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ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第50話 過去との決別

 荷物を抱えて久しぶりに自宅マンションに帰り着いた貴子は、リビングに足を踏み入れるなり、しみじみとした口調で述べた。
「やっと、戻って来れたわ……」
 それを聞いた隆也が、思わず苦笑いする。


「いかにも感動したって言い方だな」
「本当にちょっと感動したもの」
 少しムキになって言い返し、何となく周囲を見回した貴子は、多少違和感を感じた。


(なんだか、思ってたより埃っぽくないと言うか……、綺麗?)
 改めて室内を点検しながら眺めていると、隆也が荷物片手に当然のごとく声をかけてくる。
「ほら、とにかく荷物を片付けるぞ」
 そうして寝室に向かう隆也の後ろに付いて歩きながら、貴子はふと思い付いた疑問を口にした。


「そういえば、下のエントランスもここの玄関も、隆也が鍵を開けたわよね?」
「何だ、今頃気付いたのか? 遅いぞ。祐司君から合鍵を貰ったんだ」
 軽く振り返りつつ呆れた顔を見せた隆也に、貴子の顔が僅かに引き攣る。


「いったいいつの間に……、と言うか祐司もあんたも、本人に一言断りを入れようって言う常識は無いわけ?」
「そんな常識は無い」
「聞いた私が馬鹿だったわ。それに、ひょっとして室内の掃除をしたの?」
 がっくり項垂れながらの貴子の問いに、寝室に入り、手慣れた様子でチェストの引き出しを開けた隆也は、ボストンバッグのファスナーを開けながら淡々と答えた。


「先週から、ここで暮らしてるからな。生活する上で必要な措置を取ったまでだ。掃除道具は探して、勝手に使わせて貰ったからな」
 その事後承諾を聞いて、貴子は半ば唖然としながら更に問い質した。


「暮らしてるって……、また着替えや小物を持ち込んだって事?」
「何か文句があるのか?」
 隆也が引っ張り出そうとしていた物が自分の下着だと思い出した貴子が、慌ててボストンバッグを取り返しながら確認を入れると、隆也は小さく笑いながら立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。そこに見慣れた彼のスーツが何着も掛けてあるのを見て、貴子は反論を諦めた。


「無いけど……。前に泊まってた時、掃除とかしてなかったでしょう? あんたに家事能力は、一切期待して無かったんだけど」
 それに対しても隆也はスーツケースを開け、ブラウスをハンガーにかけてクローゼットにしまいながら、平然と答える。


「前は泊まりに来てた客だからな。これからは同居するわけだから、出来る事はちゃんと役割分担するべきだろう」
「どこがどう違うのよ……」
 本気で頭を抱えたくなった貴子だったが、すぐに気を取り直して質問を繰り出した。


「良く分からない理屈だけど、やってくれるって言うならやって頂戴。だけど、何ができるの?」
「料理以外なら、一通りできる。そこの所は両親が厳しくてな」
「厳しいって、どんな風に?」
 少し興味をそそられた貴子が見上げると、隆也は真顔で説明を始めた。


「『社会人なら、生活を営む能力は最低限保持する必要があるし、家族なら役割分担するのが当然だ』という事で、取り敢えず自分の部屋の掃除と、トイレの掃除は父が、風呂の掃除は俺が担当していた」
「はぁ!?」
 途端に驚愕の叫びを上げた貴子に、隆也が僅かに眉根を寄せて問い返す。
「どうした、変な顔をして」
 そう言われた貴子は、まだ少し動揺しながら確認を入れてきた。


「え、だって、父って……。事務所に差し入れに行った時、一度だけ顔を合わせた事があるけど、あそこの弁護士事務所の所長さんの事よね?」
「そうだが?」
「あの苦み走った渋い人が、トイレ掃除担当?」
 まだ疑っている表情の貴子に、隆也は呆れ顔で説明を続けた。


「外見は関係ないと思うが。結婚したばかりの頃、母に激怒されたらしい。『どうして綺麗に掃除してるのに、その直後に跳ね飛ばして汚すのよ! 今度からトイレはあなたの担当だから、綺麗に掃除して!』って宣言されて以降の習慣だ。休みの日は割烹着にゴム手袋で、便器だけじゃ無く床や窓枠まで埃一つ無い様に、隅々まで磨き上げて掃除してるぞ? ちなみに父がインフルエンザで寝込んだ時に代わりに掃除をしたら、やり方が雑だと説教を食らった」
 その時の事を思い出したのか、隆也が渋面になって黙り込んだが、貴子は座り込んだまま必死に笑いを堪えた。


「……割烹着、ゴム手袋」
「おい?」
 そこで床に片手を付き、もう片方の腕でお腹を抱え込んで前傾姿勢になった貴子に隆也が怪訝そうに声をかけると、貴子が息も絶え絶えに声を絞り出してきた。
「ご、ごめっ……、ちょっ……、ツボに入っ……」
 それを聞いた隆也は、小さく息を吐いてから更に説明を続ける。


「だから俺も、休みで家に居る時は、風呂場の天井やカビ取りやその予防とか、洗面所とかの水垢取りを重点的に」
「分かっ……、分かった、からっ……」
「因みに、近所のゴミ集積場までゴミを持って行くのも、父と俺の担当だ。どうやら父は、母に重い物を持たせたくないらしい」
「それはそれはっ…」
 そして笑いの発作と戦って何とか勝利した貴子は、目尻の涙を拭いながら、明るく言ってのけた。


「『亭主とゴミを一緒に外に出そうって言うのか!』とか横暴な事を間違っても口にしない、フェミニストな人と結婚して良かったわね、お母さん」
 そう言ってにこやかに笑っている貴子を見下ろした隆也は、何故か不機嫌な表情になった。


「……言いたい事はそれだけか?」
「え? 別に無いけど?」
「分かった。もういい」
 それからサクサクと片付けを済ませた隆也は、一足先にリビングに戻り、貴子も(何か怒らせる様な事を言ったかしら)と不思議に思いながらも、キッチンに入った。そしてお茶を淹れてから翌朝の準備を始めた貴子だが、ふと思い出した事について、オープンカウンター越しに隆也に尋ねる。


「そう言えば、警察庁に異動したのよね。出勤時間は変わらないの? 場所も警視庁の本庁舎とは隣同士だし、通勤時間は変わらないとは思うけど」
 その問いかけに、隆也はお茶を飲みながら考えつつ、淡々と答えた。
「基本的にはそうだが……。最初は色々覚える事があるから、早目に出る事にしている。明日は月曜だから朝に定例会もあるし、更に早いな」
「覚えておくわ。じゃあそろそろ休んだ方が良いんじゃない?」
「そうだな」
 そこで米をとぎ終わった貴子が、水量を確認しながらある事を言い出した。


「あ、そうだ。隆也の方から、芳文にこっちに戻った事を知らせた?」
「……いや」
 途端に微妙に不機嫌になった隆也だったが、貴子はそれに気付かないまま、炊飯器のタイマーをセットする。


「それなら連絡しておかないとね。散々面倒かけちゃったし」
「俺が連絡しておく」
 素っ気なく言った隆也に、貴子はタオルで手を拭きながら断りを入れた。


「別に良いわよ? それ位自分でするし。もう遅いから電話じゃなくて、取り敢えずメールで良いわよね。ええと、携帯は……」
「ムカついてきた」
「え? どうして?」
 目で携帯を探していた貴子だったが、隆也が椅子から立ち上がりつつボソッと呟いた内容を耳にして、怪訝な顔になった。しかし隆也はそんな彼女の手首を掴み、さっさと移動を開始する。


「ほら、さっさと風呂に入ってベッドに行くぞ」
 その言わんとする所を悟った貴子は、些か慌て気味に抵抗した。
「は? ちょっと! 明日早いんじゃ無かったの!?」
「ムカムカしたままで、気持ち良く寝られるわけ無いだろうが。すっきりさせて目覚めを良くするだけだ」
「そんな事言ってると、明日の朝食はご飯とお味噌汁だけよ!?」
 若干腹を立てつつ貴子は本気でそんな事を口にしたが、それを聞いた隆也は満足げに笑った。


「自分で茶だけ淹れて、飲んで行こうかと思ってたんだがな。それだけあれば十分だ」
「全くもう! 職場で昼前に腹を鳴らして、赤っ恥かきなさい!」
「俺の腹の虫は慎み深くて、自己主張なんかしない奴なんだ。生憎だったな」
 そう言ってカラカラと笑う隆也に手首を掴まれたまま、半ば諦めた貴子は浴室に引っ張り込まれた。




 なんのかのと折り合いを付けつつ、二人での生活が再開してから一週間が経過し、暦が十二月に入ったある日。隆也が夕食を食べ終えてソファーで持ち帰った資料を読み込んでいると、珈琲を淹れてきた貴子が、彼の隣に座るか向かい側に座るか数瞬悩む素振りを見せてから、テーブルにカップを置いて向かい側に座った。


「あの、隆也?」
「どうした?」
「その……、今日連絡が来て。一月から復帰が決まったの」
 色々省いたその報告に、隆也は一瞬怪訝な顔をしたものの、すぐに頷いてみせた。


「ああ、クッキングスクールの講師の事か。それは良かったな」
「うん、ありがとう。あの署名、役に立ったみたい」
「礼なら直接西脇と、例の田崎氏とカレンとかいうタレントに言うんだな」
「ええ、そうね」
 そこで隆也は、一応懸念を口にしてみた。


「しかし、さすがに一悶着あったんじゃ無いのか? 復帰が決まっても、変に周囲や上との禍根を残しておくと厄介だと思うが」
 それに貴子は、小さく肩を竦めてから、事も無げに答える。
「元から仲が悪かったりそりが合わない人は居たし、一々気にしてないわ。理事会では結構紛糾したそうだけど、噂では最後に理事長が押し切ったそうよ」
 その女性の事は、柳井クッキングスクールの公式HPの写真でしか知らない隆也だったが、(確かに見た感じは、気の強そうな女性だった)と思い返した隆也は、笑いを堪えながら提案した。


「そうか。お歳暮はちょっと奮発しておけ」
「そうするわ」
 そう言って少し笑ってから珈琲を飲み始めた貴子だったが、今度は隆也が手にしていた資料を横に置きながら、思い出した様に話し出した。
「そう言えば、今日内示が出たらしいんだが、宇田川第十三方面本部長は、来年一月一日付けで奥東京署署長に配転になるそうだ」
 それを聞いた貴子は目を見開き、思わずカップを口から離して問い返した。


「何それ? 方面本部長から一署長に異動なんて、事実上の降格処分じゃない。前代未聞じゃないの!?」
「しかも警視正クラスの大規模署では無くて、通常なら警視クラスが就任する署ではな。二重の意味で屈辱だろう」
 そこで隆也は人の悪い笑みを浮かべたが、貴子は驚きの表情から一転、懐疑的な表情になった。


「そんな実質上の降格話なんて、仮にもキャリアのあいつが素直に受けると思う? 方面本部長の肩書のうちに、さっさと依願退職するんじゃないの?」
「大人しく受けるだろうさ」
「どうして?」
 益々わけが分からないと首を傾げた貴子に、隆也が淡々と事実と推論を併せて述べる。


「例の事件、捜査方針の決定及び初動捜査に重大な誤りが見られたという事で、新野署の署長と副署長が何ヶ月かの減給、刑事部長その他捜査関係者が戒告処分を受ける事が決定しているんだ。それなのに現場をかき回したあの男が、丸っきり無傷となったら下に示しがつかないだろう? どうせ来春退官なんだ。『今、方面本部長のまま辞めたら、警務部厚生課からの退官後の再就職斡旋は無いと思え』とか脅されたら、頷くしかないんじゃないのか?」
 そこまで聞いた貴子は、思わず皮肉っぽい笑みを漏らす。


「あらあら頼りになるお義兄様にも、とうとう愛想を尽かされたみたいね」
「気が済んだか?」
 軽口を叩いた途端、正面から隆也の冷たい視線と声が突き刺さり、貴子は我に返った。その為、神妙に反省の言葉を口にする。


「……大勢の無関係の人に、迷惑をかけたって自覚はあるわ」
「これからも、それを忘れない事だな」
 隆也が小さく息を吐いて再び手にした資料に目を落とすと、その場に気まずい沈黙が漂う。後ろめたい事がありすぎる貴子が次の言葉を選びあぐねていると、既に九時を過ぎているにも関わらず、インターフォンの呼び出し音が鳴り響いた。


「こんな時間に誰? 通販で配達時間の指定とかしてた?」
 反射的に立ち上がった貴子が一応確認を入れてみると、隆也は若干顔付きを険しくして否定した。
「それは無い。俺が出るか?」
「いいわ。取り敢えず出てみるから」
 軽く首を振って壁際まで移動した貴子は、インターフォンの受話器を持ち上げて、相手に呼びかけた。


「はい、どちら様でしょうか?」
 しかしそのまま無言で微動だにしない彼女に、隆也が訝しげな声をかけた。
「どうした?」
 すると、貴子が受話器の送話口を押さえながら、短く嫌そうに告げる。


「噂をすれば影」
「……何?」
 それで招かれざる客が押し掛けて来たのが分かった隆也は、はっきりと顔を顰めた。一方の貴子は、受話口から微かに響いてきた怒鳴り声に辟易した様子で、再び受話器を耳に当てて吐き捨てる様に言い聞かせる。


「五月蠅いわね、喚かないでよ! 話があるって言うなら、今、そっちに行くわ!」
 そして乱暴に受話器を戻した貴子に、隆也が提案してみた。
「俺が追い返すか?」
「冗談止めて。自分の始末位、自分で付けるわ」
「そうか」
 素っ気なく断られても、それは予想できた事であり、隆也は気を悪くしたりはしなかった。その代わり軽く笑いながら付け加える。


「五分でケリをつけてこい。寝不足は美容の敵だ。もう三十路なんだから気をつけろ」
「一言余計よ」
 思わず笑い返してから、貴子は鍵だけを持って玄関を出て、エレベーターで一階へと向かった。


(これまで電話や文書を送りつけたりはしてたけど、わざわざ出向いて来るなんて、よっぽど腹の虫が治まらなかったのね)
 先程聞いたばかりの話を思い返しながら、貴子がエレベーターを降り、自動ドアを抜けてエントランスに出ると、待ち構えていた啓介が早速憤怒の形相で噛み付いて来た。


「こんばんは、宇田川本部長。今夜はどういったご用件ですか?」
「ふざけるな!! 貴様のせいで、俺はいい恥曝しだ!」
(事実上の降格人事の憂さ晴らしに飲んで、その足で押し掛けたってところか。落ちたものだわ)
 近付いて来た途端漂ってきたアルコール臭と、顔の紅潮ぶりを見て、貴子は冷めた目で今では大して身長差が無い父親を見やった。


「あら、何かあったんですか? 怒って無いで教えて下さいません? 私、警察組織の人間じゃ無いもので」
「人を嵌めた癖にしらばっくれるな!」
「それは酷い言い掛かりですね。れっきとした警察官僚の本部長様を、一調理師の私がどうやって嵌めると?」
「いけしゃあしゃあと! どの口がほざく!!」
 益々怒りを増幅させたらしい啓介だったが、貴子は考え込むふりをしてから、如何にも不愉快そうに言い返した。


「ひょっとして、例の立てこもり事件の事ですか? あれは私の方が酷い迷惑を被ったんですが。誰かさんのせいで、何度も警察から呼び出しがかかった上、講師の職も辞する事になりましたし」
「はっ! 自業自得だろうが!」
「それを言うなら、そちらも自業自得ですね」
「何だと?」
 そこで貴子は、より一層冷ややかな視線と口調で、恐らく事実であろう推測を述べた。


「今回のあなたの失態に対して一番問題になったのは、身を持って庇ってくれる人間など皆無な人徳の無さでは無くて、重大事件発生時に自分の所在を明確にしていなかった無責任さと、どこまでも下に責任転嫁しようとした姑息で周囲から愛想を尽かされた事でしょうから」
「五月蝿い、黙れ!!」
 どうやら図星を指された事で激昂したらしく、啓介は一気に間合いを詰めて貴子を平手打ちした。


「……っ」
「どこまで生意気な女だお前は!」
 うっかり油断してまともに打たれた貴子がよろめくと、その肩を掴んだ啓介が尚も殴ろうとしたが、ここで貴子が反撃する前に啓介の背後から鋭い制止の声がかかった。


「おい! 止めろ、何をやってる!!」
「その女性から離れろ!」
「貴様! 何をする! 離せ!」
「うわ、酒臭ぇ。どれだけ飲んでんだよ、この酔っ払い」
 どうやら啓介が貴子を叩いたところで、マンションのエントランスに二人組の警官がやって来たらしく、若い方が啓介を羽交い絞めして自分から引き剥がしたのが分かった。そこで貴子は安堵の溜め息を吐いたが、彼女に声をかけてきた年配の警官が不自然に固まる。


「大丈夫ですか? 殴られたのが見え……、宇田川さん?」
 その反応で、その警官がこれまで何度も出向いた新野署所属の警察官で、自分の顔を見知っているのだと分かった。しかし余計な事は口には出さず、貴子は素直に礼を述べる。


「はい、大丈夫です。ありがとうございました。殴られはしましたが、病院に行くほどではありませんので。ですが、どうしてこちらに?」
「それが……、先程通行人の方から通報がありまして。『マンションのエントランスで、女性が男性に絡まれているから、助けてやって欲しい』と。それで様子を見に来たんですが……」
「そうでしたか。ご苦労様です」
 困惑顔の警官と貴子が神妙に会話していると、未だ取り押さえられている啓介が暴れながら喚いた。


「おい! こら! 俺を誰だと思ってる! さっさと離せ!」
「はぁ? 何だよ。あんた誰だって言うんだ? 警視総監か? 大臣か?」
「第十三方面本部長殿だ」
「え?」
 どうやら啓介の顔も見知っていたらしい年配の男が苦々しい口調で告げると、若い警官の方は目を丸くした。


「分かったなら、さっさと離せ!」
 自分の身分が明らかになった事で得意満面で命令した啓介だったが、すぐに馬鹿にした口調での反撃を受ける。
「尤もその肩書きには、近々『元』が付くらしいって噂だがな」
「……っ!」
 それを聞いた啓介が怒りで顔を益々赤くしながら絶句し、彼を取り押さえている警官が白けた表情になったが、そんな二人を半ば無視して年配の警官が貴子に向き直った。 


「ささやかな願望を言わせて頂ければ、父娘喧嘩は他人の迷惑のかからない所で、家庭内でして頂きたいものですね」
 しかし貴子は、それに控え目に言い返した。


「生憎と、今は籍を抜いて高木貴子です。呼びもしないのにこんな時間に家に押し掛けて、人を殴りつける様な人と縁が切れてせいせいしてますわ。今回の行為はれっきとした暴行罪に該当しますから、この人を訴える時は、是非あなた方に証人になって頂きたいですね。勿論そこの防犯カメラの映像は、セキュリティーセンターで管理してますが、現職警察官の証言なら信憑性が無いなどと言う問題は起こらないと思いますし」
「…………」
 それにはっきりと顰めっ面をし、迷惑に思っているのを隠さずに自分を眺めてきた二人に、貴子は穏やかに提案してみた。


「まあ、現場の方の書類仕事を増やすのもお気の毒なので、この場はその非常識な人を引き取って、二度とこの様な傍迷惑な行為をしない様に言い聞かせて一晩留置場ででも預かって頂ければ、お二人に免じて不問にしたいと思います。そちらは随分酔っていらっしゃる様ですし、酔い醒ましにはちょうど良いのでは? このまま一人で自宅に帰って頂いたら、事故に遭われるかもしれませんし。もしそうなった場合『お前の所に寄ったせいで事故に遭った』などと、後で難癖を付けられそうですから」
 その申し出を受けた警官二人は無言でアイコンタクトを交わし、即座に結論を出した。


「そうですね。ご配慮頂き、ありがとうございます。おい、行くぞ」
「はい。ほら、さっさと署に帰るぞ。大人しく乗ってろよ?」
「何をする! さっさと離せ! 無礼だろうが!」
 どうやら新野署に連行する事に決めたらしい二人が、啓介をマンション前に停めておいたパトカーに押し込むべく、移動を開始する。


「手錠をかけないだけありがたく思え」
「これ以上暴れるなら、かけちゃっても良いんじゃありませんかね? 公務執行妨害に当たりませんか?」
「そうだな」
「何だと!? 私は方面本部長だぞ!」
「そんなに偉い人間なら、それに相応しい振る舞いと言うものがあるんじゃないのか?」
 男三人が騒々しく一団になって歩き出したのを無言で眺めた貴子は、彼らがエントランスを出てその姿が完全に見えなくなってから、疲れた様に溜め息を吐いた。そして踵を返して住居スペースとの仕切りにある半自動ドアのロックを鍵で解除し、部屋へと戻る。


「戻ったか。どうなった?」
 リビングに入るなり、悠然とソファーに座ったまま手元の書類から顔を上げて尋ねてきた隆也に、貴子は苦笑いしながら尋ね返した。


「警官二人に引き取って貰ったわ。通報した通行人って、隆也よね?」
「ここから一番近いのは新野署だし、通報を受けて当直担当者が駆けつけるまで十分はかからないと思ったから、ちょうど良かっただろう? あいつが詫びを入れに来る筈が無いしな」
「……そうね」
 貴子が大人しく同意して自分の隣に静かに腰掛けた事で、少し予想が外れた隆也が意外そうに尋ねてきた。


「どうした? まさか俺に助けに入って貰いたかったとか、面白い事を考えているわけじゃ無いだろうな?」
 それに貴子は小さく頭を振ってから、静かに答える。
「そうじゃなくて……。直に顔を合わせたのは四年ぶりなんだけど、思っていた以上に貧相な男に見えたから、ちょっと拍子抜けしただけ」
「それは当然だ。俺と比べたら、世の中の大抵の男は馬鹿で甲斐性無しで貧相だからな」
 自分の台詞にすかさず応じてきた隆也を、貴子は思わずまじまじと見つめた。


「今の、本気で言ったわよね?」
「当たり前だ。否定する気か?」
「ううん、その通りよ。だから……」
 小さく苦笑いした貴子は、少し体をずらして隆也の方に向き直り、両手を伸ばして静かに彼に抱き付いた。完全に予想外だったらしく、隆也が無言で何度か瞬きすると、その耳元で貴子が若干疲れた様に囁く。


「そんな貧相な奴に、今まで散々煩わされて来たのが、本当に馬鹿馬鹿しく思えてきたのよ」
 その独白を耳にした隆也は、苦笑しながら片手で軽く彼女の後頭部を叩いた。


「漸く学習したって事で、良いんじゃないか? 益々馬鹿になるよりは遥かに良い」
「そうね」
 そしてくすくすと貴子が笑い始めた為、隆也も顔を緩めたが、ふと気になった事を思い出して彼女をゆっくり引き剥がした。


「ところで、少し頬が赤くなってないか?」
「ああ、一回叩かれたから」
 平然と貴子がそう述べた為、改めて彼女の頬の状態を確認した隆也は、忽ち表情を険しくした。
「……お前、大人しく叩かれたのか?」
 その剣幕に、貴子は若干弁解するように状況を説明する。


「ちょっと油断したのよ。叩かれた所で警官が来ちゃって、反撃できなかったし。でも暴行罪で訴えるって脅したら、さっさと帰ってくれたしね。結果オーライって事で」
「冷やすぞ」
「え? 大丈夫よ。そんなに痛くないし、目立って腫れたりもしていないでしょう?」
 話の途中で隆也が勢い良く立ち上がった為、貴子は慌てて引き止めた。しかし隆也は納得できなかったらしく、不機嫌そうな顔付きのままキッチンに向かう。


「そのまま座ってろ。保冷剤とかは無いのか?」
「その類は無いわね。……じゃあ、製氷機の氷で氷水を作って、それでタオルを冷やして持って来てくれる?」
「分かった」
 これ以上は言っても無駄だと諦めた貴子は、これから買い出しに行ったりしない様に、代替案を出した。それに素直に頷いた隆也がキッチンでごそごそ動き始めると、貴子はその気配を感じながら「大丈夫だって言ってるのに」と困ったような口調で呟きを漏らしたが、その顔は楽しそうに笑っていた。
 その一方で、言われた通りに金属製のボウルに氷水を作った隆也は、その中にハンドタオルを突っ込みながら「本当に、最後までろくでもない……。後腐れ無く、止めは俺が刺してやる」と、啓介に対する怒りを露わにしつつ、呪詛の言葉を口にしていた。



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