半世紀の契約

篠原皐月

第39話 秀明の郷愁

 東京から新幹線で名古屋まで移動し、在来線に乗り換えて暫し。それから私鉄に乗り換えて数駅移動して、とある駅のホームに降り立った美子は、土地勘が皆無の地域だった為、駅名を見ても正直位置関係が分からなかった。


「ここなの?」
 改札を通り抜けて広くない駅舎を抜けて駅前に出ると、ロータリーの隅の方に誰かを送って来たらしい白のクラウンが一台停車しているだけで、タクシー乗り場には一台も停車していない、閑散とした光景が広がっていた。それを見ながら問いかけた美子に、秀明が首を振って否定してから携帯電話を取り出す。


「いや、町に駅が無いから、隣町のここからバスかタクシーになるんだ。いつもは何台か居るんだが……、ちょっと駅舎の中で待っててくれ。すぐに呼ぶから」
「ねえ」
「何だ?」
「気を遣われすぎて、気味が悪いんだけど。朝から全然、あなたらしくないわよ?」
 その指摘に、秀明は指の動きを止めて、美子を見下ろした。


「……言っている意味が分からないが?」
「駅で待ち合わせていた筈なのに家まで迎えに来るし、『飲み物は?』とか『寒くないか?』とか、変に細かい事に気を遣うのがらしくないって言ってるの。まさかとは思うけど、緊張しているの?」
 真正面から睨み付ける様に言われ、秀明は本当に彼らしくなく口ごもった。


「緊張……、しているかもな」
「どうして?」
「女をここに連れて来たのは、初めてだし」
「そうなの?」
「ああ……。それが」
 そこで尚も何かを言いかけた彼の台詞を、第三者の声が打ち消した。


「秀明!?」
「え?」
「あら?」
 美子が驚いて声がした方を振り返ると、先程クラウンの前で立ち話をしていた自分達と同年代に見える男性が、驚いた表情で近寄って来るのが見えた。そして秀明の前にやって来た彼が、嬉しそうな顔になって話しかけてくる。


「やっぱりお前だったか。どうした、こんな時期に。命日でも盆や彼岸でも無いのに、顔を出すなんて珍しいな」
「ちょっと野暮用があって。元気そうだな、靖史。景気はどうだ?」
 珍しく隔意の無い笑顔で対応している秀明に、美子は(珍しい物を見たわ)と密かに思ったが、相手にとってそれは普通だったらしく、平然と笑顔で言葉を返してきた。


「相変わらず、パッとしないな。今日は内覧に来た客をここまで送って来たんだが、まさか秀明に会えるとは思わなかった。……ところで、こちらの女性は?」
「ああ、俺の嫁になる予定の女だが」
「え!?」
 サラッと秀明が紹介すると、何やら相手が驚愕しているのは分かったが、恐らく秀明の昔からの知り合いだろうと見当を付けた美子は、笑顔で挨拶した。


「初めまして。藤宮美子と申します」
「普通の人だ……」
「はい?」
 何故か呆然と呟かれてしまった為、美子は首を傾げたが、次の瞬間自分が何を口走ったのかを自覚した彼が、狼狽しながら必死に弁解してきた。


「あ、あのっ! すみません! 本当に変な事を口走って、申し訳ありません!! その! 秀明は昔から色々桁外れな奴だったので、もし結婚するなら同じ様に色々突き抜けてる女性じゃないかと、これまで勝手に思い込んでいまして! 藤宮さんの普通っぷりに、度肝を抜かれたと言いますか、何と言いますか!」
「あの……、仰りたい事は良く分かりましたから、落ち着いて下さい」
 眼鏡を持ち上げ、額に浮かんだ汗をハンカチで拭きだした相手が気の毒になった美子は彼を宥めようとしたが、横から秀明がフォローにもならない事を言ってくる。


「そうだぞ、靖史。第一、女を見た目で判断したら駄目だ。こいつはこう見えて、色々突き抜けているからな」
「……秀明さん」
 思わずジト目で秀明を見やると、目の前の彼は何とかしようと話題を変えてきた。


「ええと……、ところで秀明。これから寺に行くんじゃないのか? タクシーも居ないし、送って行くから」
「いや、それは」
「どうせ町に戻るところだし、途中で花屋にも寄るから」
 一応断ろうとした秀明だったが、重ねて言われて彼の好意に甘える事にした。


「じゃあ、そうさせて貰うか」
「ああ、遠慮するな。藤宮さん、あそこの車です。どうぞ」
「ありがとうございます。あの……」
 そして三人で白のクラウンに向かって歩き出しながら、美子が物言いたげな視線を向けると、その意味が分かった秀明は、うっかり失念していた友人の紹介をした。


「ああ、こいつは俺の小中時代の同級生で、勝俣靖史。今は不動産業を営んでいる、社長様だ」
 それを聞いた勝俣は、苦笑しながら秀明の腕を軽く叩く。


「先祖代々の土地を切り売りしているだけの、しがない三代目だ。大仰に言うなよ」
「お世話になります、勝俣さん」
「いえ、本当に戻るついでですから」
 そして笑顔で応じた勝俣が、小声で「いやぁ、普通の女性だよなぁ。皆に知らせたら仰天するぞ」と呟いていたのを、美子は聞かなかったふりをした。


 それから後部座席に秀明と並んで乗せてもらい、駅から離れた車の中から窓の外を眺めていた美子は、十分程走った頃、秀明達の話の内容から目指す町内に入った事が分かった。
(う~ん、なんとなくここら辺が町の中心部だと思うし、取り敢えず一通り商店や個人経営の医院は揃っている感じだけど……)
 都心と比較するのは間違っているとは思いながらも、お世辞にも活気溢れるとは言い難い中心部の光景に、美子は内心で密かに困惑した。そして男達の会話も、必然的に美子が目にしている光景に関する事になる。


「町は相変わらずみたいだな」
「今更、画期的な再生プランとか出す空気でも無いし、仕方がないだろうな」
「町長って、今何期目だ? 俺達が中学の頃からやってる気がするが」
「確か五期目だったか? 最近は対立候補も出なくて、議会も停滞してる感じだな」
 そんな会話を交わしてから、勝俣が運転席から突然声をかけてきた。


「藤宮さん。予想以上に寂れている感じで、驚きましたか?」
 その予想外の問いかけに、美子は半ば動揺しながら言葉を返した。


「いえっ! 想像も何も、これまでこの人から、この町の話を全然聞いた事が無かったですし。取り敢えず必要最低限の店舗や行政組織や医療機関がこじんまりと纏まっているので、それなりに宜しいんじゃ無いでしょうか?」
 何とか角が立たない様にと、必死に捻り出した言葉を聞いて、秀明は笑いを堪える表情になり、そんな彼を美子は無言で睨んだ。対する勝俣は笑いはしなかったものの、何やらしみじみとした口調で感想を述べる。


「なるほど……、『こじんまりと』か。上手い事を仰いますね。あ、勿論、これは皮肉じゃ無いですよ?」
「……どうも」
「俺達が子供の頃は、もう少し賑やかだったんですが。緩やかに寂れている感じですね」
「そうですか……」
 それ以上何も言えずに黙り込んでしまった美子だったが、タイミング良く一軒の花屋の前で、勝俣が車を停めた。


「秀明、行って来い」
「ああ。すまん、ちょっと待っていてくれ」
 そして秀明が店内に入り、何やら店員と会話しているのを眺めていると、勝俣が運転席から軽く身体を捻って、美子に尋ねてきた。


「これからどこに行くのかは、秀明から聞いていますか?」
 その問いに、美子は溜め息を吐いてから答える。
「何だか、朝かららしくなく緊張しているみたいなので、言っていない事に気が付いていないかもしれませんが、江原家のお墓ですよね?」
 その問いかけに、勝俣が頷いて話を続ける。


「正確に言えば、あいつが建てた母親の墓ですが。あいつの母方の近親者はいないし、母親の従兄弟辺りはいるみたいですが、関係を絶たれていますので」
「そんな事だろうとは思っていました。別にどうという事はありません」
 平然と美子が応じると、勝俣は安堵した様に顔を綻ばせた。


「それなら良かった。部外者の俺が口を挟む事じゃありませんでしたね。秀明の事を、宜しくお願いします」
「いえ、気を遣って頂いて、ありがとうございます」
 そんなやり取りをしていると、菊の花束を手にした秀明が戻って来た。


「待たせたな」
「じゃあ行くか」
 そして何事も無かった様に車は再度走り出し、とある寺の山門前に到着した。そして降り立った秀明が、座ったままの勝俣に礼を述べる。


「助かった、靖史。ありがとう」
「帰りはタクシーを呼べよ? 番号は控えてあるよな?」
「ああ、大丈夫だ」
 普段の秀明のイメージからは、かなり隔たりがあるその表情と口調に美子はかなり好奇心をそそられたものの、走り去る車を見送ってから秀明に促されて境内に入った。そして本堂の脇に置いてある桶と柄杓を借り、水も水道から汲んで重くなった桶を手に提げて歩き出す。


「悪いな。昔からある墓は本堂の近くにあるんだが、徐々に山を切り開いて墓地を造成したから、最近の墓ほど上に位置しているんだ」
 緩やかな坂道を上りながら秀明が説明すると、墓地と言えば平地に広がっているか、住宅に囲まれた狭い空間のイメージしか無かった美子は、軽いカルチャーショックを覚えながら正直な感想を述べた。


「なるほどね。こういうお墓は初めて見たわ。まるで段々畑ね」
「段々畑か。そいつはいい」
 何がそんなにツボに入ったのか、秀明はおかしそうに笑い出した。そして美子が(何もそんなに笑わなくても)と臍を曲げかけた所で唐突に笑い声が止み、周囲を見回してその理由を悟る。


(ここね……。確かに江原家之墓じゃなくて、江原優香之墓だわ。それなりに、お金はかけているみたいだけど……)
 秀明が黒光りしている墓石の前に屈んで、黙々と枯れた花や雑草を取り始めた為、美子は持っていた花束の包み紙を解いて花を飾り、二人で墓石を清めた後、秀明が持参して来た線香を上げた。


(別に、懇切丁寧に説明しろとは言わないけど。他人の事は言えないけど、本当に面倒くさい男。お母さんもこんなのを育てるなんて、相当苦労したわよね)
 しゃがみ込んで手を合わせながら、顔も見た事の無い故人に想いを馳せていると、静かに立ち上がった秀明が何気ない口調で話しかけてきた。


「ここに来るまでに、町の様子を見て来ただろう?」
「そうね。それが?」
 美子も立ち上がりながら尋ね返すと、秀明はいつもの辛辣な口調で言ってのけた。


「随分昔に鉄道の駅の誘致に失敗し、高速道路の出入口の誘致にも失敗し、大型商業店舗の誘致にも失敗し、最近では周囲の自治体広域合併にも取り残された、ショボ過ぎる町だ」
「……他の場所に住んでいる人間が、どうこう言う問題では無いと思うわ」
 急にいつもの状態に戻った彼を、美子が頭痛を覚えながら窘めると、ここで秀明はガラッと話題を変えてきた。


「三年位前に、言ってただろう? 俺の母が、どうして俺を産んだのか分からないし、気が知れないって」
 見に覚えがあり過ぎた台詞に、美子は故人に申し訳ない気持ちになりながら、素直に謝った。


「確かに言ったわね。言い過ぎだったと反省しているわ」
「本当の事だから謝らなくて良い。俺も一度聞きたかった位だ」
「そうなの?」
 苦笑交じりにそんな事を言われて美子は戸惑ったが、秀明は真顔で頷いた。


「聞いたら否定的な言葉が返ってきそうで怖くて、とうとう最後まで聞けなかったが。俺はガキの頃は、まだガラスの心臓の持ち主だったからな」
「繊細な頃のあなたに、一度会って見たかったわね」
 思わずからかう口調で口を挟んだ美子に怒る事もなく、秀明は一緒になって小さく笑った。しかし次の瞬間、硬い表情になって話を続ける。


「俺を産んだ理由が、あの血統上だけの父親を愛してたとか、そんなたわけた事だけは無い事は確かだ。理由は分からないが、未婚の母で周囲から白眼視されながら、俺を育ててくれた事に感謝してる。いつも大きくなったら楽させてやると思ってたが、その前にあっさり病気で死んでしまったが」
 その口調に何となく湿っぽさを感じた美子は、わざと明るく言ってみた。


「本当に……、こんなひねくれまくった子供を育てるなんて、お母さんは大変だったでしょうね」
「俺は子供の頃は、素直で明るい孝行息子だったぞ?」
「本当?」
「本当だ」
 真顔で言い切る秀明と顔を見合わせた美子だったが、どちらからともなく笑い出し、すぐに重い空気は吹き飛んだ。そして笑って幾らか気が楽になったのか、秀明が背後を振り返り、眼下に広がる町内を見下ろしながら話題を変えてくる。


「母は元々この町出身だったが母子家庭だった上、母親を早くに亡くして独りになったのを契機に、この町を離れたらしい。そして東京から舞い戻って、この町で俺を産んで育てたんだ。だから母にとっては、家族なんかはいなくても、思い入れがある場所なんだと思っていた」
「そう、なんでしょうね」
「だから中三の夏、母が死んで隣の市の児童養護施設に入る事になった時、いつかは絶対ここに戻って来て、母の墓を建ててやると自分自身に誓った」
「ちゃんと誓いを守ったのね」
「半分だがな」
「え?」
 困惑した美子に、秀明は苦笑してから、再び景色を見下ろした。


「さっきも言った様に、大した魅力も無いしパッとしない町だろう?」
「返答に困る質問をしないで欲しいんだけど」
「だが母と同様に、俺もいつかはここに帰って来るつもりなんだ。殆ど忘れかけていたが、深美さんの事を考えていたら、母の事を考えて自然に思い出した」
「そうだったの」
 どうして急に墓参りを思い立ったのかという理由が分かって、美子は頷いた。そんな彼女に向かって、秀明が冷静に説明を続ける。


「これまではまともに家族なんか作る気は皆無だったから、好き勝手に生きても構わなかったが、お前と結婚するとなったら、そうもいかないだろう」
「一応、私に気を配ってくれているのかしら?」
「そう聞こえないのか?」
「普段のあなたなら『田舎に引っ込むから付いて来い』の一言で済ませても、おかしく無いと思うんだけど」
「…………」
 途端に憮然とした表情になった秀明に、美子は一応謝った。


「ちょっとからかい過ぎたわ。ごめんなさい。それで? 結婚したら、すぐにここに新しい仕事を見付けてこの町に移住したいの?」
 その問いかけに、秀明は頭を振った。


「さすがにそれはな。面倒な会社を押し付けられたし、お前を連れ出したら社長が激怒する。せっかく旭日食品に入った事だし、この際藤宮家も旭日食品も、全部丸ごと面倒を見るさ」
 何の気負いも無くサラリと言われた内容に、美子は軽く目を見開いて確認を入れた。


「全部丸ごとって……、一体いつまで?」
「そうだな……、二十年だと、これから子供を作ってもまだ成人前だし、三十年だと社長が寝たきりになって存命だったら、離れて暮らしてたら美子が気を揉みそうだ。切りよく五十年後なら、さすがに社長もあの世に逝ってるだろうし子供も独り立ちしているだろうから、後腐れなく東京から離れられるんじゃないか?」
 真剣に考え込みながら秀明が導き出した結論を聞いて、美子は微妙に顔を引き攣らせた。


「今の発言、お父さんに対してかなり失礼な所があるし、第一、五十年後には、あなたは八十になるわよ?」
「そうだな。だから?」
「だから、って……」
 平然と言い返された美子は絶句したが、そんな彼女を見た秀明は、安心させる様に笑った。


「俗に『憎まれっ子、世にはばかる』と言うだろう? どう考えても、俺は百まで生きるさ。だから残り二十年を俺の好きな様に過ごさせて貰うなら、五十年間お前とお前の大事な物を、しっかり守ってやる。結婚と老後の移住の交換条件としては、そんなに悪くは無いと思うが?」
 そんな事を堂々と言い切られてしまった美子は、完全に呆れかえった。


「何なのよ、その根拠の無い自信。本当に本気なの?」
「ああ」
「八十になったら、こっちに戻るわけ?」
「そのつもりだ」
「私がそんなのは嫌だって言ったらどうするの?」
「もの凄く困る」
「そう……、困るの」
 変わらず真顔で応じる秀明に、美子は内心で苦笑いした。


(凄く困るけど、結婚するのを止めるとは言わないわけね。まあ、仕方が無いか)
 そして半ば諦めた美子は、しげしげと秀明の全身に視線を走らせてから、一つの要求を口にした。


「ちょっと両腕を上げてくれない?」
 いきなりの脈絡の無い要請に、秀明は困惑しながらも素直に両腕を伸ばしたまま軽く横に上げた。


「こうか?」
「ええ。……いよっ、と」
 すると美子が突然秀明に抱き付き、腰に回した両手を組んで、秀明を抱え上げようと試みた。当然体格差がある為、それは成功しなかったが、手を離してから悔しそうに何やらブツブツ言っている美子に、秀明が呆れ気味に問いかける。


「いきなり何をやっているんだ?」
「もう少し、貧相な体つきだと良かったわね」
「何の話だ」
 如何にも残念そうに言われた台詞に、秀明は無意識に眉間に皺を寄せた。しかし美子はそんな事を全く気にせずに、遠くを見やりながら唐突に問いを発する。


「ねえ、秀明さん。乗って来た私鉄の駅はどっちの方向?」
「は? こっちの方角だが……」
 当惑しながらも、秀明は律儀に該当する方向を指差しながら説明したが、美子の質問は更に続いた。


「それならさっき聞いた、隣町にあるっていう高速道路の出入口は?」
「そっちの丘の陰の方向になる」
「そうなると、乗って来た私鉄と途中で枝分かれしてたJRの路線は、どんな風に延びているの?」
「そうだな……、向こうからこっち方面に、こうか?」
 秀明が左右に大きく手を動かしながら、問われた内容に一つ一つ答えると、美子は感心した様に感想を述べた。


「なるほどね……。本当に見事に避けられちゃってるわ」
「そう言っただろう。さっきから一体、何を言ってるんだ?」
 若干口調に呆れと苛立ちを含ませながら秀明が尋ねると、美子は真剣な表情で言い返した。


「さっきあなたが八十になったらここに戻ると言ったけど、頭ははっきりしてても、足腰が立たなくなってる可能性もあるのよ? そうなったら家族ぐるみで移住するっていうのは考えにくいし、私が一人で老々介護する可能性が大じゃない。その時地域の医療機関の在宅サポート体制が、どれだけ充実しているかが、重要になってくると思うの」
「……確かにそうだな」
 彼女の主張に全く反論できなかった秀明は、大人しく頷いた。すると美子が、冷静に意見を述べる。


「見たところ個人の医院は散見できたけど総合病院とかは無さそうだし、地域医療体制は今でもギリギリっぽいんじゃないかしら?」
「こんな寂れた所は嫌か?」
「話は最後まで聞いて。タイムリミットまで五十年あるのよ? それだけあれば可能性は無限大じゃない」
 突然、そんなとてつもない事を言い出した美子に、秀明は本気で唖然となった。
「可能性って……。この町のどこに、そんな物があるんだ?」
 しかし美子は、平然と自分の持論を展開した。


「確かに今は何も無いかもしれないけど、逆に言えば広い土地が余ってるんだから、何だって好きな様に作れるわよ。都会みたいに狭い土地に地権者がゴチャゴチャしていないんだから、買収だって遥かに楽じゃない?」
「それは、そうかもしれないが……」
「鉄道が無いなら、民間会社を立ち上げて、作っちゃえば良いし。いっそ降りた駅と向こうを走ってるJRを結んで、循環鉄道にした上で相互乗り入れにしたりして。それなら営業キロ数は短くても、住民の利便性は飛躍的に向上するんじゃない?」
「ちょっと待て、美子」
「それから高速道路の出入口から、この町に伸びる道路を、片側四車線位にドーンと拡張しちゃうとか。そうすれば流通だって便利に」
「簡単に言うがな。出入口は隣町だから、異なる自治体を跨いで走る道路の場合、拡張するだけでもそれぞれ面倒な許認可関係が」
「でも、やろうと思えばできない事も無いんでしょう?」
「それは、まあ……。相当面倒で難しいが、全く不可能では無い事は確かだが……」
 美子の話を遮ろうとしては、常に無い迫力に負けてしまった秀明が難しい顔で考え込むのと同時に、彼女はそれまでとは打って変わって明るい笑顔になって言い募った。


「そうは言っても、そんな旨すぎる話は、この町のトップによほどリーダーシップを取れる人が就任して、各種の専門知識を持つ優秀なブレーンが何人もその人に付かないと無理だとは思うけど」
「美子……」
 そこで呆然と自分の名前を呟いた秀明に向き直り、美子は更に笑みを増して笑い飛ばした。


「今までが寂れていたからと言って、これから五十年もこのまま変わらないって決めつけるなんて、あなたらしく無いんじゃない? そこまで心配しなくても、きっと大丈夫よ。その頃には介護ロボットとかも色々開発されて、便利で楽になってるわ」
 それを聞いた秀明は、漸くその顔に笑みを浮かべた。


「美子がそこまで楽天的だとは思わなかったな」
「現実的と言って頂戴」
 そして真正面から秀明と向かい合った美子は、少し偉そうに宣言した。


「それじゃあ、あなたと結婚してあげるから、責任持って五十年間、私と藤宮家と私の大切な物を、丸ごと全部しっかり守ってね? その代わりにあなたの人生の最後は、ここで一緒に暮らしてあげるから」
「分かった。約束する」
 笑顔で頷いた秀明だったが、ここで何か思い出したらしく、美子が慌てて付け足した。


「あ、もう一つ条件を追加して良い?」
「何だ?」
「このお墓、もう少し下に移設できない? 今は良いけど、年を取ってからここまで上がって来るのは厳しそうだから」
 何を言われるかと若干身構えた秀明だったが、切実な訴えをしてきた美子の表情を見て、思わず笑ってしまった。


「尤もだな。お互い足腰が立たなくなる前に、移設しよう」
「お願いね」
 そして全ての用事を済ませた秀明は、柄杓を入れた空の桶を持ち上げて、墓の仕切りの外に向かって歩き出した。


「じゃあ、適当に昼食を食べて帰るか。とんぼ返りで悪いが」
「じゃあせっかくだから町の中で食べていかない? 良く見てみたいし」
「……まともに食わせる所があったか?」
 途端に懐疑的な顔になった秀明だったが、美子は動じずに言い返す。


「人が生活してるんだから、何とでもなるわよ。早速、五十年後の生活基盤のリサーチよ。それに秀明さんが暮らした所を、色々教えて貰いたいし」
「……そうか」
 それを聞いた秀明は少々照れくさそうな表情で頷き、それ以上抵抗はしなかった。


「それから、日舞教室を辞めて、ジム通いをしようかしら?」
「どうしてだ?」
「脚力には自信が有るけど、腕力は全然無いのよ。今のうちに筋肉を付けておかないと、体位交換の時に辛いかも」
 真顔で懸念を口にした美子だったが、秀明は負けず劣らず真剣な顔で反論した。


「変に筋肉を付けるな。俺を足で蹴り転がせば良いだけの話だろうが?」
「そんな事をしたら、忽ち鬼嫁って噂が広がるわよ!」
「俺は構わないが?」
「私が構うの!」
 必死に言い募る美子を見て秀明は失笑し、それを見た彼女は少々むくれた。そんな自分を宥める秀明の言葉を半ば聞き流しながら、下りてきた坂道の曲がり角で、そろそろ見えなくなる墓に視線を送る。


(これからは時々来ますね、お義母さん)
 心の中で呟いた言葉に返ってくる声は当然無かったが、美子はすっきりとした気持ちで、秀明と並んで緩やかな坂道を下りて行った。



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