ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第20話 仕切り直し

 素直に付いて来るかと思いきや、駅ビルを出て歩道を歩き出した所で無言のまま自分から離れて歩き出した貴子に、隆也は顔を顰めた。そして足早に彼女に近付き、その腕を素早く捕らえながら確認を入れる。


「おい、どこに行く気だ?」
「悪いけど、今日は帰らせて貰うわ」
 素っ気なく答えた貴子に、隆也は一応再度尋ねてみた。
「どうしてだ?」
「物を食べる気分じゃなくなったからに決まっているでしょう!?」
 予想はしていたものの、つい先程までの態度とは打って変わった彼女の激昂ぶりに、隆也は説得を諦めて溜め息を吐いた。


「分かった。予約しておいた店はキャンセルする」
「悪いわね。それじゃあ」
「その代わり、一軒だけ付き合え」
 自分の腕を掴んでいる隆也の手を振り払って、あっさり立ち去ろうとした貴子だったが、隆也はその手を離さないまま彼女を引きずる様にして移動を始めた為、当然彼女は抵抗して怒鳴り返す。


「食べないって言ってるでしょう!?」
「いいから来い」
「ちょっと!? 本当に俺様よね、あんたって!!」
 益々腹を立てたらしい貴子には構わず、隆也は流していたタクシーを拾い、貴子をそれに押し込んで自分も乗り込んだ。そして短く行先を告げた後、隆也はスマホで予約していたらしい店にキャンセルの連絡を入れ、それも済むと後は黙って腕を組んで窓の外に視線を向ける。
 貴子も黙り込んでいたが、暫く走っても一向に口を開かない隆也にしびれを切らし、面白く無さそうに問いかけた。


「どこに連れて行くつもり?」
 しかし、隆也はその問いかけには答えず、ゆっくりと彼女の方に向き直りながら口を開いた。
「さっきのあれ」
「え?」
「父方の弟だな」
 一瞬、何の事を言われたのか分からなかった貴子が怪訝な顔をしたが、隆也が端的に続ける。それに貴子は、僅かに顔を強張らせて応じた。


「……だったら何なの?」
「お前の弟にしては、馬鹿で阿呆で単細胞の屑野郎だ」
「だから?」
「あの野郎は、お前の弟なんかじゃない。その認識でいいな?」
「…………」
 真顔でそんな確認を入れられ、貴子は如何にも不機嫌そうに無言で眉を寄せた。そんな彼女に、隆也が再度冷静に確認を入れる。


「返事は?」
「ええ。是非そうして頂戴」
 そう口にするなり貴子は隆也から顔を背け、窓の外に視線を固定する。対する隆也もそれ以上余計な議論をするつもりは無かった為、無言で進行方向に視線を向けた。


 暫く走った後は幹線道路から角を曲がって裏道に入り、隆也の指示で何回か角を曲がって進んだ後、タクシーが静かに止まった。そして支払いを済ませた隆也が先に降り、見慣れない場所を不思議そうに見回している貴子の手を引いて、歩き始める。
 ビジネス街でも商業地でもない、最寄駅からも微妙に外れた裏路地を歩いていると、飲み屋の類に交じって、唐突に無地の暖簾をかけている狭い間口の店が現れ、隆也は迷わずにそこの引き戸を開けた。


「こんばんは。大将。腰の具合は良い様だな」
 笑いながら声をかけた隆也の後ろから貴子が店内を覗き込むと、カウンターが六席だけの小さな寿司屋だったらしく、意外な表情で隣の隆也を見上げた。すると顔は皺だらけなのに頭だけはつるつると艶と張りが有る老人が、カウンターの中から破顔一笑で二人を出迎える。


「おう、榊の坊。久しぶりだが……、女連れとはな。こんな干からびた爺の店なんぞに連れてくんな。愛想を尽かされるぞ?」
 そんな憎まれ口を叩いた店主に、隆也が貴子を指差しながら訴える。
「それが……、こいつ腹がヘってる癖に、物を食べる気分じゃ無いんだと」
 それを聞いた相手は、呆れた様な表情になって肩を竦めた。


「やれやれ。坊も出世したらしいな。俺に自分の尻拭いをさせようとは」
「俺は何もしていない。ところでネタは?」
「……店じまいするか」
 少しの間顎に手をやって考え込んだ店主が、徐に立ち上がってカウンターの中から出て来た。そして隆也達の横をすり抜けて表に出て、暖簾を内側にしまい込んでいるのを見て、貴子が当惑した声を上げる。


「え? あの……、閉店?」
「俺達に出す位しか、残って無いって事だ」
 そう言って強引に貴子を席に座らせ、隆也は自分もその隣に座った。そして店主からおしぼりやお茶を受け取り、彼女の前に並べる。


「私、食べないって」
「良いから黙って座ってろ」
「何か希望は?」
「おすすめで、こいつに一人前。それと俺は、酒と何か摘む物」
「ちょっと!」
 押し問答をしているうちにさっさと注文されて、さすがに貴子は声を荒げたが、隆也がここで一睨みした。


「どうしても食べたく無いなら、俺が食ってやるから黙れ」
「…………」
 憮然とした表情で黙り込んだ貴子の前で、カウンター越しに大将がゴソゴソしていたかと思うと、隆也の目の前にいきなりカワハギの肝和えを乗せた皿が置かれた。次いでドン、コン、と未開封の四合瓶と升が置かれ、店主に素っ気なく手を振られる。


「ほれ、肴と酒は出してやったから、お前は勝手にやってろ」
「もうちょっと、愛想よく出せないのかよ……」
「何か言ったか? 寄る年波で、最近耳が遠くなってなぁ」
 思わずブチブチと文句を零した隆也だったが、相手はびくともせずに貴子の前に白木の寿司下駄を置いてから、悠々と仕事に取り掛かった。


 再度手を洗い、使うネタを手前のガラスケースから吟味しつつ取り出した店主は、寿司桶にかけてあった布巾を外し、その中からご飯を取り出して握り始める。見るともなしにカウンターの中を眺めていた貴子だったが、彼の流れる様な手の動きを見て、僅かに目の色を変えた。そんな彼女の様子を、枡に瓶から酒を注ぎつつ横目で確認した隆也は、相手に分からない程度に口元を緩める。


(やっぱり、食いつきやがった)
 しかし何も口には出さず、無言で肴を突きつつ酒を飲み始めた。そうこうしているうちに、すぐに貴子の前に一貫置かれる。


「はいよ。お待ちどうさん。お嬢さんの食べ具合を見ながら、次々握ってくからな」
「…………」
(最初から平目の昆布締め。大将、今日は機嫌が良いな。最初から飛ばしてるじゃないか)
 対する貴子は、声をかけられても黙り込んでいたが、その握りを睨んでいたのはほんの数秒で、すぐに箸を取った。


(やはり、これなら食ったか)
 無言のまま食べる貴子を横目で見ながら、隆也も無言を貫いたが、そんな二人を見て明らかに面白がっている様子で、店主が次々握ってくる。


「ほい、どうぞ」
「…………」
(次に玉子が来るか……。やっぱり大将の感性は、今でもちょっと分からんが、これも文句なく美味いからな)
 そして素直に箸を伸ばして口に運んだ貴子が、僅かに驚いた様に軽く目を見開く。その反応を見て、隆也は満足そうにまた酒を口に含んだ。


「はい、お次」
 そう言って目の前に出された物を見て、貴子が思わず呟く。
「軍艦巻きじゃない……」
(やっと喋りやがった)
 思わず皮肉の一つでも言いたくなった隆也だったが、店主が上機嫌で勧めてきた。


「おう。ちょっと細工がしてあってな。味も付いてるから、醤油は付けなくて良いぞ?」
 見た目はウニの握りとでも呼ぶべき物を自信満々で勧められ、貴子はおっかなびっくりの様子で慎重に箸で持ち上げ、口に運んだ。そして何回か瞬きしつつ、また無言になってもぐもぐと食べ続ける。


「次はこれだな」
 そう言って出された中トロに貴子は迷わず箸を伸ばし、それを口の中に入れて咀嚼しながら、目元と口元を緩めた。


「…………おいしい」
(分かり易過ぎだ……。だがここで笑ったら、絶対臍を曲げるな、こいつ)
 貴子の微妙な表情の変化を見て噴き出しそうになった隆也だったが、口元に手を当て、必死に笑いを堪えながら、彼女とは反対方向の壁に顔を向けた。そして意識を逸らす為に壁の染みの数を数えていると、それから何貫か出した後で、店主が苦笑しながら貴子に話しかける。


「やれやれ、こんな爺を凝視して、何か面白いかい? お嬢さん」
 そう言われた貴子は、食べていた車海老を飲み込んでから、楽しそうに答えた。
「手の動きが綺麗で無駄がないから、見ていて飽きないもの。ご飯の総量は変わらないけど、乗せるネタの種類と形によって、微妙に山形のカーブも変えてるし凄い」
「分かるか。なかなか良い目をしてるじゃないか」
 店主もまんざらではない顔付きになって貴子を褒めたが、ここで唐突に貴子が腕を伸ばし、隆也のスーツの袖を軽く引っ張った。


「食べて」
「は?」
 言われた意味が分からず本気で戸惑った隆也に、貴子が真顔で告げる。


「そっちも食べて。私、もうお腹一杯だけど、お爺さんが握る所、もう少し見たいから」
 そんな事を言われた男二人は、互いに顔を見合わせて苦笑した。
「おう、食べる許可を貰えて良かったな、坊」
「……よろしく」
 それから隆也も十分そこの寿司を味わい、支払いを済ませて立ち上がった。 


「御馳走様でした。美味しかったし、楽しかったです」
 素直に貴子が礼を述べると、店主が相好を崩しながら頷く。
「ああ。物を食う気が無い時にまたおいで。食う気満々の奴が来たらこんなチンケな店、開店十分で閉めなきゃならんからな」
「そうさせて貰います」
「ご馳走様」
 そうして店を出て、表通りに出てからタクシーを拾った二人は、貴子のマンションへと向かう車内で、何となく無言になった。そんな中、貴子が自信なさげに隆也に問いかける。


「ねえ、ひょっとしてあの人……」
 中途半端な問いかけだったが、彼女が聞きたい内容が十分分かっていた隆也が、苦笑いで応じる。


「やっぱり見覚えがあったか。八年前に引退して、あの有名店を息子に譲っているがな。楽隠居と思いきや暇を持て余して、五年前に復帰したんだ。もう趣味でやってるから、あんな辺鄙な場所のタコツボ店舗だけどな。ネタは息子の店で仕入れた物で一番良い所をぶんどって来ているし、まだボケてないんで腕も確かだ。超穴場だから、誰にも言うなよ?」
「分かったわ」
 それを聞いて、貴子は自分の推測が間違っていなかった事に満足し、次に新たな疑問を口にした。


「でも……、どうして今日、あそこに私を連れて行ったの?」
 そう尋ねられた隆也は、含み笑いで自画自賛の言葉を口にした。
「お前、見かけによらず、真面目で根っからの料理人だからな。幾ら『食わない』って言っても、目の前で繊細な技見せられたらかぶりつき間違いないし、それで作った料理に箸を付けないわけないだろ。俺の作戦勝ちだ」
 そして腕を組んだまま「どうだ?」と言わんばかりの表情を見せた隆也に、貴子は一瞬呆気に取られてから、怒った様に顔を背けた。


「何なの、その勝ち誇った顔は……。ちょっとムカついたわ。せっかくの余韻が台無し」
「だが、この作戦は良し悪しだな。なんでつるっぱげ爺ばかり凝視してて、俺が綺麗に無視されているんだ」
 その台詞にちょっと拗ねた響きを感じ取った貴子は、思わず振り返って隆也を凝視した。そして次の瞬間、笑いながら告げる。


「だってそれは……、やっぱりお爺さんの方が、あんたより数倍魅力的だし?」
 すると隆也が、はっきりとした渋面になる。


「……少しは空気を読め。奢った俺に感謝しろ。あそこは大将の方針で、全部時価で結構いい値段を払ったんだぞ?」
「嫌よ。って言うか、最後に金額を出すなんてみみっちいわね。そこら辺で、お爺さんに負けていると思うわ」
「反論できんな」
 真面目くさった顔で言い合ってから、隆也と貴子は一瞬顔を見合わせて黙り込み、次いで盛大に噴き出してしまった。それからは楽しく会話するという状況まではいかなかったものの、車内はそれなりに和やかな空気になり、大して時間を要する事無く貴子のマンション前に到着した。
 そしてドアを開けて貰った貴子が歩道に降り立ったが、ここで隆也が予想外の行動に出る。


「じゃあここで」
 てっきり自分に続いて下りるかと思っていた隆也があっさりと別れの言葉を口にした為、貴子は意外に思いながら問い返した。
「来ないの?」
 確かに泊まるとは言っていなかったが、この流れで帰ろうとする相手に、貴子が怪訝な顔を見せた。しかし隆也は平然と頷く。


「ああ。今日はさっさと寝ろよ」
「ええ……、そうするわ」
 事も無げに言われた貴子は、引き止める言葉を口にする事は無かったが、何となくすっきりしない表情で頷いた。そして目の前でドアが閉められたタクシーを、何となくぼんやりと見送る。


「……今日は色々疲れたわ」
 タクシーが結構離れてから貴子はそう呟きつつ踵を返し、自宅へと向かった。そんな貴子の顔には、確かに疲労の色が濃かった。


 一方タクシーの中では、隆也が軽く身体を捻って貴子がマンションの中に入って行ったのを確認してから、安心した様に前に向き直って小さく悪態を吐いた。


「今日は、とんだ邪魔が入ったな。あの馬鹿のせいで……」
 忌々しげな表情で前方を睨みつけてから、隆也はジャケットのポケットに入れておいた物の感触を、服の上から確認しつつ、盛大に溜め息を吐く。


「仕切り直しだな」
 これまで気持ちの切り替えが早い事が、自分の長所だと自認していた隆也だったが、今回はこの不愉快極まりない状態からなかなか抜け出せそうに無い事を、自覚していた。







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