アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

第11話 嘘も方便

 久々に兄からの電話を受けた時、幸恵の機嫌はそんなに悪くは無かったが、相手の話を聞いているうちに段々渋い表情になり、一通り聞き終えてから仏頂面で言い返した。
「あのね……、どうして私が、君島さんにお食事をご馳走されなきゃならないのよ?」
 苛立たしげに疑問を呈した妹に、正敏は辛抱強く言い聞かせる。


「だ~か~ら、今、言っただろうが。お前が暴れた当時の秘書さんが白状して、殊更お前を悪者扱いする様な噂を流していたのが分かったから、改めてお詫びがしたいと言ってきたって」
「今更もう良いわよ。気にしてないから構わないで下さいって言っておいて」
 素っ気なく言って話を終わらせようとした幸恵だったが、正敏は困った様に言葉を継いだ。
「そうは言ってもな~、俺、もうOKって先方に言っちまったんだよな~」
 その台詞に、幸恵はいとも簡単に切れた。


「はぁ!? 当事者の意見丸無視で、何勝手に返事してるのよ! 嫌よ。絶対に行きませんからね! 兄さんだけで行けば良いでしょう!? そうしてよね、それじゃあ」
「ちょっと待て! それがそうもいかないんだよ。香織が凄く楽しみにしててさ」
「え? どうしてそこ義姉さんの名前が出てくるわけ?」
 通話を終わらせようとした幸恵を、正敏が慌てて押し止めるに言ってきたが、それを耳にした幸恵は困惑して問い掛けた。すると正敏が淡々と理由を説明し始める。


「お前に話すのをすっかり忘れていたが、実は先週香織が妊娠してるのが分かってな」
「ちょっと! そう言う事は、まず真っ先に言いなさいよ、ボケ兄貴!」
 軽く驚いて幸恵が叱りつけると、電話の向こうからも不機嫌そうな声が返ってきた。
「五月蝿い、電話口で怒鳴るなよ。それでだ。これから暫く遠出するのも難しくなるだろ?」
「まあ、それはそうよね。それで?」
 素直に同意した幸恵に、正敏は順序立てて話を続けた。
「それに加えて、もう十二月に入ったし、年末年始に向けて店の方も色々忙しい。当初君島さんから招待を受けたのは親父とお袋とお前なんだが、『店も忙しいし自分達の代わりにお前と香織さんが行ってこい』と親父に言われてな。お袋からは『香織さんもこれから色々大変だから、久し振りに二人でのんびりしてきなさい』と言われて、その日都心に早めに出て、会食前に二人でデートする事にしたんだ」
「あら良いじゃない。デートしたついでに、お食事をご馳走して貰えば」
 サラッと言ってのけた幸恵だったが、途端に正敏から怒声が返ってきた。


「本命のお前抜きで、ご馳走になるわけにいかないだろうが! かと言って、普段から色々気を遣ってる香織の事だから、会食自体が無くなったら『お店も人手が足りなくて困るかもしれないし、やっぱり出るのは止しましょう』とか言い出しかねないだろ!?」
「……うん、それは確かにね。香織さん、働き者だし」
 控え目に兄の主張に同意した幸恵に、正敏は駄目押ししてくる。
「だからそれを見越して、親父もお袋も話を俺達に振ったんだよ。普段頑張ってる嫁に、偶には楽しく過ごさせてやりたいって。俺に言わせれば、はっきり言ってお前の評判なんかどうだって構わん。単なる口実だ口実。大人しく俺達の横で座ってろ」
 横柄に言い放った正敏に、幸恵の顔が僅かに引き攣った。


「……言いたい放題言ってくれるじゃない」
「本心だからな。さあ、これでもお前は出ないと言うつもりか? 家を出て好き勝手してるお前が、兄嫁を思いやる事ができる数少ない機会だぞ? これを無碍に断るなら、お前は女以前に人間じゃねぇ」
 そこまで言われて腹は立ったものの、幸恵はこれ以上自分の感情を優先する気にはなれなかった。
「分かったわよ。出れば良いんでしょう? 出れば」
 渋々応じた途端、上機嫌な正敏の声が返ってくる。
「そうかそうか。優しい心遣いのできる妹を持って嬉しいぞ。それじゃあ今週の土曜日の十八時からだ。予定を空けておけよ? それじゃあな!」
 そして唐突に話が終わり、幸恵は溜め息を吐いて受話器を戻した。


「全く……、人の都合なんか聞いた試しが無いんだから」
 そしてクッションに座りながら、ちょっと照れ臭そうに笑う。
「だけど、そうか……。いよいよ叔母さんになっちゃうのか……」
 そうして少しニヤニヤしていた幸恵だったが、何を思ったか壁に掛けられたカレンダーを凝視してからテーブル上の携帯を引き寄せ、何かを検索し始めた。


 そして会食当日。会場のホテル一階のロビーで兄夫婦と待ち合わせた幸恵は、顔を合わせるなり正敏から呆れかえった声をかけられた。
「おい、もう少しまともな顔は出来ないのか?」
「心配しなくても、上に行ったら愛想笑い位するわ」
「本当に頑固だな、お前。そんなに和臣と顔を合わせたく無いのかよ?」
「…………」
 未だに無視し続けている人物の名前を出されて、幸恵は憮然として黙り込んだ。すると、それを取りなす様に、兄嫁である香織が会話に割って入る。


「あの……、ごめんなさいね、幸恵さん。何か無理やり引っ張り出しちゃったみたいで。正敏さんが相当無理を言ったのよね?」
(ほら、お前がいつまでもブスッとしてるから)
(分かってるわよ!)
 如何にも申し訳無さそうに香織が言ってきた為、兄妹で目線での短い会話を交わしてから、幸恵は何でもない口調で言い出した。
「確かにちょっと腹は立ててはいるけど、そんなに嫌がってはいないわよ? 一応出てあげたって感じを醸し出していないと、負けた気になるもの。だから奢らせる気は満々なんだから」
「勝ち負けの問題じゃないだろう。全くどうしようも無い奴だな」
「ほっといてよ」
 そんなやり取りを聞いて思わず香織はクスクスと笑い、それを契機に正敏は女二人を促してエレベーターへと向かった。


 指定された店はホテルの上層階の日本料理店で、入口で名前を告げると恭しく従業員に案内され、三人は奥の個室へと進んだ。そして中居が声をかけながら襖を引き開けると、横一列に並んで待ち構えていた君島家の三人が、揃って軽く頭を下げる。
「やあ、いらっしゃい、正敏君、香織さん、幸恵さん。どうぞ、そちらに座って下さい」
 窓際から横一列に和臣、君島、綾乃の順に座っており、荒川家は素早く目線で席を譲り合い、結局君島家と向かい合う形で窓際から香織、正敏、幸恵の順番で座った。そして幸恵が微妙に和臣から視線を逸らしている事に、その場の殆どの者は溜め息を吐きたい様な表情になったが、君島がまず正敏に対して軽く頭を下げた。


「今回はこちらの都合でお呼び立てして申し訳ない」
「いえ、こちらとしてはもう済んだ事だったので、改めてお詫びされるのは却って恐縮なのですが」
「いや、部下の不始末を知った上では、やはり使用者の責任上、頭を下げなければ気が済みませんから」
 そこで幸恵に向き直った君島は、神妙な顔付きで改めて頭を下げた。


「幸恵さん。昔、私の周囲で取り沙汰された内容については、自然発生的に大袈裟になっていたと思っていた為、変に否定して回ったりしない方が早く沈静化すると思って、放置していました」
「ええ、そうですね。私も下手に事を荒立てない方が良いと思います」
「まさか秘書達が仕組んで、事実を歪めて率先して流していたとは夢にも思わず……。幸恵さんに取って不名誉極まりないっ……」
 俯いている為に君島がどんな表情をしているかはっきりとは分からないまでも、ギリリッと歯軋りの音まで聞こえて来た為、幸恵は慌てて相手を宥めた。


「あ、あのっ! 確かにこの前耳にして驚きましたが、直接私の周囲でそういう噂が蔓延した訳ではありませんし、お気になさらず。私も、もう全然気にしていませんから!」
「いや、しかし……」
「ねえ? 兄さんだって、大した事無いと思うわよね?」
 焦って正敏に同意を求めると、真顔でとんでもない答えが返ってくる。
「まあな。お前だったら実際やりかねん内容だし」
「あのね……」
 思わず毒吐きそうになった幸恵だったが、ここでにこやかに香織が会話に割り込んだ。


「君島さん、大丈夫ですよ。現にその噂って、幸恵さんのメリットになってますし」
「は? どんな事でですか?」
 当惑して君島が問い返すと、香織は笑顔で幸恵に話しかけた。
「幸恵さんが噂について、電話で愚痴った時に言ってたわよね? そこで絡んで来たろくでもない和臣さんの先輩を『ぶっ飛ばされたい奴は表に出なさい』ってはったりかましたら、全員尻尾巻いて逃げ出しちゃったって」
「香織さん……、お願い。そこら辺は忘れて」
「…………」
 思わず顔を覆って呻いた幸恵を、香織以外の全員が憐れむ様な表情で見やった。そこで正敏がやや強引に話を纏めにかかる。


「えっと……、とにかく、君島さんも頭を下げていらっしゃるんだし、お前もこれ以上、後を引かせる様な事はするなよ?」
「分かってます。そういう事ですので、君島さんも頭を上げて下さい」
「分かりました。それではささやかながらお詫びの印に一席設けましたので、酒と料理を味わって行って下さい」
「ありがとうございます」
 そうして君島が軽く手を叩くと、待ち構えていた様に続々と酒や料理が運ばれてきて、それから比較的和やかに会話しつつ食べ進めた。
 先付から始まって、前菜、椀物、焼物と進むにつれ、普段君島家とはあまり付き合いが無い為緊張気味だった香織もすっかり場に溶け込み、君島や綾乃と自然に会話をする様になっていた。しかし和臣は今日は珍しく口数が少なく、幸恵に対しては一言も声をかけてこない為、纏わり付かれるかと密かに警戒していた幸恵は、安堵すると同時に少し心配になってきた。
(何なの? 今日はいつものあいつと全然違うけど、具合でも悪いわけ?)
 そんな事を考えていると、話が盛り上がっていた正敏夫婦と君島の間で、ふとした事がきっかけで話題が変わった。


「本当に眺めも素敵ですし、お料理も美味しいです」
「そう言って頂けると、準備した甲斐が有りますね」
「自分ではなかなかこういう場所には来ないもので、ありがとうございます。これから益々夫婦で出歩くのが難しくなりそうですし、良い機会でした」
「ああ、そうそう、忘れる所でした。実はそちらにお渡ししようと、持参した物がありまして」
「何ですか?」
 怪訝な顔をした夫婦の前で君島は持参した鞄を開け、中から小さな白い紙袋を取り出し、香織に向かって差し出した。


「今日のお話をした時、正敏君から香織さんが妊娠された事をお聞きしまして。事務所の者に頼んで水天宮の安産祈願の御守りを貰って来て貰ったんです。宜しかったらお受け取り下さい」
(え? 水天宮の御守りって……)
 軽く目を見張った幸恵の前で、香織が嬉しそうに顔を綻ばせて君島に礼を述べた。
「わざわざご丁寧に、ありがとうございます」
「遠慮無く頂きます」
(しまった……、やっぱり先に渡しておくべきだったわ。出しにくくなっちゃった……)
 自分が持参した物を思い出し、幸恵は密かに歯噛みしたが、君島の話は更に続いた。


「それから……、安産祈願に因んで思い出したんですが、香織さんに加えて、信子さんと幸恵さんに受け取って貰いたい物が有るのですが」
「何でしょうか?」
「これです」
 そう言って君島が並んでいた器を寄せて座卓の上にスペースを作り、そこに並べた布張りの三つの箱を開けて見せた途端、正敏は難しい顔になった。


「これは……、俺は宝飾品に関しては、あまり詳しく有りませんが、この帯留めとかかなり高価な物なんじゃありませんか? 綺麗な深い青ですし。サファイアですよね?」
 正敏の目の前には、サファイアの帯留め、ムーンストーンの石を連ねたネックレス、アメジストの周りに細工が施されたネックレスが並んでいたが、それを再度見てから君島が穏やかに話を続けた。
「実は私の母の遺品の一部です。亡くなる前に大部分は嫁である夢乃に譲り渡したんですが、幾つかは『後で荒川家の方に譲渡してくれ』と言付かりまして。ですが夢乃が『身内ならともかく、赤の他人が使った物を渡すなんて失礼ですし持て余されます』反論されて、行き場を失ってしまい込んでいまして」
「失礼とか以前に、こちらが受け取る理由がありませんから」
 困惑しきった表情で正敏がそう告げると、君島は苦笑いした。


「正敏君ならそう言うとは思っていたが……。お三方の誕生月を確認したら信子さんが9月、香織さんが6月、幸恵さんが2月で、ちょうど相当する誕生石のアクセサリーが有ったもので。それに6月のムーンストーンは母性を高める効果があるパワーストーンとして有名で、出産を無事に済ませる為にプレゼントする事もある様です。この時期に香織さんに贈るのに相応しいかと思いましたので、この機会に受け取って頂けないかと」
「はぁ……」
(どうする?)
 君島の話を聞いて、判断に迷った正敏は自分の両脇に座る妻と妹に問いかける視線を向けたが、黙って話を聞いていた綾乃も、密かに首を捻った。


(おかしいなぁ……。確かにお祖母ちゃんが亡くなった時、形見分けにお母さんと私にってアクセサリーを貰ったけど、荒川の伯母さんや幸恵さん用に取り分けた物があったなんて話、初めて聞いたんだけど?)
 そして物言いたげな視線を父と兄に向けたが、その男二人からは迫力満点の笑顔と、得体の知れない不気味な笑顔が返ってきた。その言わんとする所は、
(余計な事は言うなよ?)
(分かっているよな?)
という意味以外の何物でも無く、綾乃は瞬時に真っ青になった。
(何か、絶対裏がある。しかもお父さんとちぃ兄ちゃんが組んでるなんて、ろくでもない気がする……。この話の間は黙っていよう)
 そして娘から向かい側に視線を戻した君島は、幸恵に話の矛先を向けた。


「幸恵さんは外でお勤めされているので、普段遣いでもおかしく無いものの方が良いかと思いましたから、良さそうな物を一緒に持参してみましたが、どうでしょうか?」
「……ええ、素敵ですね」
(確かに帯留めよりは安いでしょうけど……、濃い紫色で綺麗な石だし、縁取りされてる蔦や葉の部分やチェーンはプラチナよね?)
 そして更に君島は、正敏に向かって勧める。
「これから信子さんも初孫のお宮参りとかで和装をする機会も有るでしょうし、その折りにでも使って頂ければ、亡くなった母も喜ぶと思います。箪笥の肥やしにするよりは、供養のつもりで使って頂けませんでしょうか?」
 それを聞いた幸恵は、思わず密かに考え込んだ。


(この人の亡くなった母親って、例の、私が居ない時に家に来て、土下座して詫びて行った直後に亡くなったっていうおばあさんの事よね。そこまでしたのは私が大騒ぎして、叔母さんが実家に顔を出さなくなった事が原因だし……、責任の一端は私にもあるか。きっとささやかなお詫びのつもりで残したのよね)
 そこまで考えて顔も知らない相手に対して申し訳ない気分になった幸恵は、受け取る事を決意した。それを見て取った様に、正敏が君島に頭を下げる。


「分かりました。そういう事でしたら、親には俺から説明する事にして、ありがたく頂いていきます。香織、幸恵、良いな?」
「はい。素敵な物をありがとうございます。大切に使わせて頂きます」
「私も大仰な物なら普段身に付ける機会も有りませんが、こういうペンダントならブラウスの下に付けても目立ちませんし。素敵なデザインですので、普段使いにさせて頂きます」
 二人が揃って頭を下げると、君島はほっとした様に相好を崩した。
「そう言って頂けると嬉しいです。大事に保管してきた甲斐がありました。実は他にも幾つか有るのですが」
「いや、君島さん、これ以上は。これ以上勝手に貰ったら親父達に本気で怒られますから」
「そうですな。欲張らずにここら辺で良しとしましょう」
 そんな風に話が纏まり、皆で食事を再開した。
 それからも絶妙なタイミングで供される料理の数々を味わいつつ、それなりに会話も進んで室内には和やかな雰囲気が漂っていたが、幸恵は何とか笑顔を保ちながらも気分が落ち込んでいくのを止められなかった。座卓の対角線上からその顔を盗み見て、和臣は時折心配そうな顔をしていたが、直接和臣がそれに言及する前に、正敏の身体越しに香織が幸恵に声をかけた。


「幸恵さん、どうかした? なんだか元気が無いみたいだけど」
「何だ幸恵。具合でも悪いのか?」
 周囲も驚いた表情になり、代表して正敏が声をかけると、幸恵は慌てて首を振った。
「ううん、何でもないわ。ちょっとお手洗いに行って来ます」
 そうして幸恵はバッグ片手に席を抜け出したが、それを黙って見送ってから和臣が腰を浮かせる。
「……すみません、俺もちょっと」
「ああ、和臣、お前は立つな。香織、ちょっと頼むわ」
「構わないわよ? じゃあちょっと行って来ます」
 有無を言わせぬ口調で和臣を押し止めた正敏が、傍らの妻を振り返って頼むと、香織は笑顔で立ち上がった。その背中を見送ってから、正敏が和臣に向かって苦笑いする。


「悪いな。だけど女性用トイレの前で待ち構えるのって間抜けだし、幸恵は親や俺には言いたい放題でも、血が繋がって無い分香織には遠慮する所があるせいか、妙に素直だからな。大人しく待っててくれ」
「分かりました」
 取り敢えずそれで納得した和臣は座り直し、正敏相手に飲み直す事にした。
 その頃、大きな鏡の前で口紅を直し終えた幸恵は、それをバッグにしまおうとして、中に入れておいた物を目にして、思わず溜め息を吐いた。


(これ、どうしようかな?)
 ぼんやりと考えていた時に、いきなり背後から肩を叩かれて、幸恵の心臓が飛び出そうになる。
「幸恵さん。どうしたの?」
「あ、え……、ええっと、べっ、別に何でも」
「無いなんて、言わないわよね?」
 狼狽しながら振り返り、兄嫁に弁解しようとした幸恵だったが、にっこりと微笑まれつつ断言され、これ以上の抵抗を諦めた。そして多少言いにくそうに話し出す。


「その……、兄さんから今日の事について電話を貰った時に、香織さんが妊娠した事を聞いて。その時も今日、待ち合わせで下で顔を合わせた時も、うっかりお祝いを言うのを忘れていてすみません。おめでとうございます」
 そう言って軽く頭を下げた義妹を、香織は幾分面白そうに見やった。
「それはご丁寧に、ありがとうございます。だけど幸恵さん? 私の事、お祝いの言葉を言って貰うのが遅くなった位で腹を立てる様な、そんな狭量な人間だと思ってたのかしら?」
「違うの! そうじゃなくて!」
「じゃあ何かしら? 他に何か言いたい事が有るのよね?」
 続けて追い詰めてきた香織に、もはやぐうの音も出無かった幸恵は、早々に諦めて白状した。


「その……、さっき君島さんから、水天宮の安産祈願の御守りを貰ったじゃないですか」
「ええ、それが?」
「実は……、私も安産祈願の御守りを、仕事帰りに寄って買って来て。通勤に南北線を使ってるから、溜池山王駅最寄りの日枝神社の物なんだけど……」
「あら、嬉しい。ありがとう」
「それ、一応今日持って来たんだけど、渡すのを止めようかな、と……」
「どうして!?」
 嬉しそうに顔を綻ばせたのも束の間、義妹が告げた内容に香織は驚いたが、幸恵はゆっくりと口を開いた。


「それが……、以前出産する友達に頼まれて、水天宮に御守りを貰いに行った事があって。そうしたら水天宮には子宝犬の石像とかあったの。昔から犬はお産が軽くて一度に何匹も産むから、安産の守り神として祀られているんですよね」
「そうよね。妊婦の戌の日参りってメジャーだし。それで?」
 とにかく幸恵の話を聞いてみようと、冷静に先を促した香織に、幸恵は小さく頷いて話を続けた。
「私が御守りを貰ってきた日枝神社は、猿を祀ってるんです。猿は集団生活をしてるし、子供への愛情が強いから、安産の他にも夫婦円満とか子育ての御利益があるそうで」
「あら、益々御利益が有りそうで嬉しいわ。それなのにどうして御守りをくれないなんて言い出すわけ?」
 益々訳が分からなくなった香織に、幸恵が真顔で問い掛けた。


「でも、まずくないですか?」
「何がまずいの?」
「だって……。犬と猿って喧嘩しそうだし」
 すこぶる真剣に幸恵が口にした途端、香織は表情を消して黙ったままニ・三回瞬きしたと思ったら、「ぶはっ!!」っと盛大に噴き出しつつ目の前の幸恵に抱き付いた。


「ゆっ、幸恵さん、最高!! 可愛すぎるわ! こんな子が私の義妹だなんて、もうどうしてくれようかしら!?」
 香織がそう叫びながら幸恵の背後に回した両手で、自分の背中を力一杯バンバンと叩き出した為、幸恵は本気で悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと香織さん! 本気で痛いんですけど!?」
「だぁって! 幸恵さんが可愛すぎるのが悪いのよ!」
 そうして尚も「あははははっ!!」と笑い続けている香織への抵抗を諦めた幸恵がされるがままになっていると、漸く笑いの発作が収まったらしい香織が、幸恵から身体を離した。そして力強く断言する。


「大丈夫大丈夫。神様や神様の御使いなんだから、鉢合わせしたって喧嘩するような不心得な犬や猿じゃないって! 安心しなさい! これ以上は無い、強力タッグを組んでくれるわよ」
「はぁ……」
「と言うわけだから、頂戴?」
 ニコニコと片手を差し出された幸恵は、まだ若干悩んでいる様な面持ちでバッグから小さな白い紙袋を取り出し、その手に乗せた。


「えっと……、どうぞ。あの……、お店が忙しいかもしれないけど、体調には気をつけて。元気な赤ちゃんを産んで下さい」
「ありがとう。君島さんが秘書さんとかに買わせに行かせた御守りより、幸恵ちゃんが仕事帰りにわざわざ足を運んで買ってくれたこっちの方が、私は数倍嬉しいし、御利益があると思うわよ?」
「えっと……、ありがとう」
 面と向かってそんな事を言われた幸恵は、照れ臭そうに僅かに顔を赤くした。すると香織が確認を入れてくる。


「それに、これを貰ったのは家に帰るまで正敏さんには内緒にすれば良いのよね? ここで言ったら御守りが重なったと、君島さんが気にするかもしれないし。でしょう?」
 香織には全てお見通しらしい事が分かり、幸恵は慌てて弁解がましい事を口にした。
「べっ、別に、私が気にする事じゃ無いんだけど、良く考えてみたら例の噂は私には殆ど実害は無かったけど、あの人は子供に投げ飛ばされたって笑い物になってた筈だし。いつまでも腹を立てるのは大人気ないと思うし、ここは気分良く手打ちにする為にも、余計な事は言ったりしたりしない方が」
「うん、やっぱり可愛いわぁ~。特にこんな素直じゃ無いところが」
 わたわたと慌てて言い募る幸恵を見て、香織が微笑みながらしみじみと述べる。すると憮然とした顔付きになった幸恵が、面白く無さそうに呟いた。


「……そんな事言ってくれるのは、香織さん位です」
「それはどうかしらね~?」
 香織が意味有りげなクスクス笑いを零した所で、女性用トイレの出入り口の壁にもたれかかって二人の会話の殆どを聞いていた和臣は、ゆっくりと店に戻って行った。そして何食わぬ顔で自分の席に着いたが、正敏に声をかけられた瞬間、笑いが込み上げる。
「よう、随分時間がかかってるが、あいつら何してた?」
「……やっぱり幸恵さんは可愛いな。惚れ直した」
 そう言って口元を押さえてクスクスと笑い出した和臣を、周りの者達は怪訝な顔で見やった。


「何頭に花咲かせてるんだお前は」
「和臣?」
「ちぃ兄ちゃん?」
 そこで和臣は何とか笑いを抑え、父親に囁いた。
「親父、ちょっと耳貸して」
「何だ?」
 不思議そうな顔をしつつも体を傾けた君島の耳に口を寄せた和臣は、自分が聞いた内容を手短に纏めて伝えた。それを聞いた君島も「ほぅ?」とだけ漏らして、面白そうに口元を緩める。
「な? 可愛いだろう?」
 それに君島が苦笑しながら黙って頷くと、向かいの席から正敏が催促してきた。


「何だ? 勿体ぶらずに教えろよ」
「正敏さんは帰ったら香織さんに聞いて下さい」
「何だそれは? ……まあいいか」
 正敏はあっさり納得したが、綾乃は食い下がった。
「ちぃ兄ちゃん、一体何なの?」
 しかし妹に対する和臣の言葉はにべも無かった。
「お前はすぐ顔に出るから駄目だ」
「ちょっと何よそれっ!」
 さすがに綾乃は腹を立てたが、和臣は重ねて言い聞かせる。
「良いから。どうして席を外したかも聞かずに、黙ってろよ?」
「……何なのよ、もう」
 言いたい文句は山ほどあったものの、真顔で言い聞かせてきた和臣に、綾乃は不承不承頷いた。そこでタイミング良く、幸恵と香織が戻って来る。


「お待たせしました」
 そこで君島が、先程息子から聞いた話など無かったかの様に、気遣わしげな表情で声をかけた。
「やあ、幸恵さん。具合とか悪いわけでは無いかな?」
「はい、大丈夫です。失礼しました」
 いつもの口調で軽く頭を下げた幸恵だったが、ここで横から和臣が口を挟む。
「心配要らないよ。幸恵さんは俺に綺麗な顔だけ見せたくて、お化粧を直してきただけだよね?」
 そう茶々を入れてきた和臣を、幸恵は憤怒の表情で叱りつけた。


「どうしてあんたに見せる為なのよ! 寝言は寝てから言いなさい!!」
 しかし何がツボに嵌ったのか「くっ……」と笑いを堪える様子の和臣に、幸恵は益々口調をヒートアップさせた。
「何がおかしいのよっ!?」
「……和臣」
 呆れた口調で父親に短く窘められた和臣は、苦労して真面目な顔を取り繕いながら弁解した。


「いや、今日ここに来てから、幸恵さんに初めてまともに反応して貰ったから嬉しくて、つい笑いが込み上げて」
「はぁ!? 反応も何も、あんた最初からずっと黙ってたじゃない!?」
「話しかけてもちゃんと返してくれるかどうか分からなかったから、様子を見てたんだけど。じゃあこれから話しかけたら、ちゃんと返事してくれるんだ?」
「内容にもよるわよ! あまりつまらない事言わないでよね!?」
「了解。気をつけるよ」
「どうだか!」
 すっかりいつも通りの喧嘩腰のやり取りに、周りの者達は呆れて苦笑いした。そこで最後の水菓子が運ばれて来た為、全員席に着いてそれに手を伸ばす。


(全く。こいつったら毎回、人の神経を逆撫でするんだから! 性格悪過ぎよっ!)
 そんな風に腹を立てつつもしっかり最後まで料理を味わった幸恵は、和臣の視線を受けてもそれからは顔を逸らす事は無く、逆に睨み返して益々相手の笑いを誘っていたのだった。



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