半世紀の契約

篠原皐月

第36話 両者の暴走

 加積邸に招待されている日。美子は早めに軽めの昼食を済ませてから、しっかりと髪を結い上げ、深美の形見の櫛を髪に挿した。それから和室に移動して、桜に作って貰った着物一式をきちんと着込み、一時過ぎには外出の準備を整えた。


「よし。完璧」
 姿見で自分の装いを確認した美子は、簡単にその場の後片付けを済ませ、襖を開けて隣接した仏間へと入った。そして仏壇に線香を上げ、鐘を鳴らして手を合わせる。


(お母さん、行って来ます。愛人云々はお父さん達の邪推と偏見だとは思いますが、これ以上変な事態にならないように、見守っていて下さい)
 そんな事を考えながら目を閉じた美子が神妙に手を合わせていると、背後から襖を開ける音と同時に「何だ、ここに居たのか」と言う声が聞こえてきた為、目を開けて振り返った。


「お父さん? 何か忘れ物? 午前中に言ってくれたら、会社まで届けに行ったのに」
 それに昌典が、仏頂面になりながら応じた。
「心配で仕事にならんから、早退してきた」
「え?」
 予想外の台詞に、美子は目をパチクリとさせた後、思わず失笑した。


「お父さんがそんなに心配性だったなんて、今の今まで知らなかったわ。美恵達はともかく、私は門限だってとやかく言われた事は無かったし」
「今日に限っては門限は六時だ。それ以上かかるなら、誰がなんと言おうと押し掛けるからな」
 若干鋭い目つきで念を押してきた昌典にも、美子は臆せずに笑いながら言い返す。


「はいはい。夕飯までには帰ります。と言うか、私が作るつもりでいるから」
 苦笑しながら父親を宥めているうちに、加積邸からの迎えの車が時間通り門前に到着し、美子は「じゃあ、行ってきます」とあっさり挨拶して出かけて行った。その車を無言で見送った昌典は、その足で仏間に向かい、先程の美子と同様に、仏壇に向かって手を合わせる。


「全く、昔から妙な所で肝が据わっていて、俺の手には負えん。深美、美子の事を頼むぞ」
 そんな風に父親に嘆かれている事など、微塵も自覚していない美子は、差し向けられた高級車の後部座席で、この期に及んでもかなり脳天気な事を考えていた。


(さて、サクッと行ってサクッと帰って、誰にも文句を言われない様にしないとね。……特に、あのろくでなし野郎には)
 そして無言のまま窓の外の流れる景色を見ているうちに、美子の乗った車は大きな観音開きの門前に到着し、電動式らしくゆっくりと左右に開いた門扉の間を抜けて、横の広い駐車スペースに停車した。


(はぁ……、この立地でこの敷地。立派だし、建物も庭も趣味が良いわね。じっくり見せて貰いたいけどお父さんに怒られそうだから、余計な事は言わないでおきましょう)
 車から降りた美子が、失礼にならない程度に周囲を見回していると、上下を黒のスーツに身を包んだ初老の男性が、恭しく頭を下げてきた。


「それでは藤宮様、こちらからお上がり下さい。旦那様と奥様がお待ちでございます」
「ありがとうございます」
 そして先導する男性に付いて広い表玄関らしき場所に到達した美子が草履を脱いでいると、何やら視線を感じた為、そちらの方に顔を向けてみた。


「…………」
「あの、何か?」
 その問いかけで我に返ったらしい彼は、微妙な顔付きから一変して、かなり恐縮した態で再び頭を下げた。


「いえ、大変失礼致しました。どうぞ、こちらです」
「はぁ」
 何となく納得しかねたものの、余計な事は言わない方が良いと思った美子は、黙って彼の後に続いた。そして何人かすれ違った使用人らしき人物達からも、軽く頭を下げられながら微妙な視線を向けられている様に感じて、若干居心地の悪い思いを味わった彼女だったが、この屋敷の主夫妻が待ち構えている座敷に通された瞬間、何となくその理由が分かってしまった。


「こちらで旦那様と奥様がお待ちです」
「失礼します……」
 するりと開けられた襖の向こうに会釈しつつ足を踏み入れた瞬間、視界に入って来た人物の姿に、美子は一瞬眩暈を覚えた。


(うっわ……、見事に幼稚園児と保育士。違和感が半端ないけど。この屋敷の人達の、微妙な顔付きと視線の意味が分かったわ。自分達の主夫妻がこんな格好している元凶が私と知ってたら、一体どんな人間なのかと訝しむわよね)
 思わず時間を戻して、華菱で不用意な事を口走った過去の自分を殴り倒したいと考えながらも、美子は精一杯気合を入れて笑顔を保ちつつ足を進めた。


「加積さん、桜さん。本日はお招き頂いて、ありがとうございます」
「あら、美子さん。そんなに畏まらなくて良いのよ?」
「そうだな。楽にしてくれ」
「はい」
 大きな座卓に夫婦と向かい合う様に座布団が置かれていた為、そこに落ち着いてから美子は改めて着物についての礼を述べた。


「この様に立派な着物一式を、ありがとうございました。予想以上に素敵な仕上がりで、一生物になりそうで嬉しいです」
「気に入って貰えて良かったわ」
「そうだな。それに良く似合っているし」
「本当ね。やっぱり若いって良いわねぇ。ところで美子さん。私達が頼んだ物も仕上がったから着てみたんだけど、どうかしら?」
(やっぱり来た! でも、変な事は言えないし……)
 目にした瞬間から聞かれるだろうとは思ってはいたものの、咄嗟に上手い言葉が浮かばないまま、美子は下手に取り繕わずに正直に言ってみた。


「あの……、全体の印象としては、若々しく見えるのではないかと思います。それにやはりインパクトがあり過ぎて、怖がる以前に驚かれるのではないでしょうか?」
「そうよね。やっぱりこの格好で、外に出てみないと反応は分からないわよね」
 それを聞いた美子は(さすがにその格好で外を出歩いたら、色々拙いんじゃ……)と思いながら、慎重に尋ねてみた。


「あの……、このお屋敷の中で、何人かの使用人の方とすれ違いましたが、皆さんはどんな反応をされたんでしょうか?」
 すると桜が、如何にも残念そうに答える。


「それがね? これを見せてもそこの笠原を初めとして、殆どが無反応だったの」
「無反応、ですか?」
「ええ。この屋敷にいる人間は、表情筋が機能不全を起こしているみたいでね」
「ご期待に沿えず、申し訳ございません」
 思わず振り返った視線の先で、先程自分を案内してきた後、そのまま部屋の隅で神妙に控えていた笠原が生真面目に頭を下げているのを見た美子は、内心で感嘆した。


(凄い……、これを見ても微塵も動揺しないって、使用人の鏡だわ)
 そこで加積が、思い出した様に言い出した。
「ああ、でもあの三人だけは、ちゃんと反応しただろう?」
 その台詞に、桜がおかしそうに笑う。


「そうだったわね。三人が三人とも、面白かったわ」
「何が面白かったんですか?」
 これ以上余計な事を言わない方が良いとは思いながらも、つい好奇心に負けて美子が尋ねると、加積が笑いを堪える口調で説明してきた。


「一人は『ボケちゃったんですか? ボケちゃったんですよね? 脳波検査とMRIと知能検査を認知度検査をさせて下さい! 痴呆者の脳内活動のデータを、一度生で見てみたかったんです!』とファイル片手にウキウキと迫られ、二人目には『そういうプレイをしたかったら、幼稚園児の格好じゃなくて、ロンパースとよだれかけを身に着けて、おしゃぶりを咥えて下さい。年齢と服装設定を間違えてます』と冷え切った視線でぶった切られ、三人目には『まだそんなお年じゃないのに、何てお気の毒な……。安心して下さい。全くわけが分からなくなっても、最期まで下のお世話もちゃんとしますから』とさめざめと泣かれてしまってな」
 苦笑しながら加積が語ったあまりと言えばあまりの内容に、美子が(聞かなきゃ良かった)と盛大に顔を引き攣らせていると、桜が上機嫌に会話に混ざってきた。


「本当に。誤解を解くのが、大変だったわね。三人とも、すっかりあなたがボケたと思い込んでいましたよ?」
「俺はそんなに、ボケそうな顔をしているか?」
「ボケそうに見えない人程、ある日一気にくるんじゃないんですか?」
「そういうものなのか?」
「さあ? 分からないから、あなた一回ボケてみて貰えません?」
「二回も三回もボケられるか。馬鹿者」
 そんな事を言って楽しげに笑っている夫婦を見ながら、美子は激しく脱力していた。


(なんかもう……、何もコメントできない。だけどさっき話に出ていた三人って、加積さんがどういう人間か分かっている上での発言なのよね。この屋敷には、プロの使用人を上回る勇者が居るわ)
 美子がしみじみとそんな事を考えているところに、唐突に声がかけられた。


「ところで美子さん」
「はっ、はいっ!!」
「漏れ聞くところによると、美子さんはサッカーが大変上手だそうだが」
「いっ、いえいえ、大した事では」
(漏れ聞くって、どこから何をどんな風に!?)
 加積からの問いかけに美子は動揺しながら言葉を返したが、夫婦は更に彼女を狼狽させる内容を口にした。


「そんなに謙遜しなくても。ペナルティーエリア外からのシュートも、お手の物なんでしょう?」
「何でも自宅には、縮小サイズのサッカーゴールが備え付けてあって、日々シュートに磨きをかけているとか」
「その殺人シュートで、以前自宅に忍び込んだ泥棒を、半殺しにしたのよね?」
「今の話、最後だけ明らかに間違っていますから!!」
「あら、そうなの? おかしいわねぇ」
(どうしてここで唐突にサッカーの話が。それにサッカーゴールの事は、高校時代のサッカー部の部員と、家に出入りした事がある人位しか知らないのに。どう考えてもおかしいわよ!)
 不思議そうに右手を頬に当てて首を傾げた桜を見ながら美子は自問自答したが、ここで加積がのんびりとした口調で話題を変えてきた。


「それでだな、美子さんがサッカーに興味がおありみたいだからと、うちに出入りしている人間に、桜が頼んでみたらしいんだ」
「それについて、美子さんの感想を聞きたいんだけど」
「……何についての感想でしょう?」
 かなり警戒しながら美子が問い返してみると、加積から目配せを受けた笠原が、彼の側に置いてあった漆塗りの幅広の盆を恭しく持ち上げて美子の前に運んできた。そして彼女の目の前に置いてから、その上にかけられていた紫色の風呂敷を、静かに取り去る。


「これって!?」
「これなの。どう? 美子さん」
 にこやかに桜から尋ねられるまでもなく、風呂敷の下からそれが現れた瞬間から、美子の目は釘付けだった。


(サッカー日本代表チーム公式ユニフォームのレプリカ!? しかもサポーター心をくすぐる背番号12だけでも十分なのに、TOUNOMIYAのネーム入り! どう考えても特注品よね!? どういうお金の使い方してるのよ、この夫婦!)
 そんな動揺著しい美子に、加積が笑顔で声をかけた。


「美子さん。気に入らないかな?」
「いえ……。大変、結構なのではないでしょうか?」
「それじゃあ、ちょっとこれを着てみてくれない? きっと似合うと思うの」
「……お借りします」
「良かった。気に入ってくれて!」
 ウキウキとした様子で桜が提案してきた内容に、美子は内心で少々葛藤したものの、素直に頷いた。


(負けた……。だってこんな物を見せられて、着ずに帰るなんて有り得ないでしょう。お父さんや小早川さんには、くれぐれも変な事はするなと言われてるけど、この場合、明らかに私用に準備された物を固辞する方が失礼よね)
 そんな風に言い訳がましく自分を納得させた美子は、部屋を借りて着物からユニフォームに着替える事にした。そして髪が崩れる為、一度下ろして後ろで一つに束ねるだけにする。そして着ていた物を綺麗に畳み、紐類も纏めてから先程の座敷に戻った。


「お待たせしました」
 そしてユニフォーム姿で戻った美子を、夫婦は揃って上機嫌で出迎えた。


「まあ、美子さん。やっぱり素敵よ?」
「ほう、さすがに凛々しいな」
「ありがとうございます」
「それでね? 外にシューズとボールも用意してあるの」
 如何にも(期待してるわ)と言わんばかりにそんな事を言い出した桜に、美子は冷や汗を流しながら質問した。


「あの……、まさか、ゴールポストまであるとか仰いませんよね?」
「まさか! 幾らか敷地が広いと言っても、サッカーグラウンドまでは確保できないわ」
「そうですよね」
「それでね? せっかくだから、靴も履いてみて貰えないかしら?」
「はぁ……、お借りします」
(履いてみて桜さんの気が済むなら、それ位は良いわね)
 どれだけ道楽好きなのかと半ば諦め、どこまでいたせり尽くせりなのかと半ば呆れながら、美子は彼女に手で示された縁側に歩いて行った。そして一歩先に出ていた笠原にガラス戸を開けてもらって、上がり口に用意されたシューズを履こうとしてしゃがみ込んだ瞬間、ある事実に気が付いた美子の頭が、一気に冷える。


(まさかこれって……、私が高校時代、部活動で履いていたのと同じブランド。それどころか、全く同じ商品の同サイズ!?)
 反射的に勢い良く桜達の方を振り向いた美子は、そこに変わらぬ笑顔の二人を認めてから、再び目の前のシューズにゆっくりと視線を戻した。


(ちょっと待って。何? 十年近く前の事を、どうやってここまで詳細に調べたの? それにこのシリーズはもう作っていなくて市場には流通していない筈なのに、どうやって調達したのよ。これはどう見ても新品なのに……)
 それらの通常では有り得ない事実を正確に認識した瞬間、美子の全身に鳥肌が立った。


(やっぱり変なお金持ちってだけじゃ、無かったわけね。お父さん達が言っていた得体の知れなさが、漸く分かったわ。あまり分かりたくなかったけど)
 のこのことここまで出向いた事を後悔しつつも、ここで帰る訳にはいかない事は分かっていた為、美子は気合いを入れてシューズを履いて庭に下り立った。


「どう? 美子さん」
「はい。あつらえた様にぴったりです」
「それなら良かったわ。じゃあボールもあるし、少し蹴ってみてくれない?」
(言われると思った。ここまで準備しているんですものね)
 縁側までやって来た桜からのそんな無茶ぶりにも、既に腹を括った美子は、さほど動揺しなかった。


「はぁ……。ですがどこに向かって蹴りましょうか。ゴールポストはありませんし、見事な庭木ばかりで、叩き折るには惜しいのですが」
 半ばヤケになって美子が申し出ると、桜がにこやかに笑って何回か両手を打ち鳴らす。


「ゴールは無いけど、的だったら有るのよ。皆! ちょっとお願い!」
「はい?」
 桜の声を合図に、どこからともなく笠原と同様の上下黒の男達が現れ、見事な和風庭園の中に分け入って行った。


(ちょっと、何あの人達。……えぇ!?)
 そして不思議に思って眺めている視線の先で、彼らが手にしていた物を頭に被ったのを見て、唖然としてしまう。


「はい。的が出来たから、あそこ目掛けて蹴ってみて?」
「…………っ!!」
 桜がにこやかに指差しながら促してきたが、黒スーツの十人の男達の額にはめられた輪に、垂直に取り付けられた直径六十センチ程の円形の白黒で色分けされた的を見て、美子は盛大に怒鳴りつけたいのを必死に堪えた。


(サラッととんでもない事、言わないで貰えますか!? 成人男性の頭上より高い位置だから、直接狙うのも軌道計算するのも難しいし、普通自分の顔目掛けてボールが飛んできたら、誰だって無意識に避けますって!!)
 思わず頭の中で悪口雑言を垂れ流してしまった美子だったが、落ち着き払った加積の声で、瞬時に我に返った。


「ちょっと難しいかな? 美子さん」
「……いえ、やらせて頂きます」
「ほう? そうか」
 てっきり音を上げると思っていたのか、興味深そうに自分を見つめてくる加積の視線から目を逸らしながら、美子は足元に転がっているサッカーボールを凝視した。そして自分自身に言い聞かせる。


(お父さん達の忠告を聞かずに、のこのこ出向いたのは私の責任よ。それにここで私がヘマをしたら、下手したら家や会社が被害を受けるかもしれないじゃない。ここは自力で何とかするしかないわ)
 そして一つのボールの上に右足を乗せ、軽くボールを前後に転がしながら、視線はまっすぐ前方を見据えて考えを巡らせる。


(取り敢えず、一番狙いやすいのはあそこ……。変に何回も練習したら、却って緊張してぶれるかも。よし、女は度胸!!)
 そして美子は何の宣言もせずにいきなりボールを軽く前方に転がし、逆回転がかかったボールが1メートル位の位置で止まった所で、素早く二歩踏み込んだと思ったら勢い良くそのボールを空中に向かって蹴り出した。


「いっ、けぇぇっ!!」
 そうして美子の渾身の気合で蹴り出したボールは、ほぼ一直線に飛んで行き、一人の頭上の的を弾き飛ばしてそのまま後方に飛んで行った。それを見た桜達が、拍手しながら感嘆の声を上げる。


「きゃあっ!! 凄いわ、美子さん。命中よ!!」
「ほう、これは凄い。いやあ、大した物だ」
「……どうも」
 称賛の言葉に対して美子は辛うじて笑顔を保ちながら言葉を返したが、内心では結構動揺していた。


(『大した物』なのは、ここの使用人の皆さんですよ!! どうして顔目掛けて一直線にボールが飛んできてるのに、目を見開いたまま微動だにしないで直立不動でいられるの!? 普通無意識に避けるわよね? そのおかげで的中したけど、あの人達自立歩行式ロボットなの!? まかり間違って顔面命中コースでも、絶対に避けないで大量出血確実だわ!?)
 顔面直撃コースでも全く動じない男達に、うすら寒い物を感じた美子の心情などお構いなしに、桜が楽しそうに促してくる。


「美子さん! 他の的にも当ててみて?」
「はぁ……、やってみます」
(もうどうだって良いわ。あれは自足歩行ができる、高性能案山子よ。誰が何と言っても案山子だわ。ボールがぶち当たっても、鼻血なんか出ないんだから!!)
 かなり無茶苦茶な事を考えながら、それから美子は殆ど自棄でボールを蹴り続けた。


「とぅ、りゃあぁぁーっ!!」
「きゃあ! また当たったわ~」
「いやいや、これは凄いな」
(あはは……、もう、どうとでもなれだわ……)
 取り敢えずこの場を何とか穏便に切り抜けたい一心でボールを蹴り続けた美子が、六球目で六つ目の的を見事に弾き飛ばしたところで、かなり向こうの塀の外から喧騒が伝わってきた。


「あら、何かしら?」
「随分騒々しいな」
(本当。この辺は閑静な住宅街だし、幹線道路からは奥に入っているから、逃走車両なんかも来ないと思うんだけど……)
 どう考えてもパトカーのサイレンや、スピーカーでの制止や警告らしき音声が塀に沿って響いてきたが、はっきりと聞き取れないうちに、何やら派手な衝突音と怒声が入り交じった騒動が伝わってきた。


「何?」
 美子が目を丸くする中、流石に顔を顰めた加積が傍に控えていた笠原に言いつける。
「笠原、ちょっと様子を見て来てくれ」
「畏まりました」
 落ち着き払った動作で一礼した笠原が姿を消すと、桜がしみじみとした口調で述べた。


「こんな所で事故かしら。危ないわねぇ」
「本当にそうですね」
「じゃあ美子さん。次、あそこもやってみて?」
「……はい」
 やっぱり最後までやらないと駄目かと、美子はがっくり項垂れながら残る的に意識を集中しようとしたが、ここで急に背後が騒がしくなってきた事に気が付いた。


「……るな! ……がっ!」
「お前……、……の、か……」
「……、邪魔す……、そこ……」
「……押さえ……、……ざけっ、……っ!」
(何事なの? 切れ切れにしか声が聞こえないけど、段々、騒ぎが大きくなっている様な気が……)
 そう訝しんでいた美子の目の前で、突然四・五人の男が一塊になって生け垣を回り込んで庭に乱入してきた。


「……っの! くたばり損ないの妖怪じじぃ!! どこに居やがる!?」
「ふざけるな! 貴様こそ、とっとと失せろ!! 身の程知らずの若造がっ!!」
「お前らこそ、公務執行妨害で全員纏めて現行犯逮捕だ!! その手を離せ!!」
 血相を変えて怒鳴り散らしている秀明を、排除しようとしている笠原と同様の黒スーツの男達と、秀明の身柄を確保しようとしているらしい警察官達が、互いに牽制し合い、取っ組み合っている三つ巴の状態に、美子は一瞬呆然としてから無意識に叫び声を上げた。


「ちょっと! どうしてあんたがここに居るの? まだ南米に居る筈じゃない!?」
「どうして、って……」
 その声で美子に気付いた秀明は、警官を殴り倒そうとした手の動きを止めて固まった。そして彼と同様に集団から遅れて庭に侵入してきた幾人かの警官達も、美子の他、加積夫妻や庭に点在している的人間を見て、あまりの非日常的な光景に無言になって動きを止める。


「……お前、ここで一体、何をやっている?」
「何を、って……」
 警官の胸倉から手を離し、ゆっくりと美子に近付きながら、地を這う様な声音で尋ねてきた秀明に、美子は狼狽して口ごもった。しかし桜が縁側で立ち上がって、堂々と言い放つ。


「見て分からないの? コスプレに決まってるじゃない。美子さんがサッカー選手になって、幼稚園に慰問に来たって設定なの。皆、騒ぎ立てる様な、無粋な真似は止めて頂戴」
 その物言いに、秀明はピクッと頬を引き攣らせたが、黒スーツの男の一人が深々と頭を下げて謝罪してきた。


「申し訳ございません、奥様。不法侵入者が大挙して押しかけまして、表で対処しきれませず」
「こちらに人数を割いてしまったから、仕方あるまい。そちらの方々には、即刻お引き取り願おうか。職務に忠実な事は賞賛に値するが、生憎とそれはうちの客人なので、それを置いて引き上げて貰うと嬉しいんだが」
 加積が鷹揚に頷き、その場の責任者らしき私服警官に話しかけたが、その要請に少しの間傍観していた警官達は、途端に我に返っていきり立った。


「あなたがこちらのご主人か? 無茶な事は仰らないで頂きたい! この男は危険運転及び道交法違反での現行犯逮捕をさせて貰う。ほら、とっとと来い!」
「ふざけるな! 俺はこれからこいつを連れ帰る必要があるんだ。お前らはとっとと失せろ!」
「ふざけてるのはお前の方だろうが!」
「やれやれ困ったな。どうしたものか」
 目の前で秀明を警官が取り囲み、更に黒スーツの男達と警官の間にも一触即発の気配が漂い始めたのを感じた美子が、オロオロと為す術も無く事態を見守っていると、どこか間延びした口調で加積が尚も口を挟んだ。


「もう一度尋ねるが、私の申し出はそんなに無茶な事かな?」
「当たり前です! 第一」
「お話中、申し訳ありません。あなた様のお名前は、鈴鹿様と仰いますか?」
 怒りで顔を赤らめながら、私服警官の一人が加積に向かって言い募ろうとした時、どこからともなく現れた笠原が彼に親身にお伺いを立てきた。その為、相手も一応怒気を収めて笠原に向き直る。


「あ、ああ、そうですが、何か?」
「鈴鹿様の上司の方とお電話が繋がっておりますので、出て頂けますか?」
「はあ? 分かりました。お借りします」
 恭しく差し出された携帯を、当惑しながら鈴鹿が受け取り、周りの警官達も怪訝な表情になって互いの顔を見合わせた。


「はい、鈴鹿ですが……。署長!? いえ、その……。はぁ!?」
 そして話し始めてすぐに携帯を耳に当てながら勢い良く加積を振り返り、すぐに背中を向けながら小声で「しかし」とか「ですが!」などと電話の向こうにいる人物に反論していた様だったが、さほど時間を要さずに通話が終了した。


「……分かりました。その様に取り計らいます」
 そして通話を終わらせて笠原に携帯を返しながら、鈴鹿が無念極まりない表情と口調で申し出た。


「お邪魔いたしました。そちらの方の行為は、不問に付すとの上の指示ですので……」
「無駄骨を折らせて悪かったな」
「気を付けてお帰りになってね」
 憎々しげに秀明を睨みながら辞去した鈴鹿達を、加積達は朗らかな笑顔で見送った。


「笠原、どうやった?」
「表の方で倒れていた警官の方に、所属部署をお尋ねしまして。そちら方面に影響をお持ちの田部様に連絡して、所轄の署長にお口添えして頂きました」
「相変わらず仕事が早いな」
「ありがとう、笠原」
「いえ、当然の事でございます」
 淡々とした主従のやり取りに美子がひたすら唖然としていると、笠原の口からとんでもない内容が飛び出してきた。


「ところで、その男は何をしたんだ?」
「成田から制限速度五十キロオーバーで飛ばして、周囲の車を煽ったりかすめたりした挙げ句、信号無視で交差点を突っ切り、避けようとした車同士が衝突、追突事故を起こしたそうです」
「五十キロ……」
「免停確実だな」
「あらあら。暴れん坊さんねぇ」
 そんな事実を電話一本で無かった事にするなんてと、美子が改めて加積夫妻に対する畏怖を覚えていると、更に驚愕する事実が耳に飛び込んでくる。


「更に一方通行を逆走してこちらの道に入り、門前で派手にスピンさせて車の側面を正門に派手に衝突させた上で斜めに突っ込み、無理やり門に隙間を開けて邸内に侵入しました。それを追って来た警官も乱入して、こちらの人間とも混戦状態になった次第です」
「一体、何やってるのよ!?」
 本気で呆れ果てて秀明を怒鳴りつけた美子だったが、忽ちその数倍の剣幕で叱りつけられる羽目になった。


「それはこっちの台詞だ!? 急いで仕事を片付けて、死に物狂いで車を飛ばして駆けつけてみれば、妖怪夫婦と仲良くコスプレの真っ最中とはどういう了見だ!? 人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!!」
 秀明が本気で怒っているのが否応なく分かってしまった為、美子は怖じ気づきながらも必死になって弁解の言葉を口にした。


「だっ、だって! 背番号が12番よ!? ネーム入りよ!? 着なきゃ駄目じゃない!」
「全然意味が分からん!! だからお前は世間知らずだって言ってるんだ、この間抜け女!!」
「それはっ……、そうかもしれないけどっ……。だっ、だってぇぇっ……」
 そこでとうとう張り詰めていた緊張の糸が切れてしまった美子は、人目もはばからずに「うえぇぇっ!」と大声を上げて泣き出した。その豪快な泣きっぷりに、秀明を筆頭とする周りの者が唖然となる。


(だ、駄目っ……。何か急に安心しちゃったら、涙が止まらない。でも、大泣きしちゃって加積さん達が興醒めしちゃったら、お父さんや美恵達に迷惑がかかるかも……)
 そうは思ってもなかなか収まらない涙に美子が内心で焦っていると、秀明も怒りを抑えて僅かに狼狽した様に声をかけてきた。


「え? あ、おい。何もそんなに泣く事は無いんじゃ」
「まあぁ、女性を泣かせるなんて、最低な殿方ねえ」
「全くだな。こんな男が巷にはびこっているとは、嘆かわしい」
「あのな……、そもそもこいつがこうなったのは、あんたらのせい……、って、おいっ!?」
 好き勝手言っている加積と桜に、秀明が怒りの形相で文句を口にしようとしたが、ここでいきなり美子が秀明に駆け寄った。当然誰もが彼女が秀明に抱き付くかと思いきや、彼のジャケットの胸元を両手で掴み、ずびび――っと勢い良く、遠慮の欠片も無しに鼻をかむと言う暴挙に及び、その場に再び秀明の怒声が響く。


「美子!! お前は何でここでこの場面で、俺の服で力一杯鼻をかむ様な真似をするんだ!?」
「加積さんや桜さんに向かって、こんな真似はできないからに決まってるでしょうがっ!!」
「そういう問題じゃ無いだろうが!?」
「だっ、だってぇぇぇぇっ! なっ、泣き止まないと駄目ぇぇっ!」
「だったらさっさと泣き止め!!」
「むっ、無理ぃぃぃぃっ!! ふえぇぇぇっ!!」
「おいっ!! だから、ちょっと落ち着け!?」
 そして自分のジャケットを握り締めたまま、再び本格的に泣き出した美子を、秀明はこめかみに青筋を浮かべながら叱りつける。そんな光景を見せられた桜は、とうとう腹を抱えて爆笑し始めた。


「あはははははっ! やっぱり美子さん、最高だわ!」
「いやあ、俺だったら本気で惚れた相手にだったら涙や鼻水塗れにされても本望だが? どうした、色男」
「お前ら……」
 ひくっと頬を引き攣らせて不穏な気配を醸し出し始めた秀明を、即座に黒スーツの男達が囲もうとしたが、加積は僅かな手の動きだけでそれを制した。


「ここでこうしていても始まらん。美子さんは勿論帰すつもりでいるが、その格好のままでは少々問題があるだろう。元の着物に着替えながら、顔もどうにかさせよう。その間、お前はちょっと俺の話し相手になって貰おうか」
「あんたと話す事なんて」
「俺にちょっとした借りを作ったばかりの、招かれざる客は誰だろうな?」
「……ちっ」
 加積の提案に反論しようとした秀明だったが、重ねて告げられてさすがに分が悪い事を再認識した為、盛大な舌打ちをしてから自分のジャケットを掴んでいる美子に嫌々ながら言い聞かせた。


「取り敢えずそれを着替えて、まともな格好でましな顔にして来い。話はそれからだ」
「うぇぇっ……、は、はいっ……」
 ぐすぐすと美子が泣きながらも取り敢えず頷き、苦笑いしている桜に宥められながら屋敷の中に連れて行かれるのを黙って見送った秀明は、加積に促されて縁側から上がり込んだ。そして先程美子が通された座敷で、人払いをした加積と向かい合う。


「さて、若いの。俺からちょっとした提案があるんだがな?」
「断る」
 即座に真顔で断りを入れた秀明に、加積が面白そうな顔つきになる。


「話を聞く前から断定するのは、得策では無いと思うが?」
「どう考えてもあんたの持ちかける話なんて、面倒な事としか思えない」
「良い勘をしている。尚更気に入った」
 益々機嫌良さそうに笑った加積に対して、秀明がはっきりとした渋面になる。そして本人が全く預かり知らない所で、美子に関する重要な事があっさりと取り決められてしまった。



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