アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

第12話 和臣の策動

 君島家との会食の後、なし崩し的に再び和臣からの電話やメールに応じる様になっていた幸恵だったが、その対応ぶりは相変わらず素っ気ないものだった。


「幸恵さん、明日か明後日の夜は空いてるかな? 空いてるなら一緒に食事」
「生憎と、明日も明後日も残業決定なの。他を当たって頂戴」
「どうしてか、聞いても良い?」
 冷たく台詞をぶった切られても穏やかに問い返す和臣に、幸恵は如何にも腹立たしげに告げた。
「誰とは言わないけど、能天気阿呆上司が爽やかな笑顔で『じゃあ皆、年内中に企画案出してすっきり新年を迎えようか』とかほざきやがったのよ。仕事納め前にそいつがチェックを終える様に提出するとなると、私の所で今週中に取り纏めなくちゃいけなくてね! ……あの考え無し野郎、言い出しっぺのくせに仕事納めまでに処理しないで年末年始休に入ったら、今度こそ絶対にシメる」
 その怨念が籠った声音に、和臣が若干引き気味に話を続ける。


「……そう、頑張って。じゃあ食事はまたの機会に誘うから。それと」
 しかし急に何か言いたげに言葉を途切れさせた和臣に、幸恵は怪訝に思いながら問いかけた。
「何?」
「ああ、その……、ペンダントは使って貰ってるかな? しまい込んでるとかは無い?」
(何なの? 何か信用していないみたいでムカつくわね)
 慎重に問いかけられて、幸恵は僅かに眉を寄せた。そして電話の向こうに不機嫌そうに言い返す。
「今のところ、ちゃんと付けてるわよ? 飽きたら外すかもしれないけど。結構気に入っているのに、気分を害する言い方しないでくれる?」
「ごめん、使って貰ってるなら良いんだ。ありがとう。それじゃあ、明日は八時位までは残業してる?」
「多分ね」
「そうか。分かったよ。それじゃあ、仕事頑張って」
 最後は些か慌て気味に話を終わらせた相手に、幸恵は首を捻った。


(何か、あっさり引き下がったわね)
 そうは思ったものの、別に不都合な事ではないと思い直した。
「結構な事じゃない。別に不審がる事じゃ無いわよ」
 そして通話を終わらせて充電器に携帯を戻した幸恵は、それきりその会話の事を忘れていたが、翌日の残業中に否応なく思い出す事となった。


「こんばんは、幸恵さん。お仕事ご苦労様」
 もうじき八時になろうとする中、突然商品開発部のフロアに現れた和臣に、幸恵は勿論、同様に残業で残っていた何人かの者達は目を丸くした。そして当事者の幸恵が、当然の疑問を呈する。
「……どうして人の職場に、突然現れるのよ。第一、下で警備員に止められなかったの?」
 セキュリティ面から七時以降は正面玄関は閉鎖し、出入りには警備員常駐の詰め所が有る通用口での出入りのみとなっており、部外者の出入りの場合は該当部署に確認の電話が入る規定になっていた故の問いかけだったのだが、和臣はあっさりと笑顔でその疑問に答えた。
「遠藤さんに『夜に幸恵さんの職場を訪ねたいんですが』とお願いしたら、快く下の詰め所に話を通しておいてくれたんだ。社長令息が知り合いだと、色々融通を利かせて貰って助かるね。明日、幸恵さんからもお礼を言っておいてくれる?」
(あのチャラ男……、百回振られてこい!)
 定時に「じゃあ今日も口説きに行くんで、後は宜しく」などと言いながら上機嫌で帰って行った上司に向かって、心の中で幸恵は罵詈雑言を並べ立てたが、すぐに気を取り直して目の前の闖入者に意識を向けた。


「それで? 何しにここに現れたわけ?」
 すると和臣は鞄と一緒に持参した紙袋を幸恵の方に向かって突き出し、にこやかに問い返してきた。
「仕事が忙しい幸恵さんへの陣中見舞い。夕飯は済ませちゃったかな? お腹空いてない?」
「まだ食べて無いけど……、一体何を持って来たのよ?」
(これ見よがしに有名料亭のお弁当とかだったら、そんな嫌味な物突っ返してやるわ!)
 やる気満々で確認を入れた幸恵だったが、和臣の返答は幸恵の予想をあっさりと裏切った。
「おにぎりと漬け物とインスタントの味噌汁だけど」
 さらっと言われた内容に、幸恵は思わず相手の顔を凝視してしまった。そして次に(その程度の物を突っ返すのもどうかしら?)と思ってしまった為、一応素直に頷く。


「……それじゃあ、ありがたく頂こうかしら」
 それを聞いて、和臣が満足そうに提案してきた。
「じゃあ、仕事の区切りが良いなら今から味噌汁を作るけど、どうする?」
「そうね……。あとちょっとだけ見直しをして、一旦止めるわ」
「分かった。あそこのポットのお湯を使って良いんだよね?」
「ええ。勝手にどうぞ」
 壁際に設置されている自動沸騰機能付きのポットを指差した和臣が、幸恵の隣席に鞄を置いて紙袋だけを持ってそちらに向かうと、幸恵以外の社員達は呆れ気味の視線を幸恵に向けてから、自分の仕事を再開した。そして多少居心地悪い思いをしながらも、幸恵は切りの良い所で仕事を中断する。


(何か調子狂うんだけど……、どうしていそいそとインスタント味噌汁を作ってるのかしら? まるで私が呼びつけて、夜食を調達させてるみたいじゃないの)
 憮然としながら背後を振り返ると、ちょうど和臣が紙袋を左肘に提げ、両手に味噌汁のカップを持って戻って来たところだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。……どうしてカップが二つあるわけ?」
「俺も夕飯はまだだから。一緒に食べようと思って」
 カップを隣接する二つの机に一つずつ置いた和臣が、しれっとしてそんな事を言いつつ紙袋から次々とプラスチックパックを取り出した為、幸恵は(やっぱり断るべきだったわ……)と激しく後悔した。そんな幸恵の内心などお構いなしに、和臣はマイペースでおにぎりが二つ入ったパックの片方を幸恵に手渡す。


「はい、幸恵さんはいくらと梅おかか」
「どうも。そっちは何なの?」
 当然の様に差し出された物を思わず受け取ってから、幸恵は何となく相手の手元に残されたパックについて尋ねた。すると和臣が不思議そうに問い返す。
「これ? 昆布とツナマヨだけど、こっちの方が良い?」
「……いえ、これで良いです」
「そう。じゃあどうぞ」
「いただきます」
 あれよあれよという間に手早く自分の前にお手拭に割り箸、白菜漬けまで並べられ、幸恵は疑問に思いながらも素直に食べ始めた。


(どうして『好みを熟知してます』的チョイス……。兄さん辺りから聞いたのかしら? 全く、妹の個人情報をペラペラ喋らないでよ。だけど、このおにぎり……)
 黙々と食べ進める幸恵に、自分も笑顔で食べながら様子を窺っていた和臣が、一つ目のおにぎりを半分ほど食べた所で感想を求めてきた。
「幸恵さん、味はどうかな?」
「美味しいです……」
 おにぎりの味云々で虚勢を張る必要性を認めなかった幸恵が正直に感想を述べると、和臣は途端に益々嬉しそうな表情になっていそいそと勧めてくる。
「良かった。はい、白菜も食べてみて」
(本当に美味しいわ。市販のパッケージじゃないし、コンビニで売ってる物とは違うのは一目瞭然だけど)
 美味しいのは事実だが何となく必要以上に褒めちぎるのも癪に触った為、少し無言で食べてから幸恵は微妙に話題を逸らした。


「どこのおにぎりを買ってきたの?」
「ああ、これ? 俺の職場の近くのおにぎり専門店。具材はもとより米から使用する物を厳選してるから美味しいだろう?」
「ええ。因みに一個幾らするの?」
「そういう事を食べながら聞くのって無粋じゃない? 純粋に味わって食べて?」
「……分かったわ」
(これ一つで、普通のコンビニおにぎりのニ・三個分はするわよね? それに白菜の柚子昆布漬けも手作りっぽいし、保存料とか入って無さそう)
 一切手抜きの無い作り方に密かに感心しながら二つ目のおにぎりを味わっていると、無言で食べている幸恵を見て何か誤解したのか、和臣が見当違いの事を口にした。


「ごめん。味噌汁までは手が回らなくて、市販の物を買って来たんだ。却って普通のお茶の方が良かったかな?」
「別に、これで良いわよ」
 慌てて否定してから、幸恵はそれを誤魔化す様に問いを発した。
「それで、どうしてあんたも一緒に食べてるわけ? 今まで我慢しなくても、先に食べてくれば良いじゃない」
「一人で食べても味気無いし、幸恵さんと一緒に食べると美味しさ倍増だから」
「…………」
 悪びれなくそう言ってのけた和臣に、幸恵の顔が僅かに引き攣った。それを無視して、早々と食べ終わった和臣が、紙袋から新たなカップと使い捨てスプーンを取り出しながら勧める。


「あ、食後のデザートも買ってあるんだ。パンナコッタとコーヒーゼリーだけど、パンナコッタの方が良いよね?」
「……あのね」
 本気で頭痛を覚え始めた幸恵だったが、和臣はそこで更に予想外の行動に出た。
「あ、ちょっと失礼。幸恵さん、口の横にご飯粒が付いてる。すぐ取ってあげるから動かないで」
「え? やだ、本当?」
 自分に向かって僅かに身を乗り出した和臣に、幸恵は恥ずかしくなりながら大人しく動きを止めた。しかし口元に伸びた左手は幸恵の顔に触れる直前で動きを止め、代わりに右手の人差し指から小指までが、幸恵の喉元から胸元までブラウスの上から撫で下ろす。
「……と思ったら間違いだった。ごめん」
 パッと両手を幸恵の身体から離して白々しく謝罪の言葉を口にした和臣に、幸恵は僅かに顔を赤くしながら右手は食べかけのおにぎりを掴んだまま、左手で胸元を押さえて相手を叱り付けた。


「ちょっと、どこ触ってんのよ!?」
「ああ、ちょっと身を乗り出したら、偶々手が触ってしまったみたいだね。でも胸は触ってないから大目に見て」
「どこが偶々なのよ、どこがっ!!」
「でもあのペンダント、ちゃんとブラウスの下に付けてくれてるんだね。祖母が知ったら喜ぶよ」
「亡くなったお祖母さんが知るわけないでしょ!! 何涼しい顔して言ってるのよ、このど変態!!」
「うわ、酷いな、幸恵さん。さすがに俺も傷つくんだけど」
「五月蠅いわよ! 寧ろ再起不能になって、塵になって飛んでいきなさい!!」
 盛大に吠え立てた幸恵だったが、ここで少し離れた机から心底嫌そうな声がかけられた。


「おい、荒川主任。もう彼氏と帰れ、仕事の邪魔だ」
「堂々と見せつけるなよ、全く」
 そこで同じく残業中の面々から冷たい視線を浴びてしまった幸恵は、慌てて弁解した。
「なっ! 彼氏じゃありませんし、見せ付けてなんかいませんから! 大体こいつが勝手に押し掛けて来て」
「ええ、押し掛けてしまって申し訳ありません。もう食べ終わりましたし、大人しく退散しますのでご容赦下さい」
「……はぁ」
 有無を言わせぬ迫力のある笑顔で周囲を黙らせ、和臣は笑顔のまま後片付けを始めた。それを横目で見ながら、幸恵は苛立たしげに残りのおにぎりを平らげる。
(何なのよ全く! あっさり帰るなら、最初から来なければ良いでしょうが!? てっきり送って行くとかなんとか纏わり付くかと思ったのに。何考えてるのよ?)
 そんな風に、かなり理不尽な怒り方をしていた幸恵に、帰り支度を済ませた和臣が笑顔で声をかけた。


「それじゃあ、仕事頑張って」
「ご馳走様でした。とっとと帰って頂戴」
 素っ気なく手を振って仕事を再開した幸恵にも気を悪くした風情を見せず、和臣は周囲に「お邪魔しました」と愛想を振り撒きつつ商品開発部の部屋から廊下へと出た。そして人気のないそこで周囲の様子を窺ってから、慎重に鞄から片手で何とか握り込める程度の大きさの、箱型の機器を取り出す。
「さて……、どれ位かな?」
 側面のスライド式の電源ボタンと、数少ない上面に付いているボタンとダイヤルを操作すると、上面の殆どを占めているディスプレイのほぼ中央に点滅が表示されると同時に、予め音量を絞っておいたスピーカーから微かに電子音が流れ出た。


「確かに反応はしてるな」
 取り敢えず安堵した様に和臣は呟き、それを持ったままエレベーターへと向かう。そして和臣が上がって来た時のまま止まっていたエレベーターに乗り込むと、手元の機械は呆気なく明滅を消して沈黙した。
「……これ位か。まあ、妥当な所か」
 そして下降を始めたエレベーター内で、溜め息を吐きながらそれを鞄にしまった和臣が、誰に言うともなく呟く。
「年明けまで引きずりたくは無いし、あれの電池が切れる前にははっきりさせるつもりだからな。取り敢えずはこれで良いか」
 先程まで幸恵の前で振り撒いていた愛想笑いの片鱗さえ浮かべず、和臣は不機嫌そうに星光文具を後にしたのだった。



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