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アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

第2話 一本気な女

 トレーを抱えながら社員食堂で空席を探していた幸恵は、少し離れた所から声をかけられた為、そちらに目を向けた。
「幸恵さん、ここ空いてますよ! 一緒に食べませんか?」
 見るとこれまで色々あったにも関わらず、妙に懐かれてしまった従妹の綾乃が軽く手を振っており、その向かいの席で最近綾乃と付き合いだした祐司が微妙な顔をしているのを認め、一瞬考え込んでからそちらに足を向けた。
「……ええ、ご一緒させて貰うわ」


 幸恵と祐司が以前付き合っていたのは、元々社内で関係がある者には周知の事実だったが、最近の綾乃を巡る騒動で三人の微妙な関係が社内に知れ渡ってしまった。その為周囲のかなりの社員が興味本位な視線を向けていたが、綾乃はそれに全く気付かず、祐司はもう諦めており、幸恵は無視を決め込んだ。
(まあ、良いか。この子に悪気は無いのは分かっているし。加えて祐司と私の事も気にしてないって事でしょうから、問題は無いわよね?)
 そんな事を考えながら綾乃の隣の席に着いた幸恵は、食べ始めてすぐに先週末の不愉快な出来事を思い出して顔を横に向けた。


「ちょうど良かったわ。ちょっとあなたに聞きたい事があったの」
「はい、何ですか?」
「あなたの次兄ってマザコンなの?」
「はい?」
「いきなり何を言い出すんだ?」
 唐突に切り出された内容に、問われた綾乃と向かいに座っている祐司が当惑した顔を向けたが、幸恵は真顔のまま重ねて問いかけた。
「どうなの?」
 そこで、どうやら冗談の類とかではないらしいと判断した綾乃が、動揺しながらも自分の所見を述べる。


「えぇっと……、ちぃ兄ちゃん、あ、えっと、下の兄の和臣兄さんの事ですが、私から見てマザコンって事は無いと思いますが……。寧ろお兄ちゃん、その、上の兄の篤志兄さんの方が、その傾向は強いと思います。でもそれがどうかしたんですか?」
 心底不思議そうに問い返した綾乃に、幸恵は疲れた様に溜め息を吐いて告げた。
「それなら当然、私が週末、どんな目に合ったのかも知らないわけよね?」
「な、何かあったんでしょうか?」
「大ありよ。久し振りに実家に呼びつけられたら、何故かそこにあなたの下のお兄さんが居てね。父や兄と一緒に飲んだくれてたのよ」
「え? 何で? 私に内緒で、ちぃ兄ちゃん一人で伯父さんのうちに行っちゃったの? 今度行く時は一緒に連れて行くって言ってたのに狡い!」
 恐る恐る尋ねた綾乃だったが、幸恵の話を聞いた途端怒りを露わにして文句を言った。それを見た幸恵は、密かに考え込む。


(そう言えばそんな事を言ってたわね。だったらどうしてあいつ、一人で来たわけ?)
 訳が分からず黙り込んでいると、ここで祐司が口を挟んできた。
「それで? 実家で何があったんだ? お前の家族と和臣さんがただ飲んだだけなら、お前がそんなに不機嫌な顔をしてるわけないだろう」
 その問いかけに、幸恵は腹立たしげにその時の情景を簡潔に告げた。


「自分がマザコンだから、叔母さんに良く似た私の事を好きになれると思うし、嫁き遅れない様に引き受けるから安心して下さいと、私の家族に真顔でのたまいやがったのよ」
「…………」
 途端に綾乃と祐司は沈黙し、困った様な表情になった。
「しかもデータフォルダ内の歴代彼女の写真を見せて、私の方が美人とかほざきやがったわ」
「…………」
 そう苛立たしげに吐き捨てた幸恵を見て、祐司は思わず額を押さえ、綾乃は顔を引き攣らせる。
「しかもちゃんと客間に布団を用意しておいたのに、いつの間にか私の部屋に入り込んで、私の布団で爆睡してたのよ? これで久方振りに戻った実家で、心穏やかに過ごせると思う!?」
 身内のとんでもない醜態を聞かされた綾乃は、鬼気迫る表情で同意を求められた為、恐縮しきって頭を下げた。


「……重ね重ね、兄が失礼致しました」
「和臣さん……、懇親会で顔を合わせた時に一緒に少し飲んだ程度だけど、礼儀正しいし頭の切れる人だと思ってたんだが……」
 困惑した表情での祐司の呟きに、幸恵は定食のご飯をかき込みながら盛大に文句を言った。
「普段どう取り繕ってるかは知らないけど、金輪際あんな変人に関わり合うのはごめんよっ!」
 それから食べる事に集中しようとした幸恵だったが、心なしか顔色を悪くした綾乃が、恐る恐る幸恵に話しかけてきた。


「あの……、幸恵、さん?」
「なあに?」
「その……、誠に申し訳ないんですが……」
「だから何?」
 口ごもっている綾乃に段々苛つきながら幸恵が問い返すと、綾乃は覚悟を決めた様に口を開いた。
「実は……、ちぃ兄ちゃんから『幸恵さんと無事顔合わせができたし、近いうちに三人で食事でもしたいから、連絡を取り合う為に幸恵さんの連絡先を教えてくれ』と頼まれまして……。この前、幸恵さんの電話番号とメルアドを……」
「ちょっと……」
 尻つぼみになっていく綾乃の話を聞いた幸恵は、思わず箸の動きを止めて隣の綾乃に強張った顔を向けた。綾乃も流石に拙いと思い、勢い良く頭を下げながら謝罪する。


「ごめんなさい! すみません! ちぃ兄ちゃんが幸恵さんにそんな失礼な事をするとは夢にも思ってなくて! ちぃ兄ちゃんは兄弟の中では一番頭が良くて人当たりが良くて、今まで問題らしい問題を起こした事が無かったものですから!」
「もう良いわ。分かったから。別にあなたが謝る筋合いの事でも無いし」
 涙ぐんで頭を下げる綾乃をこれ以上苛めるつもりは無かった為、幸恵は諦めて軽く手を振って宥めた。すると唐突に携帯がメールの着信を知らせて来た為、その場の気まずさを改善する意味もあって、断りを入れて携帯を取り出し、メールの内容を確認する。しかしそれを見た幸恵は、気分が落ち着くどころかこめかみに青筋を浮かべながら素早く何かの操作をし、勢いよく携帯を閉じて再びしまい込んだ。
「…………」
 そのまま険悪な雰囲気を漂わせつつ食事を再開した幸恵に、綾乃が控え目に問いかけてみる。


「あの、幸恵さん? どうかしましたか?」
 それに対し、幸恵はボソリと面白くなさそうに告げた。
「……噂をすれば影」
「はい?」
「あなたの馬鹿兄からメールが来たから、着信拒否にしてやったわ。この際向こうの携番を教えてくれる? 先に纏めて着信拒否にしておきたいから」
「……はい」
 とても反論などできず、携帯を取り出した綾乃は心の中で(ちぃ兄ちゃんの馬鹿ぁ……)と恨み言を漏らしながら、幸恵に和臣の携番を教えた。その一連の作業を見守っていた裕司が、困った様に声をかける。


「えっと……、何もそこまで和臣さんを毛嫌いしなくても良いんじゃないか? 何か大事な用があるかもしれないし」
「無関係な人間の間で、どういう大事な話があるって言うのよ?」
「それはそうなんだが……」
 一応和臣を庇うつもりの祐司だったが、幸恵にぴしゃりと言い切られてそれ以上の議論はできなくなった。
 食べ始めはそんな険悪な雰囲気だったものの、違う話題で三人で話しているうちに幸恵の機嫌も直り、最後は祐司と綾乃を冷やかして楽しむ位まで気分良く昼食を食べる事ができた。しかし気分が良くなったのも束の間、午後一で設定されていた会議で、幸恵の機嫌は再び急激に悪化した。


「……ですから、このデータから推測すると、PF3号の比率をあと5%増やして混合すれば、上質紙での発色が際立つ筈です」
 会議開始から一時間後。部内で製品の開発状況を話し合う席での堂々巡りの議論に、主任に就任したばかりの幸恵は、早くも切れかけていた。
「しかし、これは粘度調整の上で問題が。加えてプラントを調整する必要が出てくるかもしれないですし」
「それに書き味に直結してくるんですよ?」
「それは混合時の温度調整と溶剤の選択を的確にすれば、既存の設備を利用できる上、グリーシャズの性質を最大に活かせる筈では? どうして今の時点でそのデータが揃っていないんですか? 二ヶ月前に指示は出ていますよね!?」
 とうとう声を荒げた幸恵に、周囲の男達が不服そうに呟く。


「それは……、研究所の方に言って頂かないと……」
「それに……、連中『勝手に色々押し付けてきて何様のつもりだ』という雰囲気がありありで、こちらの言う事をまともに聞いた試しが」
「本社の試験室でデータが取れないなら、研究所と密に連絡を取り合って円滑に業務を進めるべきです。自分の怠慢を棚に上げて、他人をあげつらうのはやめて下さい。不愉快です。それこそ何様のつもりなんですか!?」
「…………」
 流石に言い過ぎたかとは思ったものの、常日頃より二十代で女性である幸恵が主任になった事に、陰で不平不満を口にしている者達から責任の押し付け合いの台詞が出た為、幸恵はここははっきり言っておくべきだと表情を引き締めた。そんな一歩も引かない気配を察してか室内に険悪な雰囲気が充満しかけた所で、些かのんびりとした声が発せられる。


「荒川主任、その辺で。主任の言い分は尤もだが、今色々業務が滞っているのは、前任者達の怠慢によるものが多いんだ。秋の人事異動で人員を大幅に入れ替えてまだ1ヶ月経過していないんだから、責めるのは酷だろう」
 係長である弘樹から(気持ちは分かるが、その辺にしておけ)との目配せを受けながらの台詞に、幸恵は言いたい事を堪えながら上座の課長や部長の方に向かって殊勝に頭を下げた。
「確かに感情的になり過ぎました。申し訳ありません」
 それに上役二人も黙って頷く中、弘樹がさり気なく言葉を継いだ。


「とはいえ、今の状態を放置も出来ない。確かに俺から研究所に連絡を取っても、必要なデータがなかなか送られて来ないからな。それで急で悪いんだが主任、来週から1ヶ月程度研究所に出向いて意志の疎通を図って、データ収集を急がせて来てくれ。春に2ヶ月集中して行って貰ったばかりだが……」
「構いません。それでは今週中、必要なデータの項目を纏めておきます」
「悪いな」
 正直、面倒な事になったと思ったものの、ここで不毛な会話をしているよりかは有益かと割り切った幸恵は、躊躇いなく頷いた。それを見て幸恵を目の敵にしている何人かの者はいい気味だという様にほくそ笑んだが、書類を捲りながら弘樹が淡々と指示を出す。


「それで他の者は、その間に修正液の粘度の改良案、ボールペンのノック部の部品縮小化、簡易操作用の電子部品集積、ディスプレイ拭き取り用のマイクロファイバーの市場調査、クリップの強度強化軽量化の為の合金素材の発掘を済ませておくこと。これでどうでしょうか、部長?」
「ああ、これ以上の話し合いは無駄だな。会議はこれで終了とする。各自期限内に結果を出す様に。それで構わないな? 戸出課長」
「はい、異存はありません。業務の配分は遠藤係長に任せる。宜しく頼むよ」
「分かりました」
 幸恵と同様、もしくはそれ以上に煮え切らない議論に苛立っていたらしい上役達は、短く指示を出して立ち上がり、さっさと会議室を後にした。その為置き去りになった下の者達は、互いの顔を見合わせて呆然となる。


「え? ちょっ……」
「あの、部長?」
「遠藤係長……、1ヶ月でって……」
「安心しろ。きちんと出来る範囲で割り振るから。俺の期待に応えてくれよ?」
「…………」
 そう言って不敵に笑った弘樹が、先程幸恵に対して悪意を含んだ視線を投げた者達を見逃す筈は無く、幸恵以上に面倒かつ煩雑な仕事を割り振られる事は確実な情勢だった。
 そして意気消沈して皆がぞろぞろと会議室を出て行く中、最後まで書類を纏めていた幸恵は、同様に残っていた弘樹に思わず愚痴を零した。


「仕方ありませんが、1ヶ月ですか……」
 溜め息混じりのその台詞に、さすがに貧乏籤を引かせた自覚があった弘樹が、申し訳無さそうに告げる。
「春の時は本当にお客さんで、データ収集だけに専念してれば良かったがな。今回は職責者として半分視察で出向く形になるから、必然的に居心地が悪くなると思うが宜しく頼む」
「はい、了解しました」
 立場上の責任はきちんと自覚していた幸恵は、苦笑しながら頷いて話を終わらせたが、その日一日すっきりとしない気持ちのまま業務を終えた。
 そして帰宅しようとエレベーターで一階まで降り、正面玄関に向かいながら考え込む。


(係長にああ言ったものの、気が重いわね……。何か食事を作る気がしないわ。どこかで食べて帰ろうかしら?)
 そんな事を考えながら歩いていると、自分の進行方向に一人の人間が立ち塞がり、朗らかに声をかけてきた。
「やあ、お疲れ様、幸恵さん。今日もお仕事ご苦労様」
 そう言ってにこにこと愛想を振り撒いている和臣を認めた途端、幸恵は無表情になった。


「……何であんたがここに居るのよ?」
「一緒に食事をしようと思って。そうメールで送っただろう?」
「返信してませんけど?」
 素っ気なく返答した幸恵だったが、和臣は理路整然と言い返した。
「無視するにしても、真面目な幸恵さんなら元々外せない用事が有ったのなら、『用事が有るのでお断りします』と送信した上で着信拒否にするだろう? それが無いって事は、必然的に特に断る用事も無かった事になるから、食事に行けるよね?」
(何なのよ、その私の性格を完全に把握してます的な発言は!?)
 殆ど確信しているらしいその口調に、幸恵は訳もなく反感を覚え、冷たく言い放つ。


「食事をご一緒するのはお断りします。れっきとした理由がありますので」
「へぇ? どんな?」
 面白そうな表情で見やってくる和臣に、幸恵は内心で僅かに怯む。
「……仕事上の事なので、一々部外者に言う筋合いのものではありません」
(全く、大人しく引き下がる気配は無いし、残業を思い出したとでも言おうかしら?)
 忌々しくそんな事を考えていると、その時幸恵の背後から救いの手が差し伸べられた。


「あれ? 君島さん奇遇ですね。こんな所でどうかしましたか? 綾乃ちゃんと待ち合わせですか?」
 帰宅しようとした弘樹が一階エントランスに珍しい姿を認め、二人に歩み寄りながら声をかけてきた。それに和臣が反応するより先に、幸恵が弘樹の腕を素早く掴んで早口で述べる。
「ああ、今晩は、遠藤さん。実は」
「実は急遽決まった来週からの埼玉出張について、係長と食べながら打ち合わせをする予定でして! そういう訳ですので失礼します」
「お、おいっ! 荒川。何もそんな話」
「係長、何ボサッとしてるんですか。さあ、行きますよ!」
「そうですか。お疲れ様です」
 そうして訳が分からないまま幸恵に引き摺られていく弘樹を、和臣は苦笑して見送った。すると今度は和臣の背後から、当惑した声がかけられる。


「……ちぃ兄ちゃん? こんな所で何してるの?」
 その声を発した人間を間違える筈もなく、和臣は笑顔で振り返った。
「ああ、綾乃、お疲れ様。幸恵さんを食事に誘いに来たんだけど振られてしまってね」
 あっさりとそんな事を言った兄に、綾乃は困惑気味の視線を向けた。
「ちぃ兄ちゃん、幸恵さんに結婚を申し込んだって本当?」
「まだしてないぞ?」
「まだ、って」
 半ば呆れた綾乃に向かって、和臣が悪びれずにとんでもない事を口にする。
「すっかりした気になっていたがな。ちょっと失敗した」
 それを聞いた綾乃は、がっくりと肩を落とした。


「ちぃ兄ちゃんが夢想癖の持ち主だったなんて知らなかった……」
「大丈夫、心配するな。ちゃんと手順は踏むから」
「踏むからって……、幸恵さん怒ってるよ? 多分嫌われてるよ? 諦めようとか思わないの?」
 綾乃にしてみれば当然の問い掛けだったのだが、和臣は真顔で問い返した。
「綾乃。君島家の辞書に『諦める』とか『敵前逃亡』とか『不戦敗』なんて文字があると思うか?」
「…………無いよね」
 一家の行動パターンを思い返し、沈痛な面持ちで項垂れた綾乃の気持ちを引き立たせる様に、和臣は明るい声で話題を変えた。


「そういう事だから、今日はお前のマンションで飯を食わせてくれ。構わないだろ?」
「え、えっと、それは……」
(今日は……、祐司さんが夕飯を食べに来る事になってるんだけど……)
 さすがに直前のキャンセルは拙いだろうと思って口ごもった綾乃に、和臣が些かわざとらしく、拗ねた様に話を続ける。


「まさか、わざわざ幸恵さんを訪ねて会社まで来たのに盛大に振られて傷心の兄より、同じ会社勤務で会おうと思えばいつでも会える彼氏との約束の方が大事だなんて言わないよな? 綾乃? お前はそんな薄情な妹じゃないと、俺は信じてるぞ?」
 そして、そこまで言われて拒否できる綾乃では無かった。
「どうぞ……、歓迎します」
「そうか、それは良かった。じゃあ行くか」
「あ、そうだ! ちぃ兄ちゃん、荒川の伯父さんの家に一人で行ったでしょう! 幸恵さんから聞いたんだからね? お祖母ちゃんにお線香を上げに連れて行ってくれるって言ったくせに!」
「ああ、すっかり忘れてたな。分かった。今度の週末にでも顔を出すか」
「もう! きっとだからね!」
 そんな事を言い合いながら、兄妹二人は綾乃のマンションに向かって歩き始めたのだった。



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