ハリネズミのジレンマ

篠原皐月

第7話 破綻した関係 

 手早く作った栄養バランスばっちりの朝食を食べ、後片付けをしていた時鳴り響いた電話に、貴子は思わず悪態を吐いた。
「ったく、誰よ。朝っぱらから!」
 しかし無視せずに固定電話に歩み寄り、ディスプレイに映し出された番号を見下ろして、皮肉気に顔を歪める。
「ふぅん? 出なかったら、また職権乱用して携番を調べるかしら?」
 そんな事を呟いてから、貴子は落ち着き払って受話器を取り上げた。


「もしもし?」
 短く尋ねた貴子の耳に、如何にも不機嫌そうな男の声が伝わってくる。
「私だ。居るならさっさと出ないか」
「どちら様でしょう? 『綿志』さんという名前の方に、心当たりはありませんが」
 声で電話の相手は分かり切っていたが、わざとらしくすまして言ってのけた貴子に、彼女の父である宇田川啓介は押し殺した声で恫喝してきた。


「ふざけるのもいい加減にしろ。私は忙しいんだ」
「それなら尚の事、ただでさえ忙しい朝に、電話などされない方が良いのでは?」
「減らず口は相変わらずだな。相変わらずフラフラして連絡も取れんし」
「無駄口を叩くのは相変わらずですね。どうして連絡を取る必要があるんです? 失礼します」
 今更父親に脅しつけられても痛くも痒くもない貴子はあっさり通話を終わらせようとしたが、耳から離した受話器から宇田川の喚く声が伝わってきた。


「待て! 来月の十日に加納氏の十七回忌がある。連れて行ってやるから出席しろ!」
 言われた内容に幾分興味を引かれた貴子は、受話器を再び耳に当てて不思議そうに問いかけた。


「どうしてそれに、私が出席しなくてはならないんでしょうか?」
「当然だろう、お前の実の祖父の法要だぞ? もうこれ以後は表立った法要は執り行われ無いだろうし、今まで不義理をしてその手の類に全く出ていなかった分、今回は万事予定を繰り合わせて」
「不義理? 誰に言われても、あなたにだけは言われる筋合いは無いわ。舅が失脚したらもう用は無いと言わんばかりに妻と離婚した挙げ句、その元舅の葬式にも出なかった男が、今更何寝言ほざいてんの。片腹痛いわね。しかも『連れて行ってやる』? 逆でしょう? せめて実の孫の私を同伴でもしていないと格好がつかないくせに。そんなに行きたきゃ一人で行くのね」
「おい、待て」
 宇田川の話を途中で遮り、嘲笑めいた口調で言いたい事を一気に言ってのけた貴子は、ガシャッと乱暴に受話器を戻した。そして電話の電源コードを勢いよく引き抜きつつ吐き捨てる。


「……朝っぱらから胸糞悪い」
 何も用事が無ければ一杯引っかけたい気分だったが、その日はクッキングスクールでの講義日だった為、貴子は冷蔵庫から取り出した大根を包丁で真っ二つにして幾らか憂さ晴らししてから家を出た。そして朝から珍しい人間から電話がかかってきたと思ったら、貴子は仕事場でも滅多に声をかけてこない人物から声をかけられた。


「おはようございます、宇田川先生」
「おはようございます、宗方さん」
 振り向くと受講生である五十代半ばの旧知の女性が、上品な笑みを浮かべつつ貴子に向かってファイルと一緒に抱えていた封筒を差し出した。
「早速ですが、以前頼まれていた物です。お持ち下さい」
「はい、ありがとうございます」
 にこやかにそれを受け取った貴子だが、そのままその場を立ち去ろうとした相手に、静かに問いかけた。


「そういえば、最近何か変わった事はありませんか? 例えば……、小バエが纏わりついて鬱陶しいとか」
「小バエ、ですか? 特に思い当たる節はありませんが」
 怪訝な顔をした相手に、貴子は苦笑いで質問の理由を説明する。
「実は今朝、電話がありまして。どこぞの馬鹿が『来月十日に加納氏の十七回忌があるから連れて行ってやる』とかほざきました。問答無用でブチ切りましたが」
 それを聞いた貴子の母方の伯母である宗方和子は、納得した様に小さく頷き、嘲笑う様に告げた。


「あらあら、随分必死なのねぇ。お客様を呼ぶのは今回を最後にして、後は身内だけの法要にしようと考えたから、主人や父に関係の有る方に色々お声掛けしていたの。皆様から快く出席のお返事を頂いてるわ。それを嗅ぎ付けたみたいね」
「それで当然“あれ”も参加したがって、和子伯母様や咲子叔母様から肘鉄砲を食らわされたんですね。それで窮余の策として、私を引っ張り出そうとしたと」
「全く、あの恥知らずの下衆野郎……。どの面下げてのこのこと。蓉子が許しても、私と咲子は許さないわよ。来るなら寺の庭先に座って貰おうじゃないの。誰が座布団一枚出すかってのよ」
 先程までとは打って変わって怒りの形相になった和子が、ギリッと歯軋りまでしてみせた為、(珍しい物を見ちゃったわ……)と密かに感心した貴子は、笑いを堪えながら伯母に声をかけた。


「伯母様、今のは淑女にあるまじき言葉遣いでは?」
 それで我に返ったらしい和子は、先刻通りの穏やかな声で、悪戯っぽく笑った。
「あら、私とした事が。聞かなかった事にして頂ける?」
「何の事でしょう?」
 そうして二人で顔を見合わせ、楽しげに笑ってから真顔になった和子が、如何にも申し訳無さそうに言い出した。


「実は貴子さんも呼ぼうと思っていたんだけど……、主人に止められて。『貴子君は、自分が出れば《あれ》が出張って来るかもと考えて、快諾しないと思うが』と言うものだから……」
 本心から申し訳無く思っているのが分かるその表情を見て、貴子は苦笑いしながら宥める。


「さすが、宗方副総監。慧眼をお持ちです。私の事はお気遣い無く」
「父の命日の前後に、毎年お墓参りをしてくれてるのに悪いわね。ご住職から何年か前に聞いたの。『テレビで見かける女性が、毎年今頃来てる』って」
 そう言って和子が僅かに自分より長身の貴子と視線を合わせると、貴子は若干気まずそうに視線を逸らした。


「……顔が売れるのも良し悪しですね。もう顔も良く覚えていませんが、加納の祖父は恩人ですから」
 今回隆也の背後関係を尋ねてきた様な事は極めて珍しく、普段は対外的には自分達と無関係を装っている姪の幾分沈んだ表情を見て、和子は貴子の肩を軽く叩きつつ明るく声をかけた。


「私達は構わないから、その気になったらいつでも来て頂戴。……それと、中身を見てみれば分かるけど、例の榊さんは久住派じゃなくてよ? あんな瓦解寸前の弱小派閥とは逆に、今を時めく菅野長官派ね。本人は猟官活動はしていないけど、菅野派幹部の榊大輔警察庁長官官房長の甥ごさんだから、そう目されているわ」
 そう言って先程渡された封筒を指差された為、貴子は素直に中の書類を引っ張り出してざっと目を走らせてみた。そして感慨深く感想を述べる。


「これはこれは……。父親は弁護士ですが、警察官僚家系のサラブレッドお坊ちゃまですか。母方も結構良い所に繋がってますね」
「そういう事。主人の話では、お坊ちゃまと言う感じでは無いらしいけど。今は刑事部で現場の最前線にいるけど、近々審議官や参事官に引っ張られるかもしれないそうよ。ところで……、彼と一体どういう知り合いなの?」
 今度は興味津々と言った体で尋ねてきた伯母に、貴子は苦笑いしつつごまかした。


「大した知り合いではありません。強いて言えば《あれ》が小バエで、《これ》はヤブ蚊といった所でしょうか? ちょっと五月蠅かったもので」
「まあ、将来有望な若手キャリアも、貴子さんにかかると形無しね。だけどヤブ蚊と言っても刺されると腫れ上がる時もあるし、気を付けないと駄目よ?」
「肝に銘じておきます」
 小さく噴き出して最後は冗談半分で忠告をしてきた和子に、貴子も笑って頷く。そこで廊下の向こうから人がやって来る気配を察知した二人は、当初の講師と受講生の立場に戻り言葉を交わし合った。


「それでは宇田川先生、また新作レシピをブログにアップされるのを楽しみにしていますわ」
「ご期待に添えるよう頑張ります」
 そして互いに会釈して別れた直後に、近付いてきたスクールの事務員が貴子に声をかけてきた。
「先生、おはようございます」
「ご苦労様です。今日も良いお天気ですね」
 そうして言葉を交わしつつ、貴子は慎重に書類を持っていた鞄の中に滑り込ませたのだった。




「課長、こちらの報告書のチェックをお願いします」
「分かった。このまま待っていてくれ」
 受け取った報告書に隆也が視線を落としてすぐに、それを持って来た西脇がごそごそと上着の内ポケットを探り始めた。
「ああ、忘れる所だった。宇田川先生から預かった物があったんだ」
「……宇田川?」
 ピクッと隆也が反応して顔を上げ、その場に居た捜査ニ課の面々、特に桜田班のメンバーは顔色を悪くしながら課長席のやり取りに耳を傾けたが、西脇は不穏な空気に気付かないまま話を続けた。


「ええ。柳井クッキングスクールの内偵の為に、週一で先生の講座を受講している事は報告していましたよね?」
「ああ、聞いている」
 表情を消して静かに相槌を打った隆也に、西脇はポケットから引っ張り出した白い封筒を差し出しつつ説明した。


「柳井調理師学校が参加するジャパン・フード・フェスティバルの入場チケットです。『興味が有ったらどうぞ』とか仰ってましたが。それから『この前のお詫びも兼ねて、美味しい物を食べながら面白い話でもしませんか』とも言付かったんですが。課長は宇田川先生と顔を合わせる機会が有ったんですか?」
「…………」
 心底不思議そうに尋ねた西脇だったが、一応封筒を受け取った隆也は不機嫌そうに黙り込んだ。それでさすがに西脇が上司の異常に気付いたが、そこで背後から話し声が聞こえてくる。


「そうか……、西脇、あの捕り物の時居なかったよな」
「昨日と一昨日も外回りでしたしね」
「知らないのも無理ないか……」
「うん? この二日で何かあったのか?」
 同僚達の話を耳にした西脇は背後を振り返り、困惑気味に尋ねた。それに疲れた様に相川が応じる。


「西脇さん、今庁舎内で囁かれている、榊課長に関する噂を知らないんですか?」
「噂?」
「相川!」
「黙ってろ!」
 隆也のこめかみに青筋が浮かび、それを見てしまったベテラン達が焦って相川の軽挙を鋭い声で遮る。驚いた西脇が何事かと目を丸くする中、隆也が冷静に声をかけて話題を逸らした。


「分かった。気が向いたら行こう。それから、内偵の方はどんな感じだ?」
「該当する人物は未だ入っていません。趣味と実益を兼ねて、暫く通ってみます」
「いつの間に料理が趣味になった?」
 思わず笑ってしまった隆也に、西脇が左手で軽く頭を掻きながら笑顔で告げた。


「いや、これがなかなか、やってみると楽しいもんですわ。ご飯と味噌汁から始まって、まだ基本をみっちりと仕込まれてる段階ですが、先生は実技を教える時、その時点で応用が利く事を効率良く教えてくれますし」
「ほう……、そうか」
「実はうちの女房が先週寝込んだ時先生に相談したら、すぐに病状に合わせて私でも作れる内容のレシピをファックスしてくれまして。看病の仕方まで細かく指示して貰いまして、助かりました。女房には凄く感謝されましたし、『見直したわ』って満面の笑みで言われまして。いや、年甲斐も無く照れましたな」
 如何にも照れ臭そうにそう言って笑った西脇を見て、隆也は小さく悪態を吐いた。


「どうやらオヤジを誑し込むのは、お手の物らしいな……」
「課長、今何か仰いましたか?」
「何でもない」
 上司が呟いた言葉を聞き取り損ねた西脇が問い掛けたが、隆也は素っ気なく回答を拒否した。それに多少違和感を感じながらも、西脇は話を続ける。


「教室自体もなかなか楽しいですよ? こういう仕事だと、違う職種の人間と係わり合う事がありませんから、同世代の色々な意見が聞けて思わぬ勉強になります」
「そうか……。これはOKだ。承認印を押して上に上げておく」
「お願いします」
 そうして話を終わらせた隆也は、一礼して引き下がった西脇が同僚達に捕まって耳打ちされているのを視界の隅に捉えながら、眉間に皺を寄せて目の前の封筒を凝視した。


(色々腹の立つ女だが、例の喫茶店で口走った内容が、まるっきりの口から出任せとも思えんし……)
 封筒を指で軽く叩きつつ、隆也は一人考えを巡らせる。


(取調室で説教がてら問い詰めてみても、しれっとしてとうとう口を割らなかったしな。『面白い話』の内容にもよるが……)
 そして数分後、チケットを封筒から引っ張り出して日時を確認した隆也は結論を出した。


「この日は特に予定は無いし、顔だけ出してみるか。こんな機会でもないと出向くような場所でも無いしな」
 そんな独り言を漏らしながら封筒を上着のポケットに入れた隆也は、いつも通りの余裕たっぷりの笑顔をその顔に浮かべていた。



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