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ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第32話 些細な疑惑

「さあ、入ってくれ」
 そう言いながら通されたリビングは十分な広さがある上、インテリアも落ち着いたアースカラーで統一されていた為、貴子の予想は良い意味で外れた。


「へえ? 思ったより、片付いてるのね。男の独り暮らしなんだし、もっと雑然としてるのかと思ってたわ」
「期待にそえなくて悪かったな。じゃあちょっと珈琲でも淹れるから、座っててくれ」
「分かったわ」
 貴子の率直な感想にも気を悪くした風情を見せず、芳文はおかしそうに笑ってキッチンに消えた。その為遠慮なく室内をぶらついて観察していると、ガラス戸の付いた本棚の中段に、フォトフレームが立ててあるのに気が付く。


(家族写真? 三兄弟の末っ子だって言ってたから、そうよね)
 夫婦と息子三人と思われる、どこか同じ血の繋がりを感じさせる集団の写真を眺めた貴子は、一瞬それを投げ捨てたい衝動に駆られたが、扉を開けようと手を伸ばした所で背後からかけられた声に、瞬時に平常心を取り戻した。


「待たせたな。ほら、珈琲を淹れたから飲め」
「ありがとう。貰うわね」
(危ない……、何いきなり切れかけてるのよ、私)
 本棚に背を向けた貴子は、キッチンから両手にマグカップを持ってやって来た芳文に礼を言い、何食わぬ顔でカップを受け取った。そして二人で向かい合って飲み始めたが何となく無言になってしまった為、多少居心地の悪さを感じた貴子が、先程の写真を指差して尋ねてみる。


「そう言えばあの写真って、昔、家族全員で撮った物?」
 それに芳文は、一瞬躊躇う素振りを見せながらも答えた。
「うん? ……ああ。今では滅多に実家には帰らないが、一応な」
「滅多にって……、どれ位の頻度で帰ってるの? 実家が遠いとか?」
 いつもの彼らしくない歯切れの悪さに貴子が思わず質問を重ねてしまうと、芳文は些か困った様に説明した。


「そうだなぁ……。確か最後に顔を合わせたのが、下の兄貴の結婚式の時だったから……。ここ十年位、顔を見てないか? 実家は都内だが」
「……色々複雑そうね」
 本能的にこれ以上踏み込んだら拙いと察した貴子は、それ以上の追及を止めた。対する芳文も笑って誤魔化す。


「まあな。でも家族仲が険悪って訳じゃないし、俗に『便りが無いのが良い便り』とも言うだろ?」
「確かにそうね」
 それ以上貴子は問い質す事なく、カップを口に運んだ。そして飲み終わったのを見て、芳文が声をかける。


「じゃあ貴子、風呂はセットしてあるから、先に使って良いぞ。着替えは上がるまでに、脱衣所に置いておいてやるから」
「ありがとう。じゃあ、そうさせて貰うわ」
 そう言って立ち上がった貴子を見送り、芳文はメールを一件送信してから自身も立ち上がった。そして彼女の着替えを脱衣所に準備してからリビングに戻り、溜まっていたダイレクトメールなどの整理をしていると、ドアを開けて風呂から上がった貴子が顔を覗かせる。


「芳文?」
「ああ、上がったか」
「かなり強引に押し掛けておいて、文句を言うのもなんだけど、シャツ一枚だけってどうかと思うの」
 着込んだブカブカのサイズのコットンシャツの裾を摘まんで軽く引っ張りながら、ちょっと困惑顔で告げてきた貴子に、芳文は苦笑した。


「悪いな。普段女は連れ込まないから、女物なんか用意してないんだ。だが、それほど不自由はないだろ? すぐベッドに入るんだし」
「まあ、それはそうなんだけど……」
「ほら、体冷やすぞ? ベッドに案内するから、さっさと毛布にくるまってろ」
「はいはい」
 少し呆れ気味に頷いた貴子は、湯冷めしない様に大人しく芳文に付いて歩き出した。そして寝室に案内されてさっそくベッドにもぐりこんだが、芳文が何やら棚の引き出しを開けてゴソゴソしていたと思ったら、目的の物を取り出してそれを貴子に向かって差し出す。


「ちょっと言い忘れてた。今日はこれを使え」
「……何、これ?」
「見ての通り、アイマスクと耳栓だが?」
 軽く目を見張った貴子に芳文は事も無げに答えたが、それを聞いた彼女は益々疑わしげな表情になった。


「私が聞きたいのは、どうしてこの場面で、こんな物が出てきたのかって事なんだけど?」
 その問いかけに、芳文は真顔で説明を加える。
「外部からの刺激が少なくなると、残った感覚が鋭敏になるって話を聞いた事は無いか?」
「それは、確かに何かで聞いた事はあるけど……」
「お前明らかに欲求不満で、普通のセックスじゃ満足できなさそうだものな。こういうのを使えば普段と感じ方が違って、これまでとは違った方向に開眼できるかもしれないぞ?」
 どこまでも真顔で告げてくる芳文を、貴子は思わず半眼で見やった。


「そういう趣味だったんだ……」
「こら、何をドン引きしてる! 断っておくが、俺は変な性癖の持ち主じゃないぞ? 手錠もロープも持ち出して無いだろうが!」
 軽く拳で自分の頭を小突いてから、堂々と主張してきた芳文に、貴子は軽い頭痛を覚えた。


「……威張って言う事なの?」
「当たり前だ。声を大にして主張させてもらうぞ。どうしても嫌だったら、さっさと自分で外せば良い状態でやるんだからな。下手だって言うなら、殴っても構わないぞ。言っておくが、それなりに自信はあるがな」
 そう言って不敵に笑った目の前の男に、貴子は思わず失笑し、小さく頷く。


「分かったわ。じゃあせっかくだから、今回は使ってみようかしら」
「最初から素直にそう言え。じゃあ、ちょっと休んでてくれ。俺はちょっと明日の準備をしてから、風呂に入って来るから」
「はぁい。分かりました」
 楽しそうに軽く手を振って、部屋の照明を常夜灯にしながら出て行った芳文を見送ってから、貴子は受け取った代物を見下ろし、呆れ気味に溜め息を吐いた。


「いきなり何かと思ったわよ。全くもう」
 そう文句を言いつつも、貴子は面白半分で大人しく耳栓とアイマスクを装着して、再び毛布の中に潜り込んだのだった。


「さてと……、これで取り敢えず第一段階は終了、と」
「……おい」
 寝室を出てリビングに向かいながら満足そうに芳文が呟いていると、玄関に向かう曲がり角の陰から、スーツ姿の隆也が低い声で囁いてきた。それを認めた芳文が安堵した表情になり、一度背後を振り返ってから隆也に歩み寄る。


「遅いぞ。一体、どこで道草食ってやがった」
「無茶を言うな。これでもできるだけ急いで、片付けてきたんだ」
「まあ、それはともかく……、以前無理やり持たせておいた、俺のマンションの合鍵が役に立っただろう? 彼女が居る前でお前を招き入れる危険性は冒せないし、下手にインターフォンも鳴らせないしな」
「そんな事より、さっきの電話。お前正気か!?」
 不機嫌そのものの隆也が精一杯声を抑えながら長年の友人を叱り付けたが、対する芳文は淡々と言い返す。


「正気だし、十分本気だが? 何だお前、俺にあいつとしろってのか? それともそこら辺の適当な男に持ってかれても良いってなら、俺は手を引くだけだが。どうもあいつ、精神的に不安定だしな。どうなっても知らんぞ?」
 そう指摘されて小さく歯軋りをした隆也だったが、次に真っ当な懸念を口にした。


「そういう事は言ってないが、部屋を暗くしてもばれるだろうが」
「大丈夫だと思うが? アイマスクと耳栓させたし」
「……何?」
 さらりと芳文が口にした内容に、隆也が瞬時に顔付きを険しくさせて詰め寄る。それに苦笑いした芳文は、掴まれた服から手を剥がしつつ相手を宥めた。


「ちょっと待て。そんな怖い顔するなって。何も縛ったり薬を飲ませた訳じゃないし、ちゃんと本人にも了解済みだ」
「お前……、一体どうやって丸め込んだ?」
「普通にだが?」
「……もういい。お前と話していたら、何もかも馬鹿馬鹿しくなってきた」
 疲労感を覚えた隆也が溜め息を吐きつつ愚痴を零すと、芳文が笑ってこれからの予定を告げる。


「じゃあ風呂を使って良いぞ。俺は向こうの部屋で仕事してから、そのまま寝るから。バスローブはいつもの所な」
「……ああ」
 何度も泊まりに来た事のある勝手知ったる部屋であり、隆也は上着を脱ぎつつ浴室に向かって歩き出したが、その背中にのんびりとした声がかけられた。


「あ、それから二つほど注意事項があるんだが」
「何だ?」
「お前、いままでと同じ様に抱くなよ? あいつが不審に思ったら、手は自由だからアイマスクを外すからな? それと、万事抜かりの無いお前の事だから、俺の話を聞いて準備はしてきたと思うが、ちゃんと避妊はしとけよ? 万が一この状況下で妊娠したら、あいつが動揺する」
「…………」
 振り返った体勢で固まり、顔から表情を消した親友を見て、芳文は笑いを堪える表情になった。


「いやあ、無茶苦茶スリリングだなぁ。真っ最中に正体がバレたら、お前続けられるか? 動転して変な方向に走るなよ? それから、さすがにあいつが悲鳴を上げたら、どういう状況であろうが救出するからな?」
 そう言って不敵に笑った芳文を睨み付け、盛大に舌打ちしてから、隆也は忌々しげに呻いた。


「芳文……、お前、完全に面白がってるな?」
「当然。それでは隆也君の健闘を祈る。事が済んだら、一言声をかけてくれ」
 すちゃ、と茶化す様に片手を上げ、上機嫌で奥の部屋に去って行く芳文を見送りながら、隆也は「全く、ろくでもない……」と小さく独り言を呟きながら、浴室へと向かった。
 この間、当然貴子は男二人のやり取りに気付く事も無く、薄暗い部屋の毛布の中で丸まっていたが、段々睡魔に襲われてきている自分を自覚していた。


(う~ん、ちょっと遅いんじゃない? 寝ちゃうわよ? と言うか、段々どうでも良くなってきたわね。芳文ったら、それを狙ってたの? 据え膳を放置って、ムカつくわね。明日絶対に文句を言ってやらないと)
 そんな事を考えながらも、段々意識が朦朧としてくるのに身を任せていた貴子だったが、微かな何かの開閉音と共に人の気配を感じ取り、アイマスクの下の目を開く。


(やっと来たの?)
 貴子は正直待ちくたびれていたが、文句は口にしないで大人しくそのまま寝ていた。しかし伝わって来た微かな振動で、ベッドの横に腰かけた相手が自分の顔の横に両手を付いて見下ろしているのは分かったが、そのまま微動だにしないで時間が過ぎていく為、不審に思って声をかけた。


「ねえ、芳文? どうかし」
 呼びかけた瞬間勢い良く毛布を剥ぎ取られ、貴子がそれに驚く間もなく、両手を押さえつけられて荒々しく口を塞がれた。それと同時にのしかかってきた相手が、足を使ったのか乱暴に毛布を床に投げ落とす気配を感じ、貴子は唇を割って入ってきた舌が自分の口内を蹂躙する様に動くのに応えながらも、少々不審に思う。


(何? 普段の芳文の印象と違って、随分強引だけど……。え?)
 一度離された唇が、今度は顔の横に移動して耳朶を食み始めた時に、貴子は普段より鋭敏になっていたらしい嗅覚で、恐らく相手の首筋から漂ってきたであろう香りを捉える。その瞬間、明るい部屋であればはっきりと認識できる程度に、貴子は顔を青ざめさせた。


(本当に微かだけど……、この香り)
 記憶にあるそれと、手探りで相手の体つきを大体把握した貴子は、変な動悸を覚えた。その間もシャツのボタンを一つずつ外され、徐々に露わになっていく彼女の肢体に、身体の奥底から湧き上がる快楽を呼び覚ます刺激が、途切れることなく与えられていく。しかし貴子の頭の中は、一部分だけ冷え切っていた。


(まさか……、違うわよね? 何、変な事を考えてるのよ。そもそもどうしてあいつを連想なんか……、芳文に失礼でしょうが! 幾ら二人の体型が似てるからって!)
 一瞬、脳裏に浮かんだ考えを必死に否定し、貴子は付けているアイマスクを取りたい衝動に駆られた。
 しかし万が一自分の懸念が当たっていた場合、今自分に触れている相手にどういう対応をすれば良いか全く見当が付かなかった貴子は、当然自分からアイマスクを取り去る勇気など無く、それ以上考える事を放棄する。それからはただひたすら、相手から与えられる快楽に身を委ねたのだった。




 いつの間に眠っていたのか、再び目を覚ました時には何故かアイマスクも耳栓もしていなかった為、貴子の視界には遮光カーテン越しに僅かに漏れてくる朝日に照らされた、見慣れない天井があった。
「……朝、よね?」
 そして一瞬考え込んで、現状を認識する。
「ああ、芳文のマンションだったわ」
 そうしてベッドに寝たまま昨日からの事をぼんやりと反芻していると、唐突にドアが開き、ルームウェアを着た芳文が顔を覗かせる。


「ああ、起きたな。シャワーを使うか? その間に朝食を準備しておくが」
「ええと……、おはよう。そうさせて貰うと嬉しいけど」
「とは言っても、シリアルとコーヒーだけだが。本当なら料理研究家様に、そんな物は恐れ多くて出せないんだが、そこは我慢してくれ」
 真面目くさった顔で芳文がそんな事を言ってきた為、ちょっとした気まずさも吹き飛んで貴子は噴き出してしまった。


「それで十分よ。寧ろそれ以上の物が出てきたら、怖くて食べられないわ」
「言ってろ。さあ、行った行った」
「は~い」
 苦笑いした芳文に手振りで追い払われ、貴子も笑いながら浴室へと向かった。
 そして脱衣所に入って羽織っていたシャツを脱ぎかけた貴子は、ふと広い洗面台の横の棚に気がつく。


「そう言えば……、あるとしたらこの辺りかしら?」
 そんな事を呟きながら白い扉を開けて中を確認すると、上段の方に濃い赤から茶褐色に至るグラデーションの、なだらかな曲線を描く瓶が目に入る。そしてそれを認めた瞬間、貴子の瞳に落胆と自嘲の色が混ざり合った。
「やっぱりあったわね。何、変な事を考えているんだか」
 自分自身を叱りつける様にひとりごちた貴子は、元通り扉を閉めて、今度こそシャワーを浴びる為に浴室に入って行った。


「お待たせ」
 すっきりした貴子が再びシャツだけを着てリビングに顔を見せると、芳文がサーバーから自分用のカップに珈琲を注いでいる所だった。
「タイミングばっちりだな。ちょうど準備ができたところだ」
 貴子は自画自賛的な台詞に苦笑しながら自分用にも珈琲を貰い、彼と向かい合って食べ始めた。そしてスプーンで何口かシリアルを食べてから、何気ない口調で切り出す。


「ねえ、芳文。ファーレンハイトを使ってるの?」
「何の事だ?」
 いきなり言われた内容の意味が分からなかったらしい芳文が尋ね返すと、若干怪訝な顔をしながら、貴子が付け加える。
「普段、全然その類を付けている感じがしないのに、昨日お風呂上がりでも少し香りがしてたから。洗面台の収納棚にも、ボトルがあったし」
 そう言われた芳文は、漸く合点がいったと言う感じで笑った。


「ああ、確かに偶に使ってるな。だが付ける時も、周囲にはっきり分かる様な付け方はしていないから。俺としては、脱いで初めて仄かに香りを感じ取れる程度の付け方に、美学を感じる」
「美学ね……、なるほど。だけど昨夜はシャワーで落としきれなかったわけか。しっかり付けてるのか、軽く付けてるのか、良く分からないわね」
「それはやっぱり、可愛い兎ちゃんを待たせちゃいけないと思ったからな」
「兎ちゃんって、誰の事よ? 心にもない事を言わないでよね」
 クスクスと貴子が笑い出してその話題はそこで終わりになり、それからは他愛もない話をしながら二人は朝食を食べ終えた。
 そして芳文は手早く着替えを済ませ、ワイシャツにネクタイを締めて、上着を羽織りながらソファーに座っている貴子に声をかける。


「じゃあ、俺はもう出るから。ここの鍵はオートロックだから、このまま出てくれて構わない。万が一忘れ物があったら、このタワーマンションの三階のクリニックに居るから、声をかけてくれ」
「分かったわ。行ってらっしゃい。後片付けだけはしておくわ」
「ああ。宜しく」
 そうしていつも通り玄関を出て、至近距離の職場へと向かった芳文は、エレベーターホールで思わず小声で悪態を吐いた。


「あっぶねぇ……。つまらない所から、バレる所だったじゃねえか。偶々貰い物の瓶があったから、誤魔化せたものの……。ちゃんと落としとけよ。がっついてんじゃねえぞ」
 今度必ずこの落とし前を付けさせてやると心に誓いながら、芳文は職場の入口の施錠を解除した。


 一方の貴子は、気分的に家主をふんぞり返って見送るのは心苦しかった為、立ち上がって芳文を送り出してから、そのままキッチンに入って朝食に使った食器を洗い出した。しかし大した数も無い為すぐに片付いてしまい、手持ち無沙汰な感じでダイニングテーブルにやってくる。


「……何やってるんだろ、私」
 椅子に座ってテーブルに上半身を突っ伏した貴子は、ぺたりと押し付けた頬から伝わるテーブルの冷たさを感じながら、暫くの間ひたすら自己嫌悪に陥っていた。



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