半世紀の契約

篠原皐月

第38話 大人の駆け引き

 この数日の強行軍で、意識していなくても身体はかなり疲労していたのか、秀明は布団に横になるとすぐに深い眠りに落ちた。そして何時間かして、微かな痛みと共に覚醒する。


「……っ」
(どれ位寝ていたんだ?)
 見慣れない、常夜灯のみの室内に一瞬戸惑った秀明だったが、すぐに藤宮邸で休ませて貰った事を思い出し、外して枕元に置いてあった腕時計で時間を確認して、一人苦笑した。


(俺らしくも無い。六時間近く爆睡していたか。薬の効果が切れてきたか?)
 はっきりとした痛みまでは感じないまでも、僅かに疼くような不快さはある胸部を布団の下で軽く押さえながら、秀明は溜め息を吐いた。


「本格的に痛くなって眠れなくなる前に、早めに飲んでおくか」
 そう決めた秀明は早速起き上がり、寝る前に持って来て貰ったコップと水に手を伸ばした。するとここで廊下に面した襖が、慎重に少しだけ開けられる。
 静かな音でもそれに気が付かない秀明ではなく、反射的に目を向けると、廊下から様子を窺っている美子と目が合う。一方の美子は秀明が布団の上に座り込んでいたのを見て、ちょっと驚いた顔付きになった。


「あ……、起きてたのね」
「どうした?」
「ちょっと様子を見に来たんだけど……、何か食べる? 全然食べていないから、おなかが空いて寝られなくなっていたら困ると思って」
 その申し出について秀明は少しだけ真顔で考え、軽く頷いて言葉を返した。


「そうだな……。何か軽く貰えれば」
「お茶漬けと煮物位で良い?」
「頼む」
「分かったわ。ちょっと待ってて」
 どうやら予め用意はしてあったらしく、秀明が薬を飲み終えてからそれほど時間を要さずに、美子はお盆を持って戻って来た。それをガツガツと食べる様な真似はしなかったものの、かなりのスピードで平らげてから、秀明が礼を述べる。


「自分で思っていた以上に、腹が空いていたみたいだな。人心地がついて助かった」
「それは良かったわ。お粗末様でした」
 その言葉に美子は苦笑いで返したが、すぐにお盆を持って引き上げると思った彼女が、受け取ったお盆を傍らに置いて何やら居心地悪そうに座ったままなのを見て、訝しんだ秀明が声をかけた。
「……何だ?」
 その問いかけに、美子はまだ少し迷う素振りを見せてから、ゆっくりと口を開く。


「その……、仕事の事なんだけど。加積さんのお宅で言ってたけど、本当に南米での仕事は全部終わらせる事ができたの?」
「全て問題無いし、誰にも文句は言わせない。同行者もいるから、俺の仕事ぶりに関してはきちんと報告してくれる」
「それなら良いんだけど……」
(そう言えば松田をブラジリアで放り出してきたな。だが子供じゃないし、勝手にチケットを取って帰って来るだろう)
 散々きりきり舞いさせた挙げ句、向こうで無情に切り捨ててきた同行者の存在をここで漸く秀明は思い出したが、すぐに再び意識の外に押し出した。そこで美子が、今更な事を言い出す。


「どうしてあんな事をしたの?」
 その問いに、秀明は若干面白く無さそうな顔付きにはなったものの、いつもの口調で答えた。
「他人のモノに手を出そうとした根性が気に入らないし、経験上ああいうろくでもない輩は、早い段階できちんとぶちかましておかないと、益々対応が面倒になる」
「だから、手を出されたりしてないから」
 呆れ気味に美子が口を挟むと、今度は秀明は気分を害していると、はっきりと分かる風情で答えた。


「……一緒に仲良く、コスプレする仲にはなってただろうが。しかも俺よりも、あいつの肩を持ちやがって」
(ひょっとして、電話をかけてきた時に、加積さんの事を紳士云々と言った事で拗ねてるとか? 全く……、手に負えないわね)
 軽く眉根を寄せた美子だったが、思った事は声には出さずに話を続けた。


「ところで、あなたの話の中で大前提になっている事柄についてお尋ねしたいんですが、『誰』が『誰のモノ』なんでしょうか?」
「お前が俺のモノに決まってる」
「……そう」
 あまりにも清々しい断言っぷりに、美子は反論するのも馬鹿らしくなってしまった。


(『結婚してくれ』って桜さんに土下座した加積さんが、もの凄く可愛く思えてきたわね。何よ、この自己完結っぷり。確かに求婚されているけど、まだきちんと返事はしてないわよ?)
 半ば呆れたものの、確かに目の前の男が情熱的に口説く様な真似をするとは思えなかった為、この際美子は細かい事には目を瞑る事にした。


(色々言葉が足りない所があるとは思うけど、でも取り敢えず心配してくれた事は確かなんだから、きちんと筋は通しましょうか)
 そこで居住まいを正した美子は、秀明に向かって謝罪しながら深々と頭を下げた。


「それで、その……。今回は私の浅慮のせいで、色々ご迷惑おかけしてすみませんでした。それから、わざわざ迎えに来てくれて、ありがとうございました」
 急に神妙に礼を述べてきた美子に、秀明は一瞬驚いた様な顔付きになってから、真面目くさって頷く。


「分かっていれば良い。これからは良く知らない人間に、ホイホイ付いて行くなよ?」
「……分かりました」
 秀明の物言いに、さすがに(小さな子供じゃ無いわよっ!)とキレそうになった美子だったが、グッと言葉と怒りを飲み込んだ。そして気持ちを落ち着けて、本題に入る。


「それで、今回ご迷惑をおかけしたお詫びを兼ねて、何かお礼をしようかと考えたんだけど……」
「別に構わないがな。俺自身がムカついて、勝手に動いただけだし。さすがにあんな面倒な会社まで押し付けられたのは、想定外だったが」
(本当に、危険度と迷惑の度合いが桁違いよね。これからどうなるのかしら?)
 その事実を突き付けられて美子は少し落ち込んだものの、すぐに気合いを入れ直して話を元に戻した。


「それでさっき少し、父と相談をしてきたの」
「何を?」
「ほら、この前マンションに行った時に言ってたでしょう? 父に『婚前交渉は禁止』だと言われたって」
「ああ、あれの事か。それがどうした?」
 ここでその話を持ち出す意味が全く分からず、秀明は怪訝な顔で問い返したが、美子はすこぶる冷静に話を続けた。


「今回色々迷惑かけたから、結婚前でも今夜だけは大目に見てくれるそうよ」
「何?」
「要するに……、据え膳?」
「はあ?」
 自分自身を指差しながら、淡々とそんな事を言ってのけた美子を見て、秀明は彼には珍しく完全に面食らった表情になり、間抜けな声を上げた。そして十秒程室内が静まり返ったが、何とか気を取り直した秀明が、唸る様に確認を入れてくる。


「……おい」
「何?」
「ちゃんと意味、分かって言ってるんだろうな?」
「そのつもりだけど……」
「どうした?」
 ここで急に美子が困った様に口を閉ざした為、秀明が顔を顰めた。すると彼女は秀明と、その周囲にあった薬の袋などをしげしげと眺めてから、小さく溜め息を吐く。


「やっぱり無理かしらね。お医者様も折れてはいないけど、最低限一週間は安静にって言ってたし。それじゃあまた改めて、別の機会にと言う事で」
「ふざけるな。肋骨の一本や二本にちょっとひびが入ってる位で、やれなくなる様なヤワな鍛え方はしてないぞ」
 言うだけ言って腰を上げかけた美子の左腕を、秀明は素早く手を伸ばして捕まえた。そして彼が言い切った内容に、美子は半ば呆れながら言い返す。


「やせ我慢は、体に良くないと思うんだけど」
「冗談じゃない。通常だったら有り得ない、親父公認の機会なんだ。ちょっとやそっとの怪我で、みすみす逃せるか」
「確かに私も、今回の方が都合が良いけどね」
「……どういう意味だ?」
 意味不明な呟きに、秀明が不思議そうに問いかけると、美子は急に不敵に笑いながら告げた。


「だって、気に入らない事をされた時は、胸に渾身の蹴りか拳を入れれば良いって、対処法が分かっているわけだし。ちょっと叩かれただけでも悶絶しそうなのに、万が一当たりどころが悪くて肋骨が折れて、肺に刺さったりしたら痛そうよね?」
 笑顔でそんな物騒な事を言われてしまった秀明の顔から、若干血の気が引いた。


「……俺を殺す気か?」
 その声に、僅かな恐怖を感じ取った美子は、思わず噴き出しそうになったのを何とか堪えた。
「そうならない様に、良く考えて行動してねって言ってるの。私も好き好んで、殺人未遂の容疑者として捕まりたくないわ」
「分かった。善処する」
 美子の主張を聞いて苦笑いした秀明は、ここですかさず行動に出た。


「じゃあ早速」
「ちょっと!?」
 そう言いながら秀明は美子の腕を力任せに引っ張り、彼女を布団の上に引き倒した。そして慣れた動きで彼女の身体を跨いで上から顔を見下ろしつつ、両手首を掴んで押さえ込む。


「行動に移るのが早いわね」
「即断即決が俺の主義だからな」
 素で感心してしまった美子に、秀明は宣言通り早速噛みつく様な少々乱暴なキスをしてきた。それを黙って受けた美子は、心の中で(全くもう……、がっついてるんじゃないわよ。この肉食系黒兎)などと悪態を吐いてから、静かに目を閉じた。




 翌朝、いつも通りの時間に起きて、いつも通り台所でエプロンを付けて朝食を作り始めた美子だったが、いつもとは異なる背後の気配に、心底うんざりしながら振り返って文句を口にした。


「……て、……から、……い」
「さっきから、そこで何をブツブツ言ってるの? 鬱陶しいから止めて欲しいんだけど」
 美子としては当然の主張だったのだが、背もたれの無い椅子に腰掛け、作業用のテーブルに肘を付いてふてくされている秀明は、如何にも面白く無さそうに愚痴めいた呟きを漏らした。


「これだから……、情緒を解しない奴は」
 それを美子は、鼻で笑い飛ばす。
「情緒? 随分似合わない言葉を口にするわね。だいたいこれまではそっちの方が、用が済んだら女に構わないで、さっさと一人で部屋を出ていたんじゃないの?」
「…………」
 図星だったらしくそれきり黙り込んだ秀明に、(少しは弁解しなさいよ)と美子は呆れ果てながら、手元の出汁巻き卵を一口サイズに包丁で切り分け、菜箸で掴み上げて秀明の所に持って行った。


「はい、あ~ん」
 そう言いながら差し出された物を秀明は一瞬驚いた様に凝視したが、すぐに素直に口を開け、口内に入れて貰った。そして彼が味わって飲み込んだのを確認してから、美子が尋ねる。


「どう?」
「美味い」
「良かった。これが美恵が作るとスクランブル寸前の代物になって、美実だと若干塩味が効き過ぎて、美野だと薄味好みだから出汁が今一つで、美幸だと時々細かい卵の殻が混ざるのよ。そういうのを食べたい?」
 にっこり笑いながらの問いかけに、秀明は迷わず即答した。


「いや、美子の作った物が良い」
「そうだろうと思って早起きして作ってるんだから、ガタガタ文句を言わないの。第一、まだ本調子じゃないんだから、大人しく布団で寝てなさい」
「……分かった」
 そう答えたものの立ち上がる気配の無い秀明に、美子は再び振り向いて尋ねた。


「客間に戻らないの?」
「大人しくしてる」
 真顔で言い返された美子は、思わず溜め息を吐いた。そして説得を諦めて、再び彼に背中を向けて調理を続行する。


(一人で居たく無いのかしら? 本当に手がかかるわね。そう言えばお母さんがあの手紙で、この人の事を『構ってあげないと寂しくなって死んじゃう黒兎』って言ってたっけ。だから昨日咄嗟に『肉食系黒兎』なんて思ったんだわ)
 そんな事を考えて、思わず美子がクスクスと笑ってしまうと、秀明が訝しげに声をかけてきた。


「何がおかしいんだ?」
「別に、大した事じゃ無いんだけど。それより江原さ」
「秀明」
「え?」
「俺の事は名前で呼べ」
 自分の話を遮り、押し付けがましく言ってきた秀明に、振り返った美子は困った顔をしながらも、取り敢えず妥協してみた。


「……秀明さん?」
「取り敢えずはそれで良いか」
 僅かに顔を顰めたものの、秀明もあっさり妥協する事にしたらしく、それ以上強くは言わなかった。それに美子は安堵しつつ、遠慮せずに彼に仕事を言いつける。


「じゃあ秀明さん。ここに居るなら手伝って。ご飯茶碗と汁椀を七人分、背後の食器棚の中段にあるから、そこから取ってテーブルに置いてね」
「……分かった」
 そこで溜め息を吐きながら立ち上がった秀明は、素直に食器棚に向き直り、該当する物を取り出してテーブルに並べた。それを確認した美子が、調理の合間に次の指示を出す。


「次は角皿の小さい方と、小鉢も七つずつ出して」
 それに無言で従った秀明は、テーブルに揃えて美子にお伺いを立てた。
「これで良いのか?」
 それを受けて振り返った美子は、笑顔で頷いて彼に近寄る。
「ええ、ご苦労様。ちょっと屈んで?」
「こうか?」
 要求通りに秀明が上半身を傾けると、それほど身長差が無くなった彼の頬に、美子が軽く身を乗り出す様にしてキスをした。それを感じた秀明はゆっくりと上半身を起こしてから、少し驚いた様に美子を見下ろす。


「……何だ?」
「何って……、ご褒美?」
「…………」
 軽く首を傾げながら答えた美子だったが、秀明が無反応だった為、若干気分を害しながら尋ねた。


「……何? 気に入らないの?」
「他に何をすれば良い?」
 しかし真顔で問い返された為、美子は遠慮なく次の要求を繰り出す。


「えっと、そうね……。一番右の引き出しに箸が入っているから、七人分の七膳と、箸置きを取ってくれるかしら」
「分かった」
 何となく機嫌良さげに答えた秀明が、早速該当する引き出しを開けたが、すぐに困惑した声を出した。
「箸は分かったが、箸置が七つ、種類がバラバラに入っているんだが……。これで良いのか?」
 それを聞いて、自分の説明不足を悟った美子は、流しに身体を向けたまま説明を加えた。


「普段使いの物は、各自、好きな物を買って使っているのよ。お母さん用は三枚連なった紅葉だから、それ以外の六つをそこから出して。それと秀明さん用に左隣の引き出しから、お客様用に数を揃えてある箸置きから一つ取って欲しいんだけど」
「紅葉を使ったら駄目か?」
「え?」
 唐突な申し出に美子は思わず振り返ったが、秀明が問題のそれを神妙に手にしているのを見た美子は、笑って頷いた。


「良いんじゃない? 今は誰も使ってないし」
「それなら使わせて貰う。……これで良いか?」
 許可を貰った秀明は嬉しそうに指示された物を全て揃え終え、美子に声をかけた。そしてコンロの火を止めて振り返った美子は、満足そうに頷いてみせる。


「はい、どうもありがとう」
「頬じゃなくて、こっちが良い」
 お礼の言葉に対して、秀明が自分の口を指差しながら言い返された美子は、一瞬言われた意味が分からなかったが、すぐにそれを悟って渋面になった。


「自分からだとやった事がないから、どんな角度にすれば良いか分からなくて、難しいのよ。鼻が当たりそうで」
 そんな真っ正直な申し出に、秀明は尤もだなと納得しながら彼女の顎と腰に手を伸ばして言い聞かせる。


「仕方がないな。教えてやるから早く覚えろよ?」
「分かったわ。自主学習しておくから」
「誰とする気だ?」
「さあ……、誰とかしら?」
 途端に不機嫌になった秀明に、美子は微笑んでから近づいてくる彼の顔を軽く見上げた。しかしここで先程の秀明以上に、不機嫌な声が割り込む。


「ちょっとそこのバカップル。この家にはまだ未成年者が二名いるんだから、朝っぱらからいちゃつくのは止めてよね」
 いつの間にやって来たのか、台所の入口で壁に背中を預けながら渋面で腕組みしている美恵を認めて、秀明は全く悪びれずに笑顔で朝の挨拶をした。


「ああ、美恵ちゃん、おはよう」
「いちゃついてるかしら? 躾の一環のつもりだったんだけど」
 秀明に続いて、真顔でちょっと首を傾げただけの姉を見て、美恵はうんざりとした顔付きで愚痴を零す。


「これだから腹黒と世間知らずは、変な所で自然体なんだから。少しは周りを気にしなさいよ。とにかくそろそろ皆が揃うから、いつも通りさっさと準備するわよ」
「そうね。じゃあよそった物から、どんどん隣に運んで頂戴」
「分かった」
「美恵、箸置きと箸はあなたが並べて。秀明さんには席順が分からないから」
「……了解」
 自分の主張に頷いて美子と秀明が動き始めたものの、姉が秀明の事をさり気なく名前で呼んでいる事に気が付いた美恵は、(この際、本気で一人暮らしを考えようかしら?)と少々うんざりしながら動き始めた。
 そして台所に隣接した食堂に七人分の食事を運んでいるうちに、藤宮家の面々が次々に姿を現し、互いに朝の挨拶を交わした。


「おはよう」
「おはようございます、江原さん」
「江原さん、怪我は大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だから心配しないで」
「良かった。お父さん達が籠って話してたから、昨夜は江原さんと全然顔を合わせないまま休んじゃったし」
 そして全員が着席すると、制服姿の美幸が、妙に機嫌が良い事に気が付いて、美子が不思議そうに声をかける。


「美幸? 何だか随分機嫌が良いけど、朝から何か良い事でもあったの?」
「うん。久し振りだね! 七人で朝ご飯食べるのって。紅葉も出てるし」
 元気一杯に満面の笑みで答えた美幸に、彼女以外の全員が一瞬呆気に取られ、次いで柔らかく微笑んだ。


「そうね。じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 そんな風に、いつも通り美子の号令で食べ始めた藤宮家の朝食の席は、その日は普段より幾分賑やかな物となった。


 朝食後、それぞれ出勤や登校していった家族を見送ってから美子は台所を片付け、次いで客間に顔を出した。
「洗っておくから、洗濯物は出して。お父さんが言ってたけど、本来の出張日程だった明日までは休みにするんでしょう?」
「ああ、頼む。社長と話してそういう事にした。明日の昼過ぎにマンションに帰るから」
「それが良いでしょうね」
 美子が秀明に声をかけると、スーツケースの中身を整理していた彼は素直に洗濯物を渡した。しかし何やら言いたげな空気を醸し出している彼に、不思議に思って尋ねてみる。


「何か私に、言いたい事でもあるの?」
 それを聞いた秀明は、幾分迷う素振りを見せてから、静かに言い出した。
「さっき台所で考えていて、色々言っておかなければいけない事を思い出した」
「それで?」
「今度の日曜、行きたい所があるから、一日俺に付き合って欲しいんだが」
 真剣な口調でそんな事を言われて、美子は若干戸惑う。


「一日? 午前だけとか、午後だけとかは駄目なの?」
「都心からだと、片道三時間半から四時間と言ったところか。車は潰したから、新幹線と在来線の乗り継ぎで行くしかないからな」
 そこで美子はピンときた。


「……ひょっとして秀明さんが白鳥家に引き取られるまで、住んでいた所?」
「ああ、そうだ。知ってたか」
 出会ったばかりの頃に叔父に頼んで秀明の事を調べて貰った時、その報告書に記載されていた地名を美子は記憶の底から引っ張り上げたのだが、それは秀明にも予想が付いていたらしく、小さく笑った。その表情の変化を見ながら、美子が確認を入れる。


「私は構わないわよ? 何か持っていかないと、いけない物はない?」
「手ぶらで良い」
「分かったわ。お父さんにも言っておくから。今日くらい、一日ゴロゴロ寝ていなさい。治るものも治らないわよ?」
「そうさせて貰う」
 そうして受け取った洗濯物を抱えて廊下を歩き出した美子は、今言われた内容について、頭の中で反芻した。


(秀明さんの故郷……。あの報告書で地名を見ただけで、全然馴染みは無いけど)
「色々、何を考えていたのかしらね」
 小さく溜め息を吐いた美子だったが、一人で考えて答えが出る訳でも、事前に聞いても秀明が答える様に思えなかった為、意識を切り替えて目の前の事に集中する事にした。


「取り敢えず、お父さんがブチブチ文句を言わない様に、早目にメールで報告しておきましょうか」
 今回の件で、一番神経を擦り減らした上に割を食った不幸な昌典は、十分後、更なる不愉快な事実に直面する羽目になり、その日一日旭日食品の社長室にはブリザードが吹き荒れていた。





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