カレイドスコープ

篠原皐月

(5)修の場合

 話は二年近く前に遡る。


 ※※※


 カラカラと引き戸を開ける音がして、新たな客が《くらた》に入って来た。接客中だった奈津美が声をかけるより早く、戸を閉め終えた清人の方が、振り返った彼女に笑顔で声をかける。


「やあ、奈津美さん。ただ酒を飲みにきました」
「あ……、清人さん、いらっしゃいませ! どうぞ奥に」
 いそいそと奥まったテーブル席に案内しかけた奈津美を制して、清人はカウンターを指差した。


「カウンターで構いません。修とちょっと話したい事もあるので」
「ではこちらにどうぞ」
「ありがとう」
 そうして大人しくカウンターの隅に腰掛けた清人は、無言で店内を見回した。するとすぐに修がやってきて、声をかけながらカウンター越しに清人の前にお通しを手際良く並べる。


「清人さん、いらっしゃい」
「ああ」
 そして奈津美によって並べられたお絞りや割り箸を手に取った清人は、改めて店内の様子を眺めた。


「開店から二か月過ぎたが、客の入りは良いようだな。先月は何かと忙しくて来店できなかったから、浩一や友之に様子を見に来て貰っていたが」
「おかげさまで、固定客もそれなりに付いてくれたみたいです」
「それは何より。……じゃあ任せるから、適当に酒とお勧め料理を頼む」
「畏まりました」
 互いに笑顔での短いやりとりの後、清人は小鉢の中身をつつきながら、一人静かに飲み始めた。
 それから少しして、修が新しい皿を持って来ると、それに合わせて清人がしみじみと告げる。


「……この酒、正彦が粘って、渋る蔵元から定期納入できる様に口説き落としただけの事はあるな。美味い」
 そう言われて、修は益々嬉しそうな笑顔になった。


「ええ、それに加えて兄さんには配送ルートの手配やら何やら、色々細かい事を整えて貰いましたし。本当にありがたく思っています」
「ここに来た時には、酒も料理も最上級のを出してやれよ?」
「そうしてます。仕事が忙しいのか、開店してからまだ一回しか来てくれていませんが」
「一回?」
「はい、何か?」
 自分が言った台詞に清人が怪訝な表情を見せた為、不思議に思った修が問い返したが、清人は負けず劣らずの困惑した顔を向けた。


「この二か月の間なら……、あいつは家に三回は顔を出しているが?」
 何となく予測できた上、凄く納得できる理由が存在していた為、修は間違っても自分の兄を薄情者呼ばわりはしなかった。


「…………皆、清香ちゃんが好きですからね。俺は暫く顔を出せないと思いますが、彼女に宜しく伝えて下さい」
「今度顔を出す時は、一緒に連れて来る」
「ありがとうございます」
 そんな会話を交わしてから修は調理に戻り、一人居る助手を指図しつつ忙しく注文された料理や酒を調えていたが、ふと清人の方を見ると、眉間に皺を寄せ、どこか一点を睨み付けている顔が視界に入ってきた。その鬼気迫る表情に、修は慌てて近寄り、声を潜めて清人に問い掛ける。


「あの……、清人さん? そんな怖い顔で、一体何を見てるんですか?」
 すると清人は、視線を動かさないまま淡々と告げた。


「二番テーブルのあの二人組、金払いが悪い」
「はい?」
 いきなり言われた内容に、思わず修も該当するテーブルに視線を向けると、清人が横から如何にも面白く無さそうに吐き捨てた。


「さっきから見ていたが、シケたツラ同様しみったれた安い物しか頼まずにダラダラ飲みやがって。席が塞がってて来る客を断ってるのに、売り上げに響く」
 経営上の観点では一応正論っぽい主張ではあったが、流石に修は冷や汗を流しつつ清人を宥めにかかった。


「いえ、あの……、清人さん? 確かにそうかもしれませんが、何を注文するかはお客様の自由ですし」
「経営の面から言えば、単価が安い客は客じゃない。間違ってもあんなのを常連客にするな」
 自分の主張を冷徹にぶった切った清人に、只今現在この人物に借金返済真っ最中である修はこれ以上反論できず、顔を引き攣らせた。しかし辛うじて苦言を呈す。


「あの、お願いですから、その顔を何とか……。それこそ常連客が逃げますので……」
「そうだな、もう帰る様だ」
「………………」
 先程からの清人の無言の圧力を受けて、危険を察知したらしい二人連れは、酔いも一気に醒めた感じで立ち上がり、伝票を持ってそそくさとレジの方へと向かった。そして会計を済ませて出て行く後ろ姿に、奈津美の「ありがとうございました」と言う声が、些か虚しく響いていた。


 それから三十分程は比較的穏やかに時間が過ぎたが、腕を組んで来店した一組の若いカップルによってその平穏が破られる事になった。


「……どうよ? ここ、割と美味いだろ?」
「うん、良いかも~! ねぇ、たっつん、そっちのお魚も食べてみたいぃ~」
「お、食うか? じゃあ口開けてみ? ほれ、あ~ん」
 料理が来るまでも周囲にお構いなしに声高に喋っていた二人だが、食べ始めてからは更に辺りを憚らなくなってきた。


「あ~ん…………、やっぱり美味しいぃ~、たっつんやっぱり詳しいよね~」
「当たり前だろ? あ、そっちのしんじょをくれるか?」
「これ? うん、いいよ。はい、あ~ん」
 互いに食べさせ合い、飲ませ合いの上馬鹿話を垂れ流しているカップルに、周りの者達は迷惑そうな視線を向けていたが、清人はそれの上を行く、冷え冷えとした視線を隠さなかった。


「何だ? あの周りの空気を読めないバカップルは。あんなのが常連か?」
 料理を持ってきたついでに清人が尋ねると、修も困った顔で応じた。


「いえ、常連客ではないですが、確か……、男性客の方は、前に一度いらしたことがあるような……。でも清人さん、ご本人達は楽しくお食事されてますし」
「目障りだ」
「目障り、って……」
 思わず顔を引き攣らせた修の前で、清人が件のカップルを横目で見ながら冷静に評した。


「あんなの、どうせ大した付き合いじゃないな」
「あの……、清人さん?」
「ほら、向こうの客が呼んでるぞ」
「……はい」
 何となく危険な物を察知してしまった修だったが、清人だけに張り付いている訳にもいかず、清人に促されて他の客の元へ向かった。


 それから二十分程、一心不乱に働いていた修だったが、カウンターの向こうで突如発生した怒声に、思わず顔を上げた。


「……ちさ! お前いい加減にしろよ!? さっきから俺が話しかけても上の空で、どこ見てやがるんだ!」
「何よ! いい男の顔鑑賞するのがそんなに悪いわけ!? あんたが大して見栄えしないから、目の保養してるだけじゃない!」
「何だと!? ふざけんなよ!」
「ふざけてんのはあんたの顔でしょ?」
 突然発生した怒鳴り合いに、慌てて奈津美が件のカップルの元に駆け寄って声をかけた。


「あ、あの、お客様? 他のお客様のご迷惑になりますので、お静かに願います」
「はぁ? あたし達だって客よ。引っ込んでなさいよ!」
 しかし女は奈津美を一喝し、続けて相手も一喝する。
「この際はっきり言わせて貰うけど、あんたがあたしに釣り合うと本気で思ってるの? 付き合ってあげてるだけで、感謝して欲しいわね! ちょっとよそ見する位、大目に見なさいよ!」
 その罵倒に相手の男は顔を紅潮させた。


「ざけんな! てめぇなんか金輪際御免だぜ!」
「あぁら、私もよ。お互い同じ意見で良かったわね。サヨナラ! ここに引っ張り込んだのはあんたなんだから、会計はあんた持ちよ」
「寄越せ! 二度と俺の前に顔を見せるな!?」
 突き出した伝票を男が引ったくる様にして奪い、乱暴に出入り口前のレジへと向かう。


「それはこっちの台詞よ!」
「あのっ、お客様……」
「会計だ。早くしろ!」
「はっ、はいっ!」 男に怒鳴りつけられて慌てて奈津美が会計を済ませているうちに、女の方は真っ直ぐカウンターへと足を進めた。


「……ねぇ、ここ、空いてるんでしょ? 一緒に飲みましょうよ」
 その女は清人の隣の席に手をかけながら、媚びる様な視線と声で清人に話し掛けてきたが、清人は一人酒を飲みながら一顧だにしなかった。


「空いているが、君と一緒に飲まなければいけない理由は皆無だな」
「そんな事言って。さっきまでずっと、私の事を見てた癖に」
「いや? 別に見てはいないが。何かの勘違いだろう」
「嘘よ! だってあんな熱っぽく見てたじゃない!」
「……うん? ああ、確かにあの招き猫を見てたな」
「はぁ? 招き猫?」
 窓際に顔を向けた清人の視線を、彼女が思わず追った。すると確かに清人の位置からすると、先程自分が座っていたテーブルの向こう側の窓の縁に、鎮座している招き猫が目に入る。
 呆然とそれを眺める女には構わず、そこで清人が感嘆の呟きを漏らした。


「あの実に愛らしい表情、絶妙な滑らかなカーブを描く腕、本体に対する小判の大きさのバランス、それにあの発色とテカり具合……。どれを取っても完璧だ。何度見ても惚れ惚れする」
「…………」
 恍惚とした表情で評する清人に、女の顔が強張る。そこで恐る恐る修が口を挟んだ。
「あの……、清人さん?」
 すると清人が修に顔を向け、晴れ晴れとした笑顔で懇願した。


「ああ、ちょうど良かった、修。あの招き猫を是非俺に譲ってくれ。リビングに飾りたいんだ。……君、俺の隣に座りたかったら、それなりの容姿と体型と教養をモノにしてから出直してくれ。……到底無理だとは思うがな」
 続けて傍らの女性視線を移し、上から下まで無遠慮に眺めてから鼻で笑った一言に、彼女が完全に切れた。


「……っ! 冗談じゃないわ、ふざけないでよっ! もう二度と来ないわ、こんなとこっ!」
 清人を怒鳴りつけ、鼻息も荒く彼女が店を後にすると、我に返った修は小声で清人に訴えた。


「清人さん! お願いですから、客に色目使った挙げ句、あっさり切り捨てないで下さいよ!」
 しかしその抗議にも、清人が悪びれる事無く言い返す。
「俺はただあの招き猫に惚れ込んで、一人で眺めていただけだ。勝手に勘違いした、あの痛すぎる女が悪い」
「あのですね…………」
 次に続ける言葉が出ずに修が頭を抱えた時、些か乱暴に入り口の戸が開けられ、両側から支えられる様にして泥酔した中年男が入って来た。


「うぃ~~、よぉっぱらっちゃったぞぅ~~」
「課長、ですからもう帰りましょう」
「他の皆さんは帰りましたし」
 どうやら若手二人に上司の世話を押し付け、他はトンズラしたらしいと容易に分かるシチュエーションの三人は、ヨロヨロと店の奥に進もうとした。


「なぁ~にほざいてやがる! ここで飲み直すぞ!」
「いや、ちょっと、それは無理ですから!」
「店を出てタクシーを」
「うるさい! 黙って俺について来いっ……てんだ!」
 その迷惑男が調子外れな叫び声を上げて、店内の客が揃って眉をしかめたと同時に、清人が無言で立ち上がる。


「………………」
「清人さん? ……清人さんっ! お願いですから穏便にっ!」
 抑えた口調の修の訴えも虚しく、清人は真っ直ぐその三人組の所に向かい、泥酔男のネクタイを鷲掴みして問答無用で店の外に引きずって行き始めた。


「うん? なんだ? お前。…………おい、何しやがる!」
「ちょっとあなた! いきなり何するんですか!?」
「課長を放して下さい!」
 部下らしい二人組が清人の腕を振り解こうとするのも物ともせず、清人はあっさり店から男達を引きずり出し、彼らの姿が消えると同時に店内に不気味な沈黙が漂った。


 そして十分程して清人一人だけが店内に戻って来たが、皆見て見ぬ振りを貫いた。しかし流石に立場上確認しない訳にはいかず、修が恐る恐る尋ねてみる。


「あの……、清人さん? さっきのお客さんはどうされました?」
 すると清人が事も無げに言い放った。
「安心しろ。奴らは二度とここには来ない。静かに酒と料理を味わえる」
(清人さんっ! あなた経営状況の確認に来てるのか、営業妨害に来てるのかどっちなんですかっ!?)
 大体予想していた返答ながらも、実際に聞かされて修は本気で頭痛を覚えた。そこで偶々後ろを通りかかった奈津美に、清人が声をかける。


「ああ、そう言えば奈津美さん。簿記検定一級取得に向けての勉強は捗ってますか?」
「はい、それなりに何とか……」
 思わず足を止め、引き攣った笑みを返した奈津美に、清人が笑顔を向けつつ修を指差す。


「こいつは料理の腕は確かですが、金勘定は駄目ですから。ここは内助の功の見せ所です。頑張って下さい」
「……はい」
 余計な事は言わずにお愛想笑いで頷いた奈津美に、清人は更に容赦なく続けた。


「以前お話しした様に、通信教育費と受験料一回分は支払い済みですが、一級に一度で受からなければ、二度目以降は一度目の分を含め全額返済の上、銀行並みの利子を付けますから」
「……え?」
 予想外の話に奈津美だけでは無く修の顔も強張ったが、清人が構わずに冷静に続ける。


「昔からの誼で無利子で金を融通しましたが、回収不能な物件に余計な金をつぎ込むつもりは毛頭無いので、経理は奈津美さんがきっちり締めて下さい。少しでも借金を増やさない為と思えば、やる気も倍増ですよね? 頑張って下さい。応援してます」
「ありがとう、ござい、ます」
 そんな厳しい事をさらっと吐きつつ顔は終始笑顔の清人に、奈津美は辛うじて根性だけで、営業スマイルを返したのだった。


 ※※※


「………………」
「それで、どうなったんだ?」
 当時の事を思い出したのか、全てを語り終えた修が黙り込んでしまった為正彦が続きを促すと、修は声を絞り出す様にして続けた。


「奈津美の奴、店や家の事もやりながら死に物狂いで勉強して、見事一回で一級に合格したんだ。『学生時代にも、こんなに本気で勉強した事無かった』って燃え尽きてた。…………すまん、奈津美! 俺が甲斐性無しなばっかりに、お前にまでしなくても良い苦労をかけてっ!」
 最後は殆どむせび泣き状態で、臨月の為この場に居ない妻に対して詫びながら座卓に突っ伏した修を、左右から正彦と明良が宥めた。


「ああぁ、泣くな兄さん。ほら、ハンカチ。顔を腫らして帰れないだろう?」
「出産祝いは弾むからな。色々大変だろうし、費用こちら持ちで暫く通いの家政婦を派遣してやるから、お前も嫁さん孝行しろよ?」
「ありがとう、兄さん、明良……」
 そんな風に兄弟の絆をじんわりと再確認している三人を眺めながら、他の者達はこそこそと囁き合った。


「開店費用を清人から無利子で借りたって言うのは知ってたが、利子を払っても銀行から借りた方が精神的負担は少なかったんじゃ……」
「奈津美さんは元々老舗料亭のお嬢様だったそうだから、金銭感覚が鋭いって訳でも無かったみたいだしね」
「四級とか三級ではなく、初回から一級を狙わせるとは……。清人さんは無謀極まりないが、受かる奈津美さんも大したものだな……、流石だ」
「……俺が独立する時は、下手に清人さんを頼らずに、真面目に利子を払って銀行から借りよう」
 そんな第三者をよそに、倉田三兄弟の話はまだ続いていた。


「修、そろそろ落ち着け。清人さんが来る度に毎回そんな調子って訳じゃ無いんだろ?」
「ああ、流石に清香ちゃん同伴だと極端に酷い事にはならないから、清人さんが来る頃に清香ちゃんに『若い女性向けの試作品を作ってみたから、是非清香ちゃんに食べて欲しい』って電話して、良く一緒に来て貰ってるから……」
 それを聞いた明良が、合点がいったと言う様に頷く。


「だから若い女性向けメニューが、気がつくと少しずつ増えてるのか。……苦労してるんだね、兄さん」
「本当に細かいよな、清人さんは。だけど金勘定に厳しいと思いきや、散財する時は散財するし、相変わらず良く分からない人だ」
 しみじみとそう正彦が口にした時、玲二が思わず口を挟んだ。


「それって、バカンス会とかの事?」
「う~ん、あれは使う必要があって払うと言えるだろう? 別に払わなくて良い所に時間と金を費やすと言うか、何と言うか……」
 一言で上手く説明出来ないらしく正彦が口ごもると、浩一と友之も怪訝そうに問い質してくる。


「さっきの話と逆だろう?」
「どういう意味だ? 正彦」
「あれは……、この前、出先でばったり清人さんと出くわした時の話なんだが……」
 その問い掛けを受けた正彦が、以前の事を思い返しながら、徐に話し出した。



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