ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第51話 ちょっとした出来心

「お帰りなさい。ご飯、温めるわね」
「ああ、頼む」
 心なしか不機嫌そうにリビングに入って来た隆也を見て、貴子は苦笑気味にソファーから立ち上がった。そしてキッチンに入って料理を揃え始めるのと同時に、オープンカウンター越しに声をかける。


「『先に食べてろ』って言うから先に食べたけど、やっぱり十二月だと忙しいみたいね」
 その問いかけに、面白く無さそうな顔付きのまま鞄を放り出す様にソファーに置き、ダイニングテーブルの椅子に座った隆也は、忌々しげに悪態を吐いた。


「全く……、何で毎年年末っていうと、慌ててゴソゴソ動き出す輩が多いんだ? 全員、春まで冬眠しやがれ」
 そのまま何やらブツブツと呟いている隆也に、貴子は笑いを堪えながら手早く準備を済ませ、トレーを持ってリビングに戻った。


「機嫌悪いわねぇ。じゃあまずこれで、機嫌を直して」
 そう言いながら、隆也の目の前に銚子と盃、アサリの酒蒸しと揚げ出し豆腐、茄子田楽を並べると、一瞬驚いた様な顔付きになった隆也は、すぐに笑いながら催促した。


「他にも有るだろう? ケチらずどんどん持って来い」
「はいはい」
 この間に隆也の好みを一通り知り尽くしていた貴子は、このところ仕事に忙殺されているらしい隆也の為に準備しておいた幾つかの料理を次々と出し、機嫌を直させるのに成功した。


「このところ、本当に忙しそうよね。私は逆に、これほど暇な師走は経験無いんだけど」
 取り敢えず酒は終了し、残ったおかずに加えて出されたご飯と味噌汁で隆也が夕食を済ませていると、向かい側に座った貴子がお茶を飲みながらそんな事を言い出した。それに隆也が淡々と答える。


「来月からはまた仕事をするんだろう? ゴロゴロできるのも今のうちだけだ。のんびりしてろ」
「それもそうだけど、クリスマスや年末年始に仕事が入って無いなんて、ちょっと落ち着かないわ」
 そう言って苦笑した貴子がまたお茶を飲むと、自分の予定を思い返した隆也は、箸の動きを止めてある事について話し出した。


「その、下旬なんだが……」
「何?」
 何やら微妙に言い難そうにしている為、貴子は不思議そうに問い返した。それに隆也が珍しく困った様な顔つきで話を続ける。


「さすがに年末年始は休ませて貰えそうだが、それまでは仕事が詰まってるんだ」
「それはそうでしょうね。ただでさえ、秋に異動したばかりだし」
「だから、どう考えても、クリスマス前後は時間が取れそうもない」
「はぁ?」
 いきなり飛んだかのように見えた話の内容を頭の中で反芻してみた貴子は、相手の発言の意味が漸く分かり、その予想外の事に思わず笑いを堪えながら確認を入れた。


「ひょっとして……、クリスマスに時間を取ってくれるつもりでいたの? そんな事、全然期待して無かったんだけど」
「……一応だ」
 途端に面白くなさそうな返事が返ってきた為、貴子は慌てて笑いを引っ込めて弁解した。


「ええと、その、本当に気を遣わなくて良いわよ? 今年はじっくり家で料理しようと思ってたし。その時期に、出張とかが入っているわけじゃないのよね?」
「それは無い」
「それなら帰って来るのを待ってるから、一緒に食べましょう? 腕によりをかけて準備するから。と言っても、腕が鈍ってないか心配だけど、そこの所は大目に見てよ?」
 貴子が苦し紛れにそう口にすると、機嫌を直したらしい隆也が不敵な笑みを浮かべる。


「甘いな。俺がそう簡単に、妥協すると思うのか?」
「人が作った物にケチを付ける気なら、九時までには帰って来るんでしょうね?」
「確かに、それ位は礼儀だな」
 それでひとしきり二人で笑った後、ある事を思い出した隆也が話題を変えた。


「それで、年末年始の予定だが」
「あ、年末年始と言えば、私、皆と旅行する事になったの!」
 自分の台詞を遮って貴子が言い出した内容に、隆也が軽く眉を顰める。
「旅行? 誰と」
「お義父さんとお母さんと、祐司と孝司と五人で」
 しかし貴子は隆也の反応には気が付かず、上機嫌なまま詳細を告げた。それを聞いた隆也は、納得して頷く。


「……ああ、なるほど。家族旅行って事か」
「うん、そうなの。皆で揃って旅行する事も無くなって久しいから、偶には温泉でも行こうかって祐司が言い出したらしくて。私も誘ってくれたから、一緒に行きたいんだけど……」
 ウキウキと話を出したものの途中で我に返ったらしく、最後は声に勢いが無くなってしまった貴子に、隆也は苦笑しながら言葉を返した。


「別に旅行に行っても構わないが? 俺も年末年始は実家に帰ろうと思っていたしな」
 それを聞いた貴子は、如何にも安堵した表情を見せる。
「そう? じゃあ行って来るわね」
「ああ、楽しんで来い」
 鷹揚に頷いて食べるのを再開した隆也だったが、それを見た貴子はある事を思い出した。


「そうだわ、ヨッシーも充電してあげないと」
「そんな事しなくていい」
 腰を浮かしかけつつ貴子がそう口にした途端、不機嫌になった隆也が断言した。その豹変ぶりに、貴子はさすがに呆れながら言い返す。


「あのね……、ヨッシーにまで嫉妬するのは止めてくれる?」
「誰がぬいぐるみに嫉妬するんだ」
「目の前に座ってる男に決まってるでしょうが」
「大体、そいつに構ってる暇があるってどういう事だ?」
「別に良いでしょ?」
 そこで面白く無さそうな顔で黙り込んだ隆也に、貴子は呆れ果てたと言った感じで、軽く頭を振った。


「分かったわよ。ヨッシーが可哀想だけど充電はしないで、お腹を空かせたままにしておくし、夜はあの子には構わないで、隆也を構ってあげるわ。それで問題ないでしょう?」
「当然だ」
「……もう少し、謙虚になれないのかしら?」
 傲岸不遜な態度で頷いた隆也を見て貴子は思わず肩を竦め、それと同時に隆也がそろそろ食べ終わる事に気付いて、食後のお茶を淹れる為、今度こそ立ち上がってキッチンへと向かった。




「ひょっとしたら……、俺の方が早く起きるのは初めてか?」
 翌朝、珍しく貴子より早くベッドから抜け出た隆也は、眠気覚ましに珈琲でも飲もうかとパジャマ姿のままキッチンに入った。そしてお湯を沸かそうとしたところで、一人考え込む。


「偶には作ってみるか? あいつがボケたら、俺が作って食わせてやらないといけないからな」
 軽く笑いながらそんな事を呟いた隆也は早速行動を開始し、後々隆也自身とその周囲の人間が“魔が差した”としか評さない、惨劇の幕が切って落とされる事になった。
 それから小一時間後。軽く目を擦りながら、貴子がパジャマのままリビングにやって来た。


「おはよう。なんでそっちの方が早く起きてるのよ……」
「そんな寝ぼけ顔で何を言ってる」
「ところで、何か焦げてる様な、変な臭いがしない?」
「一応換気扇はしばらく止めないでおいたが、まだ少し匂うか?」
 ソファーに座って平然と珈琲を飲んでいた隆也に怪訝な顔をしてから、何となく嫌な予感を覚えた貴子が無言でキッチンに足を踏み入れた。そして目の前の光景に、思わず立ち竦む。


「…………何、これ?」
「朝食を作ってみた」
 その背後から、飲み終えたらしいカップを手にやって来た隆也が淡々と答えると、貴子は勢い良く彼に向き直って、憤怒の形相で掴みかかった。
「朝食……って、あっ、あんたねぇぇぇっ!!」
 そこで完全に眠気が吹っ飛んだ貴子から、隆也は盛大な罵倒の言葉を浴びる事となった。


「おはよう、お母さん、朝ご飯ヨロシク~、って……。なんで昨夜居なかった兄さんが、ここで朝ご飯を食べてるのよ?」
 珍しく実家に帰って来た翌朝、パジャマ姿で大あくびしながら広々とした台所に現れた眞紀子は、ちゃっかりテーブルに着いて朝食を食べている兄の姿に、軽く目を見張った。しかし彼女の疑問に兄も母も直接答えず、淡々と言葉を返す。


「眞紀子、もう九時だぞ? 休みだからと言って、だらけ過ぎだ」
「おはよう、眞紀子。急に来た隆也にご飯を出したから、あなたの分は冷凍ご飯よ。おかずも少なくなったけど、我慢してね?」
「えぇぇぇっ!? あたしだって炊き立てご飯食べたい! それにどうして急に帰ってくるのよ、兄さん! 料理上手な彼女はどうしたのよ?」
 憤慨して八つ当たりしてきた妹に、隆也が不愉快そうに言い返そうとしたが、その時お茶のおかわりを求めてやって来たらしい亮輔が、湯飲み片手に口を挟んできた。


「それがどうやら隆也の奴、彼女のマンションから叩き出されたらしいな」
「はぁ? 何で!? 婚約したばかりって聞いてたのに、浮気してバレたとか? 間抜け過ぎるわ」
「阿呆。俺がそんなヘマをするか」
「バレなきゃするわけ?」
「そもそも浮気なんかするか、馬鹿者」
 兄妹でそんな応酬をしていると、親達も興味津々に話に加わってくる。


「そう言えば、どうして朝っぱらから叩き出される羽目になったのか、きちんと聞いてなかったな」
「そうね。さっきは急に帰って来て驚いたし、ご飯の用意でバタバタして聞いてなかったから。理由を教えてくれる?」
 にこやかにそんな事を言われて、もとより変にごまかす気は無かった隆也は、平然と事情を説明し始めた。


「今朝は珍しく俺の方が早く目が覚めたから、偶には俺が朝食を準備しようかと思ったんだ」
 隆也がそう口にした途端、家族全員が驚く。
「どういう風の吹き回しだ?」
「まあ! 貴子さんって偉大ね。家では全然そんな事をした事無かったのに」
「雨じゃなくて、槍が降りそうだわ。だけど兄さん、本当に料理なんかした事無かったじゃない。作り方知ってるの?」
「一応中高の時に、調理実習をした事はある」
 憮然とした顔で反論した隆也だったが、それを聞いた眞紀子は半眼になって呆れたように感想を述べた。


「その程度で、いきなり調理師免許保持者の彼女に料理を作って食べさせようなんて、本当に兄さんってチャレンジャーと言えば聞こえは良いけど、身の程知らずと言うか、単なる馬鹿と言うか、俺様もここに極まれりと言うか」
「五月蠅いぞ」
 そこで妹を睨み付けた隆也を宥める様に、亮輔が声をかけた。


「それで、彼女に不味い物を出して怒られたのか?」
「いや、食べる前にあいつが怒り出した」
「どうして?」
「あいつが一目見るなり『食材に対する冒涜だわ! 何考えてるのよこの罰当たり、出てけ────っ!!』って激怒した」
 それを聞いた亮輔と香苗は無言で顔を見合わせ、眞紀子が不思議そうに尋ねる。


「そんなに怒らせるなんて、一体、どんな代物を作ったのよ?」
「現物は無いが、久しぶりに料理なんかしたから、記念に撮ってみた。……これだ」
 そう言いながら手早くスマホを操作し、該当するデータをディスプレイに映し出した隆也は、それを眞紀子に手渡した。眞紀子がそれに視線を落とし、その両側から亮輔達が覗き込むと、少しの間台所が静寂に包まれる。


「…………兄さん」
「何だ?」
 思わず眞紀子が漏らした声に隆也が反応したが、それをきっかけに眞紀子達の口から、遠慮の無い感想が流れ出た。


「うん、無い。これは無いわ~。確かにこれは、食材にたいする冒涜行為以外の何物でもないわよね~」
「良かった、眞紀子の感性が一般的で。これで『貴子さん、厳し過ぎるんじゃない?』なんて言おうものなら、あなたを一から再教育する必要があるところだったわ」
「隆也……、お前調理実習の時、どんな物を作ったんだ? 周囲の人に迷惑をかけなかっただろうな?」
「随分な言われようだな。確かにあまり美味くは無かったが、何とか食べられない事も無かったが」
「体に悪いから、食べちゃ駄目よ?」
 心外そうに言い返した隆也だったが、香苗が心底呆れた口調で窘めた。そして隆也の料理に関する話題はそこで終わりになり、香苗に出して貰った朝食に手を伸ばしながら、眞紀子が向かい側の隆也に問いかける。


「そう言えば、兄さん。今年の年末年始はどうするの? できればこっちに顔を出した時に貴子さんに直に会ってみたいけど、婚約したばかりみたいだし二人で旅行とか出かけるかしら?」
 何気なく予定を聞いてみた眞紀子だったが、隆也の答えは予想外だった。


「旅行とかには行かない。ここに戻る」
「何で? せっかく纏まった休みなのに、彼女と一緒に過ごせば良いじゃない。どうせ異動したばかりで、普段バタバタしてるんだろうし。確かに貴子さんの顔は見たいけど、いきなり年末年始をずっとここで過ごさせたら、気を遣わせて気の毒だと思うけど」
「貴子は来ない。あいつが家族から旅行に誘われたからな。邪魔をするのは野暮だろう」
 そこまで聞いて、眞紀子は本気で驚いた。


「何それ? 婚約者放置で家族旅行? 実は兄さん、どうでも良い扱いなの?」
「五月蠅い。あいつはこれまで、家族旅行なんてした事無かったからな」
「……貴子さんって、どういう家庭の人なの?」
 思わず眉根を寄せた眞紀子を、隆也が軽く睨む。
「色々事情があるんだ。余計な口を挟むな」
「はぁい、分かりました」
 そのまま台所に居座り、新たに出して貰ったお茶を飲んでいた亮輔から目配せされた眞紀子は、それ以上は詮索せず大人しく引き下がった。すると何かの電子音のメロディーがその場に小さく響き、隆也がぼそりと呟く。


「うん? メール?」
 どうやら隆也のスマホにメールが着信したらしく、食べるのを中断した彼が内容を確認した。そんな兄に向かって、眞紀子が些か皮肉気に声をかける。
「それで? 貴子さん、そんなに怒ってるわけ? せっかく同棲を始めたばかりだって言うのに、兄さんったら早々と出戻りなわけか」
 すると隆也は、何でも無い様子でスマホを元通りスラックスのポケットにしまいながら、短く告げた。


「いや、昼前に帰る」
「あら、随分早いのね。今日一日位は居座るかと思ったのに」
「貴子から『昼食は私が作るから、あまり遅くならない様に帰って来なさい』というメールが来た」
 そんな事を淡々と口にして、残り少ない朝食を再び口に運び始めた隆也を見た面々は、全員笑いを堪える表情になった。


「ほう? 彼女はなかなか寛大だな。恐らく台所も酷い惨状だったと思うが」
「やっぱり隆也にも、少し料理を教えておくべきだったわね。これからも料理が原因で、愛想を尽かされないかしら?」
「なーんだ、心配して損した。結構ラブラブなんじゃない。私のご飯を奪ってないで、リア充はとっとと帰ってよ」
 からかい混じりに片手を振って、追い払う素振りを見せた眞紀子に、小さく肩を竦めた隆也が言い返す。


「心配じゃなくて面白がってただけだろうが。それに食べたらすぐ帰るから安心しろ」
 それを聞いた眞紀子は、思わずうんざりした表情になって悪態を吐いた。
「うっわ、即行で帰るとか? もう、嫌味以外の何物でも無いわ。二度と帰って来ないでよね」
 そんな兄妹のやり取りを、亮輔と香苗は揃って椅子に座ってお茶を飲みながら微笑ましく見守っていた。



コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品