?」
「はっ、はい! どうぞ!」
 慌てて居住まいを正した幸恵に、美郷は静かに自分の主張を繰り出した。


「今回の両親の喧嘩ですが、私は基本的に母の意見に賛成です。歓待するのがそんなに嫌なら、門前払いするべきです。百歩譲ってそんなに意趣返しをしたいのなら、自分が過去にされた様に、幸恵さんに頭から泥水をかけて、文字通り水に流した後、笑顔で迎え入れれば良いと思います」
(それ、水に流すどころか、間違い無く修羅場になるから……)
 堂々と言われた内容に幸恵は心の中で突っ込みを入れ、泉も同様の心境だったらしく、箸を置いて無言で額を押さえた。そんな二人を眺めながら、美郷は冷静に話を続ける。


「でも今回、父とあそこまで揉めたのは、母にも原因があると思います」
「え? どうして!?」
 驚いて泉と美郷を交互に見てしまった幸恵だったが、美郷の口調は揺るぎ無かった。
「母は、父が自分と結婚しても全然メリットが無いのに、結婚してくれた事に対して、今でも引け目を持ってるんです」
「メリットが無い?」
「実は父には後援会の方で強力に推していた、某地元業界元締めの娘さんとの縁談があったのに、その人との縁談をきっぱり断って母と結婚したせいで、一時期有力団体から父への支援がされなかった時期があって、その時の県議会選挙は辛勝だったそうです」
「そんな事が有ったの……」
(へぇ? 陰険野郎だと思ったけど、結構気骨はありそうね。意外)
 密かにちょっとだけ篤志の評価を見直した幸恵に、美郷は淡々と続けた。


「それを引け目に思っている母は、これまで後援会の皆には必要以上に頭を下げて、父にも口答えなんかしないで言うとおりにしてたんです。まあ、でも、これまで父は道理に反する事なんか言わなかったので、どうにかなってましたが。……でも今回のこれは当然よ、お母さん。もし万が一お父さんに迎合してたら、私、お母さんの事を自分の意思も考えも無い、自堕落人間って切り捨てる所だったわ」
「あ……、ありがと、う」
(やっぱり怖い、この子! 実の母親、切り捨てないでよ!?)
 泉が引き攣った笑顔で礼を述べるのを見て、幸恵は肝を冷やした。そして今度は、話の矛先が幸恵に向けられる。


「要は、二人ともお互い言い難い事を腹を割って話したりしないで、曖昧に放置したりその場を誤魔化したりして、ずっと生活してきたんです。幼稚園で親が喧嘩してるのを見た事が無いと言うと、皆から『仲が良くて羨ましい』って言われますけど、私に言わせれば気味が悪いだけです。好きあった同士や信頼し合っている間柄でも、止むを得ず互いに衝突し合った後に、相互理解を深める事によって、より深い絆が生まれる。幸恵さんは、そう思いませんか?」
「え、ええっと……」
(だからどうして私が五歳児に、恋愛観とか人生観を熱く語られないといけないわけ!?)
 冷や汗を流しながら、どう答えるべきかを幸恵が本気で悩んでいると、美郷が真剣な表情で頭を下げた。


「だから、今回のこれは、父と母がお互いちょっと離れて、自分自身を冷静に見つめ直す、良い機会だと思うんです。ですから幸恵さん、巻き込んでしまって申し訳ありませんが、協力して下さい。お願いします」
「あの、ちょっと待って。協力って、何をすれば良いの?」
 慌てて問い質した幸恵に、美郷は引き続き真顔で告げた。
「母の付添いです。落ち着いた滞在先を決めるまで、付き合って貰いたいんです」
 そこで何故か、泉が慌てて口を挟んでくる。


「え? ちょっと待って美郷! 幸恵さんにはパソコンの操作をお願いするだけじゃ無かったの!?」
「そんな事、とっくにタイマーセット済よ。お母さんに正直に言ったら、絶対反対すると思ったし」
「当たり前です! 幸恵さんにこれ以上付き合わせてしまう訳にはいかないでしょう!?」
「ここに連れてきて、話を打ち明けた段階で、今更だと思うんだけど」
 そこで本気で怒り出した泉を見て、幸恵は困惑してしまった。


「あの……、どういう事ですか?」
 すると美郷が詳細な説明を始めた。
「この家の正面玄関、駐車場入り口、裏の通用口には監視カメラが付いているんです。それにお母さんが出て行く場面を撮られたら、時間を逆算して移動可能距離を割り出したり、来ていた服装で探しやすくなりますから、居なくなったふりをして、私の部屋に隠れて貰ったんです。いつの間に、どうやって監視カメラに映らずに出て行ったんだと、皆首を捻ってますが、明日の朝まで見つからないなら、既に遠くまで行っていると判断して、屋敷周辺の探索は甘くなるでしょう? だから明朝六時半に監視カメラの映像を細工して、その隙に母を出す予定なんです」
 理路整然としたその物言いに、幸恵は本気で感心し、ふと気になった事を尋ねた。


「なるほどね……。因みに、どうやってカメラに細工したの?」
「自分でも理屈は分かりません。パソコンを悪戯しているうちに、タイマーの仕方も含めてできる様になっちゃいました。こっそり遊びに行く時に、重宝してます」
(もう相手が五歳児だって事は忘れよう……)
 幸恵がしみじみとそんな事を自分自身に言い聞かせていると、美郷が急に口調を変えて言い出す。
「本当は……、お母さんにちゃんとした実家とかがあれば、こんな事を幸恵さんの様なお客様に頼まなくて済んだんですけど……」
 何となく悔しそうなその口調に、幸恵は慎重に尋ねてみた。


「ええと……、泉さんのお母さんは亡くなったって聞いたけど」
「はい。だから例えお母さんが悪かったとしても、無条件で庇ってくれるような人は居ないんです。今、この家に居る人間は、基本的に当てにできませんし」
 語気強く言い切った美郷に、幸恵は幾分気の毒になりながら、和臣と綾乃の名前を挙げてみた。
「当てにできないって……。確かにお父さんの言いつけに従って、色々やってた使用人の人達は信用できないかもしれないけど、和臣とか綾乃さんは? 美郷ちゃんの身内だし、泉さんと仲が良いでしょう?」
 その問いかけに、美郷は幾分困った様に答える。


「綾乃叔母さんは……、末っ子で大事に育てられたので、仲介能力とか調整能力とかは0に等しいですし、基本的に隠し事なんかできないタイプですから、母の居場所を教えた途端、周囲から吐かされます」
「……否定しきれないわね」
(実の姪からこういう評価……、少し同情するわ)
 思わず溜め息を吐いた幸恵に向かって、美郷が話を続けた。


「和臣叔父さんは……、何を考えているのか良く分からない事が多々ありますし、お父さんと反発している様に見えて、君島家を円満に回す為に、いざとなったら手段を選ばないタイプです」
「……そうかしら?」
 思わず懐疑的な表情になった幸恵だったが、美郷は冷静に指摘してきた。
「現に、幸恵さんがここで嫌がらせされても、父に食ってかかって抗議なんかしないで、幸恵さんを宥めつつフォローしてたんですよね?」
「まあ、ね。でもそれは」
「変に尾を引きたくないって考えるのは分かりますが、お父さんの面子を潰す訳にはいかないっていう、次男根性が刷り込まれているとも思いませんか?」
「結構辛辣ね、美郷ちゃん」
 苦笑いしかできない幸恵に、美郷が重ねて告げる。


「現に幸恵さんと付き合う前、和臣叔父さんには随分縁談があったんです。それなりにお付き合いしていた人もいましたし」
「……へえ? そうなんだ」
「美郷! いきなり何を言い出すの!? あ、あの、幸恵さん? それらは全部、先方からお断りされていますので」
 幸恵が若干声のトーンを下げながら応じると、泉が狼狽しながら会話に割って入った。しかし美郷は臆する事無く、淡々と話を続ける。


「上手く向こうから断る様に仕組んで、負い目を持った相手からの、君島家への支援はがっちり確保。我が叔父ながら、その狡猾ぶりには惚れ惚れします」
「美郷ちゃん……、そんな所に惚れ込んだら駄目だと思うわ」
「好意的に見れば『兄思いな健気な弟』と言えるかもしれませんが。話は戻りますが、恋人が嫌がらせされてるのを知ってて、面と向かって抗議しない男って、どうかと思います」
 遠慮の欠片も無く美郷がそう口にした為、流石にたまりかねた泉が娘を叱りつけた。


「美郷! いい加減にしなさい! 和臣君にも幸恵さんにも失礼でしょう!!」
「私は意見を求めただけよ?」
「他人様の事情に口を挟むんじゃありません! それにこの家の内情まで、何をペラペラと喋ってるの!!」
 そんな風に激高している泉と、すこぶる冷静な美郷の言い争いを聞きながら、幸恵はしみじみと考え込んでしまった。


(うわ、きっついわね~。でも美郷ちゃんの意見を、全面的に否定できないわ。確かに私も薄々思っていた事だし。和臣が甲斐性なしだとも、兄貴に無条件に迎合するタイプだとも思ってはいないけど)
 そしてもう一度じっくり美郷の話を最初から考えてみた幸恵は、ゆっくりと了承の返事をした。
「なるほど。そういう事情もあって、身近な身内より、赤の他人の私を信用してくれたってわけか。良いわよ? 付添い位やってあげようじゃない」
「本当ですか?」
 思わず嬉しそうに顔を向けてきた美郷に、幸恵は頷いてから推測した内容を口にする。


「ええ。美郷ちゃんは、自分が一緒に居たら足手まといになるし、発見されやすくなるけど、妊婦のお母さんを一人で出すのは心配なんでしょう? それに確かにここに居たら、周囲がこぞって『泉さんの気持ちは分かるけど、ここは泉さんから頭を下げてくれ』とか、言い聞かせてきそうだものね」
「はい、そうなんです。だからこの際、ちょっとお母さんに周囲の目を気にしないで、のんびりして貰おうと思いまして。本当にお願いできますか?」
「ええ。幸い明後日までは休みだし、明日と明後日で泉さんの滞在場所を決めて、送って行くわ」
「ありがとうございます。安心しました」
 如何にも安心したらしく、無邪気に笑って礼を述べた美郷を見て、幸恵も無意識に頬を緩めた。
(あら、年相応の可愛い笑顔。確かに生意気かもしれないけど、母親想いの良い子じゃない)
 何となくホッとしながら、幸恵はこれからの予定について言及した。


「じゃあそうと決まれば、私は早いところここから出ないとね」
「え? どうしてですか?」
 不思議そうに美郷が問い返してきた為、幸恵はその理由を説明した。


「だって、泉さんと一緒にこっそり出たら、私まで行方不明になって騒ぎが大きくなるし、もしかしたら泉さんとの関連も疑われるかもしれないでしょう? だから私は一旦ここを出て車を調達して、明日の6時半に泉さんを迎えに来るわ。それなら足も心配要らないでしょう? ここはちょっと市街地からは離れているし」
「あ、そうか。そこまでは考えていなかったです。でも和臣叔父さんはどうしますか? 幸恵さんを単独行動させてくれるかしら?」
「普通に言ったら無理ね。でも美郷ちゃん、そこら辺は考えて無かったの?」
「……はい、すっかり失念してました。面目ありません」
「そこら辺は任せて頂戴。自分で何とかするわ」
 がっくりとうなだれ、傍目にもしっかり分かってしまう落ち込み方を見せた美郷に、幸恵は思わず噴き出したいのを堪える。


(嫌だ、どうしてくれようかしら、この子。素で落ち込んでるわよね? 可愛いじゃない)
 そして幸恵は何とか顔付きを引き締めながら、オロオロと二人のやり取りを眺めていた泉に声をかけた。
「じゃあ、泉さん。今日は早めに休んで、明日に備えて下さいね? 6時半に裏の通用口、の方で良いのよね?」
 後半は美郷に確認を入れると、彼女が小さく頷く。
「はい、宜しくお願いします」
「でも、幸恵さん」
 しかし尚も躊躇う気配を見せる泉に、幸恵は静かに言い聞かせた。


「あくまでも第三者としての意見ですが、少し冷却期間を置いた方が、お互い冷静に話ができると思います。今の状態で話し合うのって、ちょっと気まずくありませんか? 加えて曖昧に済ませてしまったら、今後にしこりが残りそうな気がするんですが」
 そこで泉は無言で真剣に考え込んでから、幸恵に向かってゆっくりと頭を下げた。


「私事で幸恵さんに、ご迷惑おかけしてしまいますが、宜しくお願いします」
「それじゃあ明朝に」
 そして腰を上げた幸恵は、早速これからの段取りを考えながら、廊下を歩き始めた。
(さて、思いきり夫婦喧嘩に巻き込まれちゃったけど、そもそもの原因が私だものね。この際、ちょっと泉さんの肩を持つ事にするわ)
 そして離れに向かって迷う事なく自分に与えられていた客間に戻った幸恵は、手早く荷物を纏めて再び廊下に出た。そして一度玄関に行って荷物を置いてから、居間に顔を出してそこに居た綾乃と祐司に尋ねる。


「ねえ、和臣はまだ会議室とやらに居るの?」
「は、はい。そうみたいですけど……。幸恵さん、どうかしましたか?」
「分かったわ、ありがとう」
「え? あ、幸恵さん?」
 短く会話を切り上げ、幸恵は仕事で使っているらしい部分の見当を付けて、そこに向かって歩き始めた。


「和臣、居る?」
 途中、住み込みらしい使用人とすれ違い、目指す場所の位置を教えて貰った幸恵は、そこのドアを開けながら室内に向かって声をかけた。するとテーブルを挟んで地図を見ながら話し合っていたらしい数人の男達が、一斉に幸恵に視線を向ける。
「幸恵? どうかしたのか?」
「貴様……、邪魔だ。さっさと失せろ」
「黙れ、兄貴」
 怪訝な顔を向けた和臣が居るのは想定内だったが、鋭く威嚇してきた篤志を認めて、幸恵は無意識にうんざりとした表情で溜め息を吐いてしまった。


(うわ~、帰って来てたのね、諸悪の根源。でも確かにいきり立ってる雰囲気だし、泉さんと冷静に話とかできそうに無いわよね。もうこうなったら、乗りかかった船だわ)
 そして幸恵は覚悟を決めて、頭の中で用意しておいた台詞を口にした。


「言われなくても出て行くわよ。こんな空気の悪い所に、いつまでもいる様な自虐趣味は無いわ。これから東京に帰るから、一言挨拶に来ただけ。それじゃあね」
「何だと!? もう一度言ってみろ!」
「止めろ兄貴! 幸恵、今から帰るなんて無理だろう!? ちょっと落ち着いてくれ!!」
 素っ気なく手を振って踵を返した幸恵に、篤志は憤怒の形相で立ち上がり、和臣は血相を変えてそんな篤志の前に回り込んで身体を押さえつつ焦った声を上げた。それを聞いた幸恵は、再度二人の方に向き直る。


「確かにもう羽田行きの飛行機は無いでしょうけど、新幹線や高速バスは有るわよ。一晩ただ寝るだけでも嫌だって事位、察して欲しいわね。もう本当にうんざりなのよ。そこの横暴兄貴にも、その腰巾着のあんたにも。本当に泉さんがお気の毒だわ。どうせ泉さんの言い分なんか聞かずに、皆で寄ってたかって『そちらが言い過ぎたから頭を下げろ』って言い聞かせるんでしょ?」
「何だと!?」
「幸恵!!」
 篤志は怒りで顔を赤く染め、和臣は狼狽を露わにしながら兄を押さえ続けたが、そんな二人を見ながら幸恵は小さく肩を竦めて言い放った。


「好意的に迎えて貰えるとは流石に思ってなかったけど、ここに来てからのあんたの兄貴の陰険さには呆れ果てたし、その兄貴の立場を慮って抗議の一つもしないあんたにも、ほとほと愛想が尽きたのよ。この際、色々考え直したくなったって事」
 幸恵が二人を睨み付けながらそう告げると、室内の空気が凍り付いた。そして中の人間が揃って視線を向ける中、青ざめた顔で少し黙り込んでいた和臣が、微妙に幸恵から視線を逸らしながら、静かに口にする。


「……分かった。じゃ俺達もお互いに少し、冷静に考える時間が必要だな。無理に引き止めないから。その代わり、駅前まではタクシーを使ってくれ。……綾乃。タクシーを一台呼んでくれ」
「あ……、は、はい。あの、でも……」
 そこで使用人に呼ばれたのか、廊下から顔を見せた綾乃に和臣が呼びかけ、綾乃が険悪な空気と事情が分からない為おろおろしながらも、綾乃は携帯を取り出して電話番号を検索し始めた。それに幸恵は簡単に礼を言いつつ、さっさと玄関に向かって歩き出す。


「頼むわ。荷物を持って、外に出て待っているから」
 そして黙って歩き出した幸恵に、祐司が追い縋って軽く腕を掴みつつ呆れた口調で窘めてきた。
「おい、幸恵! 何やってるんだ。下手に事を荒立てる必要は無いだろう」
「だっていい加減、飽き飽きしたんだもの。叔母さんの見舞いは取り敢えず済ませたし、もうここに用は無いわ」
「そうは言っても。和臣さんの立場が無いだろうが?」
「あいつの立場なんか、知った事じゃ無いわよ」
「幸恵!」
 歩きながらそんなやり取りをした祐司だったが、翻意させるのは無理かと諦めて手を離し、黙って幸恵の後に付いて玄関に向かった。そして幸恵の中で、苛立たしさが膨張していく。


(そりゃあ、付いて来られたら困るけど、ちょっとあっさりし過ぎじゃない? もうちょっと怒るとか弁解するとか。追っても来る気配も見せないってどういう事よ!)
 むかむかした気持ちのまま玄関に到着した幸恵は、置いてあったバッグを持ち上げ、迷う事無く下駄箱から自分の靴を取り出して履き終えた。そして真っ直ぐ門へと向かう。そして待つ事一・二分で、門前にタクシーが一台滑り込んで来た。


「じゃあ、気を付けて」
「分かってるわ。……それじゃあ、広島駅前までお願いします」
 早速それに乗り込み、気遣わしげに言葉をかけてきた祐司に軽く頷いて、幸恵は運転手に声をかけた。そして動き出した車内で、冷静にこれからの段取りを考え始める。


(さて、それじゃあタクシーを使ったら足が付くし、まだギリギリ営業時間内だとは思うから、今夜のうちにレンタカーを借りておきましょうか。そして駐車場とホテルを確保と)
 何となく最後に見た、何かを堪える様な表情をしていた和臣の顔を思い浮かべた幸恵だったが、それから意識を逸らす様に、次々と必要な作業を進めていった。





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