半世紀の契約

篠原皐月

第48話 悪ガキの過去

「おい、秀明!!」
「大丈夫か!?」
 宴も終盤になってから、会場の一角で発生した男達の動揺した声を耳にして、美子と彼女を囲んで和やかに会話していた面々は、不思議そうにそちらの方に視線を向けた。


「え?」
「何かしら?」
 すると人垣をかき分けて、良治が慌てた様子で美子に駆け寄って来る。
「美子さん、悪い! 秀明が潰れた!!」
「はぁ!?」
 慌てて立ち上がって人垣に向かって走り出した美子に、周りの女性達も続く。そして人垣を掻き分ける様にして進んだ彼女達は、床に仰向けになって転がっている秀明を見下ろして、呆れ果てた声を出した。


「うわ……、完璧に酔い潰れたわね」
「あんた達、どれだけ飲ませたの!?」
「限度を考えなさい!」
 しかし美子は文句は言わずに床に膝を付き、秀明の顔を覗き込みながら声をかけてみた。


「ちょっと、秀明さん! 大丈夫!?」
「うん? 美子…………、踏みたいか?」
「…………」
 秀明が薄目を開けて脈絡の無い事を口走ると、周囲の者達は一斉に微妙な表情になって黙り込んだ。しかし美子は瞬時に怒りを露わにして秀明の喉元を掴み、ガクガクと激しく揺すりながら叱りつける。


「何を馬鹿な事言ってるの! とっとと起きなさい!! さもないと離婚よっ!!」
「美子さん、落ち着いて!」
「だけど、これは駄目だな。絶対自力で歩けないぞ」
「どうする? ここはあと三十分で閉めないといけないし。かと言って美子さん達が押さえてあるホテルまで行くのは、どう考えても無理だよな?」
 周りから宥められながら、頭を抱える事態になった事を認識した美子は、目の前で如何にも気持ち良さそうに熟睡し始めた秀明に向かって、心の中で悪態を吐いた。


(気持ち良く飲んでいるならと思って、目を離していたらこんな事に。幾ら楽しいからって、羽目を外し過ぎでしょうが!)
 すると先程まで一緒に喋っていた女性の一人である春日博美が、唐突に申し出てきた。


「美子さん。江原君共々、私の家に泊まりません? この公民館の隣ですし」
「えぇ!? そんなご迷惑は」
「隆弘! 江原君潰れてるし、家に泊めても良いわよね?」
 慌てて固辞しようとした美子だったが、彼女が声を上げて会場の一角に向けて呼びかけると、どうやら夫も同級生だったらしく一人の男性が歩み寄って、苦笑いで秀明を見下ろす。


「何だ、寝ちまったのか? 確かに凄いペースで飲んでるとは思ったが」
「あの、さすがにご迷惑じゃ」
「大丈夫! 今日は二人とも飲むのが分かってたから、子供は明日まで実家に預けてるし。じゃあ先に戻って、布団の準備をしておくわ!」
「おう、任せた」
 美子が何か言う前に、そのまま博美は駆け出してホールを出て行き、男達は秀明の移動方法を真顔で検討し始めた。


「どうやってこいつを運ぶ?」
「台車とか」
「それよりは、担架が良いがな」
「あ、災害訓練で使ってたよな? ここにも常備してある筈だが」
「思い出した。取って来るから、手伝ってくれ」
(何か、どんどん大事に……。どうして和やかに飲むだけで終わらないのよ!?)
 そしてあれよあれよと言う間に、秀明は公民館に隣接した二階建ての家に運び込まれ、一階のリビングに敷かれた布団に横たえられた。そして秀明を運び込んだ男性陣が引き上げると、博美が申し訳無さそうに美子に言ってくる。


「余分な布団が無いから、江原君は布団で、美子さんはソファーに寝て貰う事になるんだけど……。階段を運ぶのが怖いから、下で休んで貰う事になるし、狭くてごめんなさい」
「博美さん、とんでもないです! こちらこそ、ご迷惑おかけします」
 そして恐縮しきりで頭を下げた美子を連れて、博美は隣接したダイニングキッチンへと移動した。そして三人分お茶を淹れ、夫の隆弘と共に食卓で飲み始めると、彼がクスッと笑いながら呟く。


「しかし秀明の奴、強そうに見えたんだがな」
「酒豪の父と互角以上に渡り合ってますし、人並み以上に強いと思いますが……」
 苦々しい表情で応じた美子を見て、博美が宥める様に言い出す。
「久しぶりに悪友どもに囲まれて、余程嬉しかったのね。成人式の時も来れなかったし」
「そうだな」
 そこで物言いたげな美子の表情に気付いたのか、二人は説明を始めた。


「秀明は親父さんの意向で、同日に設定されてた地元の成人式への参加を強制させられたそうです。それで成人式の後のクラス会では、あいつのビデオレターが披露されました」
「『東成大現役合格の息子を自慢したいだけだから、すっぽかしてこっちに出る』って江原君は主張したそうだけど、勝俣君が『一応学費と生活費を出してる保護者だ。虚栄心を満足させる為の駒になるのは不本意だろうが、在学中は揉めるな』と説得したって聞きました。それで暫く勝俣君が、あちこちから文句を言われてましたね」
 それを聞いた美子は、納得して頷いた。


「秀明さんの心情は理解できるけど、勝俣さんの主張は尤だわ。でも……、よくあの人が他人の言う事に従ったわね。『余計なお世話だ』と一蹴しそうなのに」
 少し感心しながら、独り言の様に美子が呟くと、博美と隆弘が意味ありげに顔を見合わせる。


「秀明は靖史に、借りがありまして」
「借りと言うか、恩?」
「どういう事ですか?」
 怪訝な顔で尋ねた美子に、二人は苦笑いしてから語り出した。


「勝俣家は地主の家系で、昔から金貸しと土地の売買で羽振りが良いけど、親父が横柄で評判が悪くて。陰で散々悪口言われてる奴なんです」
「そんな人の、年齢相当より小柄で大人しい子供って、まともにイジメの標的になるんですよね」
 それを聞いた美子は少し考え込み、思い付いた事を口にしてみた。


「会場であの人、勝俣さんが『昔は俺の後に付いて云々』と言ってましたから、面白半分に苛めていた人を撃退して、勝俣さんに懐かれちゃったとかですか?」
「美子さん、凄い! これだけで分かっちゃうなんて!」
「俺達が小1の時、靖史が6年生三人に難癖付けられて『交番に忍び込んで何か盗んで来ないとボコボコにするぞ』って脅されて交番の裏で泣いてた所に、偶々秀明が通りかかって」
「六年生三人を、逆に殴り倒したとか言いませんよね?」
 嫌な予感を覚えながら美子が確認を入れると、隆弘は真顔で返した。


「いえ、どうやってか鍵がかかってた交番に忍び込んで、備品を盗んだんです」
「何やってるのよ!?」
 呆れて叫びつつ本気で頭を抱えた美子を、彼は気の毒そうに眺めながら話を続けた。


「それから靖史を引き連れて、空き地で待っていた六年生の所に行って『これで文句無いだろ』と手錠を見せて油断させた所で相手にタックルして、一人の足首と他の奴の手首を手錠で繋いだ挙げ句、残りの一人は同様に盗ってきたロープでぐるぐる巻きにして、そのまま放置して靖史とトンズラしました」
「騒ぎになりましたよね……」
 あまりと言えばあまりの武勇伝に、美子が頭痛を覚えながら尋ねると、二人は苦笑いで話を続けた。


「そりゃあ、もう。警察からは厳重注意。学校からもがっつり怒られて。お母さんが気の毒でした」
「でも、あの六年生はいい気味よ。それまで弱い者イジメしてたのに、一年生にやられた事で周りから馬鹿にされて、すっかり大人しくなったもの」
「その後、靖史が『お父さんが江原君の家の事を色々悪く言ってるのに、どうして助けてくれたの?』と聞いたら、秀明が『親父は気に食わないが、お前は俺の友達だろ?』と不思議そうに言ったそうで。それまで同じクラスでも、殆ど喋った事の無い間柄だった筈なんですが」
「それ以降、勝俣君は常に江原君の後ろに付いて回って。一度『まるで金魚のフンね』とからかった事があるんですけど、『それだけ一緒に居るって事だよね!?』って喜ばれたのには唖然としました」
「そうでしたか」
 思わず当時の風景を想像した美子は、微笑ましくて笑ってしまった。すると隆弘が急に表情を変えて話し出す。


「そんな風に靖史は秀明べったりだったんで、秀明の母親が中三の時に急死して、あいつが夏休みの間に隣の市の児童養護施設に引き取られた時は、相当ショックだったみたいで……」
「学校でも暫く必要最低限の会話しかしなくて、周りは心配したんですが、秋になったら豹変したんです」
「豹変って、どんな風にですか?」
 後を引き取った博美の話に、興味をそそられた美子が思わず口を挟むと、二人は交互に当時の状況を話し出した。


「卒業アルバム用のクラスの集合写真を撮った後、『やっぱり秀明と一緒のが良いから、五月の体育祭の時の集合写真を使って欲しい』と担任に直談判したんです」
「担任は『それなら集合写真の隅に、秀明の写真を併せて載せよう』と提案したんですが、勝俣君が納得しなくて」
「ああ、あの撮影日に欠席した生徒の写真みたいにね? それで、結局どうなったの?」
 まさか本当に差し替えにはならないだろうと思いながら美子は確認を入れたが、その予想は見事に裏切られた。


「靖史は『俺達と一緒に学校生活を送ってた時の写真にしたいんです!』って頑強に主張して。それで担任が『クラス全員の了承が取れたら』と妥協案を出したら、猛然と全員から了承を取り付け始めました」
「大抵は二つ返事で了解したんですが、私の親とか『写真屋さんを呼んで撮影した物があるのに。他のクラスとのバランスも取れない』と渋る人もいて。私が正直に勝俣君に伝えたら、親に説明して説得する為に、私の家に日参して。そして承諾を取り付けては、次の家に回る事を繰り返しました」
「当然保護者間で問題になり、靖史が親父さんに叱られて大喧嘩。それでも頑として主張を曲げなくて『靖史は今まで口答えなんかした事無かったのに、あの不良のせいで!』って親父さんが怒鳴り散らしたとか」
「それで全家庭分の承諾を取り付けたら、靖史の奴『僕がお金を払うので、卒業アルバムを秀明に渡す分一冊余計に作って下さい』って更に言い出して」
「ちょっと待って。流石にそれは拙いんじゃない?」
 色々な面で問題がありそうだと感じながら美子が声を上げると、隆弘が重々しく頷いた。


「ええ。三年の担任全員と学年主任と校長を交えての協議になって。その結果『これまで転校した生徒に卒業アルバムを渡した前例は無いし、一個人が親に黙って費用を出すのは問題だ。だから私がポケットマネーを出して一冊余計に作るが、決して口外しない様に。何か問題が生じたら、私が責任を取る』と当時の校長が靖史や先生方に口止めした上で、印刷業者に一冊増刷を頼んだんです」
「会計監査があるから、印刷業者に事情を話してわざわざ一冊分だけの領収書を別に切って貰って、他の人には気付かれないように辻褄を合わせて。それを担任が江原君の所に持って行って、事情を説明して渡したんですって」
「それを恩義に感じたらしく、秀明は当時の校長と担任と靖史に、今でも毎年近況を書いた年賀状を送ってるらしいです。担任が結婚した時に派手な祝電が来たそうですし、校長が定年退職時には派手な祝いが届いたとか。詳細は知りませんが……」
「私もどんな物かは知らないのよね。小耳に挟んだだけで……」
(一体、何を送りつけたの……)
 夫婦揃って首を捻っているのを見て、美子は思わず溜め息を吐いた。しかしここで、ある矛盾に気が付く。


「でも口止めされたそれを、どうしてお二人が知ってるんですか? 勝俣さんに聞いたんですか?」
「成人式の後のクラス会で、気持ち良く酔った担任が暴露しちゃって」
「何を陰で良い仕事してんだよと、靖史が周りから小突かれてました」
「そうでしたか」
 思わず小さく笑った美子の前で、隆弘がしみじみとした口調で言い出す。


「だからかな……。あの発言」
「え?」
 美子は戸惑ったが、流石に夫婦である博美は分かったらしく、補足説明をする。


「江原君が勝俣君に『もう金も土地も持ってるから、名誉云々』と言った事。あんな計画をぶち上げたのも、一番は美子さんの為だったにしても勝俣君を引き込んで、郷土史に名前が載るような、大きな仕事をさせてあげたかった事もあるのかなって」
「絶対、やっちまうだろ? 靖史の奴『一緒にやろうぜ』って言われて最初は戸惑ってたけど、凄く嬉しそうだったしな」
 そんな事を笑顔で話している夫婦に、美子は茶化す様に笑いながら言ってみた。


「どちらかと言うと、私の方がダシっぽいですね」
「そんな事ありませんって!」
「そうそう! 江原君は美子さんが一番だから!!」
 そして慌てて二人が否定してきたのを見て、美子は堪えきれずに笑い出し、二人も釣られて笑って暫く笑い声がその場に響いた。


「じゃあ美子さん、お休みなさい。何かあったら二階に居ますから、遠慮無く声をかけて下さいね?」
「はい、ありがとうございます」
 それからお茶を飲み終えた三人は、それぞれ寝支度をする為に動き出し、博美にパジャマを借りた美子は、二階に上がって行く彼女を見送ってから、布団で爆睡している秀明の顔を覗き込んだ。


「全く……、新婚旅行初日の新妻をほったらかした挙げ句に爆睡って、どういう了見よ。反省しなさい」
 真面目くさって言い聞かせた美子だったが、当然秀明の反応は無く、しかしそれで気を悪くしたりはせずに話を続けた。


「だけど、弱い者イジメしていた連中を懲らしめた事は誉めてあげる。しかも上級生三人を相手にするなんてね。あなただったらそれ位、平気でやりそうだけど」
 そこで一旦話を区切った美子は、軽く上半身を屈めて、秀明の耳に囁く様にして話を続けた。


「そういう義侠心を持ってる秀明さんって、結構好きよ? 惚れ直したわ。……でも今日はこの状態だし、面と向かっては言ってあげないから。残念だったわね」
 そう言って身体を起こし、くすくすと小さく笑った美子の声で、秀明は身じろぎはしたものの、目を覚ます事は無かった。




「秀明さん。起きて。朝よ?」
「……っう、美子?」
「おはよう。さあ、起きて?」
 翌朝、優しく声をかけられて、重い瞼を何とか開けた秀明は、半覚醒状態で要求を繰り出した。


「美子からキスしてくれたら起きる」
「あら、そう」
 ふざけるなと怒鳴りつけられるかと思いきや、美子が余裕で微笑んだと思ったら素直に顔を近付け、軽く唇を合わせてきた為、秀明は軽く驚いた。


「これで良い?」
「……随分、自然にできる様になったな」
 どういう心境の変化だと秀明が考えていると、その顔を上から覗き込みながら、美子が悪戯っぽく笑いながら告げる。
「爆睡している誰かさんを相手に、ちょっと集中自主学習をしてみたの」
 それでどうやら知らない間に、自分が練習相手になっていた事が分かった秀明は、苦笑を漏らした。


「そうか。それなら」
「ところで、秀明さんは、ここがどこか分かってる? 分かっていたら凄いわ。『素敵! 惚れ直したわ!』って言ってあげても良いけど?」
 相変わらず微笑みながら美子が口にした内容を聞いて、秀明は漸く頭が回ってきた。さり気なく周囲を見渡して、笑いを収めて真顔になる。


「…………ここはどこだ?」
 彼にしては珍しく、間抜けな問いを口にすると、美子は益々面白そうに微笑みながら問いを重ねた。


「それで? 全く見覚えの無い場所で、休む羽目になった理由位は、見当が付くかしら?」
「何となく……、分かる気がするが……」
「正座」
「はい」
 端的な美子の指示に秀明は即座に起き上がり、敷き布団の上で正座して彼女と向き合った。すると、美子は更に笑顔をグレードアップさせて、にこやかに夫に尋ねる。


「私に何か言う事は?」
 それを受けて、秀明は即座に頭を下げ、布団に頭を付けて謝った。
「悪かった。今後は気を付ける」
「今回だけは許してあげる。でも、二度目は無いわよ?」
「それは勿論」
 そこでカシャッと言う僅かな音を耳にした秀明が、反射的に上半身を起こしながら顔を向けると、博美が携帯片手に自分達をニヤニヤと眺めているのが目に入った。


「川原? お前、何をやってる?」
 博美の旧姓を口にして訝しんだ秀明だったが、彼女は容赦のない事を口にした。
「江原君の土下座写真を撮ったのに決まってるじゃない。美子さんの尻に敷かれっぷりを、皆に教えてあげるのよ。はい、送信、っと!」
「おい!?」
 慌てて秀明はそれを止めようとしたが、博美はあっさりと今撮影したばかりの写真を添付して、同級生のアドレスに一斉送信した。


「拡散希望ってコメントも付けたから、今日中には学年全員に回るかな?」
「勘弁してくれ」
 博美がおかしそうに笑いながら説明すると、秀明は心底うんざりした表情で額を押さえた。それに博美がとどめを刺す。


「だって『一宿一飯のささやかなお詫びに、笑えるネタを提供します』って美子さんに言われちゃったんだもの」
「……美子?」
 思わず恨みがましい視線を向けた秀明だったが、対する美子はそれを物ともせず受け止めた。


「これで忘れようが無くなったでしょう? やっぱり『酒は飲んでも飲まれるな』が鉄則よね?」
「分かった。本当に気を付ける」
 一見穏やかに微笑んでいる美子に、秀明は再び平身低頭で詫びを入れた。それを博美と隆弘に目撃されて笑われたのに止まらず、それから三分後にかかってきた良治からの爆笑の電話を皮切りに、その日一日、からかいや呆れた口調の電話やメールがひっきりなしに携帯に着信し、秀明は本気で閉口する羽目になった。


 それから朝食をご馳走になり、春日夫婦に隣町の駅まで車で送って貰う事になった秀明達は、恐縮しきりで頭を下げた。そして駅で降ろして貰って、車で走り去る彼等を見送ってから、改札口を抜けてホームに立つ。そこで美子は、すっかり忘れてしまっていた事を思い出した。
「せっかくここまで来たのに、お墓参りをしなくて良かったの?」
 今言い出しても、隣町まで戻らないだろうとは思いつつ一応尋ねてみると、秀明は苦笑しながら言葉を返した。


「元々墓参りする予定は無かったからな。改めて、ゆっくり来るさ。それに今行ったら『何をやってるの!』と、化けて出て来て怒られそうだ」
「あら、私としては、化けて出て来て貰えるなら、是非ともご挨拶したかったんだけど? ちょっと残念だわ」
「そんな事を言うのはお前位だ」
 美子の台詞を聞いた秀明が苦笑を深めていると、美子がちょっと窘める口調で言い出す。


「そう言えば、『子供の頃は素直な孝行息子だった』なんて言っておきながら、やっぱり不良息子だったんじゃない。聞いたわよ? 小1の時に交番に忍び込んで備品を盗んだ上、上級生を懲らしめた話。お義母さんは苦労したわよね」
 本気で同情しながら言い出すと、秀明は未だに苦笑いしながら堂々と反論した。


「ああ……、あれか。確かに母は方々に頭を下げたが、後でこっそり誉めて貰ったぞ? 入学前に『女の子と自分より小さい子だけには、手を上げちゃ駄目だし優しくしなさい』と言い聞かされたのを守ったからな」
「結構豪胆なお母さんだったのね。でも確かに『友達だから』と言うだけで庇う様な、義侠心溢れる事をやってのけたんだから、誉めたくなる気持ちも分かるけど」
「…………」
 思わず小さく肩を竦めた美子が、改めて夫の顔を見上げると、何故か秀明は笑みを消して微妙な表情で黙り込んでいた。それを認めた美子は、不思議に思いながら問いかける。


「秀明さん?」
「……どうした?」
 その瞬間、いつもの胡散臭い笑みになった秀明を、美子は半眼で見やった。


「何か、隠してる事があるわよね?」
「何を言っている」
「早めに白状しておいた方が良いわよ?」
 そう言って無言で促すと、根負けした様に秀明が若干彼女から視線を逸らしながら、ぼそぼそと言い出す。


「大した事じゃ無いんだが……」
「ええ。何?」
 微笑みながら話の先を促した美子に、秀明は観念した様子で話し出した。


「実は当時、靖史の事を友達なんて、これっぽっちも思って無かったんだ。あいつの親父は俺達親子を目の敵にしてたし、お袋は陰険で父母会で俺の母親をイビってたし、あいつ自身オドオドしてる根暗なガキだったし」
 そんな意外過ぎる話を聞いて、美子は本気で驚いた。


「え? それじゃあ、どうしてさっきの様な事をやらかしたの?」
「単に、前々からその六年の奴らが気に入らなかっただけだ。だけど母親から例の事を言われた時、『年上の子には喧嘩をふっかけて構わないって唆している様にも聞こえるし、他の人には言っちゃ駄目よ?』って口止めされてたから、靖史に理由を聞かれた時、咄嗟に『友達だから』って口走って」
 そこで口を噤んだ秀明を、美子は呆れた様に見やった。


「……その誤解を、今まで解かないままズルズルと?」
 それに溜め息を吐いて頷いてから、秀明は話を続けた。


「あいつそれ以降、誘ってもいないのに毎日俺達の後を追いかけてきて、『遊ぼう!』って声をかけてきやがって。一緒に遊んでいた全員、誰にも行先を言ってなかったのに、どうやってか秘密基地に奴が押し掛けて来た時には、本気で戦慄したぞ」
 秀明が真顔でそんな事を言った為、美子は(勝俣さんって、この人とは違う意味で大物かも)と感心し、同時に笑い出したいのを堪えながら話を続けた。


「でっ、でも……、それで仲間外れにしたりはしなかったのよね?」
 確信しながらの美子の問いに、秀明は素直に頷いた。


「それはまあ……、仲良くしたがってる奴を、わざわざ邪険にする必要は無いしな。だけどあいつ変に根性あるくせに、本当に鈍臭くて。柿を盗ろうとして塀をよじ登っていたら、足を踏み外して地面に落ちるし、野良犬に空き缶を紐で結び付けて追い回していたら、堀を飛び越え損ねて水中に落ちるし、寺の本堂に忍び込んで本尊に落書きしてたら、祭壇で足を踏み外して燭台に突っ込んで火傷するし」
「本当にあなたって、どれだけ悪ガキだったのよ!!」
 呆れ果てて本気で叱り付けた美子だったが、秀明は困った様に弁解してきた。


「だがそんな調子で靖史が怪我ばかりするから、『取り敢えず靖史には無理そうな事はしない様にしようぜ』と良治達に言い聞かせて、それからは比較的大人しく遊ぶ様になったから」
 そんな事を大真面目に言ってきた夫を見上げた美子は、とうとう我慢できずに笑い出してしまった。


「それって要は、勝俣さんがあなた達悪ガキ集団の無茶振りを抑える、唯一のストッパーだったって事よね? それと、勝俣さんを邪険にしないで、それからずっと友達付き合いしてたって事でしょうし」
「ああ。そういう事だ。だから最初の友達云々のやり取りの所は、誰にも言わないでくれ」
「勿論、言わなくても良い事をわざわざ教える様な、無粋な真似はしないわよ」
 笑いながら美子が頷くと、秀明はどこか安心した様に頷いた。そんな彼の左腕に、自分の右腕を絡ませる様に抱き付きながら、美子がしみじみと言い出す。


「だけど『藤宮家の婿』『私の夫』『旭日食品の課長』『桜査警公社の社長』、それに加えて『町再興の黒幕』までやる気満々なんて、タコやイカじゃあるまいし、何足の草鞋を履く気なの? 普通の人だったら、幾ら身体があっても足りないわよ?」
 その呆れ気味の台詞に、秀明はいつも通りの不敵な笑みを浮かべながら美子に言い返した。


「生憎と、俺は普通じゃないしな。それにイカでも足が足りないな。百足にでもなるか」
「あら、何か足りなかった?」
 美子が不思議そうに、少し身体を離して秀明の顔を見上げると、秀明はニヤリと笑いながら告げた。


「これから『お前の子供の父親』にもなる予定なんだが?」
 そんな事を言われた美子は、無言のまま何回か瞬きしてから、再度秀明の左腕に抱き付き、明るく笑い飛ばした。


「そうだったわね! 子供が産まれて物心付いたら、お父さんは弱いものイジメする人間は大嫌いな、正義感が強くて格好良い人なのよって言ってあげるから安心してね?」
「からかうな」
「本気で言ってるのに。友達思いで面倒見の良い秀明さんって、とっても素敵よ? 惚れ直したわ」
「……絶対、本気で言って無いだろう?」
「酷いわね。本心から言ってるわよ」
 若干拗ねた感じで文句を口にする秀明を、美子が苦笑いしながら宥めているうちに、待っていた電車がホームに到着した。それに乗り込んだ後は二人揃って気持ちを切り替え、若干予定変更した新婚旅行を再開するべく、それについての話を始めたのだった。



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