ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第22話 決裂

 翌日の支度を全て済ませ、今まさに寝ようかという時にかかってきた電話に、貴子は無意識に顔を顰めた。更にディスプレイに浮かび上がった発信者名が、滅多にかけてこない相手である上に、かけてくる時はろくでもない用件か、罵詈雑言を一方的に垂れ流す事を目的としている為、思わず悪態を吐き出す。


「寝る前に、今日最高のケチが付いたわね……」
 忌々しく思いながらも、無視したら何度もかけ直してくる事が確実であり、これまでもわざと固定電話の着信には応じて、携帯やスマホに被害が及ぶのを控えていた為、貴子は精神的に身構えて受話器を取った。


「遅いぞ! どれだけ待たせる気だ!」
「……ご用件は?」
 確認もせずいきなり電話の相手を怒鳴りつけて、もし間違い電話だったらどうするつもりかと、貴子は半ば呆れながら短く応答したが、娘の素っ気ない対応など今更な啓介は、すこぶる上機嫌に話を続けた。


「はっ! 相変わらず愛想の無い。これで良く、あの男を捕まえられたものだ。要するに、彼は見た目が派手で、生意気なのが好みだったらしいな」
「はぁ?」
(何言ってんの? とうとう耄碌したのかしら? この調子で毎晩電話されたらたまらないわ。そろそろ固定電話の方も着信拒否しようかしら?)
 いきなりわけが分からない事を話し出され、貴子は本気で首を捻ったが、啓介は上機嫌で話し続けた。


「康介から話を聞いた時には、本気で驚いたぞ。まさかお前がそんな有望株を捕まえているとは、夢にも思っていなかったからな」
「……康介が、何ですって?」
 満足そうに告げられた内容を聞いて、三週間程前の事を脳裏に思い浮かべた貴子は、まさかと思いながらある事を推察し、冷え切った声で確認を入れた。すると電話越しに、如何にも優越感に満ちた声が返ってくる。


「今更とぼけるな。榊隆也警視正の事だ。大体お前は何事においても考えが足らんから、警察組織の中での派閥や人脈の重要性など、意識する事もできないんだ。全く、菅野派の若手有望株を捕まえておきながら、私に紹介しないとは何事だ」
 それに貴子は盛大に舌打ちしてから、心底嫌そうに反論した。


「……まさかあいつの事を言ってるわけ? 別にあいつとは何も」
「相変わらず常識の無い。キャリアの榊君を“あいつ”呼ばわりとは。彼と顔を合わせた時、父親としてお前の無礼さを詫びなければな」
「黙って聞いてれば、何様のつもりよあんた!!」
 自分の台詞を叱責口調で遮った啓介に、とうとう貴子の堪忍袋の緒が切れた。そして盛大に怒鳴り返したが、相手は忌々しげな口調になりながらも、恩着せがましく言ってくる。


「結婚するまでに、もう少しまともな言葉遣いができる様にしておけ。榊君に恥をかかせるな」
「だからあいつとは、何でも無いって言ってるでしょうが!」
「それからせっかくだから、挙式と披露宴の費用は出してやるからありがたく思え。菅野派と確実に繋がりができれば、それ位安いものだからな」
「はっ! あんたの浪費家の癖にケチな奥さんが、承知するとは思えないんだけど!?」
「仲人も、今後榊君が昇進するのに強力に後押ししてくれる、上層部の人間に、私の伝手で依頼済みだ」
「あんたの定年後の再就職先を、斡旋して貰う為でしょうが! 何恩着せがましく言ってんのよ、全部お見通しよ! 厚かましい事、この上ないわね!!」
 思わずせせら笑いながら指摘した貴子に、さすがに啓介は不機嫌そうな口調になった。


「減らず口は相変わらずだな。……まあいい。実際に結婚するまでには、感謝の言葉の一つ位、言える程度の謙虚さを身に付けておけ」
「何であんたに感謝の言葉……、ちょっと!」
 更に怒りを増幅させて言い募ろうとした貴子だったが、相手が言うだけ言って既に通話を終わらせてしまった事に気付いた貴子は、力任せに受話器を戻した。そしてそのままの体勢で、押し殺した声で呟く。


「馬鹿じゃないの? 滑稽過ぎるわ。何勝手に勘違いして、浮かれてんのよ」
 そしてギリッと耳障りな歯軋りの音を立ててから、目の前の壁を睨み付けつつ吐き捨てる。


「頭が足りない康介が、偶々出くわした食事に一緒に行く程度の男を、婚約者とか勘違いしたのは単なる笑い話だけど、それを真に受けたあいつに至っては、殆ど喜劇よね」
 そこで視界の隅に入ってきたカレンダーに、何気なく意識を向けた貴子は、そこに書き込まれた内容を見て怒りが振り切れ、勢い良く両手を伸ばした。


「ふざけんじゃ無いわよ! 何で私が、あのろくでなしを喜ばせてやらなくちゃいけないのよっ!!」
 そう叫ぶと同時に、カレンダーの一番上の紙が、固定してある上部から引きちぎられる勢いで剥がされ、貴子は無言のままそれを素早く細かく破っていった。そしてこれ以上は小さくできないと思われる状態になったカレンダーを冷たく見下ろした貴子は、それを放置したまま寝室へと向かった。




 その日、デスクワークに集中していた時に、急遽上司に呼びつけられた隆也は、内心うんざりしながらも即座に腰を上げ、刑事部部長室へと出向いた。そしてノックをして中から入室の許可を得てから、室内に足を踏み入れ、殊勝に上司に頭を下げる。


「お待たせしました。藤間部長、お呼びでしょうか?」
「ああ、呼び立ててすまないね、榊課長。ここに座ってくれ」
「失礼します」
 直属の上司である刑事部長の藤間は二人掛けのソファーに座っており、自分の隣を軽く手で叩いた。それに大人しく従い、それまで藤間が対応していたと思われる、彼の正面に座っている年配の男性に視線を向ける。するとそれを察した藤間は、早速相手を紹介してきた。


「榊君、こちらは警察庁警備局局長の青山慎吾警視監だ。本日はこちらに会議の為、外事情報部部長と出向いておられる」
「やあ、榊課長。君の活躍と噂は、時折耳にしているよ。最近では例の件、初期捜査の一部は君が取り仕切ったそうだな。報告書を見せて貰ったが見事な物だった」
 鷹揚に笑いながら差し出された手を失礼の無い程度に握り返しながら、隆也は一応謙遜してみせた。


「青山局長、初めまして。職務での業績はともかく、お耳汚しな噂が耳に入っていなければ良いのですが」
「なかなか切れる若手の有望株として、上層部でも君の名前は有名だよ? それ以上に周囲が華やかだとも聞いているが、若いんだからそれ位でないとな」
「恐れ入ります」
 カラカラと豪快に笑った相手に下手な弁解などはせず、隆也は自然に繋いだ手を解きながら微笑み返した。しかし何故この場に呼びつけられたのか見当が付かず、内心で首を捻る。


(何だ? 変に上に目を付けられる様な、ヘマはしていない筈だが)
 失礼の無い態度を取りつつ、頭の中であらゆる可能性を考えては瞬時に消去していた隆也の耳に、ここで突然予想外過ぎる言葉が飛び込んできた。


「ところで今日時間を取って貰ったのは、他でもない。君は宇田川本部長の婿になるのか?」
「…………は? 今、何と仰いました?」
 たっぷり数秒沈黙してから、(我ながら、今凄く間抜けな顔をしているだろうな)と思いながら問い返した隆也に、青山が先程までとは違う、幾分困惑気味の表情で話を続けた。


「実は私は、警視庁第十三方面本部長の宇田川啓介氏の一期下で、若い頃同じ職場に居た事があるんだ。だがそれだけの関係で、特に親しくもしていないのに、突然『娘が結婚する事になったから、是非仲人をして欲しい』と言ってきてね。『相手が榊大輔警察庁長官官房長の甥だから、君が仲人を引き受けても損は無いだろう』とか、得意満面だったが」
「それで局長が、会議後に君の人となりを私に尋ねていらしたのだが、私も君から結婚する話など皆目聞いていなかったのでね。ちょっと驚いたから、本人に直接聞いてみる事にしたという訳だ」
 警察庁の幹部と直属の上司から、怪訝な視線を浴びた隆也は、心の中で、貴子の生物学上の父親である宇田川に対して、盛大な罵声を浴びせた。


(腐れ親父が!! 息子同様、いや、それ以上の阿呆らしいな。てめえの息がかかってると思ったら、こっちの経歴に傷が付くだろうが! しかも勝手に仲人の依頼だと? ここまでくると立派な老害だ。さっさとくたばりやがれ!!)
 しかし素早く頭の中で計算した隆也は、そんな憤りと不満など微塵も面に出さず、笑みさえ浮かべながら平然と言い返した。


「失礼ですが青山局長、それは宇田川本部長の勘違い、もしくは私とは別の、『榊隆也』さんとの縁談ではないでしょうか?」
「ほう、勘違いとは?」
 サラリと自分の話を全否定された青山だったが怒り出す事は無く、寧ろ興味深そうに隆也の反応を眺めた。対する隆也は横に座る藤間の視線も意識しながら、理路整然と説明を加える。


「宇田川啓介氏の御令嬢の宇田川貴子さんとは、確かに面識がありますが、所謂お付き合いと言える物はしておりません。見た目に似合わず博識な方で、会話するとなかなか楽しい女性なので、何度か一緒に食事をした事はありますが、それだけで結婚しなくてはいけなくなるなら、私は軽く百回は結婚している計算になります。警察官が進んで重婚罪で捕まる様な真似は、御法度かと思いますが。どう思われますか? 藤間部長」
「確かに、君の経歴は華やかだな」
 さり気なく藤間に話を向けると、以前から隆也の女性関係をそれなりに把握していたらしい藤間が、思わず失笑する。それに苦笑いで返してから、隆也は再度青山に向き直った。


「それにまず結婚するとなったら、まず直属の上司である藤間部長に報告をするべきだと思われます。加えて、できるなら仲人もお願いするのが、順当ではないでしょうか?」
「うむ、まあ確かにそれが筋だな。だから藤間君が全く知らない風情だったので、おかしいとは思ったんだ」
 控え目にお伺いを立ててきた隆也に、青山が尤もらしく頷いた為、隆也は落ち着き払って話を続けた。


「もし部長が仲人を務めるのに差し障りがあるなら、部長から上層部の方で、引き受けて頂けそうな方に紹介して頂くのが筋だと思います。一応私も今後順調にキャリアを積み重ねていきたいので、上の方に反感を持たれる事は避けたいですね。これまでに面識も無いのに、いきなり青山局長クラスの幹部にお願いに上がったら、周囲から生意気だと白眼視される事が確実です」
「ふむ、その通りだ。君は組織と言う物を良く分かっているな」
「恐れ入ります」
 神妙に申し出た隆也に、青山も重々しく頷く。そして無言を貫いている藤間の視線を感じながら、隆也は話を纏めた。


「ですから仮に、宇田川本部長が私の結婚相手の父親だとして、普通であれば婿になる私の立場を悪くさせる様な、筋の通らない振る舞いをするでしょうか? ですから先程本部長の勘違いか、青山局長と旧知である『榊隆也』との縁談かと、愚考した次第です」
「なるほどな。良く分かった。生憎私の知り合いに、他の『榊隆也』なる人物は居ない。君の話を伝えて、宇田川本部長には断りを入れよう。君が婿がねとして有望だとは思うが、妄想と空想もほどほどにと、一言付け加えておいた方が良いかな?」
「是非そうして下さい。宇田川本部長とは全く面識が有りませんが、それがご本人の為だと思われます」
「良く分かった。それでは藤間君、長居をして悪かった。失礼するよ」
「いえ、大したお構いもできませんで」
 そうしてゆっくりと立ち上がった青山が、改まった口調で隆也に話しかける。


「それから、榊君は秋の人事で警察庁に異動が内定した。これから庁内で顔を合わせる機会も有るだろう。頑張ってくれたまえ」
「ご期待にそえる様、頑張ります。それから……、もしこれから結婚が内定致しましたら、今回思いがけず局長と面識を得る事が出来ましたので、仲人を引き受けて頂けたら幸いです」
 神妙に頭を下げながらさり気なく申し出た隆也に、青山が苦笑を漏らす。


「……君もなかなか、抜け目がないな。分かった。覚えておこう」
 満足げに頷いて部屋を出て行く青山を、藤間と隆也は一礼して見送った。そして二人きりになった室内で、藤間が確認を入れてくる。


「それでは、君の結婚については白紙。宇田川本部長の話は、有り得ない話という扱いで良いんだな?」
「はい。他から何か言われましたら、お手数ですがその様に対応して頂けると助かります」
「それ位何でもない。しかし面倒な人に目を付けられたものだな」
「言い寄られて嬉しいのは、若い女性限定ですが」
 隆也が真顔でそう述べると、藤間が苦笑いして話を終わらせる。


「相変わらずだな。戻って良いぞ」
「それでは失礼します」
 そして傍目には平然と部長室から自分の机に戻った隆也は、密かに腹を立てながら、中断していた仕事を再開した。


(どうせまともにあいつの面倒なんか見ていなかっただろうに、どの面下げて仲人を頼むって言うんだ。想像していた以上の恥知らずだな)
 ムカムカしながら報告書を精査していた隆也だったが、根本的な疑問に突き当たる。


(そもそも、どうしてあいつと俺を結び付けて考えた? あいつがわざわざ没交渉の男に、自分の男の事を話すとは思えないんだが)
 そして部下に指示を出しながら、時折考えているうちに、ある事に思い至った。


(そう言えば……、あいつの誕生日に、馬鹿弟に絡まれてたな。こちらの名前や所属を明かしたし、そこからか?)
「全く、どこまで自分に都合良く考える、おめでたい頭を持ってやがるんだ……」
「あ、あの、課長? 何かそれに拙い所でも有りましたか?」
 部下から提出された報告書の内容を確認していた筈が、忌々しい事を考えながら無意識に悪態を口に出してしまった事に気が付いた隆也は、瞬時に意識を切り替えた。


「すまん相川、こちらの話だ。このクラウドファンディング詐欺についての報告書と、今後の調査手法に関する提言はこれで良い。ご苦労だった」
「はっ、はい! それでは失礼します!」
 普段の顔を取り繕って対応したつもりだったが、相川には隆也が不機嫌である事が十二分に理解出来た為、とばっちりを恐れて速やかに自分の席に逃げ帰った。その姿を見送りながら、隆也の頭の中でまた新たな疑問が生じる。


(馬鹿親父が勝手に先走ったのは確実として……、これをあいつは知っているのか? 知らされても、ありがたがる筈が無いが……)
 そこで暫く真顔で考え込んだ隆也は、仕事に一区切り付けてから部屋を抜け出し、廊下の人目に付かない所で貴子に電話をかけてみた。しかし一向に繋がる気配は無く、メールを送ってみても梨のつぶてだった為、隆也の不機嫌さは時を経る毎に悪化していった。




「お帰りなさい、隆也」
 ドアチャイムは押さなかったものの、門の開閉音で気が付いたのか、玄関を開けると母の香苗が上がり口で出迎えていた。その微妙に困惑した表情と、彼女の足元に置いてある普通サイズよりかなり大きなダンボール箱を見て、それを指差しながら隆也が不思議そうに尋ねる。


「これは?」
「夕方に届いたの。隆也宛てだったから、開封しないでおいたんだけど。結構重くて、二階に運べなくてごめんなさい」
「無理はしなくて良いから」
 そう言いながら伝票に書かれた送り主名を確認した隆也は、瞬時に真顔になって靴を脱いで上がり込み、広い玄関ホールで片膝を付いた。そして封をしてあるガムテープを、勢い良く剥がす。


「あら……」
「…………」
 手早く上部を開き、中身を確認すると、そこには想像した通り、男物の衣類一式や小物が整然と詰められていた。詳細を確認しなくとも、貴子のマンションに置いておいた自分の物だと判断できた隆也は、無言のまま立ち上がり、益々困惑した香苗の前を通り過ぎてリビングへと向かう。


「隆也、玄関のダンボール箱は一体何だ?」
 ソファーで寛いでいた父親を無視して固定電話の受話器を取り上げた隆也は、番号を押そうとして貴子の電話番号を暗記していなかった事を思い出した。その事実に苛立たしげに舌打ちしてから、隆也はスマホを取り出し、アドレス帳から貴子の番号を探し当てる。そして急いでその番号に電話をかけた。


「……もしもし?」
 少し待たされた後、未知の番号からの着信に警戒心ありありの声で貴子が応じると、隆也はつまらない挨拶など抜きで本題を繰り出した。
「おい、あの服はどういう事だ?」
 名乗らずとも声と用件で隆也だと分かったらしい貴子が、ごく小さく呟く。


「家の固定電話か。これも着信拒否にしないとね」
 その台詞で、隆也は自分の電話番号とメルアドが既に着信拒否にされている事を確信した。しかしそれは既に想定内の事柄だった為、自分自身を落ち着かせながら、質問を続ける。


「人の話を聞け。どうしてあれを家に送ってきた」
「もう必要ないし。だけど捨てるのは勿体ないでしょう? 配送料はサービスしてあげるわ」
 淡々と貴子がそう述べると、隆也も負けず劣らずの冷え切った声で尋ねる。


「それは今後一切、お前を訪ねるなと言う意思表示か?」
「それ以外にどんな意味が有るの? もううんざりなのよ。自己主張と上昇志向が強い、傲岸不遜なキャリアって」
「ろくでなし親父に、何かムカつく事でも言われたか?」
 如何にも飽き飽きしたと言った口調で言い放った貴子だったが、隆也が低い声でそう確認を入れた途端、激昂した。


「煩いわよ!! 金輪際、その不愉快なツラを見せないで!!」
 そこでブチッと通話を強制終了させられた隆也は、一応かけ直してみたものの、早速その番号を着信拒否に設定されたらしく繋がらなかった。しかしそれも予想できた事であった為、おとなしく受話器を元に戻し、玄関へと戻る。
 すると屈み込んだ香苗が、送りつけられたダンボール箱の中身をしげしげと覗き込んでいた為、隆也は何気なく尋ねてみた。


「母さん、何かそんなに面白い物でも有ったか?」
「ええ、十分面白いわよ? 隆也、あなた宇田川さんに振られたの?」
「……ちょっとした、見解の相違って奴だ」
 ニコニコしながら確認を入れてきた母親から、隆也は不機嫌そうに視線を逸らしつつ、屈んで両腕を広げて箱を持ち上げた。その箱を指差しながら、香苗が笑いを堪える口調で言い出す。


「宇田川さんって随分几帳面で、気配りのできる人なのね」
「どこが?」
 隆也としては(一方的に、私物を洗いざらい送りつけてくる奴だぞ?)と盛大に文句を言いたい気分だったのだが、息子の顔付きなど全く気にする事無く、香苗が指摘してきた。


「だって愛想を尽かした相手の私物を、こんなに丁寧に詰めて送ってくれるなんて。ワイシャツもハンカチもきちんとアイロンがけしてある上、このまますぐ使える様に綺麗に折り畳まれているわ。スーツもなるべく皺にならない様に、慎重に上に入れてあるし、ネクタイなんか折り目を付けない様に、何かに巻き付けて入れてあるもの。これはキッチンペーパーか、ラップの芯かしら?」
「…………性分だろ」
 腕の中を見下ろしながらぼそりと隆也が呟くと、香苗がクスクスと笑って告げた。


「私だったら、見たくもない相手の私物なんか、わざわざ手間暇かけて送り返さないで、鬱憤晴らしにハサミでザクザク切り裂いて生ゴミと一緒にゴミとして出すか、嫌がらせのつもりでグチャグチャに詰めて、代金後払いで送り付けるけど」
「……そうか」
 もはや何も言う気がなくなった隆也が、箱を抱えたまま二階の自室に行こうとすると、いつの間にか玄関ホールに出て来ていた亮輔が、息子の背中にからかい混じりの声をかけてくる。


「隆也、それでどうするんだ?」
「どうするとは?」
「このままあっさり、彼女を諦めるのか?」
 その声に、隆也は階段を登りかけた足を止め、両親に背中を向けたまま答えた。


「俺はこれまでの人生で、本当に欲しい物を諦めた事なんか、一度も無い」
「ほう? そうか。それならこれからの人生で、諦める様な事が無いように、頑張るんだな」
 多少冷やかす様な亮輔の声に、隆也は無言のまま箱を抱えて階段を上がって行った。その姿が見えなくなってから、香苗が夫に歩み寄って囁く。


「あなた。漸くお嫁さんが来てくれそうね?」
「そうだな。何があったかは知らんが、隆也がこれ以上ヘマをしなければな」
「じゃあ早速一年後を目処に、披露宴会場を押さえておかない?」
 そんな事をウキウキと言い出した妻に、亮輔はさすがに呆れた顔付きになった。


「おいおい、先走り過ぎじゃないのか? 完全に別れたらどうするつもりだ」
「あら、その時はキャンセル料を払えば良いだけの話だもの。隆也が首尾良く結婚できる様に、願掛けのつもりなんだけど?」
 微笑まれつつそんな事を主張された亮輔は、あっさりと賛同した。


「なるほど、道理だな……。よし、分かった。手付金は私が出してやろう」
「ありがとう、あなた。それで、良いと思った会場のパンフレットを、色々揃えてあるの」
「随分手回しが良いな」
 もはや苦笑するしかできない亮輔は、妻一押しの披露宴会場を確認するべく、彼女を促してリビングへと戻って行った。


 そんな楽しげな両親とは正反対に、自室に箱を運び終えた隆也は、それを床に置くなりポケットからスマホを取り出した。そして以前、その場の流れで番号を聞いたきり、一度も電話していなかった相手にかけ始める。


「はい、高木ですが?」
「榊です。孝司君、今時間を貰っても大丈夫かな?」
「榊さん!? ええ、俺は大丈夫ですからご遠慮なく! わざわざ電話をかけてくるなんて、どうかしましたか?」
 当初見慣れない番号だったからか警戒する様な声音だった孝司だが、隆也からだと分かった瞬間、嬉しそうに応じた。その反応に、隆也は何となく納得がいかずに問いかける。


「俺が君に、どうして電話をしたのか、理由が分からないか?」
「え? 全然分かりませんが」
「あいつから、何も聞いていないのか?」
「姉貴が何か?」
 逆に怪訝な口調で問い返され、隆也はどうやら弟達には何も話していないらしいと推測し、深い溜め息を吐いた。そして気を取り直して口を開く。


「実はちょっと君とお兄さんに、彼女に関する事で聞きたい事があるんだ。近日中に、夜にでも時間を取って貰いたいんだが……」
「姉貴に関して、ですか?」
 いきなり要求されて、さすがに孝司は戸惑った声で応じたが、あまり長くは悩まなかった。


「分かりました。もし良ければ、明後日の27日の夜はどうですか? 実は午後から都心に出ますので、そのまま夜に落ち合えるんですが。榊さんはお忙しそうなので、わざわざこちらに来て頂く手間が省けます」
 その孝司からの提案を聞いた隆也は、元々貴子と約束していて空けておいた日付だった為、安堵すると同時に苦々しい気持ちがこみ上げてきた。しかしそれを表には出さずに、冷静に問い返す。


「その日なら俺的にも助かるが、お兄さんの都合はどうだろうか?」
「祐司ですか? 一応俺から聞いてみます。でも榊さんに一度会ってみたいって悔しがっていましたから、仕事があっても放り出して、すっ飛んで来ると思いますよ?」
 そう言って楽しげに笑った孝司に、隆也も思わず顔を緩める。そしてもう一つ、大事な事を思い出して付け加えた。


「申し訳ないが、その場に俺の友人を一人同席させて貰いたいんだ」
「榊さんの友人ですか?」
「ああ。理由は当日話す」
 自分で話していても、かなり胡散臭い話だと思った隆也だったが、その懸念に反して孝司はあっさりと了承した。


「分かりました。祐司にもそう言っておきます」
「ありがとう。それじゃあ店はこちらで手配しておく。なるべくお兄さんの勤務先に近い店を探すから。勿論、俺の都合で呼びつけるから、君達二人の支払いは俺が持つから安心してくれ」
「すみません。それじゃあ、遠慮無くご馳走になります」
「じゃあまた連絡するから、お兄さんへも宜しく伝えて欲しい」
「分かりました。お会いできるのを楽しみにしてます」
 そうして会話に一区切り付けた隆也は、陽気な孝司とのやり取りで幾分気分が浮上したかの様に、つい先程よりは穏やかな表情になって、綺麗に詰められた衣類を箱から取り出し、チェストやクローゼットへ片付け始めた。





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