アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

第18話 裏目

 家族の物言いに正直ムカついた幸恵だったが、ここへの道すがら密かに考えていた事を実行に移すべく、大人しく座って並んだ料理を食べ始めた。そして隣に座っている和臣が、父親とビールを注ぎ合いながら上機嫌に話し出した為、さり気なくビール瓶を持ち上げて声をかける。


「今年は色々お世話になったわね。さあ、遠慮しないで飲んで飲んで」
 愛想良くそんな事を言いながら幸恵がビール瓶を差し出してきた為、意表を突かれたらしい和臣は、軽く驚いた顔をしてから笑顔でグラスを差し出した。
「ありがとう。幸恵さん自らお酌してくれるなんて嬉しいよ」
 和臣は嬉しいそうに応じたが、それを見た正敏は胡散臭そうな表情で幸恵を見やった。 
「この前和臣が来た時は、酌をするどころか生卵をかけたのにな。お前、もう酔ってるのか?」
「そんなわけ無いでしょうが! 例の事件でお世話になったし、君島さんから家に色々貰ったみたいだし、これ位当然でしょう?」
 イラッとしながら幸恵が弁解したが、正敏の意見に健と信子も同調した。


「普通だったらそうだろうが、お前がお酌する所なんか初めて見たぞ。俺にしてくれた事は無いよな?」
「明日は雪かもしれないわねぇ。元朝参りに行こうと思ってたのに……」
 健が多少拗ねながら、信子が眉を寄せた困り顔で言った内容に、幸恵は顔を引き攣らせた。
(ええ、そうでしょうとも! らしくないわよ。似合わないわよ。悪い!?)
 そして一人開き直っている幸恵の目の前で、マイペースで飲んでいた和臣は、のんびりとした口調で周囲に愛想を振り撒いた。


「それなら今回のこれは、尚更貴重ですね。味わって飲ませて貰います」
「おう、飲め飲め。俺も幸恵に酌なんかして貰った事なんか無いぞ? この果報者!」
「なんだか新婚生活の先取りみたいね?」
 無責任に煽る様な台詞を口にする兄夫婦に、幸恵の顔が一瞬微妙に歪んだが、何とか気合いを入れて笑顔を保つ。
(皆好き放題言って……。まあ、良いわ。こいつを酔い潰すのが目的なんだから。不愉快な言動も取り敢えず我慢よ、幸恵)
 そう自分自身に言い聞かせていると、和臣が機嫌良く声をかけてきた。


「幸恵さん、そろそろビールを止めて日本酒を貰って良いかな?」
「そうね。はい、どうぞ。……でもお酒だけじゃなくて、ちゃんと食べないと駄目よ?」
「ありがとう。頂くよ」
 今度は和臣の杯にお銚子でお酌する合間に、まめまめしく料理を大皿から小皿に取り分けたり、小鉢を和臣の前に置いて勧めるのを見た家族は、(やっぱり新婚っぽい)と思ったが、下手に口を挟むと幸恵が激怒する為、幸恵に気付かれない様に互いの顔を見合わせて苦笑いしていたのだった。


 そしてダラダラと続いた宴会も終わり、後片付けを済ませて各自の部屋に引き上げた時には零時を回って新年を迎えていたが、幸恵はこそこそと自室を抜け出し、静まり返った廊下を足音を立てずに進みながら、新年早々するにはあまり相応しく無い事を実行しようとしていた。
(さて、皆寝たわね。さっさと済ませちゃおう)
 そして予め母親の裁縫箱から無断拝借しておいたそれを手に、足音を忍ばせて客間に近付いていく。


(この前も爆睡してたし、あれだけ飲ませたんだから起きないわよね。楽勝楽勝)
 半ば余裕で静かに客間の襖を開け室内の様子を窺っ幸恵だったが、予想通り眠り続けている和臣に胸を撫で下ろした。それでも慎重に近づいて掛け布団をめくり上げ、持参したメジャーの端を摘んで引っ張り出し、前屈みになって両手を軽く伸ばしながら和臣の顔を見下ろす。
 しかしここで予想外の事が起こった。
「えっ? きゃあぁっ!!」
「いらっしゃい、幸恵さん。こんばんは、かな? それとも年が明けて初めての挨拶だから、やっぱりあけましておめでとうかな?」
 いきなり目を開けた和臣に驚く間もなく、腕を伸ばした和臣に背中と腰を勢い良く引き寄せられ、幸恵は彼の身体の上に倒れ込んだ。慌てて起き上がろうとしても和臣にがっしりと腰を押さえられてしまい、傍目には寝ながら抱き合っている体勢になる。


「なっ!? どっ、どうして起きてるのよ? 泥酔してるんじゃなかったの!?」
 至近距離で囁かれたのに動揺しつつ、幸恵が和臣の腕を剥がそうとジタバタもがいていると、和臣は笑いを堪えながら余裕で言ってのけた。
「俺の家系は、代々酒に強い人間が多くてね」
「だって、この前は人の部屋で爆睡してたじゃない!」
「あの時は……、偶々仕事が忙しかった時期だったし、体調が本調子でないところで無理して飲んだからね。今日はばっちりだよ」
「極端過ぎるわよっ!?」
 八つ当たり気味に幸恵が叫ぶと、和臣が嬉しそうに顔を綻ばせながら囁いてきた。


「……だけど、嬉しいな。幸恵さんが夜這いをかけてくれるなんて。そんな風にこっそり忍び込んで来なくても俺はいつでも大歓迎なのに、余計にそそられるじゃないか」
「夜這っ……、ちょっとそれ、とんでもない誤解だから!」
 顔を赤くしたり青くしたり忙しい幸恵を満足そうに見上げながら、和臣は幸恵の身体を抱え込む様にしたまま綺麗にクルッと半回転し、布団の上に幸恵を寝かせて、自分は上から見下ろす体勢になった。そして薄暗い室内で、艶っぽく囁く。


「照れなくても良いよ。大丈夫、幸恵さんに恥はかかせないから。それじゃあ遠慮なく」
「誤解だって言ってるでしょう! 大体他人の家なんだから、ちょっとは遠慮しろーーっ!!」
 そして客間に幸恵の絶叫と平手打ちの音が響き渡った。しかもその絶叫は、他の家族達の安眠をも妨げる事になってしまった。


「何だおい、どうした幸恵?」
「あら? でも客間から聞こえてきたわよね?」
「うるっせえぞ。新年早々、何騒いでんだ、幸恵」
「幸恵さん、さっき見たら部屋に居なかったし、やっぱりこっちに居るの?」
 両親と兄夫婦が困惑した感じの会話を交わしながら客間に様子を見に来ると、何故か布団で仏頂面の幸恵が正座しており、少し離れた畳に転がっている和臣が、お腹を抱えて体を丸めながら必死に笑いを堪えているところだった。


「……和臣、お前何一人で腹を抱えて笑ってるんだ? 第一、幸恵。お前がどうしてここに居るんだ? 和臣に夜這いでもかけたのか?」
「そんな訳無いでしょう!?」
 代表して問い掛けた正敏に幸恵が力一杯反論し、その反応でとうとう我慢できなくなった和臣は、「ぶはっ!」と噴き出して本格的に笑い出した。それを幸恵が白い目で眺める。
「いい加減笑うのを止めなさいよ!」
「取り敢えず俺達にも分かる様に、お前が説明しろ」
 半ば呆れながら正敏が言い聞かせると、幸恵は隠すのを諦めて例の事件に関する事を洗いざらい白状した。そして自分がしようとした事も正直に告げて話を終わらせると、家族から容赦の無い感想が浴びせられる。


「幸恵……。お前、本当に酔って絡んだ挙げ句、和臣君のワイシャツに、ボールペンで落書きしたのか?」
「……部分的に記憶があるから、間違いないかと」
「まあまあ、相変わらず乱暴な娘でごめんなさいね? 和臣君」
「いえ、大した事ありませんから大丈夫ですよ?」
 両親から咎める視線を向けられた幸恵が、すっかり肩身を狭くしながら自分の非を認め、和臣が鷹揚に頷くのを見て、正敏は納得いかない口調で問い掛けた。


「そりゃあワイシャツを買う時には、身体に合わせるために首まわりと裄丈は把握しておく必要があるだろうが、目安で買っても良いだろうし、第一本人に直接サイズを聞けば良いだけの話だろうが」
 しかし幸恵はそれにムキになって反論した。
「だって! 話を聞いた後、『新しいのを買って返すから』って言っても、『気にしないで良いから』の一点張りなんだもの!」
「それならそれでラッキーとか思っとけよ。寝ている男の身体のサイズをこっそり測ろうなんて、まともな女のする事じゃ無いだろ」
「変な言い方しないでよ! だって、なんか気になるし、借りを作りたくないし、弱みを握られて負けた気分なのよ!」
 そんな事を思うまま叫んだ幸恵に、正敏は「これは駄目だな」とでも言いたそうに肩を竦めたが、ここまで黙って話を聞いていた香織が正敏を宥めた。


「正敏さん、そんな風に意地悪言わないで。幸恵さんは和臣さんがいつも仕立ての良いスーツを着てるから、ワイシャツもちゃんと体型に合わせた結構良い物を着てると思って、変な物を返せないって思ったんでしょう?」
「香織さん……」
(なんか実の親兄弟より、兄嫁の方が自分の良い理解者ってどうなの?)
 思わず優しく尋ねられてうるっときてしまった幸恵に苦笑交じりに小さく頷いてから、香織は和臣に向き直った。


「和臣さんも、幸恵さんの手を煩わせたく無いって気持ちは分かるけど、事件で幸恵さんがお世話になった事だし、ここは一つ幸恵さんにワイシャツを弁償させて貰えないかしら? そうすれば幸恵さんもすっきりするだろうし」
 そう言われた和臣は、実にあっさり引き下がった。
「分かりました。香織さんがそこまで仰るなら、ありがたく頂く事にします」
「良かったわ。それじゃあ幸恵さん。和臣さんからサイズを聞いて、ワイシャツを買ってあげてね?」
「ええ。ありがとう、香織さん」
「どういたしまして」
 香織の助言で自分の主張を認めて貰い、ほっと一安心した幸恵は笑顔になり、その場の面々も一件落着と安堵したが、幸恵にとって最大の衝撃が香織の口から語られた。


「でも幸恵さん。何もコソコソ和臣さんのサイズを測らなくても、お仕立て券付ワイシャツ生地とか贈れば良かったんじゃない?」
「……え?」
 何気なく香織が尋ねて来た内容を耳にして、幸恵の笑顔が瞬時に固まった。しかしそれに気付かないまま香織が話を続ける。
「ちょっと値は張るけど、その方が和臣さんの体にピッタリした物が作れるし、十分お礼代わりに…………。あら? 幸恵さん。どうしたの?」
「…………」
 いつの間にか幸恵が正座したまま、布団に両手を付いて項垂れている事に気付いた香織は不思議そうに尋ねたが、幸恵は無言のまま微動だにしなかった。そして他の家族は、そんな幸恵を憐れむ様な視線で見てから、その場を後にし始める。


「……香織、もう放っておけ。あいつ今、自分の馬鹿さ加減に気付いてドツボに嵌ってるから」
「本当に、小さい頃から幸恵は頭は良かったけど、時々とんでもない失態をしでかしてたわよねぇ」
「和臣君、こんな深夜に騒いですまなかったね。俺達は引き上げるから、後は宜しく」
「はい、おやすみなさい」
 そうして客間に二人きりになってから、和臣は笑いを堪えながら幸恵に声をかけた。


「幸恵さん? 何もそんなに落ち込まなくても。そんな幸恵さんも可愛いけど。あ、スマホで写真を一枚取っておいて良いかな?」
 そう言っていそいそとスマホを引き寄せる気配を察した幸恵は、慌てて顔を上げて和臣に文句を付けた。
「止めてよ! 全く、何の為に愛想振り撒いて、散々飲ませたと思ってるのよ……。馬鹿みたいじゃない」
「やっぱりそんな下心があったんだ」
 そこで再びうなだれた幸恵を見て、和臣は苦笑しながら宥めた。


「まあ、幸恵さん自らお酌してくれるなんて、おかしいとは思ったんだ。だけどこの機会を逃すとなかなかして貰えなさそうだったから、散々してお酌して貰ったけど。俺的にはあれで十分、この前のお礼をして貰った気分だよ?」
「ちゃんとワイシャツは、新しいのを買って返すわ」
 そこは譲る気配の無い幸恵に、和臣は「頑固だな」など余計な事は言わず、楽しげに提案した。


「じゃあ今日はゆっくりする事にして、二日に一緒に初売りに行って、ワイシャツを買って貰うよ。ついでに初詣もその日に行こうか? うん、そうしよう。他にも色々回って」
「え? ちょっと待って!」
 勝手に話を進めていく和臣に幸恵は焦ってストップをかけたが、和臣は余裕の笑みを返した。
「お礼とお詫び、してくれるんだよね?」
 それに全く反論できなかった幸恵は、不承不承頷く。


「……分かったわよ」
「宜しく。今年は元日から幸先良いな。それじゃあおやすみ。……それとも、一緒にここで寝ても、俺としては一向に構わな」
「お邪魔しましたっ!!」
 和臣がサラッと誘いの言葉を口にした途端、幸恵は勢い良く立ち上がり、バタバタと客間を出て行った。その慌てぶりを見た和臣は、乱暴に襖が閉められてから、小さく笑って呟く。


「本当に可愛いよな」
 そうして暫くクスクスという忍び笑いが客間に響いていたが、そのうち眠気に勝てなくなった和臣は、再び布団に潜り込んで深い眠りに入ったのだった。





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