藤宮美子最強伝説

篠原皐月

(12)夫唱婦随

 加積邸に招かれている日の朝。出勤する秀明を見送ろうと、いつも通り玄関に向かった美子だったが、横を歩く夫から唐突に封筒を渡された。


「美子、これを渡しておく」
「何?」
 不思議に思いながら取り敢えず受け取り、玄関で秀明が靴を履いている間に中身を取り出して確認してみたが、広げた用紙の内容を見て軽く眉を顰めた。


「あなた?」
 美子から若干咎める様な口調で問いかけられた秀明だったが、明るく笑い飛ばす。
「お前にヒントを貰った上で、あいつが外す様なヘマをするとは思えないが、一応念の為だ」
 そう言った夫の左手を見てから美子が渡された封筒を逆さにしてみると、予想通りの物が封筒を持っていない方の美子の手のひらに転がり落ちる。それを見た美子は、呆れた様に溜め息を吐いた。


「あと一押しする必要がある時は、これを使えと?」
「その判断は、全面的にお前に任せる。……それから、この事は他言無用だ」
 付け加えられたその台詞に、美子は皮肉っぽく肩を竦める。


「本人にも、って事ね。あなたったら、あの人達を随分気に入ってるみたいね。少し妬けるわ」
 それを聞いた秀明は、からかう口調で言い返した。


「お前からそんな台詞を聞くのは珍しいな」
「これについては分かったわ。行ってらっしゃい」
「ああ。頼んだ」
 互いに笑顔で出勤する秀明を見送り、美子は妹達や父親を見送って佐竹を待ち受けた。そして指定通り、九時半過ぎに佐竹がやって来る。


「佐竹さん、いらっしゃい。迎えが来るまでもう少し時間があると思いますから、お茶でも飲まれますか?」
「……いえ、大丈夫ですのでお構いなく」
「そうですか」
 応接間に通してお茶を勧めてみたものの、スーツ姿の佐竹は一昨日以上に緊張しているらしく、強張った顔付きで丁重に辞退してきた為、美子は内心で溜め息を吐いた。


(あまり大丈夫じゃ無さそうだけど……。こんな状態で、上手く加積さん達の気を引けるかしら?)
 密かにそんな事を考え込んでいる間に、時間通りに加積から差し向けられた車が到着した。
 美子は美樹と佐竹を引き連れてそれに乗り込み、順調に加積邸に到着すると、車寄せから玄関に入ると同時に、顔見知りの人物に恭しく頭を下げられる。


「お待ちしておりました、藤宮様」
 この屋敷の主とほぼ同年代と思われる、白髪頭の黒スーツの男に、美子は美樹を抱きかかえたままこれまで通りに微笑みかけた。
「こんにちは、笠原さん。お邪魔します」
「こぅ~にゃ?」
 美樹もにこにことしながら挨拶らしき声を上げると、邸内を取り仕切っている笠原は若干頬を緩めながら、恭しく美子達を廊下の奥へと促した。


「旦那様と奥様がお待ちです。こちらにどうぞ」
「ありがとう」
 そして上がり込んで笠原の後に続いて歩き出した美子に、軽く背後を振り返りながら彼が声をかけてくる。


「美樹様は、また大きくなられましたね。こちらにお連れになるのは、二ヶ月ぶりでしょうか?」
「ええ、それ位ですね。もうつたい歩きをするから、目が離せないんです」
「それは本当に、ご苦労様です」
 そんなやり取りをして目元を緩ませた笠原が、再び前を向いて先導し始めると、佐竹が半ば呆然としながら小声で囁いてくる。


「本当に、先輩では無くあなたの方が、この屋敷に出入りしているみたいですね」
「そうね。この屋敷での秀明さんは、私の『使い勝手の良い、愉快で便利なオマケ』扱いよ」
「…………」
 正直に美子が実情を述べると、佐竹は何とも微妙な表情で押し黙った。そして何か言おうと口を開きかけた時、前を歩く笠原が振り返って唐突に尋ねてくる。


「ところで、そちらのお客様は、茶道の心得はございますか?」
 それに佐竹は、瞬時に顔を引き締めて即答した。
「はい、大丈夫です」
「それでは茶室にご案内します。藤宮様には、手前のお部屋でお待ち頂きたいとの事です」
「分かりました」
 佐竹は傍目には落ち着き払って、美子も素直に頷いたものの、予想外の展開に多少困惑した表情になった。


(あら……、変に口添えとかさせない為かしら? そこまで便宜を図る気は無かったから、それで構わないけど)
 内心で困っているうちに笠原が立ち止り、美子に向かって目の前の襖を恭しく指し示した。


「それでは藤宮様は、こちらで少々お待ち下さい」
「分かりました。……頑張ってね」
「はい」
 一応軽い激励の言葉をかけて佐竹と別れた美子は、美樹と一緒に指定された部屋へと入った。
 その部屋の反対側に設置されている猫間障子は、天気が良い為下の障子部を全て上に上げてあり、美しく整えられた日本庭園が一望でき、自然と美子は縁側へと移動する。


(良いお天気ね。相変わらずお庭も見事だし)
 日当たりの良い、ポカポカとした縁側に座り込んで、上機嫌な美樹と手遊びに夢中になっていると、何やら縁側の向こうの方から、男女の笑い声らしき物が微かに伝わってきた。


(何? 今の声? 加積さんと桜さんの笑い声の様に聞こえたけど……。そうなると、首尾良く関心を持って貰えたのかしら?)
 何気なく美子が声のした方を見上げると、独立して建っている茶室に、すぐ傍の渡り廊下でこの棟が繋がっている事実に漸く気が付いた。そして美樹を抱きかかえたまま、何となく視線を渡り廊下に向けていると、ほどなくしてその渡り廊下を杖を付いてゆっくりとした足取りでこの家の主が進み、彼が角を曲がって縁側を自分達の方に向かって来るのに気が付く。


(あら、もう終わり? でも加積さんだけ出て来るって言うのも、変よね?)
 内心で不思議に思いながらも、自然と立ち上がって出迎える体勢になった美子の前にやってきた加積は、皺が深く刻まれながらも、精悍さは全く衰えていない厳めしい顔を僅かに綻ばせながら、彼女に声をかけてきた。


「やあ、美子さん。お待たせして申し訳ない」
「いえ、こちらが無理を言って同伴してきた人間の相手を、お二人にして貰っているのですもの。お構いなく」
「今日は美樹ちゃんも一緒だったか。こんにちは」
「あ~! か~じゅ!」
 基本的に人見知りなどしない美樹が、にこにこと加積に向かって手を伸ばした為、加積は杖を障子に立てかけ、美樹を受け取って縁側にゆっくり腰を下ろした。
 軽く胡座を組んで座り込んだ足の上に上機嫌な美樹を乗せ、自身も機嫌が良さそうに話しかけている加積を見て、美子は慎重に尋ねてみた。


「ところで加積さん。話はお済みになりましたか?」
 その問いに、加積はチラリと美子の方を見て答える。
「まだ話はついていない。桜があの若造をからかっているところだ」
「そうですか」
 これは長期戦になるかしらと美子が懸念していると、加積は急に真顔になって美子に問いかけた。


「その件だが……、君はあいつが何の為にここに来たのか知っているのか?」
「主人から佐竹さんが『加積さんが秘蔵している花を一輪、譲り受けたいらしい』と聞いています」
 真っ正直に秀明から聞いていた話を口にしたが、何故か加積はその顔に苦笑いを浮かべる。


「花……、まあ、確かに花だな」
 その微妙な笑みが気になったのと、その話を聞いた時から不思議に思っていた事を、美子は率直に加積に尋ねた。


「でもこちらの屋敷に、珍しい花を栽培している温室とかがありましたか?」
「いや、俺は温室育ちとかは好かんな。野晒し雨晒しでも肥料無しでも、それなりに綺麗に咲く方が好みだ」
 即答した加積に、美子は軽く目を見張って応じる。


「あら……、じゃあ何気なく見ているお庭の中に、そんな珍しいお花が咲いているんでしょうか? 全然気がつきませんでした」
「そうだなぁ……、美子さんも屋敷内で、チラッと見かけた事があるかもしれないなぁ」
 何やら思わせぶりにくつくつと笑う加積が気にはなったものの、美子はここで思い切って核心に触れてみた。


「ところで不躾な事をお伺いしますが……、佐竹さんにそのお花を譲って頂く事は可能でしょうか?」
 それを聞いた加積は顎に片手を当てて、わざとらしく考え込む。


「なかなか面白い奴の様だから譲ってやっても良いが……、“あれ”を手に入れる際に、結構な金額を払っているんだ」
「因みに、どれ位でしょう?」
「一億五百二十万」
「……それはそれは」
 サラッと告げられた金額に、美子は咄嗟に適当なコメントが出なかった。


(確かに一般人には大金だけど、この人にとっては大した金額では無い筈。だからと言って花一輪にそんな大金かけないでよ……。だけど、どうしてわざわざ大金をかけたなんて言い出したのかしら? 加積さんらしくないわ)
 その疑問は、次の彼の台詞で氷解した。


「その額を1ヶ月で奴が準備できたら、話を持ちかけてきた通り、望む花を譲ってやろうと思っているんだが……」
(なるほど、そうきましたか……。なかなかお人が悪い。でも確か柏木さんって、あの柏木家の人間だから、一億位はすぐに準備できるでしょうし)
 佐竹の片割れである柏木が、大手総合商社の柏木産業創業家の一員であり、親族がグループ企業の要職を務めている事を彼等が帰った後に秀明から聞かされていた美子は、それならば何とかなるだろうと楽観した。しかしそれは長くは続かなかった。


「たかが花一輪を手に入れる為に、家の財産に手を付けて大枚を払う様な馬鹿な真似をしたら、端から見たら正気を疑われそうだな。柏木の前当主は結構豪放磊落な所があるが、彼を含めた周囲が知ったら、咎められるだけで済めば良いが……」
 加積が酷薄な笑みを浮かべながら、誰に言うともなしにそんな事を呟いた為、美子は瞬時にその台詞に含まれた意味を悟った。


(という事は……、もし安易に柏木さん個人の物ではなく、柏木家の現金を動かしたり、所有している不動産を処分して容易にお金を作ったりしたら、即刻周囲の人間に知らせて柏木さんの信用を失墜させるって事よね? ……でもどうして佐竹さんだけ連れて来てるのに、彼と柏木さんが繋がってるって分かってるのかしら?)
 どうにも釈然としないまま、美樹と楽しそうに手遊びしている加積を眺めていると、彼が再び美子に顔を向けてきた。


「それでだな、美子さん」
「はい、なんでしょうか? 加積さん」
「それなりに売れてはいるが、作家としてはまだまだひよっこの上、太っ腹な身よりも大した後見も無い、若さと才気と気概だけの男に、1ヶ月で一億強の金が工面できると思うか?」
 薄笑いでそんな事を尋ねられた美子は、傍らに置いてあったショルダーバッグを手を伸ばして引き寄せつつ、密かに気合いを入れた。


(ここで対応を誤ったら、話はご破算って事ね。佐竹さんもそれなりに頑張ったみたいだし、もう一押ししてあげましょう)
 そしてバッグのサイドポケットから、ある封筒を取り出しながら話を切り出す。


「加積さん、私と賭けをしませんか?」
「ほう? どんな賭けをすると?」
「佐竹さんが1ヶ月で、自力で加積さんの指定額を揃えられるかどうかです」
 真顔で言い切った美子に、加積が忽ち面白そうな顔になった。


「賭けと言うなら、何を賭ける事になるのかな?」
「これです」
「拝見しよう」
 差し出された封筒を受け取り、加積は膝の上に乗せている美樹の邪魔にならない様に、折り畳んであった中の用紙を、腕を伸ばして広げて内容を確認した。


「う~あ?」
「……これはまた、随分と面白い物を持って来たな」
 美樹の目の前に広げられた用紙は、秀明と美子の名前が記入されている離婚届であり、全く事情が分からない美樹は不思議そうに声を上げ、加積は呆れ気味の声を漏らした。しかし美子は更に補足説明をする。


「証人欄に加積さんと桜さんの署名を頂ければ、それはすぐにも提出できます。その他に、封筒の中には主人の結婚指輪も入っていますので、これもお付けしますわ」
 そう言って、自身の左手の薬指に填まっていた結婚指輪を外して自分の前に置いた美子を見て、加積は笑いを堪える様な表情になった。


「奴が金額を揃えられなかったら、離婚届を出して構わないと?」
 それに美子は、微塵も迷わず頷く。
「はい。でも主人は、佐竹さんが何としてでもやり遂げるだろうと確信しているので、こんな物を平気で私に預けたのでしょう。私と離婚するなんて、微塵も考えていない人ですから」
 真顔で美子が断言すると、加積は我慢できなくなった様に押し殺した笑い声を上げた。


「……くっ、……は、ははっ。あのふてぶてしい男、美子さんの口を借りて、ベタ惚れぶりをのろけやがったな?」
「申し訳ありませんが、結果的にはそうなってしまったかもしれません」
 如何にも神妙に美子がそう口にすると、加積は満足そうに目の前の指輪をつまみ上げて封筒に入れ、更に離婚届も元通り畳んでそれに入れた。


「良かろう。その賭け乗った。それではこれは1ヶ月預からせて貰う」
「はい。構いません」
 そして上機嫌で封筒をスラックスのポケットに折り畳んでしまい込んだ加積から美樹を受け取り、再び立ち上がって杖を付きつつゆっくり奥へと戻って行く彼を見送りながら、美子は安堵の溜め息を吐いた。
(取り敢えず、成功? 後はあの二人の健闘を祈るのみね)
 そこで腕の中で、美樹が不思議そうに黙り込んでいる美子を見上げてくる。


「まぁま?」
「あのおじさん達には、是非とも頑張って貰わないとね?」
「うっ!」
 自分の呟きに対して、何とも力強い頷きを返してきた娘に笑ってしまった美子は、また日当たりの良い縁側に座り込んで、美樹をあやし始めた。
 それから十分程して、奥から佐竹一人が出て来て美子の所まで戻って来た。


「終わったのね。どうだった?」
 その問いに、佐竹はまだ幾分硬い表情ながら答える。
「取り敢えず、話には乗って貰えました。後は出された条件をクリアするだけです」
「そう……。頑張ってね」
 小さく笑って激励した美子だったが、ここで佐竹は若干探る様な視線を向けてきた。


「藤宮さん。何か口添えして頂けたんでしょうか?」
「何の事かしら?」
 恐らく加積が中座した後に話が纏まった事で、その間に自分が何か働きかけたのではないかと佐竹が推察しているのが分かった美子は、あくまでしらを切った。しかし佐竹はそれ以上その事には触れずに、頭を下げる。


「この度は色々とご助力ありがとうございました。つきましては、先輩には言い分があるでしょうが、些少なりともお礼がしたいのですが」
「お礼は一昨日して貰ったつもりだし、まだ譲って貰うと決まった訳では無いんでしょう? お礼を頂くにしても、首尾良く事が運んでからでないとね」
 にっこりと笑って応じた美子に、佐竹も若干気を取り直したらしく表情を緩める。


「それでは万事上手く解決しましたら、そうですね……、今は五月ですから、お中元に何かお贈りするのはどうでしょうか?」
 それを聞いた美子は、ちょっと考えてから答えた。
「お中元ね……。それなら永鐘堂の水羊羹を頂ける? 家の者は全員、そこの水羊羹が好きだから」
「分かりました。成功した暁には、必ずお贈りします」
 そんなやり取りをしていた二人に、楽しげなこの屋敷の女主人の声がかけられた。


「美子さん、せっかくだからお茶を飲んでいって! その子はもう帰るから」
「ええ、用は済んだので、さっさと帰ります。色々忙しくなりそうなので」
「ええ、さようなら」
 体よく追い払われた佐竹だったが、それは願ったり叶ったりだったのは明白で、互いに苦笑いしてその場で別れた。
 それから広い和室で、予め用意してあった大きなぬいぐるみと格闘している美樹を微笑ましげに眺めながら、加積の妻である桜はおかしそうに美子に告げた。


「うふふ……、美子さんったら、あんな物を主人に渡しちゃって、本当に良かったの? 主人ったら、もう出したくて出したくてうずうずしてるわよ? 『あのしたり顔の若造の悔しがる顔が見たい』って」
 その台詞にも動じることなく、美子は余裕で微笑み返す。


「申し訳ありませんが、本当にあれは1ヶ月間預かって頂くだけですから。主人に私の判断で使えと言われたので、使ってみただけですもの」
「あらあら。美子さんのご亭主は、随分あの子に肩入れしているのね。大丈夫かしら?」
「主人がやれると確信しているなら、私も信じてあげなければ駄目でしょう」
 そう言ってすましてお茶を飲んだ美子を見て、桜は冷やかす様に声をかけた。


「相変わらず、仲が良いわね」
「桜さん達程ではありませんわ。年季が違います」
「確かにそうね」
 そこで女二人は朗らかに笑い合い、そんな二人を見た美樹が「う?」と不思議そうに首を傾げたのだった。


「ただいま」
「お帰りなさい、秀明さん。今日は遅かったわね。すぐご飯にする?」
「ああ。そうしてくれ」
「それからあなたが出がけに言った様に、“あれ”を使ってきたから」
「そうか」
 その日もいつも通り、帰宅した秀明を出迎えた美子だったが、自分の目の前に夕食を揃えている彼女の左手を見た秀明は、軽く顔を顰めた。


「……お前も指輪を渡してきたのか?」
 しかしその問いに、美子は平然と言い返す。
「だってあなたが渡してるのに、私が渡さないなんて変じゃない?」
「二人同時に指輪を無くすなんて、周囲に怪しまれないか?」
「夫婦揃って偶々変な所に置き忘れて、忘れた頃に揃ってポロッと出て来るだけよ。でも……」
「何か問題でも?」
 事も無げに言いかけて何故か急に口を閉ざした妻に、何事かと秀明が尋ねると、美子はくすりと笑って思ったところを述べた。


「『無くすのも見つけるのも一緒だなんて、よっぽど夫婦仲が良い』って、周囲から呆れられないかしら?」
「……確かにそうだな」
 一瞬当惑したもののすぐに秀明は笑いだし、美子からその日の首尾を聞きながら、遅めの夕飯を楽しく食べ進めたのだった。




 それから約二か月後。藤宮邸に宅配便が送り付けられた。
「藤宮さん、お届け物です」
「はい、少々お待ち下さい」
 インターフォンで応対した美子が、玄関から出て「お待たせしました」と言いながら門の鍵を開けて戸を引き開けると、目の前の光景に唖然となった。


「すみません……、玄関まで運びますので、玄関を開けて頂けないでしょうか?」
「あ、は、はい!」
(何事? あの山積みは?)
 何個も積み重なった平べったい箱を両手で抱えた担当者に懇願され、美子は慌てて玄関に掛け戻り、戸を開けて「こちらにどうぞ」と上がり口を手で示した。そして取り敢えずその荷物を置いて貰ってから、改めて配達員に確認を入れる。


「あの……、何かの間違いじゃありませんか? どうして同じ箱が十個もあるんでしょうか?」
「いえ、確かに伝票ではこの様になってまして……。送り主の名前に心当たりはございませんか?」
 困惑顔で配達員が胸ポケットから取り出した伝票を覗き込んだ美子だったが、品名欄に《永鐘堂 特選水羊羹詰め合わせ三十個入り 十箱》、送り主欄に《佐竹清人》と記載があるのを目にして、了解の返事をした。


「……ああ、事情は分かりました。確かにうち宛で間違いありません」
「そうですか。それでは印鑑かサインをお願いします」
 明らかに安堵した顔付きになった男から、美子は伝票とボールペンを受け取り、受領印の欄にサインを済ませた。そして元通り門と玄関の鍵を閉めてから、玄関の上がり口に積み重なった箱を見下ろして、うんざりした顔になって愚痴を零す。


「全く……。指輪をちゃんと返して貰ったから、上手くいったのは分かってたけど、奮発し過ぎでしょうが。でもこれ位しないと、秀明さんに変な難癖を付けられるとでも思ったのかしら?」
 そこで呆れた様に首を振った美子だったが、早々に気持ちを切り替えた。


「まあ良いわ。せっかく頂いたし、叔母さんや叔父さん達のお家に配る分に、回せば良いわね。家で食べる分は、早速冷やしておきましょう」
 そうして一番上の箱を一つ持ち上げた美子は、何事も無かったかのように家の奥へと戻って行った。





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