ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第45話 変遷

「ただいま」
 帰宅して、リビングに入りながら軽く声をかけた芳文だったが、予想に反して答える声は無かった。


「……で、……える…………、……は、…………いから、………」
 珍しくこの時間に出かけているのかと思いきや、貴子がソファーに座って自分の膝の上のヨッシーを撫でながら、何やら小声でブツブツと呟いているのを目にした芳文は、無言で顔を顰めてから先程より幾分声を大きくして呼びかける。


「貴子、戻ったぞ?」
「あ、お帰りなさい。すぐご飯を出すから」
 それで漸く気が付いたらしい貴子は弾かれた様に顔を上げ、慌てて立ち上がった。そして彼が着替えている間に食事の準備を済ませ、二人で食べ始める。その日もいつも通り他愛の無い話をしながら食べ進めていたが、半分ほど食べた所で、貴子が控え目に言い出した。


「その……、芳文?」
「どうした?」
「この料理、美味しい?」
 幾分心配そうにそう問われた瞬間、芳文の眉根が軽く寄せられたが、すぐにいつもの表情で答えた。


「いつも通り美味いが?」
「そう? ありがとう」
 それを聞いた貴子は如何にも安堵した表情になって食事を再開したが、それを見た芳文は少ししてから小さく溜め息を吐いて箸を置き、真顔で口を開いた。


「この際だ。ちょっと言わせて貰う」
「何?」
 不思議そうに箸の動きを止めた貴子に向かって、芳文が断言する。
「前から思ってたが……、お前、外側だけ無駄に頑丈で、中身は豆腐だな」
「はぁ?」
「そんなに自分の味覚に、自信が無くなってるのか?」
 そこで怪訝な表情から一転、貴子は気分を害した様に言い返した。


「いきなり何を言い出すのよ。単に美味しいかどうか聞いただけで」
「違うな。以前のお前だったら『美味しいか』なんてお伺いを立てたりしない。『美味しいでしょう?』と自分の腕に対する自信を持って、相手が賛同するのを確信している物言いをする筈だ」
 そう言い切られた貴子は、思い当る節があった為言葉を濁す。


「そんな事は……。偶々そういう言い方になっただけで」
「もっと言えば、今現在お前の料理を食ってるのが、俺とお前だけって異常事態に、頭が付いていって無いんだ」
「何よ、それ?」
 予想外の方向に話が流れた為、貴子は戸惑ったが、芳文はこの間考えていた事を理路整然と告げた。


「お前が宇田川家を出た時の、人生における生きがいは大きく分けて二つ。いけ好かない父親への報復と、美味い物を作って食べる事。違うか?」
「……悪い?」
 軽く睨みつけてきた貴子に、芳文は軽く肩を竦めて見せた。


「悪くはない。親父の方は随分時間がかかったが、今回のあれこれで棚ボタ式に自滅気味で問題なし。ただ料理の方はな……。この間美味い料理を味わう以上に、作る事自体や他の人間に教えたり食わせて喜んで貰う方が、生きがいになってきてただろ?」
「だから?」
「タレント業の方はともかく、講師の職まで辞める事になって、お前は自分で思っている以上に気落ちしてるんだ」
「そんな事は……」
「それにお前、今年に入ってから隆也に対して、一生料理を作ってやっても良いなとかなんとか、うっかり思っちまっただろ?」
「いきなり何言い出すのよ!? そんな事思って無いから!」
 そこで血相を変えてテーブルを叩きつつ、力一杯否定してきた貴子だったが、芳文は少々呆れ気味に話を続けた。


「お前、複雑そうに見えて根は単純と言うか、変な所でくそ真面目と言うか……。そう思った瞬間、無意識に美味い不味いの判断基準を、あいつの味覚に合わせた筈だ」
「そんな事、何を根拠に」
「あいつがお前の料理の腕にケチをつける筈も無いし、毎回満足して食ってただろうから無自覚だっんだな。あいつが来なくなってからも、お前仕事で忙しくしてたから意識してなかっただろうが、仕事が無くなって自分と俺が食べる分だけ作る様になって、段々自信が無くなってきたんだろう? 自分が本当に美味い物を作っているのか」
「…………」
 これまで弁解や否定の言葉を口にしようとしていた貴子は、事ここに至って黙り込んだ。そして俯いたまま微動だにしない彼女に、芳文が静かに問いかける。


「なあ、貴子?」
「何?」
「隆也を呼んで、飯を食わせるか?」
 その提案に貴子が若干動揺を見せたが、すぐに無言のまま首を小さく横に振った為、芳文は質問を続けた。


「食わせたく無いか?」
「そうじゃなくて……」
 そして貴子は言い淀んでから、小声で言い始める。
「だって……、怒ってたし、小説の続きも、来なくなっ……」
 彼女の声が、段々涙声になってきているのは分かったが、芳文はわざと止めずに続けさせた。


「未だに……、張り付かれてるしっ……。こんなとこっ……、来るわけ、ない……」
「ああ、うん。完全に、愛想尽かされたっぽいよなぁ~。あいつキャリア街道驀進中だし、経歴に傷一つ付けたく無いよなぁ~」
「…………っ」
 彼女の声が途切れてから、皮肉っぽい口調で芳文がそう述べた途端、貴子は涙が溢れた目で芳文を睨み付け、しかし無言のまま勢い良く立ち上がってリビングから逃げ出していった。それを黙って見送ってから、芳文は疲れた様に溜め息を吐く。


「泣いて逃げ出す前に、俺に文句の一つでも言って八つ当たりしろよ。本当に馬鹿な奴」
 そう呟いてから仏頂面のまま食事を再開した芳文は、食べ終えてから茶を淹れつつ、戻って来ない貴子が食べ残した物を片付けて困った顔で考え込んだ。


「さてさて、優しいお兄ちゃんとしては、ここはどうしたものか」
 しかし結論を出すのは早く、茶を飲み終わると同時に、最近とみに困り者の友人に電話をかけた。


「よう、甲斐性無しヘタレキャリア」
 電話越しの開口一番のその台詞に、隆也は盛大に顔を顰めた。


「ご挨拶だな。随分機嫌が悪そうだが、どうした?」
「どうもこうも。貴子が泣いちまったのはお前のせいだぞ?」
「どういう事だ?」
 偶々早く帰宅できて自室で本を読んでいた隆也は、座っていた椅子の背凭れを軋ませながら、話を聞く体勢になった。しかし芳文が少し前の一連のやり取りを語り終えると、上半身を起こしつつ低い声で相手に毒突く。


「それはどう考えても、お前の認識が間違ってる。あいつが泣き出したのは、お前が無神経な事を口にしたからだろうが。どうしてくれる。このくそヤブ医者」
「そもそもお前が寄り付かない上に俺に口止めして、貴子が無視されてるって思いこんでるのが悪いんだろ? これからどうするつもりだ?」
 芳文が負けず劣らずの不機嫌な声音で言い返してきた為、隆也は少しだけ考えてから口を開いた。


「事件発生から、1ヶ月は経過したからな。そろそろ鬱陶しい蝿は纏めて駆除する時期だろうとは思っていた」
「それは任せる。それとやはり仕事もしないで、日中一人きりで過ごしてる環境も良くないな。かと言ってすぐにどこかで職を探すとか、俺が仕事をしないで引っ付いているわけにもいかないし」
「それも近日中に何とかする」
 冷静に請け負った隆也に、芳文は幾分安堵したらしい口調になった。


「お前がそこまで言うなら、心配要らないだろうが。貴子にはお前が色々やってる事、言わなくて良いのか?」
「まだ言う必要は無い」
「本当にお前、何を考えてる?」
「押しても無駄だと思ったから、ちょっと引いてるだけだ」
「え?」
 さらっと言われた内容を聞いた芳文は、一瞬遅れて怒鳴りつけてきた。


「『ちょっと』だと!? お前、引きっぱなしにも程があるぞ!!」
「じゃあ切るぞ。宜しく頼む」
「あのな!?」
 何やら盛大な喚き声が聞こえてきたのを無視して通話を終わらせてから、隆也は時間を無駄にせず電話をかけ始めた。


「さて、あまりのんびり様子見もしていられないか」
 そして応答があった事を確認すると、挨拶もそこそこに用件を切り出す。
「榊だが。祐司君、頼んでいた件、今度の土曜日辺りはどうだろうか?」
 卓上カレンダーで日付を確認しつつ、電話越しに祐司と幾つかの項目について確認する。


「ああ、そろそろ綾乃ちゃんの裏工作の方も、一緒に頼む。時期的にその方が効果的だ。大っぴらに室内に盗聴器とかは付けないとは思うが、ベランダに出れば隣接する部屋のそこからは十分聞こえるし、読唇術ができる人間に外から狙わせる事もできるからな」
 互いに当日の流れを確認してから、隆也は話を終わらせた。


「そういう事だ。顔を合わせたら余計な事は言わないで、打ち合わせ通り頼む」
 最後は満足そうに会話を終わらせた隆也は、さっそくスケジュールに予定を入れ、何事も無かったかの様に中断した読書を再開した。




 その週の土曜日の午後。隆也は貴子のマンションの最寄駅改札で、祐司と綾乃に合流した。
「やあ、遅れてすまない」
「いえ、今日はお付き合い頂いて恐縮です」
「隆也さんは時間ぴったりでしたよ? 私達が少し早く着きましたから」
「それなら良かった」
 にこやかに挨拶してから、雑談をしつつ貴子のマンションに向かった三人だったが、マンションの付近で隆也は注意深く周囲を観察した。


(やっぱり、気配はあるな。窓から見ているとしたら、あそこのマンション辺りか? すっかり強盗団の根城扱いだな。ご苦労な事だ)
 笑い出したいのを堪えつつ隆也は二人に続いてエントランスに入り、祐司が持っていた合鍵でドアを開けて、貴子の部屋に久しぶりに足を踏み入れた。そして予定通り綾乃が貴子の寝室に姿を消すと、男二人で吐き出し窓を開け、玄関から靴を持って来てベランダへと出る。


「はぁ……、生活していないから室内が汚れたりはしませんが、やっぱり閉め切っていると室内の空気が淀んでいる気がしますね」
「確かに。やはり月に一度位は、換気はした方が良いな」
 祐司が上に腕を伸ばしながら感想を述べると、隆也は真面目くさって頷いた。そこで祐司が申し訳なさそうな顔になって、隆也に頭を下げる。


「榊さん、今日は同行をお願いして、すみませんでした。姉から『一々付け回されるのが嫌だから、細々した物を自宅から取って来て欲しい』と頼まれたものの、後から『証拠隠滅をした』とか難癖を付けられるのは避けたかったもので」
 それに隆也は、鷹揚に頷いてみせる。


「綾乃ちゃん経由で、色々面倒な事になっているのは聞いている。それに俺の長年の友人が、彼女と交際中だからそちらからも耳にしているし。そういう不当な言いがかりは俺が止めさせるから、気にしないで良い」
「本当に、世の中広いようで狭いですよね」
 しみじみとした口調で祐司が頷いていると、少しして寝室から出て来た綾乃が、大き目のボストンバッグを祐司に差し出しながら告げた。


「祐司さん、貴子さんから頼まれたリストの物、全部揃えましたから」
 そう言われて、祐司が申し訳なさと照れくささを混ぜた様な表情で礼を述べる。
「悪い。助かったよ、綾乃。幾ら姉貴の物と言えども、下着とか揃えるのはちょっとな」
「これ位どうって事ありません。あの事件があってから、貴子さんは刑事さんに付きまとわれて、酷い迷惑を被っているんでしょうから」
 本気で腹を立てている口調で綾乃が述べてから、ふと思い出した様に言い出した。


「あ、そう言えば少し前に、刑事さんが祐司さんの所に話を聞きに来たって言ってたじゃないですか」
「ああ、そうだが」
「実はこの前、私の所にも来たんです」
「綾乃ちゃん、それは本当か?」
「聞いてないぞ?」
 揃って驚いたふりをしたが、実はとっくに話を聞いていた二人は(本当に、良くこんなタイミングで、間抜けな事をした奴がいたな)と笑いを堪えつつ話の先を促した。対する綾乃はその時の事を思い返し、怒りをぶり返しつつ状況を説明する。


「あんまり馬鹿馬鹿しくて、祐司さんには言って無かったの。いきなり職場に押しかけて、祐司さんの交友関係とか借金が無いかとかしつこく聞いた挙げ句に、私以外に付き合ってる女性がいないか知らないかとまで言われたわ」
「何だその失礼な奴は!」
「仮にも、今現在付き合ってる女性に尋ねる事では無いな」
 本気で憤慨してみせた祐司に、隆也も真顔で相槌を打つ。それに綾乃も頷いてから、冷静に話を続けた。


「同感です。だから『私が二股かけられるタイプで、かつそれを傍観するしかできないタイプの人間だと仰るんでしょうか?』って言って、丁重にお引き取り願いました」
「丁重になんかしなくて良いぞ、そんな奴」
「私もさすがに腹が立ったので、偶々その日の夜、マンションにご飯を食べに来たお父さんに洗いざらいぶちまけたら、お父さんが激怒しちゃって、ちょっと失敗したかな~って」
 少し口調を和らげて遠い目をした綾乃に、男二人はわざとらしく問いかけた。


「君島議員に話したのか……」
「失敗って、どういう意味なんだ?」
「『事件に無関係の綾乃に対して、そんな無礼千万な事をほざくとは失礼千万。井原の奴に文句を言ってやる』って息巻いちゃって。一応『その人もお仕事なんだから』って宥めたんだけど」
「井原って誰?」
 そこで更に問いかけた祐司に説明する形を取りながら、榊は自分達の会話に聞き耳を立てているであろう輩に聞こえる様に、懇切丁寧に解説を加えた。


「俺の父の榊亮輔と、綾乃ちゃんの父親の君島東志郎議員、去年退官した前警察庁長官の井原康志氏は東成大法学部の同期でね。進む道は法曹界、政界、警察と違ったが学生時代以来の友人同士で、今でも時折顔を合わせる仲なんだ。家族ぐるみで付き合いもあるし」
「そうでしたか。君島家と榊家の事は、綾乃から聞いていましたが」
 隆也はここで如何にも初耳といった感じで相槌を打った祐司から、綾乃に視線を移した。


「綾乃ちゃん。因みに、君島さんにその話をしたのはいつかな?」
「えっと……、三日前です」
 それを聞いた隆也は、顎に手を当てて考え込む。


「そうなると……、昨日か今日辺りに君島議員が井原前長官に『現場の捜査員がろくでもない捜査をしている』と訴えて、それを受けた前長官から照会なり叱責されて、今頃警察庁と警視庁の上層部が慌てているかもしれないな。去年退官したとはいえ、井原氏の影響力は未だに絶大だから」
「そうなんですか?」
 その祐司からの問いかけに、隆也は重々しく頷いてみせる。


「ああ。下手をすると、関係者の首が一つや二つ飛ぶかもしれない。漏れ聞く所に寄ると、この間捜査に殆ど進展は無いみたいだから、それで済めば寧ろ御の字かもしれないが。週明けは大騒ぎだろう」
「進展がないと言えば……。弟に聞いたんですが、警視庁から協力要請を受けた千葉県警が、弟の交友関係を洗っていたそうです。あいつの交友関係って無茶苦茶広いので『骨折り損のくたびれもうけだよな』って、家族皆で大笑いしてましたが」
「本当に無駄ですよね。あの孝司さんが、犯罪に係わる筈がないじゃないですか! でも孝司さんの交友関係って、そんなに広いんですか?」
 腹を立ててからふと疑問に思った様に綾乃が尋ねてきた為、祐司は本気で呆れた顔付きになって指折り数えつつ説明を始めた。


「あいつ人懐っこくて『袖摺り合ったら誰でも友達』的に、友達増やしてるから。幼稚園や学校の同級生を皮切りに、リトルリーグ時代のチームメイトや対戦相手、マリーンズの応援団関係に、農協の青年部に町内会に商工会議所関係に、消防団にネトゲー仲間にカラオケ仲間に」
「すみません、分かりました。もう良いです」
 全く終わる気配の見えない淡々とした祐司の説明を、綾乃は慌てて止めた。


「そんなこんなで、家族もあいつの交友関係の全てを、把握し切れて無いんだ。孝司の奴、学校の成績はいまいちだったが顔覚えとかは抜群だったし、親友百人位の住所と電話番号とメルアドは頭に入れてるって豪語してるから。それ以上の人数を一人一人当たったのなら、大変だったろうな……」
「親友じゃない友人は、何人いるんだ?」
「私……、友達何人いるかな?」
 最後は担当した警官に同情したのかどこか遠い目をした祐司を見て、隆也は呆れた気味に、綾乃は自信無さげに呟いた。そこで少しの間無言になってから、祐司が話を纏めにかかる。


「まあこの間ずっと見当違いの捜査をしていた皆さんは、ご苦労様でしたって事ですね」
「それしか言いようが無いな」
「自業自得です」
「自業自得といえば……、彼女に付いている弁護士が、警察に対して名誉棄損と損害賠償の訴訟を起こす準備をしているらしいな。彼は父の弁護士事務所所属だから、父から聞いたんだが」
 さり気ない隆也の話題誘導に、即座に綾乃が声を張り上げた。


「当然ですよ! それじゃあ榊のおじさまに、是非頑張って下さいってお願いしないと!」
「担当するのは父では無いんだが……。綾乃ちゃんが激励してくれたら、父が担当弁護士に発破をかけると思うよ?」
 そうして三人で揃って苦笑しながら、元通り戸締りをしてマンションを出た隆也は、これからの一騒動を思って誰にも分からない様にひっそりと笑った。



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