半世紀の契約

篠原皐月

第41話 禁じ手

 その日一日の激務を滞りなく済ませて帰宅した昌典は、多少の疲労感はあってもそれ程機嫌は悪くなかった。しかし美子に出迎えられて遅い夕食を食べる為に食堂に入った途端、最近三日にあげず訪ねて来ては夕飯を食べて行く男が彼を出迎えた為、忽ち機嫌を悪くした。


「お邪魔しています、社長」
 箸の動きを止めて白々しい笑顔を向けて来た秀明に、昌典は僅かに顔を引き攣らせながら応じる。


「……やあ、江原君。今日も元気そうで何よりだ」
「はい、すこぶる調子は良いです。最近美子が美味しい料理を、連日の様に作って食べさせてくれるもので」
「君が押しかけて来ているだけではないのかな?」
 自分の席に座りながら軽く皮肉をぶつけてみた昌典だったが、秀明が神妙な顔付きで首を振って見せた。


「社長……、私は『恥』と『遠慮』という言葉の意味を、十分に知っている人間のつもりです」
「『限度』と『節度』という言葉の意味を知っているかどうかは、甚だ疑わしいがな」
 徐々に険悪な空気を醸し出し始めた昌典の機嫌を直そうと、美子は彼の目の前に慌てて皿を並べながら声をかけた。


「お父さん、今日は鰆の西京漬け焼きと、牛肉の柳川鍋風にしたのよ。好きでしょう?」
「それは嬉しいな」
 献立の内容を聞いて、思わず顔を綻ばせた昌典だったが、ここで秀明が笑顔で言わなくても良い事を口にする。


「私もどちらも好物です。社長と好みが同じで、嬉しいですね」
「……そうか」
 忽ち仏頂面に戻って不機嫌そうに箸を手にした父親を見て、美子は目線で秀明を叱りつけた。


(もう! 余計な事は言わないで! 絶対お父さんをからかって、楽しんでるわよね?)
(悪い。社内では泰然としているこの人が、家ではあからさまに不機嫌だから、ついからかいたくなるんだ)
 美子と同様に目線で弁解した秀明は、笑いを堪えながらもそれ以上余計な事は言わず綺麗に食器を空にし、自分用の黒兎の箸置きに箸を戻した。


「ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした」
 秀明の食べ終わるタイミングを見計らって予め準備していたお茶を、美子は彼が挨拶するのとほぼ同時に彼の前に置き、手早く空の食器を纏め始める。すると湯飲み茶碗を取り上げた秀明はお茶を一口飲んでから、徐に言い出した。


「ところで、今夜は社長と美子に話があるのですが」
「構わん。言ってみろ」
 それを聞いた昌典は食べながらも鷹揚に頷き、美子も何事かと思いながら、後片付けは後回しにして秀明の隣の椅子に座った。そして秀明は二人に均等に顔を向けてから、静かに話し始める。


「私達の挙式と披露宴の開催の目処が付きましたので、そのご報告になります」
 その口上に、昌典が興味深そうに問い返す。
「ほう? 因みに場所は?」
「披露宴には、大栄センチュリーホテルの鳳凰の間を押さえました。新婦側招待客を百五十人、新郎側招待客を五十人と見積もっています。挙式は、ホテル内に併設されているチャペルで執り行うつもりです」
 それを聞いた昌典は、納得した様に頷いた。


「大栄センチュリーホテル……。確かにあそこなら、規模も格式も充分だな」
「だけどそんな一流ホテルの二百人は入れる宴会場なんて、一年先まで予約が一杯じゃないの? 日程は?」
 美子の懸念は尤もであり、昌典も秀明に訝しげな視線を向けたが、秀明は冷静に決定事項を美子に告げた。


「五月の連休明けになる、第二土曜日だ。大安だし午後の時間帯だし、文句の付けようは無いと思うが」
「は? 五月?」
「え? 今、三月下旬に入ったところなのよ? そうなると来年の話?」
 美子達は揃って当惑したが、秀明があっさりと聞き捨てならない事を口にする。


「いや、今年の五月だ」
「今年!?」
「もう当日まで二ヶ月を切っているから、今夜中にお前が呼びたい招待客のリストを作って、明日の午前中にホテルのブライダル担当者にファックスしてくれ。連絡先はここだ。俺の方は仕事中にリストを作って、職場から送信しておいたから」
 そう言いながら背広のポケットから取り出した名刺を、秀明が美子の方にテーブル上で滑らせた途端、食堂内に昌典の怒声が轟き、美子の悲鳴が上がった。


「仕事中に何をやっとるんだ!? この馬鹿者が!!」
「そんな事、いきなり言わないで! 第一、いつ決まったの!?」
「俺も今日の日中、担当者から連絡がきて即決した」
 二人の動揺っぷりとは裏腹に、秀明が変わらず冷静に話を続け、昌典が疑わしげに問いを重ねる。


「どうして都合良く、そんなに直近の日程を組めたんだ?」
「『毒を喰らわば皿まで』と申しますので、妖怪に助力をお願いしました」
 そこでさらっと秀明が口にした内容を聞いた昌典と美子の顔から、一瞬にして血の気が引いた。


「……おい」
「まさか加積さんに?」
 途端に小声になって確認を入れた二人に向かって、秀明が神妙に説明を続ける。


「『未来の舅に、ささやかな嫌がらせめいた条件を出された』と涙ながらに訴えましたら、『俺達を新郎側の招待客として参加させてくれるなら、文句の付けようが無い会場を三ヶ月以内の日程で押さえてやろう』と請け負って下さいました」
「あの加積夫妻を、披露宴に招待するだと?」
「『涙ながらに』って、絶対嘘よね?」
 昌典が頭を抱え、美子はあまりの白々しさに呆れ顔になる。そんな二人に対して、秀明は変わらず淡々と話を続けた。


「突然ホテルの担当者から『キャンセルされた日が有りますが』と連絡を貰った時には驚きました。加積氏経由で、私が会場を探しているのを耳にしたそうで」
「ちょっと待て。まさか加積氏が、無理やり他の婚礼客にキャンセルさせて、そこにお前の話をねじ込んだわけではないだろうな? そういう話はどこからどう漏れるか分からんし、下手をすれば藤宮家の名前に傷が付きかねんぞ?」
 慌てて懸念を口にした昌典だったが、秀明は言下にそれを否定した。


「担当者に尋ねましたら、最初は笑ってごまかしていたんですが、口外しないという条件で事情を教えてくれました」
「どういう事情だ?」
「何でもその日、披露宴をする筈だったカップルの双方が浮気をしていて、その証拠がつい最近、それぞれの相手の自宅と職場と実家に送付されて、婚約解消に至ったとか。当然式場はキャンセル。大安吉日に穴を空けたくない担当者が頭を抱えていた所に、大株主の加積氏から話があったそうです」
 どう考えても融通が利くホテルへのごり押しと、桜査警公社の調査部門を動かしての暴挙だとしか思えなかった二人は、揃って肩を落とした。


「そのホテル、加積氏の息がかかっていたか……」
「この短期間での調査能力、本当に凄いわね……」
「そういうわけで、宜しいでしょうか?」
 わざとらしく尋ねてきた秀明に、昌典が色々諦めた表情で素っ気なく応じる。


「反対できるわけ無いだろう。勝手にしろ」
「はい。勝手にさせて貰います」
 そして憮然として食事を再開した昌典から美子に視線を移した秀明は、あっさりと週末の予定を告げた。


「そういう訳だから、美子。明日中にリストを送信して、今度の土曜日の十時に、ホテルの担当者と顔合わせを兼ねた打ち合わせをするから」
「ちょっと! そんな事、食べてる時は一言も言わなかったじゃない!」
「一応、社長の了承を得てからと思ったからな」
 その台詞に、昌典はピクッと反応して秀明に視線を向けたが、口に出しては何も言わなかった。


(全くもう! 律儀と言えば律儀なんでしょうけど)
 一応、昌典を立ててくれるつもりなのは分かったものの、それ位気を遣ってくれるなら、からかうのは止めて欲しいと美子が真剣に考えていると、秀明が話題を変えてきた。 


「それから、近々桜査警公社にも行くからな」
「どうして?」
「あの夫婦から、あの会社に関する諸々の権利を、正式に譲渡される為の手続きにだ。それに今回の事で骨を折って貰ったし、やはり直に顔を合わせて礼を述べようかと思う」
 正直に言えば、勝手に借りを作ったのはあなたでしょうと言いたかったものの、自分の結婚披露宴の事でもあり、美子は傍目には素直に頷いた。


「分かったわ」
「ところで江原君」
「はい、なんでしょうか?」
 いつの間にか食事を中断し、手に提げて帰宅した書類鞄の中から大判の封筒を取り出していた昌典は、顔を向けた秀明に向かって、それを差し出しながら要請した。


「急がないから中の書類に記載した上で、必要書類を添えて私に返却してくれ」
「今ここで、中を拝見しても宜しいですか?」
「構わない」
「失礼します」
 不思議そうな顔になりつつも、取り敢えず受け取って中身を確認した秀明は、まじまじとそれを見下ろしてから、判断に困る様な顔つきで昌典に視線を戻した。


「……社長?」
 いつもの彼らしくなく、若干戸惑っている秀明の表情を見て、昌典は幾らか溜飲を下げながら不敵に笑った。


「婿に入るなら、婚姻届と養子縁組届を出す必要がある。二つは同時でも構わないが、私の立場上どうしても披露宴には旭日食品や旭日ホールディングス関係企業の重役を呼ぶ必要があるからな。招待状を送った段階で色々問い詰められると思うから、それだけでもさっさと手続きして事前に社内外に公表しておけば、幾らかは説明が楽だし手間が省ける」
 それは言外に、社内外に秀明を藤宮家の人間、かつ自分の後継者候補として公表するという事を意味しており、そこまでは考えていなかった美子は軽く目を見張り、秀明は神妙に頭を下げた。


「分かりました。幸い本籍は都内に移してありますので、明日にでも戸籍謄本を取ります」
「仕事はサボるなよ?」
「勿論、勤務時間内に、外出の用事をでっち上げます」
「あのな……」
「真面目に仕事をしなさい!」
 平然と勤務時間内に職場を抜け出す算段を立てている秀明に、昌典と美子は本気で頭痛を覚える羽目になった。それから幾つかのやり取りをした秀明が昌典に挨拶をして席を立ち、美子は彼を見送る為、並んで廊下を歩き出した。


「そう言えば……。秀明さんの方は、招待客のリストをもう出したのよね?」
「ああ。それがどうかしたか?」
「加積さん達の他に、どんな人達を呼ぶの?」
「職場で無視できない関係の人間と、大学時代や経産省時代からの友人知人で五十人は埋まった。出席できないと断りを入れてくる人間もいるだろうから、人数は多目に見積もっているが」
 主に好奇心から尋ねた美子だったが、新郎側と新婦側の招待客数のバランスの悪さを思い出し、もう少し呼びたい人間はいないのかと、少し心配になりながら尋ねてみた。


「昔からのお友達とかは呼ばないの? ほら、この前地元の駅で会った勝俣さんとか」
 思いついた名前を挙げてみると、秀明は彼には珍しく真剣に考え込む表情になって、困った様に尋ね返してくる。


「靖史? そうだな……、呼びたいのは山々だが、誰か一人だけ呼んで、他を呼ばないって言うのはな。不公平になるだろう?」
「勝俣さんの他に、何人位呼びたいの?」
「そうだな……、ざっと八十人位?」
「友達……、多いのね」
 美子が少し唖然とした表情になると、それを見た秀明は苦笑いしながら首を振った。


「でも皆に、わざわざこちらに出て来て貰うのも悪いしな。あそこを出て以来、音信不通になっている人間が殆どだし」
(でも本音を言えば、音信不通になっているにも関わらず招待したいし、気を遣う人間がたくさんいるわけね。この人が、あそこに拘る理由が分かった気がするわ)
 秀明の様子から、何となく相手の心情を察知した美子は、玄関で靴を履き出した秀明に向かって、ちょっとした提案をしてみた。


「ねえ。それなら披露宴に招待するのは諦めるにしても、あそこで別に披露宴擬きをしない?」
「披露宴擬き?」
 予想外の事を言われて瞬きした秀明の横で、門まで見送る為に美子も靴を履きながら、事もなげに言い出した。


「地元に残っている人同士なら、連絡が付いたり消息が掴めるんじゃない? 会いたい人のリストを作って、勝俣さんみたいに地元に居て顔が広そうな人に、片っ端から当たって貰えば何とかなるわよ。成人式の時とか、クラス会の類をやっていないの?」
「やっている。靖史から話を聞いた。色々あって参加できなかったが」
「それならその時のリストを元に、誰か面倒見の良さそうな人に幹事を頼んで、会費二千円位の飲み会を企画して貰うのよ。ほら、会費制の披露宴ってあるじゃない」
「それはそうだが……」
「気軽に参加して貰う様に、適当なお店を借り切って飲み放題食べ放題にしましょう。足が出た分は私が出すわ。できるだけ多くの、秀明さんのお友達に会いたいし」
「ちょっと待て、美子」
 思いついたまま口に出しつつ、歩き出して玄関を引き開けようとした美子の手首を、秀明が掴んで制止した。その為、美子は困った様に彼を見上げる。


「駄目? そういう面倒な事を、仕切ってくれそうな人はいないかしら?」
「いや、幹事の心当たりはある。俺が不満なのは、お前が金を負担するところだ。俺の昔のダチを呼ぶんだから、俺が金を出すのが筋だろうが?」
 真顔で主張してきた秀明に、美子は溜め息を吐いて応じた。


「つまらない事に拘るのね」
「つまらなくは無い。俺が出す」
「折半」
「……分かった。折半だ」
 一瞬面白く無さそうな顔付きになったものの、一歩も引かない気迫の美子の顔付きを見て、秀明はすぐに苦笑いの表情になり、美子の手首から手を離した。それを受けて美子も笑いながら玄関を開け、並んで門に向かって歩き出す。


「それと職場関係と友人関係の他は良いの?」
「他と言うと?」
「恩師関係とか親戚関係とか」
「何だと?」
 思いつくまま無意識に口に出した瞬間、至近距離からゾクッとする冷気を感じた美子は、自分の失言を悟った。


(しまった! うっかりしてたわ。この人、父方母方双方と絶縁してるのに!)
 正面から秀明の顔を見るのは怖かったものの、美子は勇気を振り絞って彼に向き直り、謝罪しようと口を開いた。


「あ、あの、ごめんなさい」
「何か余計な事を、お前の耳に入れた馬鹿でも居たか?」
「え? 余計な事って?」
 激怒しているかと思いきや、険しい表情ながらも怒っているのとは微妙に異なる空気に加え、意味不明な事を言われて美子は戸惑ってしまった。そんな彼女を見て、すぐにいつもの顔付きになった秀明が、踵を返して歩き出す。


「……何でもない。今度の土曜日、忘れるなよ? 新しい車を買ったから、ここに迎えに来る」
「え、ええ。待ってるから」
 そのまま振り返らずに門から出て行った秀明に、美子は「気を付けてね」と最後に声をかけたものの、秀明は振り返らないまま軽く手を振っただけで歩き去って行った。その姿が角を曲がって見えなくなってから、美子は門の中に入って鍵をかけたが、先程の彼の様子を思い返して溜め息を吐く。


「失敗したかも……。でも『余計な事』とか『馬鹿』って、何の事かしら?」
 先程の秀明の態度に引っ掛かりを覚えつつ、美子は再び玄関に入り、忘れないうちにきちんと予定を控えておこうと、気持ちを切り替えて自室へと向かった。





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