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企画推進部二課の平穏な(?)日常

篠原皐月

二人三脚

 形式上、今では直属の上司となっているかつての部下から、内線で一方的に話を伝えられてからほぼ十分後。村上が現在の仕事部屋として与えられている《第三図書資料室》のドアを、とある人物がノックした。


「はじめまして。東京本社、企画推進部第二課係長の柏木真澄です。この度は勤務時間中に貴重なお時間を割いて頂いて、申し訳ありません」
 手狭なその部屋に入ってきた三十前後に見える女性が、スチール製の小さな机を挟んでパイプ椅子に座ったままのこの部屋の住人に挨拶をして軽く頭を下げると、対する村上は微妙に顔を歪めながら忌々しげに吐き捨てた。


「それは皮肉か? お嬢さん。見ての通りここでは仕事らしい仕事はしてないから、時間は割き放題なんだがな?」
「例え本当に皮肉を言われたとしても、小娘呼ばわりした相手に微塵も感銘を与えられない切り返しか出来ないなんて、営業の人間としてどうなのかしら。現場を離れた途端、感性が鈍ったらしいわね」
「…………何?」
 軽く喧嘩を売ってはみたものの、あっさりと自分が口にした台詞の数倍痛烈な皮肉で返され、村上はその顔から表情を消した。しかしそれには一切構わず、真澄がパイプ椅子を軽く引いて座りながら独り言っぽく続ける。


「資料の整理も、過去を客観的に捉えた上で未来の事業に役立てる為の、立派な仕事だと思うけど。寧ろ、手の空いていそうな人間に片手間に任せろ的な姿勢って、企業としてどうかと思うわ」
「つまらん御託は止せ。俺はともかく、あんたは暇じゃないんだろ? ここには出張で来てる筈だしな」
「あら……、良くご存知で。私が名乗った時も大して驚かなかったし、一応話は通っていたみたいね」
 わざとらしく軽く目を見張った真澄に対し、村上は机をダンと拳で叩きながら吠えてみせた。
「そりゃあ、支社中であれだけ噂になってりゃ、誰だって分かるわ! さっさと用件を言ったらどうだ。パパに言われて、非公式に俺に引導を渡しに来たのか? お嬢ちゃん」
 そこで村上は相手を睨み付けつつ盛大に凄んでみせたが、真澄は全く動じない上、村上には全く予想外の事を平然と言い出した。


「それなら単刀直入に言わせて貰いますが、今度の四月に所属する企画推進部二課課長に昇進が決まったので、幾らこき使っても退社しない兵隊をスカウトしに来ました」
「あぁ?」
「返事は?」
 落ち着き払って返答を待つ真澄に、村上はたっぷり十数秒黙り込んでから、それはそれは疑わしげな声を出した。


「……何、考えてんだ? あんた。本気で不祥事を起こした俺を、本社に引っ張るつもりじゃないよな? 上の連中が黙ってるわけ無いだろうが」
「黙らせました。今回の出張は、あなたに会う他には適当な理由をでっち上げて来ましたし」
「正気か?」
 かなり失礼な村上の物言いにも真澄は動じず、雑然と物が積み重なった狭いスペースを見回しながら、呆れた口調で呟いた。


「だけど……、たかだか一千万強で人生を棒に振るなんて、随分馬鹿な事をしたものね。世の中にはもっと高額を脱税して、平然としてる人間なんてゴロゴロ居るでしょうに。しかも入れ上げた女は金だけ持ってさっさとトンズラしただなんて、間抜け過ぎて笑えるわ」
「…………っ! 貴様ぁぁっ!! わざわざ東京から俺をからかいに来やがったのか!?」
 クスッと真澄が失笑したところで、村上が椅子から勢い良く立ち上がりながら怒声を浴びせた。しかし真澄は座ったまま、容赦の無い台詞を言い放つ。


「はっ! 懲戒免職が相当だったところを、上役の恩情で辛うじて籍だけ置かせて貰っている穀潰しのくせに、本当の事を言われた位でガタガタ言うんじゃ無いわよ! 辞めたって退職金は出ないし、再就職だって絶望的だからって、こんな所にくすぶってる人間に凄まれたって滑稽なだけだわ!」
「このっ……」
 ギリッと歯軋りをしながら村上は殴りかかりたいのを懸命に堪えていたが、真澄はそれ以上余計な事を口にするつもりは無かったらしく、あっさりと話を纏めにかかった。


「第一線で働く気概と能力はまだ有るかと思ったけど、本社でこれまで以上の晒し者になったり、馬車馬以上にこき使われるのが嫌だって言うなら、この話は断って貰って構わないわ。プライドを切り売りして、定年まで飼い殺しになっていれば楽でしょうしね。……どちらにしても、三日以内にここに連絡を頂戴。それではあなたと違って忙しいから、これで失礼させて貰います」
 話をしながら名刺入れから一枚の名刺を取り出して村上の前に押しやった真澄は、話は終わったとばかりに優雅な動きで立ち上がった。そのまま出て行こうとする真澄に、我に返ったた村上が、焦りながら思わず声をかける。


「おいっ、あんた!」
 しかしそこでドアを引きながら背後を振り返った真澄は、冷え切った表情と声音で応じた。
「私を呼ぶなら柏木係長と呼びなさい。村上俊輔元関西支社営業部営業本部長」
「…………っ!」
 明らかに侮蔑的な口調で言い返され、村上は今の自分の立場を思い知らされて黙り込んだ。しかし真澄は相手を言い負かした事で優越感に浸る風情も見せず、そのまま廊下へと出て行く。そしてその足音が聞こえなくなると同時に、村上は力一杯スチール机の足を蹴りつけて喚いた。


「……くそったれ! あんな鼻持ちならない女の下で働けだと!? 冗談じゃない!」
 電話連絡では「そちらにこれから本社からの客が出向く」としか聞いていなかった村上は、降って湧いた話に激しく動揺した。そして何分が室内をぐるぐると円を描く様に歩き回ってから、椅子に座って何とか落ち着いて考えられる状態になる。


「……俺が本社勤務? 今更冗談だろう、おい」
 口に出した事が全て独り言になってしまうその環境で、村上は終業時間まで誰にも邪魔されずに頭を抱えて困惑していたのだった。
 そして結論が出ないまま、重い腰を上げて家路についた村上だったが、社屋を出て幾らも歩かない所で、唐突に腕を取られて声をかけられた。


「おい」
「何だ、お前は?」
「柏木産業関西支社の村上俊輔だな? ちょっと顔を貸して貰おうか」
「あぁ? 貴様なんぞに用は無い。離せ!」
 いきなりのその物言いに、流石に村上は気分を害して男の腕を振り払おうとした。しかし優男風の外見とは違い、以外に強い力で掴まれており、容易にその手から逃れる事が出来なかった。
「こっちにはあるんだよ。つべこべ言わずに付いて来い!」
「おいっ!」
 抵抗虚しく、あっさりと路地裏に引きずり込まれた村上だが、自分が柏木産業にとって重要人物である筈が無く、巻き上げる金も持たない事から、半ば開き直って得体の知れない男と対峙した。


「何の用だ、若造」
「柏木産業本社への異動話があるそうだな」
「……それがどうした。貴様には関係無いだろうが」
 いきなり本題に入ったらしい相手をしげしげと眺めつつ、村上は辛うじて虚勢を張った。と同時に相手を注意深く観察する。


(関西支社では見かけない顔だな。コートもブリーフケースも相当品が良い物だが、単なる若造がここまで使いこなせるとは思えん……。それに、今日の話をどうしてこいつが知ってる? あのお嬢様のスーツも相当な物だったが、彼女の関係者か?)
 そう見当を付けた村上が、眉間に皺を寄せつつ(お嬢様同様俺を説得に来たのか? 人に物を頼むにしては、随分と生意気な態度だな)などと密かに腹を立てていると、相手はその想像と真逆の事を口にした。


「無駄話は嫌いだ。これをやるから今週中に退職しろ。勿論、本社異動の話は無しだ」
「は?」
 ブリーフケースから紙袋を取り出した男は、それを村上の胸に投げつけながら横柄に言い放った。胸にぶつかって道路に落ちたそれを、村上は呆然としながらも反射的に屈んで拾い上げ、その中身を覗き込んで絶句する。
「これは……」
 強張った顔で問いただすと、相手はさも馬鹿にした口振りで言い切った。
「五百万ある。どうせこのまま定年まで勤め上げても、退職金なんぞ出ないんだろう? 少しでも貰える時に貰った方が良いぞ? 社長令嬢直々の要請話を断ったら、社内の居心地が益々悪くなるだろうからな」
(俺をあのお嬢の下で働かせたくないのか? そうだとすると……)
 咄嗟に村上は社内の派閥勢力を思い浮かべ、苦々しい顔付きになって確認を入れた。


「どうして俺が見ず知らずの人間に、指図されなければならないんだ。あんた見ない顔だが、反社長派の犬か? 尻尾振ってかなり小遣いを貰っているらしいが」
「俺を、あんなゲス野郎共と同一視するとは、良い度胸だな屑野郎……」
 村上としては軽い皮肉をぶつけたつもりだったが、予想に反して相手は瞬時に目つきを険しくし、村上の胸元を掴み上げながら鋭い視線で恫喝してきた。それを目の当たりにして、村上は混乱して恐怖におののきつつ必死で考えを巡らせる。


(この殺気……、本物だ。ちょっと待て、じゃあ反社長派では無いとすると……)
「あんた、あのお嬢の手下か? だから脛に傷持つ人間と同一視されるから、冗談じゃないってクチか? 挙げ句の果て、俺が要請を辞退したらお嬢さんに恥をかかせるから、不自然でないようにこの際会社を辞めろってか? これをあのお嬢は知ってるのか?」
 思いついたまま一気に疑問を口にすると、男は忌々しそうな顔付きのまま手を離し、最初と最後の質問にだけ答えた。


「この事については、彼女は一切知らない。加えて俺は彼女の手下でもないから、俺の事を本人に聞いても知らないとしか言わないな」
「じゃあどうしてお前はこんな真似をするんだ?」
「単に彼女の趣味の悪さに唖然としただけだ。何が面白くて、穀潰しばかりを部下にかき集めようとするか、理解に苦しむ」
 如何にも不愉快そうに吐き捨てた男を見て、村上は納得し、完全に腹が据わった。
(今日似た様な台詞を聞いたのは二度目だから……、比較的冷静に聞けるな。こいつは……)
 そこで村上は、冷笑をその顔に浮かべつつ口を開いた。


「何だ、要はお前は俺に嫉妬してるのか? 柏木係長から俺にはお声がかかったのに、てめぇは存在すら気付いて貰えないみたいだからな」
「……もう一回言ってみろ、このクソオヤジ」
「ああ、何度でも言ってやる。俺は彼女の下で一兵卒をやれるが、お前は良くてコソコソ彼女の周りを嗅ぎ回ってる番犬止まりだろうが。それが悔しいんじゃないのか? 生憎だが犬野郎に睨まれてもまるで怖くないぞ。一昨日来やがれ!!」
 言うだけ言って渾身の力を込めて両手で突き飛ばすと、男が二・三歩後ずさった。そして怒らせたであろう相手からの反撃に備えて精神的に身構えたが、何故か「くっ……」と小さく吹き出した相手は、満足そうに微笑して踵を返す。


「頭の働きは悪くないし、それだけ気概があれば十分だな。錆び付いて無い様で何よりだ。……じゃあ、お前の好きにしろ」
「ちょっと待て!!」
「うん? ……おっと」
 言うだけ言って立ち去ろうとした男の背中に、村上は未だに手に掴んでいた紙袋を投げつけた。その衝撃を受けた男が、意外そうに村上を見やる。


「忘れ物だ。それは持って帰れ。退職はせん」
「後悔するぞ?」
「誰がするか!! とっとと失せろ!」
「了解」
 どこか小馬鹿にする様な笑みを浮かべながら、男は素直に紙袋を拾い上げ、鞄に入れてその場を立ち去った。その後ろ姿を睨み付けていた村上は、その姿が見えなくなってから疲れ様に肩を落とす。


(全く……、今日は色々有り過ぎだ。何だったんだ一体)
 しかしそこで考え込んでも埒があかない為、村上は自宅に向かって歩き出した。
(しかし東京か……。これまで散々振り回しておいて、また苦労をかけさせるのもな。今度こそ、愛想を尽かされるかもしれん……)
 そんな事を考えているうちに自宅に到着した村上は、重い気分で自宅玄関のドアを開けた。


「ただいま」
「……お帰りなさい」
 不祥事が明らかになってからローンが残るマンションを売り払い、手狭なアパートに引っ越して来た為に、玄関で声をかけるとすぐに帰宅が分かり、妻の美佐子がいつも通りのどこか疲れた表情で出迎えた。問題が発覚してから未だに続いている、家の冷え冷えとした空気を改めて認識した村上だったが、いつも通りを装って何とか食事を済ませる。
 そして食後にお茶を飲んで喉を潤してから、帰宅するまで考えていた事を口にするべく、隣接する台所で洗い物をしている妻に声をかけた。


「美佐子、話があるからちょっとここに来てくれ」
「何かしら?」
 怪訝な声で応じた美佐子だが、それでも素直にやって来て村上の正面に座ると、正座していた村上は改めて姿勢を正して話を切り出した。


「実は……、四月に異動の話があるんだ」
「あら、今度はどこ? 関西支部の中ではたらい回しの先が無くなって、沖の鳥島にでも営業所を作る事になったのかしら?」
 些か皮肉っぽく美佐子が応じたが、それには構わず村上は話を続けた。
「東京本社の企画推進部だ」
「……へぇ?」
 そこで如何にも疑わしげな視線を向けてきた妻に、村上は口ごもりながら続ける。


「この話は嘘じゃない。嘘じゃないが……、結構面倒な部署になりそうなんだ。高飛車な社長令嬢のお守りをしないといけないらしい。それに……」
(何やら得体の知れない奴が、ひっ付いてる可能性があるしな……)
 自宅への帰途で遭遇した、意味不明正体不明の男の事を脳裏に思い浮かべた村上は、その人物の事まで説明したものかどうかを咄嗟に躊躇した。その為黙り込んでしまうと、先を促す美佐子の声が聞こえる。


「それで?」
「面倒な職場だとは思うが、行ってみたい。これが、俺が営業の仕事に携われる最後のチャンスだと思うんだ。だから……」
「だから、何なの?」
 そこで村上は息を整え、帰り道で考えていた内容を一気に言ってのけた。
「今まで散々嫌な思いをさせて、迷惑のかけ通しだったから、今更こんな事を言えた義理じゃ無いんだが……、頼むから俺と一緒に東京に行って欲しい。慣れ親しんだ地元を離れて、見ず知らずの場所で更に苦労をかけると思うが、俺はやっぱりお前達が居ないと駄目なんだ」
 そう言って頭を下げた村上に、美佐子が冷静に指摘してくる。


「私や子供達が嫌だと言ったら行かないわけ? 今の閑職から抜け出すチャンスなんじゃないの? 自分だけ東京に行くって選択肢は無いわけ?」
 考えないでも無かった事を言われて村上は一瞬怯んだが、決意は変わらなかった為、落ち着き払って答えた。
「ああ、お前達が納得出来ないなら、その時は先方に頭を下げる。だがその場合でも、定年までは関西支社に居座って、何とか食い扶持は稼ぐつもりだ」
 真剣に訴える夫の姿を眺めた美佐子は、何故かここで話を逸らした。


「そう……。それなら悪いけど、ちょっと電話を一本かけて良いかしら?」
「あ、ああ……、構わんが」
 一応頷きながらも、話の腰を折られた村上は(どうしてそれなら、なんだ?)と怪訝な顔をしたが、そんな夫には構わず美佐子は携帯と何やらメモ用紙を手に取ってどこかに電話をかけ始めた。しかしその内容を耳にして、村上が仰天する。


「もしもし? 夜分恐れいります。柏木さんですか?」
(は? 今、柏木って言ったか?)
 村上は驚きで頭の中が真っ白になったが、美佐子は礼儀正しく会話を続けた。
「……はい、村上です。今日のお話ですが、柏木さんのご意向に添う形で、進められそうですのでご連絡致しました。…………はい、いいえこちらこそ。…………それでは宜しくお願いします。失礼致します」
 そして美佐子は通話を終わらせてから、村上の表示を見ておかしそうに笑った。


「ちょっと、何、鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしてるのよ」
「美佐子? 今の柏木って……。まさか本社の柏木係長じゃ……」
「勿論そうよ。今日の午後、ここにいらしたんだもの」
「はあぁ!? 何だそれはっ!? 俺は聞いてないぞ!」
 思わず心持ち詰め寄った夫に、美佐子が平然と応じる。
「だって柏木さんは内緒にしておいて反応を見るって仰ってたし」
「どういう事だ」
 僅かに表情を険しくした村上に、美佐子は小さく肩を竦めてから、事情を話し出した。


「柏木さんはね、私に異動の話を一通りしてからこう言ったの。『先般の不祥事の最大の被害者はご家族です。それなのにこの期に及んでも自分のプライドや功名心を優先して、家族を無視して異動話を受ける様な人物なら、早晩潰れます。家族の支えが無かったら、この話は務まらないと思いますので。その時はあなたやお子さんの為に別れた方が良いと思いますから、離婚専門の弁護士を費用こちら持ちで付けて差し上げます』って」
「なっ!」
 予想外の話に思わず絶句した村上だったが、美佐子は冷静に話を続けた。


「それで『そうではなくきちんとご家族に頭を下げて、異動を了承して貰うつもりなら、まだ見込みはあります。その時はこちらにご連絡下さい』って、この連絡先を貰ったの。あなたが貰った名刺の電話番号にかけてたら、話は無かった事になってたのよ?」
「……それは本当か?」
 どこか悪戯っぽく笑いながら目の前でメモ用紙をヒラヒラと振ってみせた美佐子に、村上は半ば呆然として呟いた。そこで美佐子は笑いを消し去り、真顔で告げる。


「今日、一時間位柏木さんとお話ししたの。と言っても、殆ど私が一方的に喋っていたんだけど。あなたがしでかした事から、その後どうなったのか、ひたすら愚痴や恨み言を言ってたのに黙って聞いてくれたわ。それだけで随分気持ちが落ち着いたんだけど」
 そこで一度話を区切った美佐子は、これ以上は無いと言う位、真剣な顔付きで夫を見据えながらある事を口にした。


「それで、柏木さんは『一年間だけ我慢して下さい』って頭を下げたの」
「はぁ? 何で一年なんだ?」
「来年下半期の決算で、本社内での新規契約売上高が部署別で一位になったら、最低ランクになっているあなたの年齢給と業績給を相当のレベルに戻す約束を、経営陣から取り付けているそうよ」
 その事が示す重大性に、村上は流石に度肝を抜かれて声を荒げた。
「何だと!? そんな事一言も聞いてねぇぞ! 第一、社内外的にも無理だろう!?」
「そんな話をしたら、家族の事なんてそっちのけで話に食い付きそうだから、本人には言わないでおきますって。それに口約束とかじゃなくて、ちゃんと文書で取り交わしているそうよ」
「何だそれは。予想以上に食えない女だな……」
 感謝するのを通り越し、心底呆れ果てて舌打ちした村上だったが、それを見た美佐子は笑いを堪えながら感想を述べた。


「でも……、あの人だったら、今のあなたを正当に評価してくれると思うのよ?」
「美佐子」
 そこで美佐子は、口調を更に穏やかな物に変えて村上に言い聞かせる。
「良かったわね。五十になってから、そんな上司に仕える事ができるなんて。もし一年後に一位を取れなくてお給料が据え置きでも、きっとあなたは柏木に入った事を後悔せずに退職できると思うわ。勿論私も満足よ」
 それを聞いた村上は、黙って俯いた。そして暫くその場に静寂が満ちたが、膝の上で握り込んだ村上の拳に、ポタポタと幾滴かの涙が落ちてから、かすれ気味の声が発せられる。


「……美佐子、俺は決めたぞ」
「何を?」
「あのくそ生意気な柏木のお姫様を……、俺は絶対に柏木の女王様にしてやる」
 頭を上げ、赤くなった目を隠す事無く、決意を込めた視線を妻に向けた村上だったが、美佐子はすこぶる冷静に反論した。


「それはちょっと無理じゃない?」
「おい、人の決意に水を差すな!」
「だって、柏木さんの年齢から考えると、順調にいって社長就任は二十年後、間に誰か挟んだら三十年後ってところじゃない? その頃あなたはとっくに定年退職してる筈だもの」
「……まあ、確かにな」
 淡々と指摘された内容を認め、気勢を削がれてがっくりとうなだれた村上を慰める様に、美佐子がゆっくりと言葉を継いだ。


「だから、まず部署の業績を上げるのが一番だけど、落ち着いてきたらあなたが辞めた後も柏木さんの忠実な手足になって働いてくれる、後進の育成をすれば良いのよ」
 それを聞いた村上は、嬉々として顔を上げて妻を褒め称えた。
「そうか。それはそうだな。美佐子、お前は天才だ!」
 それを聞いた美佐子は、照れ隠しの様に苦笑しながら立ち上がる。


「何真顔でバカな事言ってるのよ。そうと決まれば忙しくなるわよ? 二ヶ月足らずで引っ越しや転入学の手続きを済ませなくちゃいけないんですからね。どうせ暇なんでしょ? あなたも手伝ってよ?」
「おう、時間は有り余ってるから何でもやってやる!」
「それって威張って言う事なの?」
 そうして夫婦二人揃って失笑し、村上は久し振りにわだかまりの無い空気の中で、新しい上司に対する感謝の念を新たにしたのだった。


 そして四月。東京本社に異動した村上は、周囲から好奇と侮蔑の視線を受けながらも忙しい日々を過ごしていた。
 同僚達に聞いてみると、皆本人の知らない所で真澄が妻子に接触した事が分かり、揃って苦笑する。加えて正体不明の男が接触して、大金を払おうとした事まで同じで、皆一様に首を捻った。


「結局、あの男は誰なんだ?」
「課長にはボディーガードなんか付いていないって笑われたし」
「運転手もチラッと顔を見たけど、別人だったぞ」
「弟さんは営業一課の係長と美容師らしいが、説明して貰った外見とはどちらも異なるしな」
 当初はスカウトの妨害かと思っていた人物だったが、異動が決まってから『引っ越し祝いだ』の簡単なメモを付けて、全員の家にメール便で無造作に百万円が送られてきた事実が確認され、一同は「要は金で容易く買収される様な人物かどうかを試されたのか?」との見解に落ち着いていたが、その人物に対する疑問が解消する機会は、意外と早くやってきた。


「それではこの方向で案を纏めて頂けますか?」
「分かりました。……あの、課長。そちらの写真ですが、弟さんが二人おられるとは存じていましたが、妹さんもいらっしゃったんですか?」
 真澄の席の背後に回り込んで、一緒にパソコンのディスプレイを覗き込んでいた村上は、ふと机の片隅に置かれたデジタルフォトフレームの画像に目をやりつつ尋ねた。すると真澄は明らかに年下と分かる女性とのツーショット写真に目を向けながら、笑って答える。


「弟は二人で間違いないわ。この子は父方の従妹なのよ」
「従妹さんですか……、可愛らしい方ですね」
「そうでしょう? この春に高校を卒業して大学生になったんだけど、変な虫が付かないかこの子の過保護なお兄さんがやきもきしててね、面白いったらないわ」
 そう言いながら真澄が表示データを変更すると、卒業式の看板がかけられたどこかの校門で撮影されたらしい写真が映し出され、それを見た村上が瞠目した。
(この男!?)
 いつぞやの自分に大金を文字通り叩き付けた男を目にして村上は動揺したが、そんな内心は面に出さずに何気なく問い掛けてみた。


「課長、この人物は、先程お話があったこの子のお兄さんですか?」
「ええ、そうよ」
「それでは課長の従兄弟ですか?」
 その問い掛けに、真澄は何故か小さく苦笑いしながら答える。
「確かにこの子は私の従妹なんだけど、彼は叔母が結婚した人の連れ子だから、血は繋がっていない義理の従兄弟なの」
「ああ、なるほど」
 そこであっさりと話を止めて村上は自分の席に戻った。気になっていた男の素性は分かったものの、どうしてあんな事をしたのかは不明のままだったが、どのみち通常業務に支障はないと割り切り、それから彼の事は一切綺麗に忘れ去り、仕事に没頭していった。


 ※※※


「……さて、それでは今年度の目標ですが、今年の売上高を前年度比二割増でいきたいと思います」
 それから時が過ぎ、敬愛する上司が結婚し、産休に入ったのと入れ違いに二課に乗り込んできた男は、初めて出会った時同様に不遜でとんでもない事を言い出してきた。


「二割増、ですか?」
 ヒクッと自分の顔が引き攣るのを自覚しながら、同様に顔を青ざめさせている周囲を代表して村上が問いただすと、課長代理がしれっとして駄目押しをしてくる。
「ええ。本当は前年度の二倍と言いたい所ですが、そんな事をしたら真澄が復帰した後が大変そうですので」
(殊勝なふりして、若造が暴言吐くな!)
 盛大に心の中で怒鳴りつけた村上だったが、相手は含み笑いをしながら問いかけてくる。


「村上さん、俺では二倍や二割増は無理だと仰る?」
 その物騒極まる笑顔を認めた村上は、長年培った勘で逆らっては駄目だと察し、微妙に視線を逸らしながら応じた。
「……いえ、どちらも課長代理には可能だとは思いますが、復帰後の課長の心労と我々の心身の健康を保つ必要性を考えますと、やはり二割増の目標にして頂ければ大変ありがたいと思います」
「そうでしょうね。理解が早くて助かります。これから宜しくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
 そう言って満足そうに頷いた課長代理に再度頭を下げながら、(ここに配属になってからオーバーワークは当たり前だったが、今度こそ過労死するかもしれんな。そろそろ本気で遺書を用意しておく必要があるかも……)などと色々諦めつつ腹を括ったのだった。





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