企画推進部二課の平穏な(?)日常
鬼の巣窟
その時、入社直後の初期研修を終えた高須は、配属先を決定する最終面接を受けていたが、担当の人事部の男性の言動が、段々不穏な物になってきた。
「最終的な君の希望が営業部もしくは企画推進部、と。了解した。それでは高須君、次に君の家庭環境について少し尋ねたいんだが」
「はい、何でしょうか?」
「君はお父親が早く亡くなって、お母上が女手一つで育られたそうだが……」
「はい、その通りです」
ピクリと片眉を動かしながらも、高須はいつもの通りの口調で返した。すると何が目的なのか、相手が更に突っ込んだ内容を聞いてくる。
「何でも小さな運送会社を切り盛りしている女傑らしいね。並み居る男性従業員を使いこなし、率先してトラックの運転もされているとか」
呆れとも感心とも取れる微妙な声音での台詞にも、高須は冷静に言い返した。
「……確かに大型免許保持者ですが。それが何か?」
「周囲からの信頼も厚い地域密着型の会社で、保護司から紹介を受けた軽犯罪の仮釈放者や執行猶予中者の受け入れ先にもなっているとか。いや、なかなかどうしてできる事では」
ここでとうとう高須の堪忍袋の緒が切れた。
「さきほどから、一体何を仰りたいんですか!? 確かに母は女手一つで姉や俺を育ててくれましたが、赤の他人に揶揄されたり、後ろ指を指されたりする様な事は一度だってした事が無い自慢の母です! 第一実家の会社で引き受けた人達も、保護司さんが自信を持って推薦した人達ばかりで、皆自分の行為をきちんと反省して真面目に働いてくれていますし、俺が知る限り一度も問題を起こした事は有りません!!」
勢い良くテーブルを叩きながら立ち上がり大声で怒鳴った高須に、相手は目を白黒させてから高鷲から目線を逸らしつつ、もごもごと弁解してくる。
「あ、その、気に障ったのなら申し訳ない。そういう家庭環境なら、ちょっとやそっとの事で動じないだろうと思って、事実確認をしようとしただけなんだ。君のご家族や実家の家業について誹謗中傷するつもりでは無かったから、勘弁してくれたまえ」
「はぁ……」
「それでは面接はこれで終了だ。週明けに配属が決定するので、楽しみにしていてくれたまえ」
「……分かりました。失礼します」
色々言いたい事をグッと堪えつつ、高須は一礼して歩き出した。しかし廊下を歩きながら、心の中で悪態を吐く。
(一体何なんだ? 単なる好奇心か? 幾らこちらが新入社員でも、失礼にも程が有るだろうが!)
そうして憤懣やるかたない表情で高須はその場から歩き去ったが、この時のやり取りの理由をその直後から身をもって知る事になったのだった。
そして約半年後。
(うん、確かに管理者が女性とか、脛に傷持つ人間がゴロゴロって環境には慣れてたがな……。あの時の面接の意味が、今では良く分かる。確かに並の神経の人間なら、保たないかもしれないな。ここまで鬼の巣窟だと……)
そんな事を漠然と考え、どこか遠い目をしながら高須は日常業務に勤しんでいた。
「高須君、売り込み予定先のリストアップが甘いぞ。この商品なら欲しがってる会社が私の知っている会社でも数社ある。再度見直して五割増しの社数を見込んでおきなさい」
(顧客管理の鬼、村上さん)
「あぁ!? 製造時の不良品発生率0パーセントだと? そんな与太話真に受けて帰って来る馬鹿がどこにいる! どんな物でも不良品は発生するし、その発生率をいかに下げるかで現場はコスト下げてんだろうが! そんな数字操作する不誠実な会社とは即刻取引中止だ!」
(品質管理の鬼、清瀬さん)
「高須君……、実際の取引は二か月は先だよ? それなのにこの相場で予算を組んだら赤字確定だ。今は輸入先の天候が不順な上為替相場も怪しいから、先物取引はもう少し長期予想ができるようになったら手を出そうか」
(相場の鬼、林さん)
「こんな予算が経費で落ちるか! しかもそれを組み込んでももっと安く単価が出せるぞ。さっさと無駄な所を絞り直せ!」
(予算編成の鬼、枝野さん)
「着眼点は良いんだけどね、高須君。この個人ネットワークPRシステムは、個人情報保護法にギリギリ抵触する内容だね。無理に商品化する価値はないから、今回はご苦労様という事で」
(情報管理の鬼、川北さん)
「こら、売り込むポイントを最大限にアピールできなくてどうする? 他社と条件がほぼ同じなら、後は担当者の話術と根性だ。目一杯はったりかませ!」
(プレゼンの鬼、加山さん)
「高須、これターゲット世代がどこら辺かちゃんと分かってるのか? 無差別に売り込んだって仕方ないだろ? これはどうみても高齢者向けだから、ちゃんと街中で該当者の動きや溜り場押さえて、そこを狙って売り込むんだ」
(販路拡充の鬼、土岐田さん)
「高須、これは船便輸送だろう。こんなギリギリの日程を組んでどうする。もう少し余裕を取って最初から納品先に交渉しておけ。それから保険関係の書類提出も忘れてるぞ?」
(スケジュール管理の鬼、城崎係長)
「……これと、このデータを纏めて一覧表を作成して下さい。それから、付箋が付けてある所が誤字脱字箇所です。訂正の上、すぐに再提出を。常用漢字はきちんと頭に入れておくように」
「申し訳ありません」
(そして最大の仕事の鬼、柏木課長……。怒鳴られたりするよりも、笑顔でバッサリザックリ切られた方が精神的ダメージが大きい事に、俺は社会人になってから気づきました……)
そんな事を考えながら書類を受け取って自分の席に戻った高須は、チラッと真澄の机を眺めてから小さく溜め息を零した。
(本当に、うちの母親なんかとは比べ物にならない位若くて美人なのに、母さん以上に大の男を顎でこき使ってるのが凄いんだよな……。使ってる面子が面子だし)
そして社内で色々噂されている二課の噂や評判の類を思い出し、無意識に眉を顰めた高須は、それでも取り急ぎの書類を作成し終え、再び真澄の所へ足を向けた。そしてチェックを受けて了承の返事をもらった高須は、軽く会釈してからこの数日密かに考えていた事を思い切って口にしてみる。
「柏木課長、今夜業務後にお時間空いてますか? ちょっと折り入ってお尋ねしたい事があるんですが」
それを聞いた真澄は、ちょっと驚いた顔をしつつも、即座に答えを返した。
「今日は無理だけど、明日なら良いわよ? 何かしら? 仕事上での話?」
「仕事上と言えば仕事上ですが、プライベートと言えばプライベートでしょうか?」
「あら、複雑そうね。良いわよ? じゃあ夕食を付き合って」
「分かりました」
軽く首を傾げた高須に、真澄が小さく笑いながら頷き、それでその話は終わりになった。それからは普通に仕事をこなしていたが、三十分程して高須がトイレに行こうと席を立ち、廊下に出たところで、後を追って来たらしい城崎に捕まる。
「……おいっ、高須! さっきのは何だ!?」
「さっきのと言われますと?」
狼狽気味に問い掛けてきた城崎に、高須が怪訝な顔で振り向いた。それに噛み付く様に城崎がたたみかける。
「とぼけるな! 課長を夕食に誘っていただろうがっ!」
「別に俺が誘ったわけでは……。話があると言ったら夕飯を一緒にと言う事になっただけで……」
「同じ事だろうが! 一体何の話をするつもりだ!?」
「それは、まあ……、ちょっとした仕事上の好奇心ですので。係長には関係ありませんから」
(係長以外には関係あるから、人目のあるこの場で迂闊な事は言えないしな)
何故城崎が血相を変えているのか分からないまま、自分達に不思議そうな視線を向けつつ社員が次々と通り過ぎて行くのを、高須は横目で見やった。すると城崎が諦めた様に溜め息を吐く。
「……分かった、もう何も言わん。明日課長と食事に言って来い」
「はい、そうします」
そこで本来の目的地であるトイレに向かおうとした高須の両肩を、城崎がガシッと両手で掴んで再度引き留めた。
「すまん、高須」
「何がです?」
いきなり真剣そのものの顔付きで謝罪してきた城崎に高須は面食らったが、城崎は問いに対する返答はせず、唐突に忠告らしき事を口にする。
「悪い事は言わん。明日は前後左右上下に最大限の注意を払え。俺に言える事はこれだけだ」
「……はぁ」
(係長、一体どうしたんだ?)
そうして何事かをブツブツ言いながら部屋に戻って行く城崎を、高須は怪訝な表情で見送ったのだった。
そして翌日、残業を短時間で切り上げた真澄は、立ち上がりながら高須に声をかけた。
「お待たせ。じゃあ行きましょうか?」
「はい」
時間潰しで提出期限まで余裕の書類を作っていた高須はすぐさま立ち上がり、同じく残業をしていた城崎に挨拶をして真澄と連れ立って部屋を出た。そして恐縮気味に真澄に声をかける。
「課長。どこで食べましょうか」
「行きたい所があるから、そこで良い?」
「はい、構いません。お付き合いして貰っているんですから、課長のお好きなところで」
笑顔で応じ、世間話をしながら歩き出した高須は、この時密かに後悔した。
(とは言ったものの……、高級フレンチとかだったらどうするかな。この場合俺が奢らないと拙いだろうし、先に決めておけば良かったかも……)
しかし真澄の行きたい店のチョイスは、完全に高須の予想の斜め上を突いた。
「あ、着いたわ。ここで良いわよね?」
社屋ビルから十五分程歩き、真澄が指差した自動ドアの向こうには、所謂セルフサービス式の大衆食堂が存在し、そこでは仕事帰りらしいサラリーマンがチラホラとテーブルに着いて夕飯を食べていた。しかし華美では無いが間違っても既製品のスーツでは有り得ない出で立ちの真澄を連れて、入って良いものかどうか判断に迷った高須は、途方に暮れてしまう。
「……あの、本当にここ、ですか?」
「一度入ってみたかったのよ。商談の帰りに前を通って気が付いたんだけど、昼休みに一駅分歩くと下手したら戻るのにギリギリだし、帰りは大抵車が迎えに来るから一緒に入ってくれる人もいないし」
「はぁ……、まあ、そうでしょうね……」
にっこり笑った真澄だが、高須の迷いは消える事が無かった。
(良いんだろうか? 車で送迎されている、れっきとした大企業の社長令嬢を、こんな所に連れてきて)
高須のそんな戸惑いなど気にも留めない風情で、真澄は悠然とドアに向かって足を踏み出した。
「えっと、どうやって注文するの? 食券とか買うのかしら?」
迷わず店内に入り、キョロキョロと周囲を見回しつつ足を踏み出した真澄に、高須は取り敢えず前方を指差しつつ説明する。
「あのですね、あの人達の様に、あそこからトレーを持って、レーンに沿って食べたい物だけ取って行くんです。最後にあそこで会計しますから」
一通り高須がシステムを説明すると、納得した様に真澄は重なったトレーを一つ取り上げ、高須と一緒に小分けされている料理の前に移動した。
「ああ、なるほどね。でも凄いわ、結構種類が有って迷うわね」
「課長、小皿や小鉢を取り過ぎない様に注意して下さい。それから蛋白質と野菜類のバランスも考えて下さいね?」
「分かったわ。高須さん、お母さんみたいね」
(いや、課長があんまり物珍しそうにしてるので、つい面倒をみなくちゃいけない気分になっただけです)
クスクスと真澄は小さく笑い、高須も苦笑いしながらおかずを選び、ご飯とお味噌汁をよそって貰って二人で空いているテーブルに着いた。そして挨拶をしてから早速食べ始め、真澄は満足そうに頷いた。
「うん、結構美味しいわね」
「値段の割にはそうですね。しっかり食べられますし」
「そうなのよね……、これって原価はどれ位で作っているのかしら? 光熱費や人件費を考えてもなかなか……。ちゃんとそういうシステムが構築されているんでしょうけど……」
なにやらブツブツ言いながら仕事モードに突入したらしい真澄に小さく失笑してから、高須は真顔になって恐縮気味に問いかけた。
「課長、……ひょっとして俺の懐具合を気にして、ここを選んで貰ったんでしょうか?」
その質問に、真澄は我に返った様に顔を上げて言い返した。
「あら、元々今日の支払いは私が持つつもりだったんだけど。だって部下から相談を持ちかけられたんだし、それ位当然じゃない?」
「……恐縮です。相談と言うか、好奇心からの質問なので」
「ふぅん? じゃあ取り敢えず言ってみて貰える?」
不思議そうに小首を傾げた真澄に、高須はトレーに箸を置いて真顔で尋ねた。
「その……、課長はどうして全国から村上さん達を引き抜いて、自分の下に集めたんですか? 社内で二課の評判が最悪なのはご存知ですよね? 課長は社長令嬢なんですから、わざわざ社内から白眼視される事をする必要は無いでしょう」
それを聞いた真澄も箸を置き、微笑しながら静かに言い出す。
「うちに入って貰ったせいで、高須さんには色々と肩身の狭い思いをさせてるみたいね」
「いえ、俺の事はともかく」
「社長令嬢だから、かしら?」
「はい? どういう事ですか?」
唐突に自分の問いかけの答えが返された事に高須が戸惑うと、真澄は自分の頬に片手を当てて、一瞬考え込んでから再度話し出した。
「どこからどう話せば良いかしら? そうね……、まず就職先を柏木産業にするかどうか、大学時代に随分悩んだの。親が社長を務めている所に入社したら、色眼鏡で見られる事は分かりきっていたし」
「それならどうして入ったんです?」
「実は今まで誰にも言った事は無かったんだけど、祖父の影響なのよ」
「会長の影響ですか?」
ちょっと予想外の展開に高須が戸惑った声を出すと、真澄が小さく笑って続けた。
「ええ。幼稚園の頃だったかしら? 『お父様やお祖父様はどういうお仕事をしているの?』って尋ねた事があるの。総合商社って位置付けが分からなかったのね」
「まあ、それはそうでしょうね」
「その時、お祖父様から『物を売り買する卑しい仕事だ』と言われて、子供心に驚いたわ」
「はぁ? なんですか? それは」
完全に面食らった風情の高須に、真澄は淡々とやり取りの説明をした。
「お祖父様曰わく、『自分では何も産み出さず、物をやり取りするだけで金を稼ぐだけならな。だから柏木は呉服商の頃から、生糸の生産や染織技術の革新に資金をつぎ込み、付加価値を高めて売り手買い手双方に喜んで貰える様な商売をしてきた。勿論周りの困っている人達に、折々に施しもしてきたぞ? その精神は今も変わらん。儂は物を売り買いするならば同時に人々に幸福を運ぶ、そういう心構えで働いているから、卑しい商売かもしれんが自分に恥じる所は一切無い』だそうよ。その後『真澄にはまだ難しかったかの?』と付け加えられたけど」
そこで話を区切った真澄に、高須は呆気にとられた表情で声をかけた。
「……はぁ。課長はそれを聞いてどう思ったんですか?」
「『お祖父様は皆にキラキラの笑顔を運ぶお仕事をしてるのね!?』って感動したわ」
「キラキラっ……」
「笑って構わないわよ?」
思わず口走ってから片手で口元を押さえた高須を見て、真澄が幾分拗ねた口調で応じる。しかし高須は何とか笑い出すのを堪えながら感想を述べた。
「いえ、きっと会長に向かってそう言ったんですよね。孫娘にキラキラの笑顔でそんな事を言われて、あの会長がデレデレに笑み崩れた所が想像できました」
一度だけ入社式で見た、壇上の厳めしい顔つきの老人を思い出しつつ高須が想像力をフル稼働させていると、真澄が小さく肩を竦めて話を続けた。
「それがあったから、『将来柏木に入ってお父様やお祖父様を助けてあげるんだ』って思ってたの。尤も私が中学以上になったら『浩一と違ってお前は女なんだから、勉強なんかしないで花嫁修行でもしてろ』って五月蠅かったし。ハナから私が仕事をする事自体反対だったしね」
「それはちょっと酷いですね。明らかな男女差別じゃないですか」
些か棘のある口調で高須が評したが、真澄はそれには触れずに話し続けた。
「それで……、そんな反対をされていた分、入社してからは頑張ったのよ。女で、しかも経営者の身内なんて、周囲と同程度働けたって認めて貰えないと思ってたから、他人の三倍働く気構えで頑張ってたわ」
(ああ、母さんも似たような事を言ってたな……。『そんなに無理して働かなくても良いだろ?』って言った時、『女が外で働こうと思ったら、男の三倍働く位の気持ちでいなくちゃ駄目なのよ』って)
何となく目の前の上司に共感を覚えながら高須が黙って話を聞いていると、唐突に話題が変わった。
「そんな風に脇目も振らずに頑張ってたんだけど、最近、某重役から内密に相談を受けてね」
「何ですか?」
「要は『こういう不祥事を起こした社員が居て、処分として閑職に回されているんだが、有能な社員でこのまま腐らせるのは惜しいんだ。柏木産業の業績向上の為に、君から社長や会長に彼らの職場復帰をお願いして貰えないだろうか』という話だったの」
「それは村上さん達の事ですよね? それで、社長達にお願いしたんですか?」
「しないわよ、そんな事」
「は?」
てっきりそうかと思い込んだ高須は思わず目を丸くしたが、真澄は平然と正論を繰り出した。
「その場での即答を避けて、その時渡された名簿を元に事実関係と詳細を調べたけど、明らかに犯罪行為、職場の倫理規定に逸脱する行為があった事は事実で、それは誤魔化しようが無いもの。閑職に回されたのは当然の処置なんだから、そのトップの処置を覆して職場復帰なんてさせたら、不正が横行するのが目に見えているでしょう?」
「ごもっともです」
「その重役はね、本気で名簿に上がった人間の職場復帰を狙ってたわけじゃ無いのよ」
「どういう事です?」
話の流れに付いていけずに本気で首を傾げた高須に、真澄は説明を加えた。
「第一に、話を真に受けて進言した私と、父や祖父との間に隙間風を吹かせたかっただけよ。万が一復帰させる事態になっても、社内の不満を私のわがままから規律を曲げたと攻撃する材料にするつもりだったんでしょう。そんな見え透いた策に、誰が嵌るかってのよ。低脳じじぃが」
「ちょ……、何ですかそれはっ! その重役って誰ですか!?」
最後は吐き捨てる様に告げられた内容に、高須は思わず声を張り上げた。それを真澄が軽く手を振って宥める。
「今名前を言わなくても、そのうち分かるわ。食事時に不愉快な名前を口にしたくないの」
そんな風に言われたら蒸し返す事も出来ず、高須は黙り込んだ。それを受けて真澄が再び淡々と話し出す。
「だけど調べてみたら、確かに埋もれさせておくには惜しい人材なのよ。それで考えたの。社長令嬢なんて堅苦しい肩書きを背負いながら、今まで何の為に頑張ってきたのかって」
聞かなくても何となく分かったものの、高須は一応尋ねてみた。
「それで、課長はどういう結論を出したんですか?」
「私、自分が思っていたより、柏木産業が好きだったみたい。少しでも業績を上げて、従業員やその家族をより幸せにしたいと思ったわ。その為には率先して泥を被っても良いって腹を括ったの」
「だから、能力があっても問題を起こした社員ばかりを引っ張ったんですか?」
「ええ。処分前の職場にそのまま復帰させたら、さすがに周囲に波風も立つでしょうけど、社長令嬢の気まぐれで引っ張られた挙げ句、畑違いの職場でお守りをさせられる羽目になるなら妥当でしょう? 勿論直接面接をして、本当に見込みがありそうな人だけを厳選したし。もし問題が生じたら、我が儘を言った私が責任を取って辞めれば良いだけの話よ。現に重役連中の半分はそう思ってるのよ?」
にこやかにそんな事を言いきられて、高須は殆ど反射的に問いかけた。
「課長はそれで本当に良いんですか?」
それに真澄は楽しそうに笑ってから付け加える。
「だってこんな力業、社長令嬢の私位しか出来ないわよ。この春編成したばかりだから上半期の決算では流石に無理でしょうけど、下半期では売上高トップの座を取って、ぬるま湯にどっぷり浸かった重役連中に冷や水を浴びせてやるわ。それだけの面子は揃えたんだもの。それが出来ないのはひとえに私の力量不足よ」
(そうか……、課長は愛社精神がきっと誰よりも強い人なんだ。それに人の本質ってのも見誤らない人で……。だからあの人達と一蓮托生でも、絶対後悔しないんだろうな)
そこでストンと自分の中で納得した高須は、晴れやかな笑顔で真澄に向かって宣言した。
「良く分かりました。入ったばっかりの俺なんかじゃ、まだ全然戦力にならないと思いますけど、少しでも課長の手助けができる様に頑張ります!」
「ありがとう。二課はそんな事情で配属希望の社員が居なくてね。高須さんにはこれからも色々苦労させてしまうと思うけど宜しくね?」
「はい、こちらこそ!」
(うん、俺、尊敬できる上司を持てて良かったかも。確かに苦労は多そうだけど、やりがいは有るよな? 絶対課長を敵視してる重役連中とやらに、一泡吹かせてやる!)
そう決意した高須は、それからは真澄と和やかに会話をしながら、食べ続けたのだった。
そして食べ終わった二人は店を出て、真澄が呼んだ迎えの車を道路沿いで待っていた。
「美味しかったわ、また来たいわね」
「あ、じゃあいつでもお付き合いしますよ? 声をかけて下さい」
「本当に? じゃあ偶に付き合って貰おうかしら?」
「はい、是非!」
互いに満面の笑みで会話していた所で、目の前に高級車が滑り込んできて大した音もなく停まった。それを見て真澄が高須に声をかける。
「じゃあ車が来たから、ここで失礼するわね」
「はい、今日はありがとうございました。あの、課長!」
「何? どうしたの?」
いきなり空いている手を取られた真澄が怪訝な声で高須に問いかけると、高須は真澄の左手を両手で包み込むようにしながら、力強く宣言した。
「これから色々大変でしょうが、負けないで頑張りましょう! 俺、どんな事があっても課長に一生ついて行きますから!」
「ええ、ありがとう。頼りにしてるわ。それじゃあね」
「はい、お疲れ様でした」
笑顔で応じた真澄の手を離し、高須は軽く頭を下げてから真澄を乗せて走り去る車を見送った。
(しかし車で送迎か……。やっぱりお嬢様なんだよな、課長。でも仕事に対する意識も力量も卓越してるし、そのギャップがなんとも……)
そんな事をぼんやりと考えていた時、体の側面に唐突に衝撃を受ける。
「っ、てぇ!?」
歩道に転がって、高須は誰かに追突されたのが分かった。するとその相手らしい男が、体を屈めて片手を差し伸べてくる。
「失礼、こちらの不注意でぶつかってしまって申し訳ありません」
「……いえ、こちらこそ、ぼんやりしていまして」
その手に掴まって立ち上がると、相手が感情を感じさせない声で問いかけてきた。
「お怪我はありませんか?」
「いえ、大丈夫だと思います」
「そうですか。それでは失礼します」
自分とそう身長が変わらない男の、何となく不気味な雰囲気に文句を言う気も失せ、黙ってみおくってから高須は小さく悪態を吐いた。
「何なんだ? 夜にサングラスってありえないだろ? 全面的にそっちのせいだろうが」
そして(せっかく気分が良かったのに台無しだ)などと思いながらも、自宅に戻るために最寄りの地下鉄構内に入り、定期を取り出そうとして異常が発生した。
「さて定期はっと。あれ? 何か入っ……」
常とは異なる感触に首を捻りつつ、手に触れた物を指先で摘まんでポケットから取り出してみた途端、高須はそれを放り出しながら悲鳴を上げた。
「うっぎゃあぁぁぁっ!! ク、クモっ!?」
その悲鳴に周囲の人間もギョッとした目を向けたが、床に落ちた身動きしない黒い大グモをまじまじと眺めた高須は、呆然とそれを見下ろした。
「……じゃなくて、オモチャ? 凄いリアルだな……、だけど何でこんな物がポケットに?」
そんな不可解な事があった翌朝、高須は職場で険しい顔つきの城崎に出迎えられた。
「おはようござい」
「高須! 大丈夫だったか!?」
「係長? 朝からいきなり何ですか?」
自分の顔を見るなり自分の席からすっ飛んできた城崎に、高須は若干引きながら問いかけた。すると僅かに後ろめたそうに、城崎がとんでもない事を言い出す。
「その……、昨日帰り道で、車道に突き飛ばされたり、工事現場の足場から鉄骨が落ちてきたり、マンホールの蓋が開いてた所に落ちたりとかしなかったか?」
「係長……、そんな事があったら、多分俺、今ここに居ません」
呆れながら高須が常識的な事を口にしたが、城崎はまだ疑わしそうに問いを重ねる。
「それはそうだが……、何か変わった事は無かったか?」
「変わった事?」
重ねて問いかけられた高須は首を捻り、取り敢えず思い当った事を口にした。
「そう言えば……、何故かジャケットのポケットに、凄くリアルな大蜘蛛のゴム製のオモチャがいつの間にか紛れ込んでいて、取り出した瞬間悲鳴を上げましたね。それ位でしょうか?」
「そうか、それなら良かった。変な事を言ってすまん」
「いえ、構いません」
そうは言ったものの、高須は内心(係長も色々苦労が多くて、ちょっと錯乱気味なのかもしれないな)と密かに同情したのだった。
※※※
そんな新人時代もあっという間に過ぎ去り、入社四年目の現在、高須は当時の事を懐かしく思い返していた。
「……取り敢えずこちらの契約書の見直しを今日中に。加えて佐合金属との打ち合わせを来週中に設定して下さい。あとはクレージュ・レインのイベント企画案は本決まりです。細かいスケジュールを設定して下さい」
(課長の下で働き始めた頃、課長の事を仕事の鬼だって思った事があったが……)
目の前の課長席に座っている男性を眺めながら考え事をしていた高須に、鋭い声がかけられる。
「高須さん? 私の話を聞いていましたか?」
「は、はいっ!」
「それでは通しで一字一句漏らさず復唱を」
「…………っ」
淡々と命令されて、高須は思わず顔を引き攣らせた。
(この人は……、何でこう人をいたぶる様な真似を……。第一俺は課長の部下で、こいつの部下じゃ)
「『第一俺は課長の部下で、こいつの部下じゃねえ!』とでも言いたそうな顔だな」
(あんたエスパーかよ!?)
思っていた事を言葉にされて高須は完全に絶句したが、対する現在仮の上司たる男は、先程までのすました表情と丁寧な口調をかなぐり捨て、底光りする眼で高須を見上げつつ低く恫喝してきた。
「思った事が顔にでる様ではまだまだだな。真澄が復帰するまでに、まともに使い物になる様に、鍛え直してやるぞ。『どんな事があっても課長に一生ついて行く』んだろう?」
(は? それ、課長から聞いたのか?)
確かに口にした覚えのある台詞に高須が戸惑っていると、相手はふんと小さく笑ってから手で追い払う素振りをした。
「とっとと席に戻って仕事しろ。生憎俺は真澄程甘くない。真澄の復帰までにそれなりのレベルに到達できなかったら、ここから叩き出してやるからそう思え」
(鬼の旦那は、他人を手のひらの上で転がす、悪魔だったって事か……。こう言ってはなんですが、もの凄くお似合いです)
がっくりと項垂れながら自分の席に戻った高須は、悪魔の配偶者たる鬼課長の、一日も早い復帰を心の底から願ったのだった。
「最終的な君の希望が営業部もしくは企画推進部、と。了解した。それでは高須君、次に君の家庭環境について少し尋ねたいんだが」
「はい、何でしょうか?」
「君はお父親が早く亡くなって、お母上が女手一つで育られたそうだが……」
「はい、その通りです」
ピクリと片眉を動かしながらも、高須はいつもの通りの口調で返した。すると何が目的なのか、相手が更に突っ込んだ内容を聞いてくる。
「何でも小さな運送会社を切り盛りしている女傑らしいね。並み居る男性従業員を使いこなし、率先してトラックの運転もされているとか」
呆れとも感心とも取れる微妙な声音での台詞にも、高須は冷静に言い返した。
「……確かに大型免許保持者ですが。それが何か?」
「周囲からの信頼も厚い地域密着型の会社で、保護司から紹介を受けた軽犯罪の仮釈放者や執行猶予中者の受け入れ先にもなっているとか。いや、なかなかどうしてできる事では」
ここでとうとう高須の堪忍袋の緒が切れた。
「さきほどから、一体何を仰りたいんですか!? 確かに母は女手一つで姉や俺を育ててくれましたが、赤の他人に揶揄されたり、後ろ指を指されたりする様な事は一度だってした事が無い自慢の母です! 第一実家の会社で引き受けた人達も、保護司さんが自信を持って推薦した人達ばかりで、皆自分の行為をきちんと反省して真面目に働いてくれていますし、俺が知る限り一度も問題を起こした事は有りません!!」
勢い良くテーブルを叩きながら立ち上がり大声で怒鳴った高須に、相手は目を白黒させてから高鷲から目線を逸らしつつ、もごもごと弁解してくる。
「あ、その、気に障ったのなら申し訳ない。そういう家庭環境なら、ちょっとやそっとの事で動じないだろうと思って、事実確認をしようとしただけなんだ。君のご家族や実家の家業について誹謗中傷するつもりでは無かったから、勘弁してくれたまえ」
「はぁ……」
「それでは面接はこれで終了だ。週明けに配属が決定するので、楽しみにしていてくれたまえ」
「……分かりました。失礼します」
色々言いたい事をグッと堪えつつ、高須は一礼して歩き出した。しかし廊下を歩きながら、心の中で悪態を吐く。
(一体何なんだ? 単なる好奇心か? 幾らこちらが新入社員でも、失礼にも程が有るだろうが!)
そうして憤懣やるかたない表情で高須はその場から歩き去ったが、この時のやり取りの理由をその直後から身をもって知る事になったのだった。
そして約半年後。
(うん、確かに管理者が女性とか、脛に傷持つ人間がゴロゴロって環境には慣れてたがな……。あの時の面接の意味が、今では良く分かる。確かに並の神経の人間なら、保たないかもしれないな。ここまで鬼の巣窟だと……)
そんな事を漠然と考え、どこか遠い目をしながら高須は日常業務に勤しんでいた。
「高須君、売り込み予定先のリストアップが甘いぞ。この商品なら欲しがってる会社が私の知っている会社でも数社ある。再度見直して五割増しの社数を見込んでおきなさい」
(顧客管理の鬼、村上さん)
「あぁ!? 製造時の不良品発生率0パーセントだと? そんな与太話真に受けて帰って来る馬鹿がどこにいる! どんな物でも不良品は発生するし、その発生率をいかに下げるかで現場はコスト下げてんだろうが! そんな数字操作する不誠実な会社とは即刻取引中止だ!」
(品質管理の鬼、清瀬さん)
「高須君……、実際の取引は二か月は先だよ? それなのにこの相場で予算を組んだら赤字確定だ。今は輸入先の天候が不順な上為替相場も怪しいから、先物取引はもう少し長期予想ができるようになったら手を出そうか」
(相場の鬼、林さん)
「こんな予算が経費で落ちるか! しかもそれを組み込んでももっと安く単価が出せるぞ。さっさと無駄な所を絞り直せ!」
(予算編成の鬼、枝野さん)
「着眼点は良いんだけどね、高須君。この個人ネットワークPRシステムは、個人情報保護法にギリギリ抵触する内容だね。無理に商品化する価値はないから、今回はご苦労様という事で」
(情報管理の鬼、川北さん)
「こら、売り込むポイントを最大限にアピールできなくてどうする? 他社と条件がほぼ同じなら、後は担当者の話術と根性だ。目一杯はったりかませ!」
(プレゼンの鬼、加山さん)
「高須、これターゲット世代がどこら辺かちゃんと分かってるのか? 無差別に売り込んだって仕方ないだろ? これはどうみても高齢者向けだから、ちゃんと街中で該当者の動きや溜り場押さえて、そこを狙って売り込むんだ」
(販路拡充の鬼、土岐田さん)
「高須、これは船便輸送だろう。こんなギリギリの日程を組んでどうする。もう少し余裕を取って最初から納品先に交渉しておけ。それから保険関係の書類提出も忘れてるぞ?」
(スケジュール管理の鬼、城崎係長)
「……これと、このデータを纏めて一覧表を作成して下さい。それから、付箋が付けてある所が誤字脱字箇所です。訂正の上、すぐに再提出を。常用漢字はきちんと頭に入れておくように」
「申し訳ありません」
(そして最大の仕事の鬼、柏木課長……。怒鳴られたりするよりも、笑顔でバッサリザックリ切られた方が精神的ダメージが大きい事に、俺は社会人になってから気づきました……)
そんな事を考えながら書類を受け取って自分の席に戻った高須は、チラッと真澄の机を眺めてから小さく溜め息を零した。
(本当に、うちの母親なんかとは比べ物にならない位若くて美人なのに、母さん以上に大の男を顎でこき使ってるのが凄いんだよな……。使ってる面子が面子だし)
そして社内で色々噂されている二課の噂や評判の類を思い出し、無意識に眉を顰めた高須は、それでも取り急ぎの書類を作成し終え、再び真澄の所へ足を向けた。そしてチェックを受けて了承の返事をもらった高須は、軽く会釈してからこの数日密かに考えていた事を思い切って口にしてみる。
「柏木課長、今夜業務後にお時間空いてますか? ちょっと折り入ってお尋ねしたい事があるんですが」
それを聞いた真澄は、ちょっと驚いた顔をしつつも、即座に答えを返した。
「今日は無理だけど、明日なら良いわよ? 何かしら? 仕事上での話?」
「仕事上と言えば仕事上ですが、プライベートと言えばプライベートでしょうか?」
「あら、複雑そうね。良いわよ? じゃあ夕食を付き合って」
「分かりました」
軽く首を傾げた高須に、真澄が小さく笑いながら頷き、それでその話は終わりになった。それからは普通に仕事をこなしていたが、三十分程して高須がトイレに行こうと席を立ち、廊下に出たところで、後を追って来たらしい城崎に捕まる。
「……おいっ、高須! さっきのは何だ!?」
「さっきのと言われますと?」
狼狽気味に問い掛けてきた城崎に、高須が怪訝な顔で振り向いた。それに噛み付く様に城崎がたたみかける。
「とぼけるな! 課長を夕食に誘っていただろうがっ!」
「別に俺が誘ったわけでは……。話があると言ったら夕飯を一緒にと言う事になっただけで……」
「同じ事だろうが! 一体何の話をするつもりだ!?」
「それは、まあ……、ちょっとした仕事上の好奇心ですので。係長には関係ありませんから」
(係長以外には関係あるから、人目のあるこの場で迂闊な事は言えないしな)
何故城崎が血相を変えているのか分からないまま、自分達に不思議そうな視線を向けつつ社員が次々と通り過ぎて行くのを、高須は横目で見やった。すると城崎が諦めた様に溜め息を吐く。
「……分かった、もう何も言わん。明日課長と食事に言って来い」
「はい、そうします」
そこで本来の目的地であるトイレに向かおうとした高須の両肩を、城崎がガシッと両手で掴んで再度引き留めた。
「すまん、高須」
「何がです?」
いきなり真剣そのものの顔付きで謝罪してきた城崎に高須は面食らったが、城崎は問いに対する返答はせず、唐突に忠告らしき事を口にする。
「悪い事は言わん。明日は前後左右上下に最大限の注意を払え。俺に言える事はこれだけだ」
「……はぁ」
(係長、一体どうしたんだ?)
そうして何事かをブツブツ言いながら部屋に戻って行く城崎を、高須は怪訝な表情で見送ったのだった。
そして翌日、残業を短時間で切り上げた真澄は、立ち上がりながら高須に声をかけた。
「お待たせ。じゃあ行きましょうか?」
「はい」
時間潰しで提出期限まで余裕の書類を作っていた高須はすぐさま立ち上がり、同じく残業をしていた城崎に挨拶をして真澄と連れ立って部屋を出た。そして恐縮気味に真澄に声をかける。
「課長。どこで食べましょうか」
「行きたい所があるから、そこで良い?」
「はい、構いません。お付き合いして貰っているんですから、課長のお好きなところで」
笑顔で応じ、世間話をしながら歩き出した高須は、この時密かに後悔した。
(とは言ったものの……、高級フレンチとかだったらどうするかな。この場合俺が奢らないと拙いだろうし、先に決めておけば良かったかも……)
しかし真澄の行きたい店のチョイスは、完全に高須の予想の斜め上を突いた。
「あ、着いたわ。ここで良いわよね?」
社屋ビルから十五分程歩き、真澄が指差した自動ドアの向こうには、所謂セルフサービス式の大衆食堂が存在し、そこでは仕事帰りらしいサラリーマンがチラホラとテーブルに着いて夕飯を食べていた。しかし華美では無いが間違っても既製品のスーツでは有り得ない出で立ちの真澄を連れて、入って良いものかどうか判断に迷った高須は、途方に暮れてしまう。
「……あの、本当にここ、ですか?」
「一度入ってみたかったのよ。商談の帰りに前を通って気が付いたんだけど、昼休みに一駅分歩くと下手したら戻るのにギリギリだし、帰りは大抵車が迎えに来るから一緒に入ってくれる人もいないし」
「はぁ……、まあ、そうでしょうね……」
にっこり笑った真澄だが、高須の迷いは消える事が無かった。
(良いんだろうか? 車で送迎されている、れっきとした大企業の社長令嬢を、こんな所に連れてきて)
高須のそんな戸惑いなど気にも留めない風情で、真澄は悠然とドアに向かって足を踏み出した。
「えっと、どうやって注文するの? 食券とか買うのかしら?」
迷わず店内に入り、キョロキョロと周囲を見回しつつ足を踏み出した真澄に、高須は取り敢えず前方を指差しつつ説明する。
「あのですね、あの人達の様に、あそこからトレーを持って、レーンに沿って食べたい物だけ取って行くんです。最後にあそこで会計しますから」
一通り高須がシステムを説明すると、納得した様に真澄は重なったトレーを一つ取り上げ、高須と一緒に小分けされている料理の前に移動した。
「ああ、なるほどね。でも凄いわ、結構種類が有って迷うわね」
「課長、小皿や小鉢を取り過ぎない様に注意して下さい。それから蛋白質と野菜類のバランスも考えて下さいね?」
「分かったわ。高須さん、お母さんみたいね」
(いや、課長があんまり物珍しそうにしてるので、つい面倒をみなくちゃいけない気分になっただけです)
クスクスと真澄は小さく笑い、高須も苦笑いしながらおかずを選び、ご飯とお味噌汁をよそって貰って二人で空いているテーブルに着いた。そして挨拶をしてから早速食べ始め、真澄は満足そうに頷いた。
「うん、結構美味しいわね」
「値段の割にはそうですね。しっかり食べられますし」
「そうなのよね……、これって原価はどれ位で作っているのかしら? 光熱費や人件費を考えてもなかなか……。ちゃんとそういうシステムが構築されているんでしょうけど……」
なにやらブツブツ言いながら仕事モードに突入したらしい真澄に小さく失笑してから、高須は真顔になって恐縮気味に問いかけた。
「課長、……ひょっとして俺の懐具合を気にして、ここを選んで貰ったんでしょうか?」
その質問に、真澄は我に返った様に顔を上げて言い返した。
「あら、元々今日の支払いは私が持つつもりだったんだけど。だって部下から相談を持ちかけられたんだし、それ位当然じゃない?」
「……恐縮です。相談と言うか、好奇心からの質問なので」
「ふぅん? じゃあ取り敢えず言ってみて貰える?」
不思議そうに小首を傾げた真澄に、高須はトレーに箸を置いて真顔で尋ねた。
「その……、課長はどうして全国から村上さん達を引き抜いて、自分の下に集めたんですか? 社内で二課の評判が最悪なのはご存知ですよね? 課長は社長令嬢なんですから、わざわざ社内から白眼視される事をする必要は無いでしょう」
それを聞いた真澄も箸を置き、微笑しながら静かに言い出す。
「うちに入って貰ったせいで、高須さんには色々と肩身の狭い思いをさせてるみたいね」
「いえ、俺の事はともかく」
「社長令嬢だから、かしら?」
「はい? どういう事ですか?」
唐突に自分の問いかけの答えが返された事に高須が戸惑うと、真澄は自分の頬に片手を当てて、一瞬考え込んでから再度話し出した。
「どこからどう話せば良いかしら? そうね……、まず就職先を柏木産業にするかどうか、大学時代に随分悩んだの。親が社長を務めている所に入社したら、色眼鏡で見られる事は分かりきっていたし」
「それならどうして入ったんです?」
「実は今まで誰にも言った事は無かったんだけど、祖父の影響なのよ」
「会長の影響ですか?」
ちょっと予想外の展開に高須が戸惑った声を出すと、真澄が小さく笑って続けた。
「ええ。幼稚園の頃だったかしら? 『お父様やお祖父様はどういうお仕事をしているの?』って尋ねた事があるの。総合商社って位置付けが分からなかったのね」
「まあ、それはそうでしょうね」
「その時、お祖父様から『物を売り買する卑しい仕事だ』と言われて、子供心に驚いたわ」
「はぁ? なんですか? それは」
完全に面食らった風情の高須に、真澄は淡々とやり取りの説明をした。
「お祖父様曰わく、『自分では何も産み出さず、物をやり取りするだけで金を稼ぐだけならな。だから柏木は呉服商の頃から、生糸の生産や染織技術の革新に資金をつぎ込み、付加価値を高めて売り手買い手双方に喜んで貰える様な商売をしてきた。勿論周りの困っている人達に、折々に施しもしてきたぞ? その精神は今も変わらん。儂は物を売り買いするならば同時に人々に幸福を運ぶ、そういう心構えで働いているから、卑しい商売かもしれんが自分に恥じる所は一切無い』だそうよ。その後『真澄にはまだ難しかったかの?』と付け加えられたけど」
そこで話を区切った真澄に、高須は呆気にとられた表情で声をかけた。
「……はぁ。課長はそれを聞いてどう思ったんですか?」
「『お祖父様は皆にキラキラの笑顔を運ぶお仕事をしてるのね!?』って感動したわ」
「キラキラっ……」
「笑って構わないわよ?」
思わず口走ってから片手で口元を押さえた高須を見て、真澄が幾分拗ねた口調で応じる。しかし高須は何とか笑い出すのを堪えながら感想を述べた。
「いえ、きっと会長に向かってそう言ったんですよね。孫娘にキラキラの笑顔でそんな事を言われて、あの会長がデレデレに笑み崩れた所が想像できました」
一度だけ入社式で見た、壇上の厳めしい顔つきの老人を思い出しつつ高須が想像力をフル稼働させていると、真澄が小さく肩を竦めて話を続けた。
「それがあったから、『将来柏木に入ってお父様やお祖父様を助けてあげるんだ』って思ってたの。尤も私が中学以上になったら『浩一と違ってお前は女なんだから、勉強なんかしないで花嫁修行でもしてろ』って五月蠅かったし。ハナから私が仕事をする事自体反対だったしね」
「それはちょっと酷いですね。明らかな男女差別じゃないですか」
些か棘のある口調で高須が評したが、真澄はそれには触れずに話し続けた。
「それで……、そんな反対をされていた分、入社してからは頑張ったのよ。女で、しかも経営者の身内なんて、周囲と同程度働けたって認めて貰えないと思ってたから、他人の三倍働く気構えで頑張ってたわ」
(ああ、母さんも似たような事を言ってたな……。『そんなに無理して働かなくても良いだろ?』って言った時、『女が外で働こうと思ったら、男の三倍働く位の気持ちでいなくちゃ駄目なのよ』って)
何となく目の前の上司に共感を覚えながら高須が黙って話を聞いていると、唐突に話題が変わった。
「そんな風に脇目も振らずに頑張ってたんだけど、最近、某重役から内密に相談を受けてね」
「何ですか?」
「要は『こういう不祥事を起こした社員が居て、処分として閑職に回されているんだが、有能な社員でこのまま腐らせるのは惜しいんだ。柏木産業の業績向上の為に、君から社長や会長に彼らの職場復帰をお願いして貰えないだろうか』という話だったの」
「それは村上さん達の事ですよね? それで、社長達にお願いしたんですか?」
「しないわよ、そんな事」
「は?」
てっきりそうかと思い込んだ高須は思わず目を丸くしたが、真澄は平然と正論を繰り出した。
「その場での即答を避けて、その時渡された名簿を元に事実関係と詳細を調べたけど、明らかに犯罪行為、職場の倫理規定に逸脱する行為があった事は事実で、それは誤魔化しようが無いもの。閑職に回されたのは当然の処置なんだから、そのトップの処置を覆して職場復帰なんてさせたら、不正が横行するのが目に見えているでしょう?」
「ごもっともです」
「その重役はね、本気で名簿に上がった人間の職場復帰を狙ってたわけじゃ無いのよ」
「どういう事です?」
話の流れに付いていけずに本気で首を傾げた高須に、真澄は説明を加えた。
「第一に、話を真に受けて進言した私と、父や祖父との間に隙間風を吹かせたかっただけよ。万が一復帰させる事態になっても、社内の不満を私のわがままから規律を曲げたと攻撃する材料にするつもりだったんでしょう。そんな見え透いた策に、誰が嵌るかってのよ。低脳じじぃが」
「ちょ……、何ですかそれはっ! その重役って誰ですか!?」
最後は吐き捨てる様に告げられた内容に、高須は思わず声を張り上げた。それを真澄が軽く手を振って宥める。
「今名前を言わなくても、そのうち分かるわ。食事時に不愉快な名前を口にしたくないの」
そんな風に言われたら蒸し返す事も出来ず、高須は黙り込んだ。それを受けて真澄が再び淡々と話し出す。
「だけど調べてみたら、確かに埋もれさせておくには惜しい人材なのよ。それで考えたの。社長令嬢なんて堅苦しい肩書きを背負いながら、今まで何の為に頑張ってきたのかって」
聞かなくても何となく分かったものの、高須は一応尋ねてみた。
「それで、課長はどういう結論を出したんですか?」
「私、自分が思っていたより、柏木産業が好きだったみたい。少しでも業績を上げて、従業員やその家族をより幸せにしたいと思ったわ。その為には率先して泥を被っても良いって腹を括ったの」
「だから、能力があっても問題を起こした社員ばかりを引っ張ったんですか?」
「ええ。処分前の職場にそのまま復帰させたら、さすがに周囲に波風も立つでしょうけど、社長令嬢の気まぐれで引っ張られた挙げ句、畑違いの職場でお守りをさせられる羽目になるなら妥当でしょう? 勿論直接面接をして、本当に見込みがありそうな人だけを厳選したし。もし問題が生じたら、我が儘を言った私が責任を取って辞めれば良いだけの話よ。現に重役連中の半分はそう思ってるのよ?」
にこやかにそんな事を言いきられて、高須は殆ど反射的に問いかけた。
「課長はそれで本当に良いんですか?」
それに真澄は楽しそうに笑ってから付け加える。
「だってこんな力業、社長令嬢の私位しか出来ないわよ。この春編成したばかりだから上半期の決算では流石に無理でしょうけど、下半期では売上高トップの座を取って、ぬるま湯にどっぷり浸かった重役連中に冷や水を浴びせてやるわ。それだけの面子は揃えたんだもの。それが出来ないのはひとえに私の力量不足よ」
(そうか……、課長は愛社精神がきっと誰よりも強い人なんだ。それに人の本質ってのも見誤らない人で……。だからあの人達と一蓮托生でも、絶対後悔しないんだろうな)
そこでストンと自分の中で納得した高須は、晴れやかな笑顔で真澄に向かって宣言した。
「良く分かりました。入ったばっかりの俺なんかじゃ、まだ全然戦力にならないと思いますけど、少しでも課長の手助けができる様に頑張ります!」
「ありがとう。二課はそんな事情で配属希望の社員が居なくてね。高須さんにはこれからも色々苦労させてしまうと思うけど宜しくね?」
「はい、こちらこそ!」
(うん、俺、尊敬できる上司を持てて良かったかも。確かに苦労は多そうだけど、やりがいは有るよな? 絶対課長を敵視してる重役連中とやらに、一泡吹かせてやる!)
そう決意した高須は、それからは真澄と和やかに会話をしながら、食べ続けたのだった。
そして食べ終わった二人は店を出て、真澄が呼んだ迎えの車を道路沿いで待っていた。
「美味しかったわ、また来たいわね」
「あ、じゃあいつでもお付き合いしますよ? 声をかけて下さい」
「本当に? じゃあ偶に付き合って貰おうかしら?」
「はい、是非!」
互いに満面の笑みで会話していた所で、目の前に高級車が滑り込んできて大した音もなく停まった。それを見て真澄が高須に声をかける。
「じゃあ車が来たから、ここで失礼するわね」
「はい、今日はありがとうございました。あの、課長!」
「何? どうしたの?」
いきなり空いている手を取られた真澄が怪訝な声で高須に問いかけると、高須は真澄の左手を両手で包み込むようにしながら、力強く宣言した。
「これから色々大変でしょうが、負けないで頑張りましょう! 俺、どんな事があっても課長に一生ついて行きますから!」
「ええ、ありがとう。頼りにしてるわ。それじゃあね」
「はい、お疲れ様でした」
笑顔で応じた真澄の手を離し、高須は軽く頭を下げてから真澄を乗せて走り去る車を見送った。
(しかし車で送迎か……。やっぱりお嬢様なんだよな、課長。でも仕事に対する意識も力量も卓越してるし、そのギャップがなんとも……)
そんな事をぼんやりと考えていた時、体の側面に唐突に衝撃を受ける。
「っ、てぇ!?」
歩道に転がって、高須は誰かに追突されたのが分かった。するとその相手らしい男が、体を屈めて片手を差し伸べてくる。
「失礼、こちらの不注意でぶつかってしまって申し訳ありません」
「……いえ、こちらこそ、ぼんやりしていまして」
その手に掴まって立ち上がると、相手が感情を感じさせない声で問いかけてきた。
「お怪我はありませんか?」
「いえ、大丈夫だと思います」
「そうですか。それでは失礼します」
自分とそう身長が変わらない男の、何となく不気味な雰囲気に文句を言う気も失せ、黙ってみおくってから高須は小さく悪態を吐いた。
「何なんだ? 夜にサングラスってありえないだろ? 全面的にそっちのせいだろうが」
そして(せっかく気分が良かったのに台無しだ)などと思いながらも、自宅に戻るために最寄りの地下鉄構内に入り、定期を取り出そうとして異常が発生した。
「さて定期はっと。あれ? 何か入っ……」
常とは異なる感触に首を捻りつつ、手に触れた物を指先で摘まんでポケットから取り出してみた途端、高須はそれを放り出しながら悲鳴を上げた。
「うっぎゃあぁぁぁっ!! ク、クモっ!?」
その悲鳴に周囲の人間もギョッとした目を向けたが、床に落ちた身動きしない黒い大グモをまじまじと眺めた高須は、呆然とそれを見下ろした。
「……じゃなくて、オモチャ? 凄いリアルだな……、だけど何でこんな物がポケットに?」
そんな不可解な事があった翌朝、高須は職場で険しい顔つきの城崎に出迎えられた。
「おはようござい」
「高須! 大丈夫だったか!?」
「係長? 朝からいきなり何ですか?」
自分の顔を見るなり自分の席からすっ飛んできた城崎に、高須は若干引きながら問いかけた。すると僅かに後ろめたそうに、城崎がとんでもない事を言い出す。
「その……、昨日帰り道で、車道に突き飛ばされたり、工事現場の足場から鉄骨が落ちてきたり、マンホールの蓋が開いてた所に落ちたりとかしなかったか?」
「係長……、そんな事があったら、多分俺、今ここに居ません」
呆れながら高須が常識的な事を口にしたが、城崎はまだ疑わしそうに問いを重ねる。
「それはそうだが……、何か変わった事は無かったか?」
「変わった事?」
重ねて問いかけられた高須は首を捻り、取り敢えず思い当った事を口にした。
「そう言えば……、何故かジャケットのポケットに、凄くリアルな大蜘蛛のゴム製のオモチャがいつの間にか紛れ込んでいて、取り出した瞬間悲鳴を上げましたね。それ位でしょうか?」
「そうか、それなら良かった。変な事を言ってすまん」
「いえ、構いません」
そうは言ったものの、高須は内心(係長も色々苦労が多くて、ちょっと錯乱気味なのかもしれないな)と密かに同情したのだった。
※※※
そんな新人時代もあっという間に過ぎ去り、入社四年目の現在、高須は当時の事を懐かしく思い返していた。
「……取り敢えずこちらの契約書の見直しを今日中に。加えて佐合金属との打ち合わせを来週中に設定して下さい。あとはクレージュ・レインのイベント企画案は本決まりです。細かいスケジュールを設定して下さい」
(課長の下で働き始めた頃、課長の事を仕事の鬼だって思った事があったが……)
目の前の課長席に座っている男性を眺めながら考え事をしていた高須に、鋭い声がかけられる。
「高須さん? 私の話を聞いていましたか?」
「は、はいっ!」
「それでは通しで一字一句漏らさず復唱を」
「…………っ」
淡々と命令されて、高須は思わず顔を引き攣らせた。
(この人は……、何でこう人をいたぶる様な真似を……。第一俺は課長の部下で、こいつの部下じゃ)
「『第一俺は課長の部下で、こいつの部下じゃねえ!』とでも言いたそうな顔だな」
(あんたエスパーかよ!?)
思っていた事を言葉にされて高須は完全に絶句したが、対する現在仮の上司たる男は、先程までのすました表情と丁寧な口調をかなぐり捨て、底光りする眼で高須を見上げつつ低く恫喝してきた。
「思った事が顔にでる様ではまだまだだな。真澄が復帰するまでに、まともに使い物になる様に、鍛え直してやるぞ。『どんな事があっても課長に一生ついて行く』んだろう?」
(は? それ、課長から聞いたのか?)
確かに口にした覚えのある台詞に高須が戸惑っていると、相手はふんと小さく笑ってから手で追い払う素振りをした。
「とっとと席に戻って仕事しろ。生憎俺は真澄程甘くない。真澄の復帰までにそれなりのレベルに到達できなかったら、ここから叩き出してやるからそう思え」
(鬼の旦那は、他人を手のひらの上で転がす、悪魔だったって事か……。こう言ってはなんですが、もの凄くお似合いです)
がっくりと項垂れながら自分の席に戻った高須は、悪魔の配偶者たる鬼課長の、一日も早い復帰を心の底から願ったのだった。
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