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アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

第9話 言いがかりと真相

 赤い顔の割にはしっかりとした足取りで近寄って来た男は、和臣の肩に手を回しながら、一見愛想良く声をかけてきた。
「やあ、奇遇ですな、君島さん」
「こんばんは。湯村さん」
 相手の顔を見ないまま和臣が淡々と答えると、その顔を横から覗き込む様にしながら湯村は皮肉っぽく話を続けた。


「本当に珍しい所で、お目にかかりますなぁ」
「そうですか?」
「俺達の様な一般庶民ならいざ知らず、大手都市銀行にお勤めの方が、こんなシケた居酒屋にいらっしゃるとは」
「…………」
 さすがに客商売なだけあって声を荒げたりする従業員は居なかったものの、カウンターの中から非友好的視線が向けられているのをしっかり察知した幸恵は、本気で呆れた。


(自分だってその『シケた居酒屋』に来てる癖に何言ってんのよ。第一お店の人に失礼でしょうが)
 その心の声を読んだ様に、和臣はチラリと幸恵を見てから、湯村に顔を向けて静かに反論した。
「こちらのお店では、酒も料理も十分な物を揃えてあると思いますが?」
 しかし暗に含んだ非難の響きも綺麗に無視し、湯村が続ける。


「さすが口がお上手でいらっしゃる。それで経営者をその気にさせて、方々で金を貸し捲った挙げ句、最後にはむしり取るんでしょうな」
「どこの悪徳業者の話ですか。うちはちゃんと貸し出しに当たって審査をしていますが?」
 小さく溜め息を吐いて応じた和臣だったが、湯村はそれが気に入らなかったらしく、カウンターを派手に叩いて怒鳴り声を上げた。


「審査だぁ? 最初に貸す時には景気良く貸した癖に、羽振りが悪くなったら途端に貸し渋りやがって! 不渡りを出して倒産したのはてめえのせいだぞ! ダチが気分直しにと誘ってくれて来てみれば、何をのうのうと女連れでやにさがってやがる!」
「何か誤解をされている上に、借りたお金を返さなかったのはそちらですが?」
「うるせぇ! 見てくれだけの女に頼まれて、ホイホイ同伴出勤してる優男に説教される筋合いはねぇぞ!?」
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますのでお静かに願います」
「迷惑な客はそっちだろう! 酒が不味くなる不愉快なこの連中を、とっとと叩き出せ!」
 宥めに入った店員に八つ当たりして盛大に吠えている湯村を、幸恵は眉間に皺を寄せながら黙って眺めていたが、ここで和臣の体越しに文句を付けた。


「こっちはこっちで、見ず知らずの人間に言いがかりつけられる筋合いは無いんですが?」
 そこで口を挟んできた幸恵の表情を見て、和臣は僅かに表情を揺らして伝票を掴んだ。
「幸恵さん。悪い、黙ってて。もうここを出るから」
「あら、どうして? 先に来て料理とお酒を堪能していたのはこっちなんだから、出て行くなら誰が見たってそっちよ?」
 幸恵が伝票を掴んだ和臣の手首を押さえ、湯村を睨みつつ落ち着き払った声音でそう告げると、相手は怒りで更に顔を赤く染めた。そして和臣の背後を回り込み、幸恵の肩を掴んで怒鳴る。


「何だと? このあばずれ女が!」
「何するのよ!」
「その薄汚い手を離せ! ろくでなし野郎がっ!!」
「何しやがる!」
(ちょっと! 何でいきなりぶち切れるわけ? さっきまでひたすら下手に出ていたでしょうが!?)
 幸恵が自分の肩を掴んでいる手を叩き落そうとしたが、それよりも早く血相を変えた和臣がその手を掴んで肩から引き剥がし、口汚く罵りながら湯村を突き飛ばした。いきなり態度が豹変した和臣に幸恵が呆気に取られていると、その目の前で湯村が益々態度を硬化させたが、和臣も負けず劣らずの毒舌ぶりを発揮した。


「彼女の出で立ちを見て水商売の女かどうかの判断も付かないとは、思った以上に判断力が無い阿呆だな。親から引き継いだ会社を潰したのも道理だ。即刻彼女に土下座して謝罪しろ!」
「なっ!」
「ちょっと待って。何も少し触られた位で、土下座なんかしなくても」
 確かに幸恵の化粧も雰囲気も水商売のそれでは無い上に、明らかにビジネススーツ着用であり、周囲の客は和臣の主張に共感したらしく湯村の方に冷ややかな視線を向ける。そんな中幸恵が焦ってその場を収めようとしたが、湯村がこれまで以上の声量で和臣を怒鳴りつけた。


「貴様みたいな生意気な若造に何が分かる! 金が足りなくなっても俺らの様な芥子粒みたいな会社を潰しても痛くもかゆくも無いが、銀行は潰せねぇって国から湯水の様に金が降ってきて左団扇じゃねぇか! そんな中でふんぞり返ってる奴に、他人の事どうこう言える資格はねえ!」
 当初は和臣も相手の言う事を受け流していた為、何とか事を穏便に収めようと考えていた幸恵だったが、それを聞いてとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「一々耳障りなだみ声を出すんじゃないわよ……。じゃあ、あんたは何様のつもり?」
「はぁ? てめぇはすっこんでろ!」
「幸恵さん!」
 常より低い声で皮肉っぽく幸恵が口を挟むと、男二人がそれぞれ違う意味で顔色を変えた。それに構う事無く、幸恵が話を続ける。


「銀行に湯水の様に現金が投入されたのは事実でしょうけど、そのお金は税金だって事を忘れてない? つまり、私達善良な納税者が、コツコツ働いて国に納めたお金なの。それがあんたの様な、無定見な奴の不始末に使われてるのよ? 腹が立つったらないわ」
「……生意気な」
「幸恵さん、もう良いから」
 ギリッと歯ぎしりしながら睨み付けてきた湯村の視線を遮る様にさり気なく和臣が立ち位置をずらしたが、幸恵は平然と主張を繰り出し続けた。


「そんな暇があったら新規事業を立ち上げる為の策を練るか、新しい仕事見つけて必死になって働くべきじゃないの? 酒浸りになって、見当違いの八つ当たりで他人に絡むなんて以ての外だわ。せめて他人を不愉快にしない様に、静かに飲むのが礼儀ってものでしょう。少しは身の程を弁えなさいよ!?」
「幸恵さん!」
 反射的に和臣が窘めようとした時、こちらも我慢の限界を越えたらしい湯村が、幸恵に掴みかかった。
「……っ! この女ぁぁっ!!」
「ちょっと! 何するの!」
「彼女に触るなと言っただろうが!?」
「いてててっ! 手を離せ!」
「お客さん! これ以上の騒ぎはご勘弁願います!」
 咄嗟に和臣が湯村の手首を掴んで逆手に捻り上げると、湯村はたまらず悲鳴を上げた。これ以上さすがに傍観できなかった店の者が仲裁に入った所で、店の一角で揶揄する様な声が上がる。


「おうおう、さぁ~すが、傲岸不遜なお坊ちゃんの彼女は気が強いねぇ~」
「自分まで金と権力にあかせて、何でもできるって思ってんだろ?」
「とんでもないイメージダウンだよな? 庶民を苛める大銀行って印象をこの場の皆さん植え付けるから、乱暴は止めてくれないかな? 君島。俺達愛社精神は人一倍だから、見てみぬふりはできなくてさ」
「それとも? お父上の君島代議士に泣きついて、全部無かった事にするかい?」
 口々にそんな事を言ってクスクス笑っている男四人を見やった幸恵は、手っ取り早く和臣に尋ねた。


「誰?」
「同じ青葉銀行大手町支店勤務の人間」
 湯村を拘束したまま端的に告げた和臣と連中の顔を交互に見てから、幸恵はさも馬鹿にしたように四人組をせせら笑った。
「へぇ? あんたの同僚にしては、随分頭が悪そうね」
「何だと?」
「失礼にもほどがあるぞ!?」
「だって見る目無いじゃない。私、こいつの彼女でも何でも無くて、単なる従姉妹だし。バカじゃ無いの?」
 そう言って肩を竦めた幸恵に、男達はいきり立った。
「ふざけんなよ?」
「身内の権力を笠に着やがって!」
「幸恵さん! ちょっと落ち着いて!」
「うおぅっ!」
 血相を変えた同僚と幸恵の一触即発の事態に、和臣は湯村を床に放り出して幸恵を抑えにかかったが、彼女の勢いは止まらなかった。


「大体、言うに事欠いて『愛社精神』ですって? はっ! 笑わせるわ。こいつが絡まれてる時は庇いもしないで面白がって飲んでた癖に。自分の職場が税金垂れ流し先で、左団扇で楽な場所だと言われたのよ? 自分の仕事と職場に誇りが有るなら堂々と否定するか、酔っ払いの戯言と無視を決め込んでれば良いのに、言わせるだけ言わせてからこいつを揶揄する言葉を挟んでくるなんて、底の浅さが丸見えだわ」
「何だと!?」
「もういっぺん言ってみろ!」
「幸恵さん、もう良いから」
「あんたは人が良すぎるわよ! ここまで言いたい放題言わせる必要無いでしょ!?」
 宥めてくる和臣に益々イラッとしながら幸恵が文句を言うと、和臣は幸恵の肩を掴んで真顔で言い聞かせた。


「構わないさ。さっき幸恵さんも言ったじゃないか。この連中はバカだって。その通りだから」
「え?」
「顔も頭も世渡りも仕事も家柄も俺に敵わないからって、つるんで人の揚げ足を取ってはささやかな喜びに浸るしか能がない連中なんだ。そんな奴らを見続けたら幸恵さんの目が腐るし、言葉を聞き続けたら耳がおかしくなるから、俺だけを見ててくれ」
「なっ!」
「君島!」
「てめぇ……」
「……あんたって、見た目に反して相当根性が曲がってて、私以上に辛辣よね」
 テーブル席の面々が顔を強ばらせる中、幸恵は思わず半眼になって和臣を見返すと、彼は淡々と続けた。


「俺は別に家の力に頼らないで仕事をしてるし、上司もそれは理解してるから問題ない。大体実家近辺で以前から付き合いがあるならともかく、代議士の息子だからって日頃付き合いの無い相手にほいほいと融資を頼む人間が、どれだけ居るんだろうな?」
「実家は広島だしね。ちょっと考えれば分かるでしょ。伝手があれば業績を上げられるなんて考え、実際に伝手を頼って仕事してる様な人間の発想よね。情けなさ過ぎるわ」
「……っ!!」
 そこでわざとらしく哀れむ様な視線を投げかけてきた幸恵を、男達は怒りの形相で睨み付けた。しかし幸恵はあっさり彼らから視線を逸らし、和臣に向き直る。


「なるほど。自分が仕事が出来ない言い訳を、あんたのせいにしてなけなしのプライドを保ってるわけか。確かに小者ね」
「ああ、可哀想だからそっとしておいてやって貰えるかな」
「まあ、私も鬼じゃないし? 今回は大目に見てあげるわ」
「ありがとう。幸恵さんが物分かりの良い人で助かったよ」
 面白く無さそうな表情の幸恵と苦笑気味の和臣は、見事に息の合ったやり取りを披露していたが、散々馬鹿にされた方にしてみれば、たまったものでは無かった。


「ふざけんな! 君島!」
「表に出ろ! 女の前で無様な姿を晒させてやるぜ!」
 ガタガタッと椅子を引いて次々立ち上がった男達だったが、ちょうど和臣達を挟んで反対側の、店の奥のテーブルの客が急に高笑いを始めた。
「あははははっ!! おい、植原。お前の所には随分神経の太い奴がいるんだな。無茶苦茶楽しいぞ」
「金田、笑い過ぎだ。黙ってろ」
 同席している爆笑男を軽く叱責し、ゆっくり立ち上がりつつ和臣達の方を振り返った初老の男性を見て、和臣を始め同僚達は顔色を変えて頭を下げた。


「植原支店長……。こちらにいらしていたんですか」
「ああ。私の初任地は大手町支店でね、ここは新人時代から贔屓にしているんだ。あちこち回ってこちらに戻ってからも、時折立ち寄っていてね。……お嬢さん。今日はうちの行員達のせいで、お騒がせして申し訳なかった」
 和臣達から幸恵に視線を移して軽く頭を下げてきた植原に対し、幸恵は瞬時に礼節を取り戻して挨拶を返した。
「いえ、私の方こそ騒ぎを大きくしてしまったみたいで、恐縮です」
 神妙に頭を下げた幸恵に満足そうに微笑んで一つ頷いてから、植原は真顔になって湯村に向き直った。


「さて……、湯村さん。直接の面識は有りませんが、私はあなたのお名前を存じ上げておりましてね」
「へぇ? 大銀行の支店長さんとやらが、何でまた?」
 明らかに皮肉げな口調で返されたにも係わらず、さすがの貫禄で植原は話を続けた。
「そこの君島君が一年ほど前あなたの担当を引き継いで以降、前任者の尻拭いを必死でやってたのを知っていましてね。彼が直属の上司に頭を下げてあなたの借入金の返済期限を二回延ばしたのも、その間に事業立て直し計画を立案し、それを認めて貰うために行内で苦労して根回ししてたのを知ってます。それでお宅の名前も知っていました」
 皮肉っぽい笑みを返した植原から、湯村は視線を逸らしながら吐き捨てる。


「はっ、……そんな事、俺は知らん。頼んでもいない」
「何ですって!?」
 尊大な湯村の態度に幸恵は再び切れかけたが、すかさず和臣がその腕を捕まえて小声で宥める。
「良いから、放っておいて」
「でもっ!」
 そんな揉めている二人を視界の隅に入れてから、植原は冷徹に湯村に言い放った。
「あなたが聞いていないのは当然だ。彼はあなたの為にした訳じゃないし、わざわざ口に出して、ひけらかす様な真似はしない。単にあなたの所の従業員が路頭に迷わない為に過ぎない」
「…………」
 ぐうの音も出ず黙り込んだ湯村を、植原が更に追い詰めた。


「それで再建計画を纏めたものの資金が足りない。焦げ付いている企業にこれ以上無駄金をつぎ込めるかと叱責されながら、何人もの上司に頭を下げて承認印を押して貰い、最後に私の所に来たのでね。最終的には私が責任を取る形で金を出した。しかし彼がそんな苦労をして引き出した事業資金を、あなたはどうしたのだったかな?」
「え? 会社の再建に使ったんじゃないんですか?」
 思わず不思議そうに口を挟んだ幸恵に向き直り、植原は如何にも腹立たしげに告げた。
「よりにもよって『上場間近の未公開株を購入すれば、上場後に数倍になる』などと言う山師の話に乗って、全額つぎ込んだですよ」
「何ですって!? ちょっと、それ本当なの?」
「…………」
 あまりの内容に幸恵は一瞬怒りを露わにして湯村を睨んでから、和臣に問い質した。興味津々で事の成り行きを見守っていた周囲の客も、唖然とした表情で黙り込んでいる当事者二人に視線を向ける。植原はそんな事には構わずに、些か厳しい視線を湯村の同席者達に向けた。


「当然金は殆ど持ち逃げされて事業は行き詰まり、不渡りを出して呆気なく倒産。こちらの皆さんは湯村さんと懇意の様ですが、まさかそのお話を持ちかけた方では無いでしょうな? それなら当行としても損害賠償の訴訟を起こす構えはありますが?」
「いっ、いや、俺達は全然無関係です! 今の話も初めて聞いたし、なあ?」
「ええ。俺達は『酷い貸し剥がしにあって、洗いざらい銀行に取られた』って聞いただけで……」
「そんな事だと知っていれば、幾ら何でもそちらに絡ませませんよ」
 どうやら本当に聞いていなかったらしい三人は居心地悪そうに植原に弁解し、揃って非難がましい視線を湯村に向けた。それを受けて僅かに顔色を変えた湯村に、植原が再度苦言を呈する。


「結果、君島君の経歴に汚点が付き、口さがない連中はこぞって陰口を叩いていたが、上司の前ではいっさい弁解も恨み言は言わずに頭を下げていましてね。解雇された従業員の再就職の世話もしましたし」
「は? そんなのはあんたの責任じゃ無いでしょう?」
 さすがに驚き呆れて幸恵は和臣に詰め寄ったが、彼は小さく溜め息を吐いてから彼なりの主張を繰り出した。
「何とか実現可能な再建計画を提示して、余計な希望を持たせてしまったんだ。倒産するにしても予め何ヶ月か先に工場を閉めるのが分かっていれば、身の振り方を考える事も出来たが、寝耳に水の倒産で皆呆然としていたからね。それ位はしないと寝覚めが悪い」
「どこまで人が良いわけ?」
 呆れた口調で幸恵が応じると、そこで笑いを含んだ声で植原が二人の会話に割り込んだ。


「君の直属の上司の浜田君も呆れていたな。『仕方が無いから知り合いに声をかけている最中なので、支店長も手伝って下さい』とやけっぱちに従業員のリストを渡されたので、何ヶ所かに声をかけてあげたよ」
「それは存じ上げませんでした。その節はお骨折り頂き、ありがとうございました」
 本気で驚いた表情を見せてから深々とお辞儀をした和臣に、植原が鷹揚に頷く。
「浜田君から先週聞いたが、この不景気に無事全員再就職できたそうだな。大したものだ」
「はい、お陰様で三ヶ月でなんとか」
 そのやり取りを耳にした幸恵は、ある事に合点がいった。


「……ああ、だから夏から暫く忙しかったので、昇進祝いがすぐできなかったとか言ってたのね?」
「まあね」
 苦笑いして肯定した和臣を見て、幸恵は少しだけ彼に対する認識を改めた。
(へぇ? 仕事もちゃんとやってる様だし、律儀に再就職の世話までしてあげるなんて、結構良い所あるんじゃない。それに散々煮え湯を飲まされた相手なのに、最初絡まれても気にせずに接してたし……)
 そんな風に幸恵が密かに感心していると、植原が湯村に対して再度話し掛けた。


「君が債権者から逃れる為に行方をくらましている間に、今言った様な事があってね。酒に酔っているだけなら見逃そうかと思ったが、見当違いの事で絡んで来たので腹に据えかねたわけだ。そんな暇があったら、頭の一つも下げたらどうだね」
「こいつに頭を下げろってか? 部下を庇うお優しい上司様で」
 湯村は精一杯虚勢を張りつつ憎まれ口を叩いたが、それを植原は一刀両断した。
「彼は今更そんな事を望んではいない。あなたが無一文で放り出した、元従業員に対してに決まってる。未だにそんな事すら分からないようなら、会社を潰したのは自明の理だな」
「…………」
 流石の格の違いを見せつけて湯村を黙らせると、植原は用は済んだとばかりにそこから歩き出し、幸恵達の横を通り過ぎて、和臣以外の部下達が占めているテーブルの傍らに立った。


「さて、次は君達かな?」
「……な、何でしょうか?」
 一番年嵩に見える男がビクつきながら応じたが、それに植原が穏やかな笑みで申し出た。
「生憎と私は君達の名前を知らなくてね。名刺を一枚ずつ渡して貰えるかな? この機会に覚えておこう」
「いえっ」
「それは……」
 どう考えても自分の名前を『好意的』に覚えて貰える筈の無い状況で、互いの顔を見合わせながら名刺を差し出すのを躊躇っていると、忽ち植原の声が冷えた。


「私は二度同じ事を言うのは好かん。君達の容貌を支店内で聞きまくっても良いのだが、余計な手間をかけるのも嫌いでね」
「……お持ち下さい」
「ああ。頂いていくよ」
(ざまぁみなさい。ああ、すっきりしたわ)
 幸恵が心の中で快哉を叫んでいると、四人分の名刺をしまい込んだ植原は、再び幸恵達の元に戻って声をかけてきた。


「うるさくて興が冷めたかもしれないが、普段は落ち着いた雰囲気の良い店なんだ。できればこれからも贔屓にしてくれると嬉しいな」
 笑顔で勧めてきた植原に、幸恵も笑顔で素直に頷く。
「こういうお店はお客を選べませんから、気にしていません。お料理もお酒も満足してますし、また寄らせて貰おうかと思っています」
「それは良かった。ところで……、先程君は君島君の従姉妹と言っていたが、君島議員の姪に当たるのかい?」
「いえ、そうではなく」
「母の実家の伯父の、娘さんに当たります」
 急に話題を変えてきた植原に、幸恵が答え終わる前に嫌な予感を覚えつつ和臣が説明を加えたが、ここで店の隅から予想外の声が上がった。


「え? それならひょっとして、あの伝説の《安芸の虎殺し事件》の当事者の姪ごさんかい!?」
 嬉々として立ち上がった植原の連れの金田の台詞に、幸恵は僅かに顔を引き攣らせ、和臣は真っ青になった。
「……何ですか? それは」
「いや、何でも無いから! すみません、今、その話は!」
 慌てて止めようとした和臣だったが、幸恵達の方に歩み寄りつつ金田が不思議そうに告げてくる。
「君島議員と奥方の実家の折り合いが悪かった時、義理の母親の法要に議員がそこに出向いた時、小学生になるかならないかの義理の姪に倒されたっていう話は、事実とは違うのかい?」
 そう尋ねられて事実無根であるとは言えず、幸恵は控え目に肯定した。
「……いえ、確かにそういう事は有りましたが。一体どこでその話を」
「幸恵さん、やっぱり店を変えて飲み直そう。さあ、行くよ!」
「うるさいわね。一人で行けば!?」
 焦りまくった和臣が手早く自分と幸恵のバッグとコートを手に取り、幸恵の腕を掴んで引っ張った。しかし幸恵が固い表情でそれを振り払っているうちに、金田が過去の記憶を思い返しながら事もなげに告げる。


「ええと……、あれは確か、二十年近く前に業界団体で纏まって議員会館に陳情に行った時だな。君島議員と同期初当選議員の所に出向いた折り、茶飲み話のついでに。前日の衆議院予算委員会で強行採決した時の君島議員の乱闘っぷりをテレビで見たばかりだったから、あの《安芸の虎》との異名を誇る君島議員を倒すなんて、小さい子供なのに大した猛者だと話題になって」
「……そうでしたか」
 思わず頭を抱えた和臣の横で、辛うじて幸恵は笑顔を保った。しかし続く話の内容に、幸恵の顔が盛大に引き攣る。


「いや~、しかし幾ら子供、しかも奥方の身内で下手に抵抗出来なかったと言え、あの武闘派の君島議員を全身墨汁まみれにし、足を蹴りつけて体勢を崩した所に見事な一本背負いを決めて地面に昏倒させるとは」
「は?」
「それで議員は意識不明で病院に救急車で担ぎ込まれて、一生に一度の不覚を取ったって聞いて、凄い子も居るものだとその場全員唸ったんだ。しかしこんな美人に成長していたとは。伝説の当事者に出会えて嬉しいよ!」
 そう言って満面の笑みで幸恵の右手を握り締め、ぶんぶんと勢いよく上下に振った金田に、和臣は顔色を変えながら弁解を試み、幸恵は低い声で確認を入れた。
「あの! それはちょっとした誤解で!」
「……そんな風に広まっているんですか」
「おや? 他にまだ隠された武勇伝が有るのかい?」
 興味津々で尋ね返してきた金田に、幸恵は完全に表情を消して無言になった。そして和臣が恐る恐る声をかける。 


「………………」
「あの、すみません。この辺で……」
「……ああ、そうだな。若い人達が楽しく飲んでいるのを邪魔してすまないね。ほら、席に戻るぞ」
「分かった。失礼します。お会いできて嬉しかったよ」
 目線で和臣が縋った植原は何かを察した様に軽く頷き、上機嫌な金田を促して自分達のテーブルへと戻って行った。そして黙りこくっている幸恵に何と声をかけるか和臣が逡巡していると、二人の背後から囁き声が伝わる。


「……あの君島議員を投げ飛ばした?」
「マジかよ?」
「息子は傍若無人で、姪は怪力女か?」
「有る意味似合いだが……」
 そこまで耳にした幸恵は勢いよく振り返り、彼らのテーブルに勢い良く片手を付きつつ、怒りの形相で見下ろした。
「さあ、ぶっ飛ばされたいのはどいつ? 根性入れ直してやるから一人ずつ表に出なさい!!」
 謂れのない乱闘話を耳にして、幸恵が八つ当たりではったりをかましているのは分かっていたが、和臣は敢えて傍観を決め込んだ。すると恫喝された方は瞬時に真っ青になって、荷物を掴んで立ち上がる。


「……おっ、親父さん、支払い! ここに置くから!」
「ごちそうさま!」
 その声に驚いた店主が、全員が焦りまくって伝票の上に一万円ずつ重ねて行ったのを見て取って、幸恵の横を駆け抜けた面々に慌てて声をかけた。
「お客さん! お釣りが有りますが!」
「チップにやる!」
「取ってて構わないから!」
 店内の他の客が呆気に取られているうちに四人はほうほうの体で逃げ帰り、気が付けば湯村達まで姿を消していたのを確認して、幸恵はうんざりした様に溜め息を吐き、元通り椅子に腰かけた。そして手酌で再び酒を飲み始める。


「はぁ……、やっと静かになったわね」
「……その様だね」
 視線を真っ直ぐカウンターの向こうに合わせながら、独り言っぽく呟いた幸恵に、荷物を横に置いて再び自身も椅子に座り直した和臣は、恐る恐る同意の言葉を返した。
「ねぇ、君島さん?」
「……はい」
 そこで僅かに和臣の方に体を捻って顔を向けてきた幸恵は、比較的にこやかに話しかけてきた。
「さっき、随分面白いお話を耳にしたんですけど。事実とだいぶかけ離れている内容が、この国の政治の中枢で広まっているみたいですね?」
「いや、あれに関しては、親父達が意図的に流布させた訳ではなくて、いつの間にか変な風に尾鰭背鰭が付いて噂が一人歩き」
「言い訳しない」
「……申し訳ありません」
 瞬時に表情を消し去って叱責してきた幸恵に、和臣は真顔で頭を下げた。それに苛立たしげに舌打ちしてから、幸恵が吐き捨てる。


「やっぱりあんたとは金輪際関わり合いたくないし、余計な貸し借りも作りたくないから、今日は割り勘ですからね!!」
「ああ、幸恵さんがそうしたいなら……」
 反論する気力も無く和臣が項垂れると、幸恵が手元のメニューに視線を走らせながら、勢い良くカウンターの中に向かって注文した。
「おじさん、お酒! それから白レバーにぼんじりにえんがわにさえずり出して!! それから比内鶏コラーゲン鍋に、チーズ揚げもよっ!!」
「はいっ!! 畏まりました!!」
 とんだ幸恵の武勇伝を聞いて恐れおののいた店員がびくつきながら応じると、その怯えを察知した幸恵は益々不機嫌そうに盃の酒をあおったのだった。


 その翌朝。二日酔いの幸恵は軽い頭痛と闘いながら出社したが、社屋ビルに入った所で背後から元気よく挨拶をしてきた者がいた。
「幸恵さん、おはようございます!」
「……おはよう」
 何とか不機嫌さを抑え込んで挨拶を返したが、悩みの無さそうなその笑顔を見下ろして、幸恵は無意識に苛ついた。そして足を止めて無言で見下ろしてくる幸恵に異常を感じた綾乃が、不思議そうに問いを発する。


「何ですか? 私の顔に何か付いてますか?」
 それに直接答えず、幸恵は小さく溜め息を吐いてから、八つ当たりの言葉を吐いた。
「あなたに責任は無いし、関係が殆ど無いのは分かってるんだけど、顔を見るとどうしてもムカつくの。暫く私の半径十メートル以内に入って来ないで」
「え、えぇ!?」
「それじゃあね」
「あ、あのっ……」
 そう言い捨てて幸恵はさっさと踵を返し、奥のエレベーターに向かって再び歩き始めた。一方の綾乃はいきなり言われた内容に焦り、しかし幸恵が指示した様に近寄る事はせずにその場に立ち尽くしたが、狼狽しながらも自分達の距離が軽く十メートルを越えたと判断した時点で、それなりに広さのある一階ホールの隅々まで響き渡る位の声量で、幸恵の背中に向かって呼びかけた。


「幸恵さん! 昨日のちぃ兄ちゃんとのデートは、どうだったんですかーっ!?」
 途端に出勤途中の社員達は驚きの表情で足を止め、何事かと綾乃と幸恵に視線を向ける。そして叫ばれたと同時に足を止めた幸恵は、憤怒の形相でゆっくりと背後を振り返ると同時に、綾乃を盛大に叱りつけた。
「……こんの、大馬鹿能天気娘!! 接近禁止令が出たって事で、少しは察しなさいよ!」
「あの! ゆ、幸恵さん!?」
 綾乃に負けず劣らずの大声で吐き捨て、如何にも腹を立ててます的な素振りでやって来たエレベーターに乗り込んだ幸恵を綾乃は尚も追いかけようとしたが、その肩をがっしり掴んで引き止めた者が居た。その間にエレベーターの扉が閉まり、上昇を始める。


「……うん、今のは誰がどう見ても綾乃ちゃんが悪いわ。荒川さんは暫くそっとしておこうね」
「香奈先輩……」
 常日頃相談相手になって貰っている先輩の言葉に、思わず綾乃はうるっと涙目になって相手を見上げたが、香奈は真顔で言い聞かせた。
「取り敢えず仕事中や社内での接触は避けて、夜にでも電話かメールで詳しい事情を聞いてみたら? ……着信拒否されてなかったらの話だけどね」
「ちぃ兄ちゃん、今度は何をやったのよ……」
 すっかり呆れ顔の香奈に綾乃は和臣に対する恨み言もどきを口にしてから、次兄の予想外に迷走している恋路の行方を思って項垂れたのだった。



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