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ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第38話 騒動の序章

 二十分程で貴子が見張り役の犯人とロビーに戻ってきた後、他にもトイレに行きたい者、常備薬を飲みたい者など申し出た者は、一人ずつ見張られながら移動する事になった。貴子が注意深く観察していると、直接話をした一番小柄な犯人が一人ずつ仲間を捕まえて扉の奥に消え、一時間しないうちに全員に貴子の考えが伝わっただろうと見当を付ける。


(おじいさんから、犯人全員に話が伝わったわよね? さっきから私の方をチラチラ見てるし。でも帽子で視線は良く分からないし、他の人達と固まって一緒に居るから、周囲には怪しまれてはいない筈)
 そこで貴子は計画の第二段階に進む事にして、近くに座っている妊婦ににじり寄り、声を潜めて話しかけた。


「大丈夫ですか? そのお腹だと、まだ臨月では無さそうですが」
「はい。今、三十三週です。取り敢えず大丈夫です」
 若干青ざめた顔付きながら気丈に返してきた女性に、貴子は軽く頷いて周りの女性達に意見を求める。


「でも、こんな時にこんな所で何かあったら。取り返しがつかない事になりかねませんよね?」
「それは確かに」
「本当に、そうですね」
「すぐ解放されれば良いけど」
「大丈夫かしら?」
 周囲も懸念する表情になったところで貴子は僅かに身を乗り出し、更に声を低めて提案した。


「皆さん。ここは一つ犯人を騙して、こちらの方だけでも先に出て貰いませんか?」
「え、えぇ?」
「犯人を騙すって!」
「先にって」
「しっ! 声が大きい!」
「すみません……」
 思わず声を上げた面々を貴子が鋭く窘め、犯人達が何事かと視線を向けてきた為、その場は静まり返った。そして再び犯人が他の方に視線を移すと同時に、貴子が再び説明する。


「取り敢えず皆さんが話を合わせてくれたら、何とかなると思うんです。犯人は男性でしょうから、こういう事には詳しく無いでしょうし。もし警察官が突入してきて乱闘になったりしたら、他の方はともかく妊婦さんには危険過ぎます」
 その危険性を口にすると、ここが職場である行員を中心にあっさりと意見が纏まった。


「それは確かに」
「この支店内で、お客様に万が一の事などあってはいけません」
「不可抗力とはいえ、できるだけの回避方法は取るべきですね」
「宇田川さん。どうすれば良いですか?」
「こんな風にしたら、どうでしょう?」
 そして少しの間ボソボソと女同士での密談が続き、早速行動に移る事になった。


「じゃあ、始めましょうか?」
「はい、やってみます」
 硬い表情の妊婦が貴子の声に頷き返し、急にお腹を抱えて痛みを訴え始める。
「い、いたたたたっ! 痛いぃーっ!」
 いきなりフロアに響き渡ったその声に、何も聞いていない人質は勿論、犯人達も一瞬動揺して顔を向けると、貴子の周囲の女性達はこぞって大声を張り上げた。


「ちょっと、あなた。大丈夫!?」
「お腹が大きいから臨月かもしれないと思ってだけど、やっぱりそうだったのね」
「大変! 産気付いちゃったわけ?」
「無理も無いわよ! こんな緊迫した状況だもの!」
「な、何とか、大丈夫だと……」
「全然大丈夫に見えないわ! 顔色が真っ青よ?」
「ちょっと犯人! さっさと救急車を呼んで、この妊婦さんを搬送して! 下手したらすぐ産まれるわ!!」
 女性達を代表する様に貴子が声を張り上げて要求すると、犯人は負けじと怒鳴り返した。


「はぁ? ふざけるな!! そんな事出来るわけ無いだろう!」
「何ですって!? 何て非人道的なの!」
「言い争ってる場合じゃないです! 今聞いたら、この方経産婦さんですし!」
 誰かの切迫した叫びで言い争いを中断された貴子は、慌てて問題の女性を振り返った。


「え? 初産じゃ無いんですか?」
「はい」
 そして彼女が言葉少なく頷くと、周囲が益々難しい顔になる。
「そうなると、陣痛が始まってから産まれるまでの時間って、比較的早くなるわよね?」
「そうね。私の妹なんて、病院に連れて行ったら三十分で子供が産まれて、びっくりよ」
「ここで破水したら、大変……。洒落にならないわ」
「それ以前に、男の人って大量出血なんて見慣れてないから、それだけで気絶するって聞いた事があるし」
「胎児が出てくる時もなかなかインパクトありますけど、その後に胎盤がズルッと出てくるのって」
「いたたたっ! ……何だか間隔が短くなって、痛みが強くなってきたかも」
 そしてお腹を抱えて座り込んでいる妊婦を囲んで、一斉に無言で非難がましい視線を向けてきた女性達にうんざりしたのか、犯人が苛つきながら妥協案を出した。


「分かった。救急車を呼んでやる。ただし警察がいる、通りの向こう側まで歩いていけ」
 しかしその提案に、貴子が盛大に噛み付く。
「ちょっと! せめてそこの出入り口に横付けさせなさいよ! この状態だと、歩くのも辛いわよ?」
「うるせぇ! 救急車に警官が乗ってて、一気に押し入られたらまずいだろうが!」
「全く、ケチくさいわね!」
「宇田川さん、もう良いですから!」
 盛大に舌打ちした貴子を見かねて、周りの者が縛られた手で貴子のカーディガンを引っ張って宥めてきた為、貴子はそれ以上揉めるのは止めた。


「じゃあ台車を使うのは? この人を乗せて救急車の所まで運んで、帰りに食べ物と飲み物を運んでくるわ。それなら文句ないでしょ?」
「食べ物? 何を言ってるんだ、お前」
 途端に訝しげな声になった犯人に(あら、結構演技派じゃない)と内心おかしくなりながらも、貴子は真顔で用意しておいた台詞を口にした。


「あなた達にもう何時間拘束されてると思ってるの。もう夕飯時なのよ? 水分と軽食位、補給させて欲しいわ」
「そんな事言って、一人だけ逃げるつもりじゃ無いだろうな?」
 これもほぼ筋書き通りの台詞だった為、貴子は胸を張って啖呵を切る。


「あのね、私一応、世間様に顔が知られてるの。さっきの様に見ず知らずの行員さんが、私の事を知ってた程度にはね。恐らくテレビ中継されてる中で、自分だけ逃げ出したらどうなると思う? 社会的に抹殺されるわよ。誰が好き好んで、そんな事したいものですか」
「それは確かにな。じゃあお前にやって貰う」
 そして犯人は、ネームプレートに支店長の肩書きがある初老の男性の所に行って立たせ、一番近い机に連れて行って、電話の受話器を取り上げつつ指示を出した。


「お前が警察に電話して、こちらの要求を伝えろ。妊婦を搬送する救急車一台を道路の向こうに。それと中にいる人数を伝えて、人数分の軽食と飲料だ。台車で受け取りに行かせると言え」
「はい」
 真っ青になりつつも耳に受話器を当てて貰って、犯人の要求を伝える支店長を遠目に見ながら、貴子はこれからの事について考えを巡らせた。そんな時思考を妨げる声が、控え目にかけられる。


「宇田川さん……」
「大丈夫、落ち着いて。もう少しの辛抱だから。あと少し、痛みで歩けないふりをして下さいね」
「はい」
 そうして妊婦の彼女を励ましてから、傍らの女性達に向き直る。


「取り敢えず警察に、皆さんの無事を伝えて、何かお腹に入れる物を確保してきます」
「お客様をお願いします」
「気を付けて下さい」
 互いに真剣な表情で頷いて十数分後、救急車のサイレンの音が微かに店内に聞こえてきたのとほぼ同時に、その到着を知らせる電話がかかってきた。そして犯人に促され、倉庫から持って来たらしい台車にお腹の大きい彼女を座らせ、貴子がゆっくりと出入り口に向かって押し始める。
 犯人にシャッターを台車が通る程上げて貰い、「十分で戻れ」と言われて外に出た二人は、通りの向こう側にひしめき合っている警察とマスコミ、加えて野次馬の集団を認めて、思わず息を飲んだ。


「凄い人だかり……」
「立てこもり事件なんて、そうそうありませんからね」
 小さく苦笑した貴子は、横のスロープに台車を向けながら注意を促した。
「じゃあ、行きますよ? 少し揺れると思いますから、取っ手を握っていて下さい」
「分かりました」
 そして周囲からライトを浴びせかけられ、注目を浴びながら二人はゆっくり進み、道路の向かい側まで到達した。その人垣からストレッチャーを引きながら、白衣を纏った人間が二人現れる。


「大丈夫ですか? 通報のあった妊婦さんはこちらの方ですね?」
「はい。一応大丈夫だとは思いますが、搬送をお願いします」
 そしてストレッチャーに寝かされた彼女が、貴子に申し訳無さそうに声をかけてきた。


「宇田川さん、色々ご面倒をおかけしました」
「気にしないで。緊張がほぐれて一気に疲れが出る可能性もあるから、大事を取ってね」
「はい、気をつけます」
 そして無事、救急車が彼女を収容して走り出すと、誰かが貴子の肩を掴みながらせわしなく問いかけてきた。


「君! 中の様子はどうなんだ? 人質は無事なのか?」
「犯人に顔を殴られて怪我をした人が一人ますが、他の方は無傷です」
「そうか、それは良かった。それで」
「犯人は六名、全員銃を保持。服装は全員目出し帽に野球帽で、顔は不明。黒のジャンパーにジーンズ、白のスニーカーを着用してます」
 淀みなく言ってのけた貴子に、恐らく所轄署の刑事だと見当を付けた男が驚いた様に目を見張る。


「随分スラスラ言えるな?」
「聞かれるだろうと思ったから、短時間で伝えられる様に予め考えていただけよ! それより飲み物と食べ物は? 犯人からあそこを出て十分で戻れと言われてるの。早く人数分、これに乗せて!」
 貴子の言い方にそのベテランらしい男は鼻白んだが、ここで彼よりは若い男が台車に箱を乗せながら、貴子に声をかけた。


「それではこれをお願いします。こちらは犯人分ですので」
 当然の如く大小の箱を乗せた彼に、貴子が驚いた様に目を見張って言い返す。
「は? 犯人の分って何? まさか中に何か入れてるの? これを『あなた達の分だって言付かりました』って渡して、犯人が素直に食べると思ってるわけ!?」
「勿論そこはさり気なく渡してくれれば」
 慌ててそう弁解した男に向かって、貴子は呆れ顔で言い放った。


「犯人がそこまで馬鹿だと思うの? 私だったら差し出されても、絶対自分で他のを選んで食べるわよ。頭悪いんじゃない?」
「…………」
 全く反論ができない相手に向かって、貴子は更に言い募った。


「万が一、人質がそれを食べて、捜査員が突入してきた時に身動きできない人質が怪我でもしたら、責任はあんたが取るんでしょうね? 私の責任じゃ無いわよ?」
「……至急、差し換えろ」
「分かりました」
「急いでよ! つまらない事で時間を食ったわ!」
 憮然とする刑事達をなおも急かしながら、貴子は心中で盛大に毒吐いた。


(全く、頭足りなさ過ぎよ! もう少し考えたら?)
 そしてすったもんだの末、人数分飲食物を揃えて貰った貴子は、再び支店に向かって台車を押し始めた。そして、ふと考え込む。


(だけどあの間抜けな犯人達だったら、勧められるまま何も考えずに食べちゃうかも……)
 思わず溜め息を吐いた貴子は、意識をこれからの事に集中し、気合いを入れ直した。


(取り敢えず、これを使う機会があるかどうかは、まだ分からないわね。いつでも準備万端だけど)
 そしてテーパードパンツのポケットに入れておいたスマホの感触を、布の上から確かめた貴子は、意外にずっしりと重い台車を押しながら、店内へと戻って行った。


 都内某所のそんな騒ぎを、警視庁内の告知メールで目に止めてはいたものの、自分の業務には全く関係がない為、隆也はいつも通り自分の机で残業していた。そんな中、着信を知らせてきたスマホをポケットから取り出した隆也は、ディスプレイに表示された発信者名を見て、怪訝な表情になる。


(西脇? こんな時間に何だ? 今日は捜査協力の依頼に所轄に出向いて、そのまま直帰の筈だが)
 疑問に思いつつそれを耳に当てて応答した隆也だったが、挨拶抜きの取り乱した大声が伝わって来た。
「榊だが。西脇、どう」
「課長! 今すぐテレビを見て下さい!」
 隆也は反射的にスマホを耳から離してから、呆れた様に相手に言い聞かせる。


「おい、ちょっと落ち着け」
「宇田川先生が人質になってるんです!!」
 動揺しているらしい西脇の台詞に、隆也は一瞬思考が停止した。
「何を言ってる?」
「青葉銀行新野支店襲撃立て籠もり事件、まだ課長の耳に入って無いんですか!?」
「一報は入った。……本当か?」
 途端に顔付きを険しくして確認を入れた隆也に、何とか落ち着きを取り戻したらしい西脇が、本題を口にする。


「とにかく、どこかのテレビを見て下さい。ちょうど夕方のニュースの時間帯で、繰り返し中継映像が流されてます」
「分かった。一度切るぞ」
 断りを入れて通話を終わらせると、まだ残って仕事をしている部下達から怪訝な視線を向けられていたのは分かっていたが、それは無視してイヤホンを付けたスマホでテレビの受信を始めた。


「……それでは、先程人質の中にいた妊婦が出てきた場面を、もう一度振り返ってみます」
 そのキャスターの台詞に、苛々しながらチャンネルを変えていた隆也の指の動きが止まり、黙ってその画面を見守っていると、店内から台車を押して出て来た貴子の姿が小さく映し出された。
「シャッターの奥に、チラッと犯人らしき人影が見えますね」
「はい、そしてここで産気付いて、歩くのも困難な妊婦を台車に乗せてカメラの方にやって来るのが、あの料理研究家の宇田川貴子さんです」


(何をやってる……。確かに最寄りの銀行だろうが、何て間の悪い。それに出しゃばらないで、おとなしくしていられないのか?)
 忌々しく思いながらスタジオのコメントを聞き流していると、隆也の予想外の言葉が耳に飛び込んで来た。


「……さて、ここで宇田川さんが飲料水と軽食持参で、中に戻ります」
(は? 何の冗談だ? 本当に中に戻ったのか?)
 さすがに自分だけ先に解放されたら気まずいし、立場が無いだろうとは思ったものの、隆也は一瞬本気で呆れた。そんな中スタジオでは、感嘆の溜め息が漏れる。


「いやぁ、恐れ入りましたね。宇田川さん、取り乱している様には見えませんでした」
「私だったら、そのまま逃げ出してるかも」
「報道の人間として、そういう言動は慎む様に。気持ちは分かるがね」
「現場のレポートによると、彼女は落ち着き払って警察に内部の情報を伝えた様です」
 そこからは現状の報告等に移った為、隆也はテレビの視聴を止めて再び電話をかけ始めた。


「西脇、大体の事情は分かった。今、新野署か?」
 挨拶抜きで問いかけると、西脇が神妙に答える。
「はい。約束をした刑事以外にも、捜査担当者が全て出払っていまして。理由を聞いて引き上げようとしたら、ロビーのテレビでニュース映像が出ていて肝を潰しました」
 捜査の一環で柳井クッキングスクールに入ったものの、捜査終了後も真面目に通って貴子に教えを乞うている彼にしてみれば、相当動揺して知らせてきたのだろうと推察した隆也は、なるべく穏やかな口調を心掛けて言い聞かせた。


「ご苦労だった。確かに心配だが、この手の犯罪は成功例が極めて少ない。早期に人質も解放されるだろうから、気に病まないでこのまま直帰しろ」
「分かりました。失礼します」
「ああ、ご苦労だった」
 何とか自分を取り戻したらしい西脇が、いつもの口調で挨拶してきた事に安堵しながら、隆也はスマホをポケットに戻した。そして、先程まで話題になっていた貴子の事を考える。


(ああ見えて、れっきとした理由が無いと、自分から進んで揉め事に首を突っ込むタイプでは無いと思っていたが。本当に何をやってるんだ? まさか他に何か、あるんじゃ無いだろうな?)
 何となく貴子の行動に違和感を感じたものの、それ以上は想像すらできなかった隆也は、早々に考える事を諦めた。そして何気なく、そろそろ区切り良く精査が終わりそうな書類を見下ろす。


(まだ仕事が終わらないしな。もう暫く、残業していくか)
 そして机の引き出しから新しいファイルを引き出した隆也は、徹夜覚悟で自分の仕事を続行させつつ、警視庁内の関係部署とのネットワークを繋ぎながら、立て籠もり事件の情報収集を開始した。



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