藤宮美子最強伝説

篠原皐月

(18)秀明の懸念

 美子が第二子を妊娠して安定期に入ってから、藤宮家に郵送されてきた招待状に、秀明も昌典もかなり渋い顔をしたものの、彼女はそんな二人を宥め、加積康二郎の誕生日祝いの席に顔を出す事にした。
 当日夫婦揃って加積邸に出向き、玄関で出迎えを受けて廊下を歩き始めた美子だったが、突然隣を歩く秀明が、憤懣やるかたない表情で悪態を吐き始める。


「全く……。あの年になって、どうして誕生日がめでたいんだ。あの世に逝くのが早まるだけだろうが。寧ろ、このままポックリ逝きやがれ」
「秀明さん、お祝いの席にお呼ばれしているんだから、そんな事は言わないで」
「呼ばれたのはお前で、俺は呼ばれて無い。『配偶者を連れてきても良い』と、招待状に書いてあっただけだ。何を言っても構わんだろう」
「もう……。今日は朝から、そんな憎まれ口ばかりなんだから……」
 秀明の毒舌っぷりに呆れながら、美子は前を歩く、この屋敷内の事を取り仕切っている人物に向かって、謝罪の言葉を口にした。


「ごめんなさい、笠原さん。聞き苦しい事ばかりお聞かせして。この人ったら、今日は朝から機嫌が悪くて」
「いえ、気にしてはおりませんのでお構いなく」
 ここで軽く振り返って美子に微笑んだ笠原に対して、秀明が更なる暴言を放った。


「笠原。言っておくが、美子に酒を一滴でも飲ませたら貴様の全身の生皮を剥いで、残った骨と干からびた肉で出汁を取って、犬の餌にしてやるからそのつもりでいろ」
 そのあまりの物言いに、美子は顔付きを険しくして夫を叱りつけた。


「あなた! 笠原さんに八つ当たりしないで頂戴!」
「言っておくが、俺は本気だ」
「秀明さん!?」
 尚も凄んでくる秀明に美子は舌打ちしそうになったが、立ち止まった笠原は、恭しく秀明に頭を下げて了承の言葉を返した。


「承知致しました。私共で重々気をつけますし配慮致しますので、藤宮様はご安心して、こちらでお待ち下さい」
 そこで笠原がとある座敷の入口らしい襖を手で示した為、秀明はそれ以上文句は言わずに、再度念を押した。


「美子、分かっているな? くれぐれも」
「分かってます! 秀明さんは大人しく、ここで待ってて頂戴!」
 最後は完全に腹を立てて秀明と別れた美子は、はっきりと腹部の膨らみが分かる自分のマタニティドレスを見下ろしながら、苛立たしげに愚痴を零した。


「本当にもう……。こんな状態なのに、お酒なんか飲めるわけ無いじゃない。秀明さんったら、どうしてあんなにイライラしてるのかしら?」
「藤宮様にしてみれば、当然ですね」
「……笠原さん?」
 自問自答しているつもりが笠原の呟きが耳に入ってきた美子は、ちょっと意外に思いながら彼に声をかけた。


「笠原さんも奥さんが妊娠期間中は、凄い過保護だったんですか?」
「別に、そういうわけでは…………。いえ、そういう事にしておいて下さい」
「はぁ……」
(何か反応が変よね? いつもは何事にも動じない様に見える笠原さんが、口ごもるなんて)
 若干目を泳がせてから、再び先導して歩き出した笠原に、美子は内心疑問を覚えたものの、深く追及はせずに大人しく彼に付いて奥へと進んだ。そして広い座敷の出入り口に到達した笠原は、襖を引き開けながら中の人間に声をかけた。


「藤宮様がいらっしゃいました」
「おう、美子さん。良く来てくれたな。さあ、入ってくれ」
「失礼します」
 上座に座っていた加積から上機嫌に手招きされ、美子は軽く一礼してから室内に入り、夫婦の前で正座した。


「本日はご招待頂きまして、ありがとうございます」
「こちらこそ来てくれて嬉しいわ。だけどこの前見た時より、随分お腹が大きくなったわね。ご苦労様」
「秀明さんが最後までブツブツ文句を言っていましたが、安定期に入りましたから、顔を出すのに支障は無いと思いまして」
 笑顔で応じた美子に、桜がおかしそうに笑う。


「あら、そんなにご亭主は、美子さんが今日ここに来るのがそんなに不満だったの?」
「ええ。さっきも笠原さんに向かって、私に酒を一滴たりとも飲ませるなって、くどい位に言っていたんです。全く。どうしてあんなに心配するのかしら。妊娠中なんだから、飲むつもりなんか皆無なのに」
 それを聞いた桜と加積は、心得た様に頷いた。


「勿論そうだろうと思って、美子さんにはちゃんとお茶を用意しておいたから、安心して」
「ありがとうございます」
「烏龍茶とか冷たい物だと腹が冷えるかもしれないから、美子さんの席にはちゃんと、お湯と急須と茶葉を揃えておいたからな」
「はぁ……」
 そして加積の手で示された方に目を向けた美子は、末席に当たる場所のお膳の横に更に小さな台が設けられ、その上にポットと急須と茶碗と茶筒がセットされているのを見て、何とも言えない表情になった。


(なんかもの凄く違和感……。ただでさえ出席者の中では一人だけ若いし、桜さんを除けば女一人だし、余計に浮いてしまうんだけど……)
 思わず溜め息を吐きたくなった美子だったが、ここで加積が思い出した様に声をかけてきた。


「そう言えば美子さん。俺の誕生日祝いの席に顔を見せるのは、久し振りだな」
「はい、そうですね。確か結婚してすぐの時には出席しましたが、その翌年は美樹の出産前後で、その次は妹の結婚式と重なって……。何だかんだで、四年ぶりでしょうか?」
 そこで美子は座ったまま他の参加者に向き直り、笑顔で挨拶の言葉を述べて頭を下げた。


「折に触れこちらに出向いていますが、その時に顔を合わせた事はともかく、皆さんお揃いの時に顔を合わせるのは、あれ以来ですね。ご無沙汰しております。今日はお酒を口にできませんので、場を白けさせる事になったらお詫び致します」
 しかし神妙に詫びの言葉を口にした美子だったが、見た目も年齢も異なる七人の男達は、揃って慌て気味に彼女を宥めた。


「いっ、いやいや、美子さん。元気そうで何より!」
「うんうん、そうか二人目か。夫婦仲が宜しくて結構な事だ」
「それじゃあ酒は飲めんな。いや、気にするな。亭主が体調を気遣うのは当然だ」
「無論、我々も酒を勧めたりしないぞ? 安心しなさい」
「ありがとうございます。皆様に以前と同様、優しく接して頂いて嬉しいです」
「は、はは……」
「そうかな……」
 美子が(やっぱり皆さん、揃って良い方ばかりだわ)と安堵して微笑むと、男達が微妙に引き攣った笑顔を返してくる。その光景を眺めた加積は、笑いを堪える表情で美子に尋ねた。


「美子さん。因みに、前回の事はどんな風に記憶しているのかな?」
 その問いかけに、美子は不思議そうに思うところを述べた。


「どんな風にと言われても……。皆様とは結構年が離れている上に、女一人だったにも係わらず、皆こぞって私に話しかけてくれてお酌してくれて。大変楽しく過ごさせて頂きましたが、主人が広間に乱入して途中で切り上げさせて、中座して帰ったんですよね? 私、楽しく飲んだ記憶しかありませんが」
 困惑しながら美子が告げた内容を聞いて、男達の表情が微妙に強張った物に変化する。それを視界の隅に捉えながら、加積は話を続けた。


「やはりそうか。美子さん、普段酒は強い方だろう?」
「はい、幸いな事に。それが何か?」
「寧ろ、弱い方が良かったのかもしれないと、思ったものだからな」
「はい?」
 言われた意味が分からず美子は首を捻ったが、ここで桜が話を引き継いだ。


「美子さん。その次の日は、二日酔いにならなかった?」
「いいえ、全く。目が覚めたら自分のベッドで寝ていたのには、少し驚きましたが」
 その台詞に、桜が些か大袈裟に驚いてみせる。


「あら。じゃあこの屋敷から引き揚げた時の事は、全然記憶に無いの?」
「はい。中座して引き揚げた事は、秀明さんから話を聞いたので」
「なるほどね……。やっぱり相当苦労して、相当根に持ってるわね、あの男。肝心のあなたが、綺麗さっぱり忘れているなんて」
「何の事ですか?」
 何やら一人で合点して、くすくすと笑いだした桜を見て、美子は不思議そうに尋ねた。すると桜が悪戯っ子の様な笑みを浮かべながら、尋ねてくる。


「美子さん。あなたが前回顔を見せた時に、何があったのか正確な所を教えてあげましょうか?」
「正確な所、ですか? 私、何も変な事はしていませんよね? 普通に飲みながら、皆様と話をしていただけですし」
「それがそうでも無いのよ」
 そう言って再度笑い出した桜を、美子が困惑顔で眺める。そして桜は笑いを収めてから、四年前の出来事について話し出した。


 ※※※


 入籍した直後。加積の誕生祝いの席に招待されて、秀明と一緒に加積邸に出向いた美子だったが、到着後に予想外の事を笠原から告げられた。


「申し訳ありませんが、お祝いの席には美子様のみの参加でお願いします」
「は? 夫婦で招待しておいて、何だそれは?」
「申し訳ございません。毎回配偶者の方々には、別室にてお食事を準備してありますので」
「…………」
 忽ち不機嫌な顔になって黙り込んだ秀明だったが、ここで帰ったり無理に同席させる事は無理だと悟った美子は、笠原に頷いて秀明を宥めにかかった。


「分かりました。私だけ案内して頂けますか?」
「おい、美子」
「加積さんと桜さんが揃っているんだもの。そんな変な宴会にはならないわよ。それに今回は、加積さんの各方面の事業を引き継いだ方達が一堂に会するそうだし、ご挨拶だけでもしてくるわ。どのみち、顔見せはしないといけないと思うし」
「確かにそうだろうが……」
 美子のその主張に反論できなかった秀明は、益々渋面になりながら、強い口調で言い聞かせた。


「それは分かったが、変な事を言われたりされたりしそうになったら、手加減せずに反撃しろよ?」
「だから、そんな変な事にはならないって言ってるのに、心配性ね」
 そして夫婦のやり取りが一段落したのを見て取った笠原は、落ち着き払ってすぐ横の襖を手で示しながら秀明を促した。


「それでは藤宮様は、こちらのお部屋でお待ち下さい」
「……分かった」
「美子様は奥へご案内致します」
「はい、笠原さん、お願いします。じゃあ、少し待っててね」
 笑顔でもう一度宥められた秀明は、美子が廊下の曲がり角の向こうに消えるまで見送ってから、不承不承襖を引き開けて示された部屋に入ると、そこには八つの膳が並べられ、着飾った年配の女性が七人座っていた。しかし互いに敵愾心を持っているのか、無言で微妙な雰囲気を醸し出していたが、秀明はそんな事は物ともせず空いている席に座り、その座敷担当らしい給仕役の女性の一人から、盃を受け取る。


(全くろくでもないな……。何か問題がある様なら、美子がなんと言おうと引き摺って帰るぞ)
 仏頂面で冷酒用のポケット付きカラフェを奪い取り、料理を摘みながら早速手酌で飲み始めた秀明だったが、すぐに隣の席から媚を売る様な視線と声音で声がかけられた。


「話には聞いていたけど、思っていたより随分若くて良い男じゃない。一緒に飲まない?」
 しかし秀明はその女性に一瞬視線を向けただけで、ざっくりと切り捨てる。


「はっ! 面の皮の厚さが五cmで化粧の厚さが三cmの化け物となんぞ、酒が飲めるか。ただでさえ不味い酒が、飲めたものでは無くなるに決まってんだろ」
「何ですって!?」
「五月蠅いと言ってるんだ。失せろ。妖怪ババァ」
「何て生意気な若造なの!?」
「原田様!」
「お気持ちは分かりますが、このお屋敷で騒ぎを起こすのはご法度ですから!」
 思わず腰を浮かせて掴みかかろうとした女性を、給仕役の女性が三人がかりで押さえ込み、必死になって宥める。そんな騒ぎなど綺麗に無視して、秀明は怒りを燻らせつつ面白く無さそうに飲み続けた。


(今度からは、呼ばれても絶対来るか。美子も二度と出さんぞ)
 段々剣呑になってくる秀明の形相に、給仕役達を初めとして、普段それなりに羽振りを聞かせている筈の女性達も、いつしか押し黙って薄気味悪そうに秀明の様子を窺う。そんな調子で一時間半以上が経過し、室内の雰囲気がさながらお通夜のそれに成り果てた頃、控え目な声と共に出入り口の襖が引き開けられ、笠原が姿を現した。


「失礼致します」
 何事かと室内の全員が彼に顔を向ける中、笠原は一人無視を決め込んでいた秀明の元に歩み寄り、正座して彼に声をかけた。
「あの……、藤宮様」
「何だ?」
「その……、奥様を引き取って頂けないでしょうか?」
 神妙な顔付きで、そんなお伺いを立ててきた笠原に、秀明はすぐに盃をお膳に置いて鋭い視線を向けた。


「美子がどうかしたのか? 酔って体調を崩したとか?」
「いえ、大層ご機嫌でいらっしゃいまして、体調も宜しい様です。先程から野球拳で、全戦全勝していらっしゃいますし」
 一瞬、相手を締め上げようかと思った秀明だったが、予想外の話を聞いて自分の耳を疑った。


「今、何と言った? 野球拳? 何の冗談だ?」
「それが……、冗談では無くお客様全員が、お召し物を全て取られてしまいまして……」
「はぁ?」
 言われた秀明は目を丸くしたが、その場に居合わせた者達全員も、何を言われたのか分からない様な表情になった。そんな戸惑いの視線を全身に浴びた笠原は、取り出した白いハンカチで額の汗を拭いながら、控え目に懇願してくる。


「美子様が先程から、旦那様相手に勝負を……。このままの勢いですと、間もなく旦那様が身ぐるみ剥がされる可能性が出て来てしまったものですから……」
 そこまで聞いた秀明は笠原を怒鳴り付けつつ、勢い良く立ち上がった。


「そんな事を、悠長に報告している場合か!! どの部屋だ!?」
「廊下に出て右方向に進んで、突き当りを更に右に進んで、左側の奥から二番目の部屋になります」
「分かった。貴様も来い!」
 言い捨てて廊下に向かって駆け出した秀明を、笠原が慌てて追いかける。一瞬遅れてその部屋の女性達も何事かと立ち上がり、二人の後を追った。


(全戦全勝って、どういう事だ? いや、そんな事より何より……)
 さすがに混乱しながら廊下を駆け抜けた秀明は、すぐに目的の場所に辿り着いた。


「アウトっ、セーフ、あ、よよいの……」
「ここだな!?」
「はい!」
 襖越しに美子の声が聞こえた秀明は、一応後ろを駆けて来た笠原に確認を入れ、肯定された為迷わず襖に手をかける。


「美子!!」
「……よいっと!」
 そして怒声と共に勢い良く両手で襖を左右に引き開け、座敷に飛び込んだ秀明だったが、その眼前には自身の目を疑う光景が展開されていた。



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