ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第19話 思わぬ遭遇

「ところで、ちょっと確認したい事があるんだが」
「何?」
「四月二日の夜は、空いているか?」
 深夜に近い時間帯に電話をかけてきた隆也と、殆どどうでも良い会話を二・三交わした後で唐突に問いかけられた貴子は、その内容に面食らった。しかしそんな動揺は微塵も感じさせずに、平然と会話を続ける。


「その日は空いていないわ」
「……そうか」
 あっさり引き下がったものの、そのまま電話の向こうで黙り込んでいる隆也に、貴子は少々苛つきながら続きを促す。
「何?」
 しかしそれに対して、淡々とした答えが返ってきた。


「別に。偶には奢るから、その日に飯でも食いに行こうかと思っただけだ」
「いいわよそんなの。第一あんたの奢りだなんて、胡散臭過ぎるわ」
「それならいい……」
 そこで再び会話が途切れた為、貴子は益々気分を害しながら考えを巡らせた。


(何なのよ、この煮え切らなさ。話が無いなら切りなさいよ! 第一、四月二日って言うのも、何となくムカつく。確かにプロフィールで誕生日は公表してるけど、こいつ分かってて言ってるわけ?)
 そして、貴子は出来るだけいつもの口調で確認を入れてみた。


「それで? 何か私に、その日にそんなに奢りたい理由でもあるわけ?」
「そういう訳じゃ無いが……、その次の週から暫く忙しくなるのが分かってるから、偶にはゆっくり食べたかっただけだ」
「ふぅん? 近々、何か大きな捕り物でも予定されてるわけ?」
「……そんな所だ」
(こいつが捜査状況の類を漏らすわけ無いか。でもこの言い方なら、日付は偶然みたいね)
 取り敢えず隆也の口調もいつも通りであり、不審な物は感じなかった為、貴子はそう自分を納得させて言葉を返した。


「じゃあ二日で良いわよ? 奢って貰おうじゃない」
 そこで思った通り、怪訝な声が返ってくる。
「さっき『空いていない』と言っただろう?」
「その日は家で色々資料を纏めようと思ってたけど、調整すればどうとでもなるのよ。奢るなんて珍しい事を言ってきたから、当日雨が降ったら笑ってあげるわ。というか傘持参じゃないと、帰りは悲惨な事になりそうね」
 そんな事を含み笑いで言ってのけると、電話越しに隆也も苦笑いの声を返してきた。


「言ってろ。じゃあ何が食べたい?」
「そうね……、やっぱりそっちに任せるわ。だけど、美味しい所にしてよ? どこが良いかと真剣に悩んで、髪が薄くなると良いわ」
「見くびるなよ? 誰がこんな事位で、頭髪を減らすか。じゃあ店と時間を決めたら、また連絡する」
「分かったわ」
 最後は機嫌良く会話を終わらせた貴子は、耳から離した携帯をソファーに置いて静かに立ち上がった。そして壁際のラックに歩み寄り、その引き出しからボールペンを取り出してから、壁に掛けてあるカレンダーに手を伸ばす。


「一応、書いておこう」
 そしてカレンダーを一枚めくった貴子は、幾分楽しそうに四月二日のスペースに、何事かを書き込んでからリビングから出て行った。


 それから二人は、直に顔を合わせる事無く五日間を過ごし、四月二日を迎えたが、待ち合わせをした某駅の改札口付近で、貴子は苛立たしげに顔を顰めた。


「全く。そっちから誘っておいて、待ち合わせ時間に遅れるって、どういう事よ?」
 そしてつい先程、送信されてきたメールを確認した携帯をバッグに戻しながら、小さく息を吐き出す。


「まあ、真面目に仕事をしてるって事なんでしょうけど。平日の夜に外で待ち合わせなんて、初めてだし」
 改札口前に広がる広場には通勤客が行き交っており、貴子が待ち合わせているモニュメント付近には、同様に待ち合わせの相手を待っているらしい男女が、時計を確認しつつ何人も佇んでいた。結構新鮮な光景を興味深そうに眺めながらも、貴子は若干迷うような表情になってひとりごちる。


「どうしようかしら。メールには『あと三十分以内には着く』とは書いてあったけど、適当なカフェとかで時間を潰そうかしら? でもこの駅は滅多に利用しないから、店舗とかも良く分からないし」
「よう、貴子。久しぶりじゃねぇか」
「え?」
(こいつ!?)
 いきなり斜め後ろからきつく肩を掴まれたと思ったら、かなり強引に自分を引き寄せる様にして身体の向きを変えさせた男を認めて、貴子は非友好的な表情で相手を見上げた。そんな貴子の態度を見て、弟の一人である宇田川康介は、如何にも不満げな顔付きで文句を付ける。


「何だよ。俺がわざわざ声をかけてやってるってのに、挨拶もなしか?」
(誰が、あんたに挨拶するかってのよ!!)
 百八十㎝近く、体格だけは良いがどこか不健康そうな顔の相手に見下ろされながら、貴子は全くそれに臆する事無く睨み付け、心の中で罵声を浴びせた。するとそこで、複数の女性の声が割り込む。


「宇田川さん、何やってるんですか? 皆待ってますよ?」
「あ、本物の宇田川貴子だ!」
「きゃあ! 本当。宇田川さん、いつもブログ見てます!」
「この前の、温野菜用変わりディップアレンジ、試しに作ってみたらどれも美味しかったです!」
 どうやら康介を呼びに来たらしい彼女達は、一緒に居た貴子を見つけて歓声を上げた。一瞬彼女達の登場に驚いた貴子だったが、素早く周囲に視線を走らせ、少し離れた所からこちらの様子を窺っている男女五・六人の集団を認めて、他の人間には分からない様にほくそ笑む。そして営業スマイルを浮かべて、彼女達に礼を述べた。


「どうもありがとう。直に感想が聞ける機会なんて、滅多に無いから嬉しいです」
「ちょうど良かった。貴子。こいつらに説明してやってくれよ。俺がお前の弟だって、何度言っても信じないんだぜ?」
 そこで未だ貴子の肩を掴んだままの康介が、女性達を指差しながら不遜な態度で言い出した。それに彼女達が困った様に囁き合う。


「だって……、無理があるわよね?」
「見た目、全然似てないし」
「確かに宇田川なんて名前、珍しいけど……」
「宇田川さん、本当なんですか?」
 明らかに困惑顔で彼女達が尋ねてくると、貴子が何か言う前に、康介が高笑いしながら横柄に言い出した。


「全く、これだから頭悪い奴は困るよな? そうだ! どうせなら今度、貴子が出演してるバラエティー番組の収録に連れて行って貰うか? お前ら、あそこに出てたなんたら言うタレントの事、きゃあきゃあ言ってただろ?」
「あ、そういえば宇田川さん、成瀬潤と共演してましたよね!?」
「うわぁ! 私達全員、彼のファンなんです!」
「お言葉に甘えさせて貰って良いですか?」
「きゃあ! 感激! 直に潤に会えるなんて! 宇田川さん、お願い!」
「おう、まかせとけ!!」
 周りの女性達に期待に満ちた表情で見られて康介が一人悦に入っていると、その空気を貴子の冷え切った声が切り裂いた。 


「申し訳ありませんけど、皆さん。何を仰っているんですか? それにあなた。いきなり人の肩を掴んで失礼じゃありません? 加減も出来ないみたいで痛いですし、いい加減離して下さい」
 明らかに侮蔑の表情を浮かべながら、康介の手を力一杯叩いて自分の肩から引き剥がした貴子を見て、康介も彼女達も呆気に取られた。


「は? 何言ってんだ、お前。頭おかしいんじゃないのか?」
「何って……」
「宇田川さん、この宇田川さんのお姉さんですよね?」
 その問いかけに貴子はわざとらしく溜め息を吐き、顔を顰めつつ断言する。


「頭がおかしいのはそちらでしょう? 確かに私には弟が二人いますけど、こんな粗暴で頭が悪そうな人間じゃありません。弟達に失礼です」
「え?」
「だって……」
「何だと? 貴子、てめぇ、ふざけんなよ?」
「肩を掴んで威嚇すれば、怖がって適当に話を合わせるとでも思ったんですか? そんな短絡思考の浅はかな考えに、付き合う義理はありません」
 怒りの形相で康介が一歩足を踏み出したが、貴子は冷静に言い返した。そして困惑している女性達に向かって、苦笑いの表情を向けながら同意を求める。


「第一、実の姉の事をいきなり呼び捨てした上、『てめぇ』呼ばわりするなんて、実の弟のする事だと思います?」
「確かに……」
「そうですね……」
「それにさっきこの人、出演者の身内ならフリーパスでスタジオに入れるとか放言してたけど、そんな事はありえないわ。実はここだけの話、以前同じ様に『自分は某俳優の身内だから、こっそり合わせてあげる』って誘い出された女の子が、テレビ局近くで乱暴される事件があって。名前を出された俳優が関与を疑われて、事情聴取を受けた事があるの。勿論、無関係だったんだけど」
「そんな事が有るんですか?」
 声を潜めて貴子が語った内容に、彼女達は驚いて目を丸くした。それに頷いて貴子が話を続ける。


「ええ。それで最近は局でも出入りは厳しくて、身内なんて名乗ってもそうそう入れないの。業界の事を少しでも知ってる人間なら、そんな事は間違っても言わないわ」
「……言われてみれば、そうですよね」
「セキュリティー上、問題有り過ぎですね」
「お前ら……、俺が嘘を言ってるとでも言うのか?」
 そう呟きながら、彼女達は明らかに康介に疑惑の視線を向けた。それが分かった康介が怒りの声を上げたが、貴子はそれを完全に無視して彼女達に困った様に笑いかけた。


「あなた達、この人の同僚とか何か?」
「ええ、同じ会社勤務ですけど」
「この人が職場で、どんな適当な事言ってたのかは分からないけど、糠喜びさせてしまったみたいで、申し訳無かったわね。でも見ず知らずの方に、無責任な嘘なんか言えないもの」
「このっ……」
 それに康介が尚も詰め寄って何か言おうとしたが、彼女達が康介を突き飛ばす勢いで貴子を取り囲み、口々に主張し始める。


「そんな!? 宇田川さんは全然悪く無いですよ!」
「そうです。偶々名字が同じってだけで、この人が適当な事言ってただけなんですから」
「握手して貰って良いですか?」
「構わないけど……、指が太いし指先は荒れてるし、恥ずかしいわ」
「あ、本当」
「ちょっと! 失礼でしょう?」
「でも意外でした。ちゃんとお料理されてるんですね」
 そんな遠慮の無い感想に、貴子は楽しそうに笑って答えた。


「確かに最近はタレント活動の方が目に付くかもしれないけど、本業は調理師だし。近々芸能界からは足を洗って、本業に一本化しようと思ってるの」
「そうなんですか」
「でも宇田川さんなら、十分やっていけますよ」
「改めてファンになりました。これからも頑張って下さい」
「ありがとう。嬉しいわ」
 次々握手しつつ和気あいあいと会話していた貴子達だったが、いきなり康介が周りの女性達を突き飛ばす様にして貴子の前に出て、両手でその首を掴んで力任せに締め上げた。


「ふざけんな!?」
「ぅ……、ぐっ!」
 声が出せなくなったばかりか、息も苦しくなって貴子は相手の手を引き剥がそうと自分の手を伸ばしたが、康介は益々本気で締め上げてきた。それを見た周りが、悲鳴と非難の声を上げる。


「きゃあ!! 宇田川さん!」
「ちょっと! 何するのよ! 止めなさいよ!」
「誰か! この人を止めて!」
「俺を散々コケにした上に、嘘つき呼ばわりしやがって! 何様のつもりだ!?」
 その場が騒然となった為、人の流れが一瞬止まって周囲から注目を浴びたが、中でも康介達の様子を窺っていた一団が、血相を変えて走り寄って来た。


「おい、宇田川! 何やってる!?」
「手を離せ!」
「うるせえ! ぶっ飛ばされたいのか!!」
 康介と年代が変わらない男性達が、貴子の首から手を離させようとしたが、鬼神の形相で怒鳴りつけらえれて一瞬怯む。そこで鋭い声が割って入った。


「貴子!!」
「なっ……!?」
 人垣を掻き分けて現れた隆也は、全く躊躇せずに貴子の首から康介の両手を力任せに引き剥がし、問答無用で殴り倒した。そして呆気なく床に転がった康介には目もくれず、自由になった直後に口と喉を押さえてその場に座り込んだ貴子の前で膝を折り、同じ目線で確認を入れる。


「大丈夫か?」
「…………平気」
 俯いたままだったが、取り敢えず問題は無さそうだと隆也が安心したのも束の間、背後から怒声が響いてきた。


「いきなり何しやがる貴様!? 警察を呼ぶぞ!」
 隆也が無言のまま振り返って鋭い視線を向けると、康介が床に座り込んだまま頬を押さえて喚いていた。その為、隆也は貴子を隠す様に康介の正面に立ちながら、ゆっくりと警察手帳を取り出し、自身の身分証明にする為に開いて見せる。


「呼ぶ必要は無いな。暴行罪の現行犯で逮捕してやる」
「榊隆也警視正……、本物?」
「当たり前だ」
 周囲に驚きの波動が波動が伝わる中、呆けている康介を手帳をしまい込んだ隆也が冷え冷えとした視線で見下ろした。その視線を受けて、康介が顔を赤くして勢い良く立ち上がりつつ喚き出す。


「おっ、俺を逮捕したら親父が黙っていないぞ! 俺の親父は警視庁の重要ポストに就いてるんだからな!!」
 康介も長身の方ではあったが、隆也は更に五㎝程長身で有った為、若干目線が下のまま冷たく言ってのけた。


「ほう、そうか。それなら言ってみろ」
「へ?」
「親父の配属先と肩書きを、正確に言ってみろ。言われた事を一度で理解できない、残念な頭しか無さそうだがな。そんなに誇れる父親なら、その立派な地位なんてスラスラ言えて当然だろう? さあ言ってみろ」
 隆也の切り返しが完全に予想外だったのか、康介は目に見えて狼狽えた。対する隆也は(親父が偉いさんだと言えば、これまでそれだけでへいへい有難がって貰ってたのか? もしくはまともに相手にされてなかったかどちらかだな)と侮蔑的な表情を隠さずに相手の返答を待ったが、康介が思い出した様に勢い良く口にする。


「ほ、本部長。親父の肩書は、方面本部長だ!」
「どこのだ?」
「は?」
「第何方面本部長かと聞いている。正確に言ってみろと言ったのに、思ったより相当頭が悪いな、貴様。それともはっきり言ったらその役職にその名前が無いのがすぐ分かって、後で言い訳もできなくなるから言えないか?」
 嘲笑気味に鋭く切り返されて、康介はとうとう怒りが振り切れたらしく、顔をどす黒く染めながら隆也に向かって手を伸ばした。


「何だと!? 俺の親父は宇田川啓介だ! 上司の名前を知らないてめぇの方が悪いんだろうが!?」
「警視庁の指揮系統は、勿論最終的には警視総監に集約されているが、その下は幾つにも細分化されている。少なくとも俺の直属の上司に、そんな名前の人間はいない。第一、息子にすら正式な肩書きを覚えて貰えていない、間抜けで不憫な上司など皆無だ」
「……っ!」
 勢い良く突き出した手を呆気なく片手で払われた挙句、拳を眼前で寸止めされて淡々と断言された康介は、全身を怒りで震わせながらも黙り込んだ。そんな彼の耳に、少し離れた所で囁やかれている会話が届く。


「何だ。普段色々偉そうな事言ってるけど、あいつの親父って大した事無いんじゃないか?」
「警視正って、確か警視より上だよね? その人が知らないなんて、ねぇ?」
「『親父は警視総監と二十年来の友人』とか言ってるけど、怪しいもんだよな」
「だよね。方面本部長しか言えないって……、数字を突っ込まれるって、馬鹿みたい」
「案外、どっか鄙びた警察署の、署長程度じゃないのか?」
「それなら納得よ」
 明らかに呆れと嘲笑の囁きでしかないそれに、康介が憤怒の形相を向けたが、彼らはそれを見てもいつも通り怯える事は無く、寧ろ侮蔑の表情を色濃くして彼を見返した。そんな光景を見た隆也が、彼らに向かって康介を突き飛ばしながら言い放つ。


「君達はそいつの連れか? さっさと回収してくれ。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、逮捕する気にもならん。こんなくだらない人間の為に、忙しい現場の警察官の手を煩わせたくはないからな」
「いや、確かに連れと言えば連れですが……」
「偶々、同じ会社勤務ってだけで……」
「けっ!!」
 隆也に声をかけられた面々が、康介にチラチラと目を向けつつ、迷惑そうな顔で弁解めいた事を言い出した為、康介は盛大に舌打ちして誰にも一言の断りも無く、その場を後にした。それを忌々しげな顔で見送った隆也は、再び貴子の前で膝を折って声をかける。


「ほら、大丈夫か? 行くぞ、貴子」
「ええ」
 傍らに落ちていたバッグを拾いながら隆也が声をかけると、貴子もゆっくりと立ちあがった。そして彼女にバッグを手渡していると、周囲から恐縮気味な声がかけられる。


「大丈夫ですか? 宇田川さん」
「お気をつけて」
「どうもすみません。あいつが失礼な事をしまして」
 一行の中で一番年嵩らしい男が進み出て、代表する様に真摯な表情で頭を下げてきた為、貴子は一瞬隆也と顔を見合わせてから、相手に向かって鷹揚に微笑んでみせた。


「気にしないで下さい。皆さんの責任ではありませんから。ただ先程の方には、虚言癖と暴力行為は控える様に、一言お話しした方が良いかもしれませんね。問題を起こして、勤務先の名前とかが公に出たら、皆さんだってご迷惑でしょうし」
 親切ごかして貴子がそう口にすると、相手は僅かに顔付きを厳しくして、再度頭を下げた。


「そうします。本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、もう大丈夫ですから」
「じゃあ行くぞ」
 そうして隆也に促され、貴子は何事も無かったかの様に周囲に笑顔で会釈してから、駅の外に向かって歩き出した。





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