アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

第19話 倒れる時は前のめり

 休み明け初日。まだ松の内であり、開いている店も少ない為、昼休みに出向いた社員食堂はいつもより盛況だった。しかし空いている席を探している最中、笑顔で手を振ってきた綾乃達と同席する事にしたのを、幸恵は食べ始めてすぐに激しく後悔した。


「それで、それからどうなったんですか?」
 休み中に和臣と実家に帰った事を本人から聞かされていたらしい綾乃が、興奮を隠しきれない様子でしつこく尋ねてきた為、別に隠し立てする事もないかと幸恵は端的に順を追って説明する。
「それで……、初詣の後、紳士服店の初売りに行って、該当するサイズのワイシャツを買って渡したんだけど、ああいう所って最近レディースも結構充実してるのよね。『さっき引いた幸恵さんのおみくじが末吉で、俺が大吉を引いちゃったのが気が引けるから、お詫びに何か買ってあげる』とか言い出して押し問答しているうちに、いつの間にかスーツとコートとブラウスを買って貰う羽目に……。その後開いているお店でお茶して帰ったら、尋ねて来ていた親戚と宴会になって、あの愛想の良さで和気あいあいと盛り上がってたけど……」
 そこで話を区切った幸恵が定食のご飯と味噌汁を口に運ぶと、同席していた綾乃の先輩の公子と香奈が小声で感想を言い合った。


「やるわね、君島さんのお兄さん。天然な妹を見てると想像できないけど」
「だけどカップルの一方が大吉で、もう一方が末吉って微妙ですね」
「本当ね。両方大吉だったら今年中にすんなり纏まりそうだけど」
「男の方は満願成就だけど、女の方は不本意な結婚とか?」
「まあ、ありがちよねぇ。価値観の違いって、深くてなかなか越えられない溝だし」
(変な憶測しないで頂けます? 丸聞こえなんですけど?)
 言いたい放題言われて多少腹を立てたものの、香奈はともかく公子は星光文具の陰の実力者であり、文句を辛うじて飲み込んだ。そこで感極まった感じの綾乃の声が上がる。


「凄いです! それって、ちゃんとした恋人同士のデートみたい!」
「……あれはデートとは言えないわよ」
 素っ気なく否定した幸恵だったが、綾乃のテンションは上がる一方だった。


「年末は一緒に広島に帰ると思ってたのに、都内に残るだなんて何をする気かと思っていたら、実は伯父さんの家で歓待して貰って、幸恵さんとデートして、ご親戚の方にもしっかり紹介して貰ってたなんて……。年末年始、知らない所で頑張ってたのね、ちぃ兄ちゃん。後で誉めてあげなくちゃ!」
「だからあれはデートじゃないと言ってるでしょうが!」
 ウキウキと話し続ける綾乃にイラッとして声を荒げた幸恵を、テーブルの向かい側から公子が宥めた。


「まあまあ、そう興奮しないで。……だけど客観的に見て、そう思ってるのは荒川さんだけだと思うけど?」
「そうですよね~。第三者が聞いたら、付き合ってる彼氏を実家に連れて行って、家族ともどもまったりしてきたとしか思えませんよね~?」
 すかさず横から相槌を打った香奈を、幸恵は険しい表情で叱りつけた。
「だから違うって言ってるでしょうが!? もうこの話題は終わりよ!!」
「こっわ~」
「素直じゃ無いわね~」
 こそこそと香奈と公子が囁き合うのを完全に無視し、幸恵は無言で生姜焼きを頬張った。そしてそれを咀嚼して飲み込んだタイミングを見計らって、綾乃が恐る恐る声をかけてくる。


「あ、あの~、幸恵さん?」
「何?」
「今月のお休みの予定とかは……」
「……まだ埋まって無いけど?」
 今度は一体何を言い出す気かと、不機嫌さを隠しもしないで食べ続けている幸恵に、綾乃は幾分怖じ気づきながらも、予め用意していた誘いの言葉を口にした。


「ご一緒に、スキーに行きませんか? ちぃ兄ちゃんはインストラクター級の腕前で、滑っている所が格好良いって地元では評判」
「却下。私滑れないの」
「え? そうなんですか? 意外です……」
 台詞を遮られた事に対して気分を害した様な気配は見せず、綾乃は面食らった表情になって呟いた。それが妙に癇に障った幸恵が、刺々しい口調で問い掛ける。


「何? 私がスキーが出来ないのが、そんなにおかしいわけ?」
「いえ、おかしいなんて、そんな……。ただ幸恵さんって、何でもソツなくこなしてしまうイメージなので……」
 そこで慌てて弁解してきた綾乃に、幸恵は冷たく言い放った。
「悪かったわね、イメージ倒れで。だけどどうして寒い時期に、より寒い所に行かなきゃいけなのか、理解できないのよ。好き好んで行きたがる人間の気がしれないわ」
「そうですか……」
 そう言ったきりシュンとなって俯いてしまった綾乃を見て、幸恵は密かに後悔した。


(う……、たかがスキーなのに、言い方が少しきつかったかしら? 誘って来たって事は、この子も滑るんでしょうし)
 そんな事を考えた幸恵が、食事を続行しながら悶々としていると、公子が苦笑いしながら声をかけてきた。


「荒川さん」
「……何でしょうか?」
「相変わらず言い方がキツいわね。気にする位ならさっさと謝った方が良いわよ?」
「別に気になんかしてません! 間違った事は言ってませんし!」
「強情ねぇ」
 そうしてムキになって叫び、付け合わせのキャベツの千切りを口に入れて黙々と食べ続ける幸恵を見て、公子達は苦笑いの表情で互いの顔を見合わせたのだった。
 そしてその日の夜。早速綾乃から話が伝わったのか、和臣が幸恵に電話してきた。


「幸恵さん、綾乃から聞いたんだけど、スキーは」
「行かないって言ったでしょう!?」
「うん、だからスケートは?」
 あっさりと話の内容を変えられ、幸恵は訝しげに尋ね返した。
「スケートだったらするけど……。何? スキーだけじゃなくて、スケートも上手なの? 殆ど嫌味ね」
「いや、全然やった事が無いから滑れないんだ」
「は?」
「だからこの機会に、滑り方を教えてくれないかな?」
 電話の向こうではいつも通りの平然とした笑顔を浮かべているであろうその声音に、幸恵はそれはそれは疑わしげな声を出した。


「……滑れないの? 本当に?」
「こんな事で嘘を言っても仕方ないよ。どう? 幸恵さんを思う存分、優越感に浸らせてあげるけど」
 その笑いを堪えているかの様な口調に、幸恵は気分を害して叱りつけた。
「あのね! 一体私をどんな人間だと思ってるわけ!? そこまで性格は悪くないわよ!」
「ごめん。だけど本当に、教わるなら幸恵さんが良いな。どうしても駄目かな? 幸恵さんの休みに合わせるけど」
 相変わらず穏やかに問いかけられ、幸恵は困惑したものの一応了承の言葉を返した。


「そこまで言うなら……。だけど教えると言っても普通に滑れる程度で、誰かに教えた事とか無いわよ?」
「勿論それで良いよ。じゃあ楽しみにしてる」
 そうして通話を終わらせた幸恵だったが、受話器を元に戻したその顔は疑いを払拭出来ずに微妙に眉を寄せていた。
「……滑れないって本当かしら? まあ、口からでまかせだったら、滑りを見れば分かるわね」
 そうして自分自身を納得させ、取り敢えず久しぶりにスケートを楽しんで来ようと、スケジュール帳にその旨を書き込んだのだった。


 ※※※


「うわっ! ……っててっ」
「ちょっと! 大丈夫!? 今、頭を打ったわよね?」
「ああ、なんとか平気。しかし幸恵さんの前で、格好悪過ぎだな」
 リンクに入った当初から、どう見ても演技とは思えないふらついている和臣の立ち姿に、幸恵は至近距離でハラハラしていた。そして手すりに掴まりながら慎重に滑り出した和臣が、派手に何回か転んでから、幸恵は呆れ気味に手を差し出して起き上がるのを助けながら声をかけた。


「ほら、掴まって。……だけど、本当に滑った事が無かったのね」
「電話でそう言っただろう?」
「普段が普段だから、信用できなかったのよ」
「酷いな。どれだけ信用無いんだろう、俺って」
「当然でしょう?」
 苦笑いしてゆっくり立ち上がった和臣を支えながら、幸恵は小さく溜め息を吐いた。


「じゃあ私と両手を繋いで。手すりに掴まってばかりだと、それに頼り切りになっちゃうし、ゆっくり引いてみるから、まず感覚を掴んでみて。危なくてしょうがないわ。見ているこっちの身にもなってよ」
「ありがとう」
 言った台詞の最後は半ば嫌味だったが、和臣から気負いの無い自然な笑顔を返された幸恵は、微かな動揺を隠す為に話題を逸らした。


「だけどさっきは見事にしりもちをついたわね。無防備に頭も打ってるし。下手すると脳震盪を起こしたり怪我をするわよ?」
「流石にそこまで間抜けな姿を、幸恵さんの前で晒したくはないな」
 それは本音だったらしく、和臣は笑いを収めて神妙な顔つきで溜め息を吐いた。その為、幸恵も茶化さずに真面目くさって言い聞かせる。
「まともに打ちつけたりしなければ大丈夫だから、気をつけてね。体重は後ろにかけないで。氷の上でも地面でも、倒れる時は前のめりが基本よ」
 それに軽く頷いてから、和臣は少し不思議そうに幸恵の顔を眺めた。


「それは分かったけど……。氷の上はともかく、どうして地面の上でも前のめりって話が出てきたのかな?」
「どうしてって……、手を付いて頭への衝撃を避けられるから当然でしょう? それに仰向けに倒れたら、何も掴み取れ無いじゃない」
 事も無げにそう言い切った幸恵だったが、それを聞いた和臣は一瞬表情を消してから、手を繋いだまま俯き加減で微かに震えだした。


「幸恵さん……」
「ちょっと。何、爆笑寸前の顔をしてるのよ?」
 気分を害した様に幸恵が尋ねると、和臣は笑いながらその理由を告げた。
「だって……、幸恵さんは転ぶ度に、地面に落ちてる何かを鷲掴みしてるわけ? 凄いな」
「え?」
 今度は幸恵が一瞬当惑した顔をしてから、すぐに言われた意味を理解して顔を真っ赤にして怒り出した。


「実際にそうしてるわけ無いでしょ! 実際の危険性を鑑みてと、人生に対する姿勢のあり方と、単なる言葉のあやよ! それ位分からないわけ!?」
「うん、ごめん……。それは分かってるんだけど……、でも、なんかツボに入ったみたいで……」
「勝手に笑ってなさいよ、もう!」
 少しの間ヨロヨロ滑りながら、堪えきれない笑いを漏らしていた和臣だったが、何とか笑いを抑えて立ち止まってから、どうしてこんな所で止まったのかと訝しんだ幸恵に真面目な顔で宣言した。


「よし、じゃあここは一つ、実践してみるから」
「は? 何言って……、きゃあぁぁっ!」
 いきなり和臣に抱き付かれ、リンクに押し倒された形になった幸恵は、人目など気にする余裕も無く盛大に悲鳴を上げた。しかし和臣の両腕で頭と腰はしっかり抱え込まれており、しゃがみ込んでしりもちをついた時の衝撃程度で済んだ事に、心底安堵する。すると両腕を自分の身体から離して両脇に手を付いた和臣が上から見下ろしてきた為、盛大に文句を言った。
「大丈夫? 一応抱え込んだから、怪我はして無いよね?」
「あ、危ないでしょうが! 何やってるのよ!?」
「幸恵さんの言う通り、ちょっと前のめりに倒れてみた」
 悪びれない笑顔でそんな事を言われてしまった幸恵は、顔を引き攣らせて叱りつけた。
「あのね! ふざけるのもいい加減に」
「だって幸恵さんがあんまり可愛過ぎるから、つい押し倒したくなったんだ」
「は?」
「うん、やっぱり倒れる時は前のめりが基本だね。これだと幸恵さんが容易に逃げられない」
 なにやら一人で納得している和臣に、幸恵の堪忍袋の緒が切れた。


「全然意味が違うでしょうが! って言うか、さっさとどきなさいよ!!」
「さて、どうしようかな? 転んだ後は何か掴み取らないと駄目みたいだし。幸恵さん、俺に何かくれない?」
 そこで薄笑いを浮かべながら自分を静かに見下ろしてきた相手に、何故だか危険な物を感じてしまった幸恵は、瞬時に顔を引き締めて慎重に断りを入れた。
「……あいにくと、何もあげる物は無いわよ」
「それなら……、多少強引に頂く事にしようかな?」
「ちょっと! 何考えてるの、離れなさいよ!?」
 自分に覆い被さる体勢のまま、真顔で顔を近付けてきた和臣の体を、幸恵が手で押しのけようとしながら叫んだ時、すぐ横からもの凄く恐縮気味の声がかけられた。


「……あの、お客様?」
「はい?」
「え?」
「誠に申し訳ありませんが、他のお客様の滑走の障害になっておりますので、滑られない場合はリンク外に出て頂きたいのですが……」
 そこのスケートリンクのスタッフジャンパーを着た、自分達と同世代の男性に声をかけられて漸く我に返った幸恵は、自分達が他の客達から興味津々の視線で観察されているのを認識し、羞恥で顔を赤くしつつ慌てて和臣を突き飛ばして上半身を起こした。


「は、はいっ! すみません! 今すぐ出ますのでっ!」
「おっと、酷いな幸恵さん」
「誰のせいだと思ってるのよ! ほら、行くわよ!」
 動揺しながら出入り口に向かってさっさと滑り出そうとした幸恵に、和臣がどこかのんびりと声をかける。
「ごめん、手を貸して貰えるかな? まだ一人で立てないから」
「……っ! 全く、もう!」
 そう言って困った様な顔で右手を差し出してきた和臣に、幸恵は舌打ちしたい表情になったものの、素早く近寄って手を差し出した。


「さっさと掴まりなさい! 行くわよ!」
「ありがとう」
 そして手を繋いでゆっくり移動しつつ、幸恵が盛大に悪態を吐く。
「もうあんたなんかと、二度とスケートに来ませんからね!!」
「そうだな……、それじゃあ今度こそスキーに行く? 今日の名誉挽回をしたいし、手取り足取り教えてあげるよ?」
「冗談じゃ無いわよ! 何企まれるか分かったものじゃ無いわ!」
「企むだなんて酷いな」
「事実でしょうが!」
「酷いな。俺は純粋にコーチしてあげると言ってるのに」
「どこが純粋!? 不純と矛盾の固まりのくせにっ!!」
 そんな端から見たら痴話喧嘩としか思えない言い合いをしながら、幸恵達は早々にリンクを去る事になったのだった。





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