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ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第49話 二人の豹変

「貴子?」
「……うぅん?」
 並べた座布団の上に寝ていた貴子は、小声で名前を呼ばれた事で、半覚醒状態で眠そうに身じろぎした。それを見て、再度控え目に声がかけられる。


「貴子、お夕飯ができているけど、もう少し寝ている?」
 その声が蓉子の物だとおぼろげに判別できた貴子は、まだ寝ぼけながら軽く目を擦った。
「……夕飯? 今、何時?」
「七時半よ」
「そう、七時…………、七時半!? 嘘! 今日って夕食は私が作る筈だったのに!」
 そこで漸く現状認識ができた貴子は両眼を見開き、身体にかかっていた毛布を跳ね上げつつ、勢い良く身体を起こした。それを見た蓉子は、おかしそうに笑う。


「良いわよ。ぐっすり寝てたし。あ、それとも、榊さんがお風呂を使わせて貰ったって言ってたから、貴子も食べる前にお風呂に入って来る?」
(さっさと一人で先に起きて、何を勝手に恥ずかしい事言ってるのよ、あいつは!)
 真顔で問われた内容に貴子は頭痛を覚えつつ、何とかいつも通りの表情を心がけながら断りを入れた。


「ええと、私も入ってから寝たから、大丈夫」
「え? 二人で一緒に入ったの?」
 どうやら勘違いしたらしく、軽く目を見張った蓉子に、貴子は顔を引き攣らせながら続けて否定した。
「そうじゃなくて、前後して入ったんだけど……」
 貴子がそう口にすると、室内に沈黙が漂った。そして徐々に蓉子の顔が、うっすらと赤くなる。


「……ごめんなさい」
「うん、別に良いから」
(どうして実の母親と、こんな微妙な会話をする羽目に……)
 目の前で恥じ入っている母親から目を逸らし、貴子が溜め息を吐くと、蓉子が気まずさを誤魔化す様にそそくさと立ち上がって移動を始めた。


「じゃあ皆はもう食べ始めているし、そろそろ食べに来てね? 貴子の分を揃えておくわ」
「分かったわ」
 そして蓉子が襖の向こうに消えてから、貴子は毛布を畳み、敷いていた座布団を纏めてから部屋を出た。そして居間に向かいながら(確かに疲れたから一眠りするとは言ったけど、ちゃんと起こしなさいよね!?)と、隆也に対する怒りが沸々と湧き上がってたが、その怒りは居間に到着した途端、別な物に取って代わられた。


「……遅くなりました」
 居間に入る為、襖の前に立ったところで妙に気恥ずかしくなり、何とか顔を引き締めてそれを開けた貴子だったが、上機嫌な親子の声に出迎えられて少々面食らった。


「ああ、貴子、来たか。先に食べてたぞ?」
「ほらほら、姉貴。さっさと榊さんの横に座って」
「分かってるわよ」
 無言で苦笑いしている隆也から、照れくささの為微妙に視線を逸らしつつ長方形の座卓を囲む様に座ると、斜め前に座っている孝司が、持っているグラスを上方につき出しつつ叫んだ。


「それじゃあ、姉貴が揃った事だし、改めて乾杯するぞー!」
 その宣言に、貴子が慌てて孝司を窘める。
「ちょっと待って! こいつ、車を運転してきてるのよ? お酒を飲ませちゃ駄目でしょうが!!」
「あ、だいじょーぶ、だいじょーぶ、榊さんは最初から烏龍茶だけだし~」
「え?」
 慌てて振り返った貴子の視線の先で、隆也が笑いを堪える表情で、無言のまま自分が手にしているグラスを軽く掲げて見せた。その中身は明らかにビールでも日本酒でも無かった為貴子が安堵していると、竜司が申し訳なさそうに隆也に声をかけてきた。


「すみません、榊さん。客人に飲ませないで、自分達だけ飲んでしまいまして」
「いえ、明日も朝から仕事なので、今日中に都内に戻らないといけませんし。今度ゆっくり寄らせて頂きます。その時には高木さんの好みの銘柄でもお持ちしますので、もし良ければ教えて頂きたいのですが」
「いやいや、そんな気を遣って頂くのは、却って申し訳ないですから」
 そんな大人の会話をしている横から、ご機嫌な孝司の声が割り込んだ。


「榊さん! 親父が好きな奴は《三ツ矢橋》と《相模原》、俺が好きなのは《会連山》と《滋野雪》、祐司が好きなのは《立華》辺りかな? 全員いける口だから、微塵も遠慮なんかしなくていいですからねっ!! ……いって! 姉貴、何すんだよ!?」
 いきなり手を伸ばして拳で頭を殴った姉に、孝司は抗議の声を上げたが、貴子はそんな事には構わず盛大に叱りつけた。


「何だじゃないでしょう、この酔っ払い! 飲めない人間の前で自分だけ気持ち良く酔った挙句に、次回の土産を強要するとは何事よ!!」
「えぇ~? いいじゃ~ん、俺、また榊さんと飲みたいよ~」
「全くもう! お母さん、この馬鹿何とかして!」
 そこで襖を開けて、貴子の分のご飯と味噌汁、追加のおかずなどを持って蓉子が現れた為、早速貴子は訴えた。すると孝司のご機嫌な声は部屋の外まで聞こえていたのか、蓉子がにっこり笑いながら優しく言い聞かせる。


「美味しくお酒を飲むのは一向に構わないけど、それ以上羽目を外すなら、向こう一週間おかずは椎茸尽くしよ?」
「……たった今、素面になりました。お母様」
 蓉子に声をかけられた瞬間、座卓にグラスを置いて母親に向かって深々と一礼した孝司を見て、貴子は面食らった。


「え? 孝司、あんた椎茸食べられないの!?」
 驚愕の叫びを上げた貴子に、竜司が頷きながら、しみじみとした口調で告げる。
「全く……、農家にあるまじき事だと思わないか? 貴子」
「本当にそうね、お父さん。だけど今の今まで知らなかったなんて、ちょっとショックだわ。これまで私のマンションで椎茸を使った料理を食べさせた時、どうしてたのよ?」
「ええと……、それなりに?」
「私の目を盗んで、こっそり捨ててたわけ?」
「…………」
 この場合無言は肯定であり、貴子のこめかみに青筋が浮かび上がった。それを見た竜司が、思い付いた様に言い出す。


「そうだ、貴子。この機会にこいつの椎茸克服レシピとか、考えて貰えないか?」
 それに貴子はニヤリと笑いながら答えた。
「勿論よ、任せて。一ヵ月分の矯正スペシャルメニューを組み立てて」
「うわ、ちょっと待て姉貴! 俺を殺す気か!?」
「五月蠅いわね! 食べ物を粗末にする不届き者は、一回死んで性根を入れ替えなさい!!」
 そのままぎゃいぎゃいと言い合う姉弟の姿を横目で見ながら、隆也は(この間、随分父親とも隔意無く話ができる様になったじゃないか)と、子供達のやり取りを眺めながら満足げに飲んでいた竜司と視線を合わせ、互いに苦笑し合った。


「それでは荷物は来週末、こいつを車で迎えに来た時に、トランクに纏めて持って行きますので」
「そうね。荷物と言っても着替えと細々したものだけだし、それで大丈夫ね。その時は是非一泊していって下さいね?」
「はい、お世話になります」
 ふいにそんな会話が耳に届いた為、貴子は孝司との言い合いを中断して蓉子に尋ねた。


「ちょっと待って。来週末とか荷物って何の事?」
 それに蓉子が、怪訝な顔で答える。
「だって来週末に、マンションに帰るんでしょう?」
「はあぁ? ちょっと! 何勝手な事言ってるのよ!」
 慌てて隆也に迫った貴子だったが、隆也は正論を繰り出した。


「お前だって、ズルズルとここに居候したくないだろう? マンションの監視も無くなった事だし、さっさと帰るに限る」
「それは、そうだけど」
「これからちょくちょく、以前よりも顔を見せに来たら良い」
「そうだな。いつでも来たら良いさ」
「……はい、そうします」
 躊躇いを見せる貴子に隆也は些か素っ気なく、竜司は何でも無い事の様に言い聞かせると、貴子は少し嬉しそうに頷いた。そこで隆也がグラスを置いて、内ポケットから何かを取り出す。


「ああ、そうだ。忘れるところだった」
 取り出した封筒の中から、隆也は更にある用紙を抜き出し、彼女の横に広げた。その畳の上の婚姻届をトントンと軽く指で叩きながら、隆也は貴子に要求を繰り出す。
「食べ終わったら、これを書け」
「あのね……」
「署名すると言っただろうが。何が不満だ」
 軽く睨んできた隆也に向かって、貴子は精一杯抵抗してみた。


「言ったわよ! 確かに言ったけど……。絶対書いたらその足で、役所に提出するつもりよね!?」
「それのどこが問題だ?」
「こっちの心の準備というものが」
「怖気づいて、そのまま遁走しそうだな」
 淡々と台詞を遮られて、貴子は黙り込んだ。しかし隆也は予めそんな反応を分かっていたのか、小さく肩を竦めただけで話を纏める。


「まあ、いい。それなら署名だけしてお前が保管しておいて、出しても良いかと思った時に届け出れば良い」
「本当に?」
「勿論。『実はこっそり出す気かも』とか疑ってるなら、その場合でもすぐに離婚できる様に、一緒に離婚届も渡しておいてやる」
 そう言って引き続き封筒の中から、自分の分の署名を済ませてある離婚届を取り出した隆也は、それを婚姻届に重ねて置いた。途端に室内に沈黙が漂い、貴子は本気で頭を抱える。


「……用意周到過ぎるわ。というか私の家族の前で、こんな物出さないで欲しいんだけど。新手の嫌味?」
「お前がグズグズ言ってるのが悪い」
「別にごねてるわけじゃないわよ」
 そう言って苛立たしげに二枚の用紙を折り畳み、元通り封筒に入れて隆也が座っているのとは反対側の畳に貴子が置くのを見て、(ごねてる以外の何物でもないから)と高木家の三人は思った。そこで話題を変える為か、隆也が苦笑いしながら頭を下げる。


「本日は急に押しかけた上、夕飯までご馳走になってしまいまして、恐縮です」
 それに竜司と蓉子は、年長者らしく笑顔で応じた。
「いやいや、明日も平日でお仕事がある榊さんが、わざわざここまで来て下さったのに、そのまま帰って頂くのは失礼ですから」
「できればご馳走を作りたかったのですが、急な事でなんの変哲もないお惣菜で、こちらの方が申し訳ないわ。来週はもう少しマシな物を準備しておきますね?」
 そんな事を言われた隆也は、満面の笑顔で料理を褒め出した。


「とんでもない。取れたての地元の食材をふんだんに使って、質・量共に十分な料理です。それに意外性もあって楽しいですし。これは一見酢豚ですが、使ってある肉は鳥のもも肉ですよね? ですが、大量生産されたブロイラーの様な、変な臭いや歯ごたえの無さなどが微塵も感じられず、美味しく頂いています」
「榊さん位鋭い方だと、うちの《なんちゃって酢鶏》は一目瞭然なんですね」
「でもやっぱり美味しいですよ、その鶏。ここから車で十五分程の養鶏場から、出荷した物なんです。しっかり品質管理して、運動もさせてる奴ですから」
 蓉子が苦笑いしたところで孝司も自信ありげに口を挟むと、隆也が感心した様にそれに応じた。


「そうか。それなら美味しいのは道理だな。最初は一応酢豚らしき料理に、里芋やカボチャや大根まで入っていて驚いたが、どれもきちんと火が通っているし、崩れたりもしないでしっかり味が付いていて、二度驚いたよ」
「あはは、すいません。うちって料理に関してはチャレンジャーで豪快なんで」
「それはその時々の旬の食材を、いかに美味しく食べるかという事を、常に考えているからだろう? 自分達で作っているなら尚更だ」
「そうなんですよね。やっぱり自分で収穫した物は、できるだけ美味しく食べたいですし」
 うんうんと頷いた孝司に続き、隆也は尚も料理を褒め続けた。


「だが、肉と同様、里芋やカボチャまで軽く下味を付けて、素揚げしているのは凄いな。手が込んでる。だが、このおかげで本来の素材の旨味が、効率的に味わえるんだな」
「まあ、榊さんがお分かりになるとは、思わなかったわ」
 思わず口を挟んできた蓉子に、隆也は愛想よく笑いかけた。


「このサラダも、メインのサツマイモの仄かな甘みを、タマネギのスライスがピリリと引き締めて絶妙な組み合わせです。タマネギを浸したドレッシングには、酢ではなくレモン……、いやスダチとかですか? 上手く酸味を和らげて、味をまろやかにしていますね」
「あら、分かりました? レモンだとすっぱ過ぎると、孝司がいつまでも子供の様な事をいうもので」
「お袋……、そんな事、ここで言うなよ」
 孝司がうんざりした表情で口を挟むと、隆也は苦笑いして小鉢を取り上げた。


「このサンマの胡麻焼きも、ゴマの香ばしさが魚の生臭さを消し去って大変美味です。タレとゴマの相性が素晴らしいですね。欲を言えばもう少し頂きたい位です」
「あら、そんなに気に入ってくれたなら、私の分をどうぞ召し上がれ?」
「ありがとうございます」
 にこやかに微笑みつつ蓉子が差し出してきた小鉢を受け取り、尚も滑らかに料理に対する褒め言葉を垂れ流す隆也に、竜司は面白い物を見るような視線を送り、貴子は無意識に目をすがめた。


(何よ、さっきからお母さんの料理を、聞いた事が無い位のベタ褒めで。私が作って食べさせた時は、大抵『美味い』の一言だったでしょうが! 何なのよ、この差はっ!?)
 怒りに任せてそんな事を心の中でぶちまけてから、貴子は自分自身に言い聞かせる様に考えを巡らせた。


(確かにお母さんの料理は美味しいし、ここに強引に押し掛けた上に、図々しく晩御飯まで食べさせて貰っているわけだから、お世辞の一つや二つ口にするのは当然だと思うけど)
 そしてチラリと横目で隆也の様子を窺った貴子は、相変わらず和気あいあいと蓉子と料理談義をしているのを見て、分からない程度に口元を引き攣らせた。


(……何か、無性にムカつく)
 そして隆也が出された料理を全て綺麗に平らげ、辞去する旨を告げた為、一家揃って見送りの為に外に出た。そして挨拶をして愛車に乗り込んだ隆也は、エンジンをかけてから窓を開けて貴子を見上げてくる。


「じゃあもう少しだけ、おとなしくしてろよ?」
「余計なお世話よ」
 ツンと横を向いた貴子に小さく笑った隆也は、竜司と蓉子に軽く会釈してから車で走り去って行った。それを見送った孝司が、佇んでいる貴子の肩を叩きつつ呆れ気味に声をかける。


「姉貴ったら、全く素直じゃ無いよな~。まあ、俺達の前でイチャイチャしろとは言わないけどさ」
「……孝司」
「何?」
「ノート」
「はぁ?」
 ぼそりと端的に言われた内容に孝司が本気で首を傾げると、貴子は据わった目で話を続けた。


「使ってないノート……、ううん、使用済みでも良いわ。とにかく書き込みができる物を頂戴」
「ええと……、探せば机にあると思う。ちょっと待っててくれ」
 姉の眼光の鋭さに若干酔いが醒めつつ、孝司は急いで彼女が欲しがっている物を、自分の机から引っ張り出した。するとそれを受け取った貴子が、すぐに自室代わりになっている客間に引っ込んでしまう。
 夕食も食べかけのまま放置という、普段の彼女らしくない行動に、少ししてから蓉子が様子を見る為に、食べかけの皿とお茶を持って客間に入って行った。


「どうだった?」
「貴子はいきなり、何を始めたんだ?」
 廊下に出てきた自分を捕まえ、怪訝な顔で尋ねてきた夫と息子に、蓉子は笑いを堪えながら説明した。


「ちょっと見てみたら、文机にノートを広げて、レシピを書いているみたいなの」
「レシピ?」
「いきなりどうしたんだ? ここに来てから調理はしても、一度もそういう物は書いていなかったよな?」
「それが……、書きながらブツブツ言ってるのを聞いたら、『絶対『美味い』だけで済ませないんだから』とか、『愛想振りまき過ぎよ。あの馬鹿』とか言ってて」
 そう言って蓉子が小さくクスクスと笑うと、男二人は半信半疑の表情になった。


「え? まさか姉貴、さっきの榊さんと俺達のやり取りで、お袋に対抗意識燃やしたり嫉妬してるとか?」
「それで、今度は今日の蓉子の料理に対するコメント位、言わせてみせるレシピを考えてるとか?」
「……多分、そうじゃないかしら」
 困った様に笑いながら、蓉子が今出て来た襖に視線を向けると、孝司が手で口を押さえ、腹を抱える様にしながら軽く悶えた。


「ぶふっ……、あ、姉貴っ……。随分、可愛くなってっ……」
「笑うな、孝司。中に聞こえるぞ?」
「あなただって、噴き出す寸前じゃないですか」
 そうして高木家の面々は互いの顔を見合わせながら笑いを堪え、改めて貴子に対する隆也の影響力は凄まじいとの認識を、新たにしたのだった。





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