カレイドスコープ

篠原皐月

(3)とんだ業務命令

「ねえ、浩一さん。具合でも悪いの?」
「……いや、体調は良い」
「そう? じゃあ料理を出すわね?」
 帰宅するなり言葉少なにダイニングテーブルに突っ伏した夫に、恭子は多少驚いたものの体調が悪いわけでは無いと分かり、取り敢えず用意しておいた料理の皿を並べ始めた。しかし物音や匂いで夕食の支度が整ったと分かる状態になっても、一向に顔を上げない彼の様子に、さすがに異常を感じてくる。


「そろそろ食べない? 料理が冷めるんだけど」
「…………ああ」
 声をかけてもそのままの浩一を見た恭子は、その状態の原因に、おおよその見当を付けた。
「それで? 今度は一体、職場で何があったの?」
 その問いかけに、浩一が突っ伏したままぼそりと答える。


「……状況が更に悪化した」
「だから、何がどう悪化したの? 分かる様に説明して頂戴」
 口を開いたと思ったら言葉足らずの説明だった為、恭子はさすがにイラッとしてきた。その険悪な空気を察したのか浩一がのろのろと頭を上げ、この世の終わりの様な顔つきで、日中突如発生した問題について、恭子に説明し始めた。




〔コウイチ! コウイチ・カワシマはいるか?〕
〔はい、何かご用でしょうか?〕
 その日、自分の机でいつも通りに仕事をこなしていた浩一だったが、転職を希望して東京で面会した時と、渡米して担当者に伴われて挨拶に出向いた時しか顔を合わせていなかった自社CEOのケリー・バンペルトが、鼻息荒くフロアにやってくるなり自分の名前を声高に呼ばわっている為、慌てて声を上げつつ立ち上がった。そんな彼を見つけたケリーが、満面の笑みで歩み寄って来る。


〔やあ、コウイチ。久し振りだな。頑張っているか?〕
〔はい。まだまだ周りの皆程の成果は出せていませんが〕
〔そうだろうな。だが、これからだ。頑張れ〕
〔ありがとうございます〕
 普段滅多にそのフロアには降りてこない人物の登場に、背中をバシバシ叩かれている浩一は勿論、周囲の者達も何事だろうとCEOの顔色を窺う。すると彼は時間を無駄にする事は無く、早速本題に入った。


〔ところで先週の、ラデルの娘の結婚披露宴では、君はなかなかインパクトのある芸を披露していたな。出席していた連中は、こぞって絶賛していたぞ。我が社の社員の能力を誉められて、私も鼻が高かった〕
〔それに関しては恥ずかしいので、あまり話題にしないで頂けるとありがたいのですが……〕
〔何を言っている! 普段接点が無い外部の人間に、社名と自分の事を話題に出して貰えるだけでありがたいと思え!〕
〔分かりました〕
 控え目に申し出た浩一だったが、ケリーに豪快に笑い飛ばされ、苦笑いの表情になった。するとここでケリーが、上機嫌のままとんでもない事を言い出した。


〔それでだな、例の披露宴に出席していたうちの一人から、『是非息子の結婚披露宴で、是非あのおめでたい芸を披露して欲しい』と頼まれたものでね。来月早々にあるそうだから、宜しく頼む〕
〔え? あの〕
〔詳しい日時は、後から連絡する。それじゃあ頑張ってくれたまえ〕
 そう言いながら自分の肩を軽く叩き、笑顔で踵を返したケリーに、浩一は慌てて追いすがって訴えた。


〔待って下さい! Mr.バンペルト!〕
〔どうかしたかな?〕
〔申し訳ありませんが、その話はお断りさせて頂きます〕
〔……何?〕
 振り返った自社トップに向かって、頭を下げながらもきっぱりと拒絶した浩一に、周囲の者達は揃って顔色を変え、ケリーは不愉快そうに顔をしかめた。そして如何にも面白く無さそうに言い聞かせてくる。


〔今回依頼してきたのは、ニューヨーク証券取引所調査部門統括責任者のライアン・ケプラーだ。我が社の業務に、企業情報が必要不可欠な事位は分かっていると思うが?〕
〔勿論、認識していますし、仕事であるなら情報収集の為に如何なる努力も惜しむつもりはありませんが、この前のあれは純粋に、友人の結婚を祝う為に披露しただけですので〕
 ケリーの背後で同僚達が口パクで〔素直にイエスと言え!〕とか〔逆らうな!〕などと言っているのは分かってはいたが、浩一は敢えてそれらを無視して真っ向から反論した。しかしさすがはCEOらしく、ケリーもあっさりとは引き下がらなかった。


〔なるほど。君は友人の為になら芸を披露するが、会社の為には披露する気は無いと、そういうわけか?〕
〔多少、認識の相違がある様です。この前のあれは、友人への純粋な好意から披露した物です。もし仮に、私があの芸を評価されてこの社に採用されたと言うなら、幾らでも業務として社の内外に披露します。しかし私は、あの芸を買われて入社した芸人ではありません。社員として会社に貢献しろと言われるのなら、本来の業務上の事で貢献できる様に最大限の努力をしますので、ご容赦下さい〕
 真顔でそう言い切った浩一が、ケリーに向かって再度深々と頭を下げると、二人を遠巻きにしていた同僚達が、当事者達に聞こえない程度の呻き声を漏らした。


〔馬鹿やろうが。適当に頷いて、愛想笑いしてりゃあ良いものを……〕
〔コゥのくそ真面目な性格が、完全に裏目に出たな〕
〔そりゃあ、都合良く貸し出される形になるのは、腹が立つだろうが〕
〔だけどコゥは、別に腹を立ててるわけじゃなくて、きちんと業務で成果を出すから評価して欲しいって言ってるだけでしょう?〕
〔まあ、確かに芸人扱いっぽいのは、どうかと思うがな。長い物には巻かれとけよ〕
 ボソボソと周囲が囁き合っている内容について、はっきり聞き取れなくても容易に予想がついた浩一だったが、上役の不興を買ってもここで引く事ができるかと、完全に腹を括った。対するケリーは、この間面白く無さそうな表情で浩一の主張を聞いてから、徐に頷いて口を開いた。


〔君の言い分は良く分かった。本来の仕事の内容では無い事で、業務命令を受ける筋合いは無いと言う事だな?〕
〔申し訳ありませんが、その通りです〕
〔確かに君の言う事にも一理ある。我が社は、君を余興担当の芸人として雇ったわけでは無い〕
〔はい、その通りです〕
(良かった、分かって貰えて。ここでゴネられたらどうしようかと思った)
 心底安心して溜め息を吐いた浩一だったが、ここでケリーが再び真顔で口を開いた。


〔それでは今回は業務の一環として、君に例の結婚披露宴で芸を披露する事を命じる〕
〔……はい? 今、何と仰いましたか?〕
〔円滑な業務遂行の為、先方とより一層の友好関係を築くのも、重要な業務に該当する〕
〔あの、それは〕
 悪びれなく堂々と言い切ったケリーに、浩一は唖然としながらも反論しようとしたが、ケリーは構うことなく話を進めた。


〔業務だからきちんと休日出勤扱いで、代休及び休日手当も支給する。交通費も含めた、経費などもきちんと請求する様に〕
〔すみません、ちょっと待って下さい!〕
〔その代わり……〕
 そこでずいっと身体を近付けたケリーは、最高責任者の貫禄を醸し出しつつ、これ以上は無い位真剣な顔付きで浩一に宣言した。


〔万が一にも拙い芸をして会場を白けさせたりしたら、減俸を含めた処分対象だ。分かったな?〕
〔……はい〕
〔よし。それでは話は終わりだ。頑張ってくれたまえ〕
 盛大に顔を引き攣らせながらも、何とか了承の返事をした浩一の肩を何度か上機嫌に叩いてから、ケリーは台風の様に去って行った。その姿が完全に見えなくなってから、同僚達が浩一を取り囲む。


〔お前がここまで交渉に長けてたとはな。お前の交渉術を見損なってたぞ〕
〔休日出勤扱いで、割増賃金に代休まで貰えるとは。上手くやりやがって〕
〔ジム、ロイ……、勘弁してくれ〕
 茶化す様に言ってきた同僚に、浩一がうんざりした表情で呻くと、周囲がこぞって彼を慰めてきた。


〔冗談だって。だがそれ位に思わないと、やってられないぞ?〕
〔本当にそうね。失敗したら減給だなんて無茶苦茶よ〕
〔こんな事になるなら、最初から素直に頷いてれば良かったな〕
〔まあ、頑張れ。仕事で業績出す前に、目先の事で結果を出そうな?〕
〔ああ、やってみるよ……〕
 そんなやり取りを終えた浩一は、がっくりと項垂れてから、中断していた仕事に再度取りかかったのだった。




「……そういう訳なんだ」
「なるほどね……」
 そして一通り語り終えた浩一が再び頭を抱えると、そんな夫の姿を見ながら、恭子は疲れた様に溜め息を吐いた。そして浩一の、独り言めいた呟きが続く。
「まさかあそこまで言われて、断るわけには。しかもれっきとした仕事扱いになるなんて……」
 しかし恭子は、そんな浩一の懊悩などどこ吹く風で如何にも楽しそうに笑い飛ばした。


「好都合じゃない。休日勤務手当に加えて、代休も貰えるのよ? ここで躊躇する方がおかしいわ」
 そんな風に言い切った恭子に、さすがに浩一がムキになって言い返す。
「簡単に言うがな、この前と全く同じ事をただ繰り返すわけにはいかないんだぞ? 既に見ている人間が、何人も出席するから」
「勿論、単なる二番煎じなんかにはしないわよ。この前以上にインパクトがあって、スケールを大きくしてあげようじゃない」
 語気強く言い切り、ニヤリと自信あり気に微笑んだ恭子を見て、浩一の顔色が若干悪くなった。


「……まだやる気なのか?」
「当然よ。それじゃあさっさと覚悟を決めて、夕食を食べ終えて頂戴。今夜から内容と進行を考えましょうね。時間を無駄にはできないわ」
 そんな情け容赦ない妻の宣言に、浩一は特大の溜め息を吐いてから、食欲が無いままゆっくりと食事を食べ進めたのだった。



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