半世紀の契約

篠原皐月

第32話 桜と佐倉

 加積夫人との出会いの直後、美子も名前だけは聞いた事がある有名な老舗呉服店から電話で連絡を受けた美子は、自分の都合がつく日時を指定し、当日女性二人を迎え入れた。


(二日で出向いてくるなんて、早いわね。さすが老舗と言うべきか、加積さんがお得意様と言う事かしら?)
 二人を座敷に通し、座卓に向かい合って座りながらお茶を出すと、恐縮気味に頭を下げた年配の着物姿の女性が、自己紹介をしつつ名刺を差し出してくる。


「本日はお時間を頂き、ありがとうございます。加積様からの依頼で《華菱》から参りました、鹿嶋と申します」
「採寸担当の桐原です」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
 若いスーツ姿の女性も隣に倣って頭を下げてから名刺を差し出してきた為、美子は反射的にそれらを受け取ってから、素朴な疑問を口にした。


「私も着物は何度も作っておりますが、毎回店舗に出向いておりまして。今回の様に顧客先に出向く事は、結構有るのですか?」
「確かにあまりございませんが、それぞれのご事情もおありなので、お話があればこちらから出向いておりますので、お気遣いなく」
「はあ、そうですか」
 笑顔で受け流した鹿嶋に美子が曖昧に頷くと、一口お茶を飲んでから茶碗を置いた桐原が、さり気なく申し出る。


「それでは藤宮様。早速採寸をさせて頂きたいのですが」
「はい、構いません」
 そうして立ち上がった美子と桐原は座卓から少し離れて、身丈や着丈、裄等の寸法を測り始めた。そして手際良く採寸した内容を、残さず手元のファイルに記入し終えた桐原が、笑顔で礼を述べる。


「ありがとうございました。それでは早急に加積様からのご依頼通り、仕立てに入りますので」
「宜しくお願いします」
(思いがけず面倒な事になっちゃったけど、これで取り敢えず一件落着ね)
 安堵しながら座布団に元通り座った美子の向かい側で、鹿嶋と桐原が笑顔で会話を交わした。


「縫製担当者に、至急寸法を連絡します」
「ええ。久々の大仕事だもの。店中盛り上がっているしね」
(そういえば加積さんは、どんな着物を仕立ててくれるのかしら? 期待半分不安半分ってところね。でも身に着けていた物は上品かつ最上級品だったし、そんなに変な事にはならないと思うけど。それに久々の大仕事って……)
 そこで美子は、何気なく問いを発した。


「鹿嶋さん。一つお尋ねしても宜しいでしょうか?」
「はい、藤宮様。何かご不審の点がおありでしたか?」
「先程『久々の大仕事』とか仰った様ですけど、どういう意味でしょう? 華菱さん位なら、商品が全く売れない日が続くという事は無いでしょうし」
 一反売れた位でそんなに喜ぶのはおかしくないかと、不思議そうに美子が尋ねると、鹿嶋はにこやかに笑いながら詳細を告げた。


「まあ! 勿論ですわ! 日々お客様にご満足頂ける様に励んでおりますが、さすがに一度に反物が二百反売れるなんて事は、滅多にございませんので」
「にひゃっ!?」
 満面の笑みで語られた内容に、美子は驚きのあまり声をうわずらせたが、桐原が冷静に先程の発言を補足する。


「鹿嶋さん。正確に言えば百八十三反です。本当に、加積様からお話を頂いた途端、会計担当が狂喜乱舞してましたね」
「勤めてそれなりの私でも、こんな景気の良いお話は滅多に無いわ」
 しみじみと頷き合う二人を見て、美子は慌てて身を乗り出しながら、事の次第を問い質した。


「ああああのっ! ちょっと待って下さいっ! 何がどうなったら、そんな大量の着物を仕立てる事になるんですか!?」
 その訴えに、鹿嶋が不思議そうな表情になる。


「加積様からお聞きではありませんか?」
「全然、これっぽっちも、お伺いしていません!」
「昨日、加積様がご来店された折に、店の者とあれこれ見ながら相談されたのですが、『今時の若いお嬢さんがどんな物を好むか良く分からないから、取り敢えずここからここまでの物を全部仕立てて頂戴』と仰られまして」
「……はい?」
 サラリと言われた内容を咄嗟に理解できなかった美子が固まったが、桐原が笑顔のまま話を続けた。


「それで『ここからここまで』と、手で示された棚の範囲に入っておりました反物の数量が、先程の数字になります」
「加積様は『これだけ作れば、一着位は気に入った物ができるわよね』と仰いましたし、私共と致しましても、より多くの品物をお買い上げ頂けるとあれば、文句の付けようもございませんので」
「ちょっと待って下さい! 私はそんな……。そもそも汚した着物のお詫びに新しい物を仕立てるというお話だったので! そんな途方もない枚数なんて、夢にも思っていなくて!」
 語気強く迫った美子だったが、鹿嶋は多少困った様に小首を傾げただけだった。


「そう仰られましても……、既に手付け金として二百万頂いておりますし。できれば当事者同士でご相談して頂けると、私共としては非常に助かり」
「すみません! ちょっと失礼します!」
 話の途中で美子が血相を変えて席を外した途端、鹿嶋と桐原は互いの顔を見合わせて無言のままおかしそうに笑った。しかし当然美子はそれに気付かないまま、連絡先を記入してある紙を保管してある場所まで駆けていき、携帯のボタンを慌てて操作して電話をかけ始める。


(何なのよ、あの加積さんって! 常識無いの? 頭悪いの? それとも金銭感覚が緩すぎるの!? ちょっと汚したお詫びに『ここからここまで』って、有り得ないでしょうが!!)
「はい、加積です」
 頭の中で盛大に文句を言っているうちに、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。その声が若い感じだった為当人ではないと判断して、焦り気味に取り次ぎを頼む。


「すみません、藤宮と申します! 桜さんはご在宅でしょうか? お手すきの様なら代わって頂きたいのですがっ!!」
「藤宮さまですね? 少々お待ち下さい」
 相手が冷静に断りを入れ、保留中の電子メロディーが流れる中、美子は苛々しながら待っていたが、一分程で目的の人物が声をかけてきた。


「こんにちは、美子さん。どうかされたのかしら?」
 待っている間に何とか気持ちを落ち着かせた美子は、取り敢えず喧嘩腰にならない様に気を付けながら言葉を発した。
「お忙しい所、申し訳ありません。あのですね……、今自宅に華菱さんから、営業と採寸担当の方がお見えになっているんですが」
 それを聞いた桜が、不思議そうに尋ねてくる。


「あら? その人達が美子さんに、何か失礼な言動でも?」
「いえいえ滅相もありません! そうではなくて、何故か二百着近くの着物を仕立てる話になっているんですが?」
「ええ、そうお願いしたもの」
(サラッと言わないでよ。お願いだから!)
 平然と返された言葉に、美子は思わず床に蹲りそうになったが、気力を振り絞って話を続けた。


「あの、加積さん? 私は本当に一枚だけのつもりで、お話を受けたのですが?」
「たくさんあっても、腐る物では無いでしょう?」
「手入れが行き届かなくて、虫に食われたり刺繍が解れたり色が褪せる可能性はあります」
「それもそうね。でもたくさん作ったら、全体数で見れば被害は少ないんじゃないかしら?」
(微妙に話が通じない。この人、実は異星人とか?)
 思わず遠い目をしながら、埒も無い事を考えてしまった美子だったが、電話越しに桜が当惑気味に言って来る。


「でも、困ったわね……。一着だけ贈る事にしても、お気に召さない物を贈ってしまったら意味がないし」
「本当に、加積さんのお見立てした物で結構ですから。一昨日お召しになっていた物も、とても素敵でしたし」
「ありがとう、嬉しいわ。ところで美子さん。私の事は『加積さん』ではなくて、『桜さん』と呼んで貰えないかしら?」
「え? あの、それは一体どういう事でしょうか?」
 嬉しそうな声になったと思ったらいきなり話題を変えてきた桜に、美子は本気で面食らったが、ここで桜はしんみりとした口調で言い出した。


「だって最近、私の事を名前で呼んでくれる人が少なくなって……。普段周りの皆には『奥様』とか『加積様』とか『加積の奥さん』とか呼ばれているけど、昔からの友達とか親しい親戚とかは、『桜ちゃん』とか『桜さん』って呼んでくれているの。だけど皆寄る年波に勝てなくて、その人達はどんどん出歩けなくなったり、儚くなったり……。私を名前で呼んでくれる人は、最近減る一方なのよ」
「はあ……」
 何となく気持ちは分かる為、下手な事は言わずに曖昧に頷いた美子だったが、ここで桜が口にした内容に瞬時に反応した。


「だからね? 新しく知り合う方には、最初から『桜さん』って読んで貰う様にしてるのよ。良いでしょう? 『桜さん』って呼んでくれるなら、今回差し上げる着物は一着だけにするわ。華菱には私の方から、きちんと断りを入れるし。どうかしら?」
「そういう事なら、桜さん。宜しくお願いします」
 即決して携帯を耳に当てながら頭を下げた美子に、桜は笑いながら言葉を返した。


「分かったわ。私の方からきちんと連絡するから安心して。それじゃあ美子さんと私の都合が良い時に、一緒に華菱で反物を選びましょうね? お互いが満足できる一着にしたいから」
「分かりました。必ず出向きます」
「それでは切らせて貰うわね。早速華菱の方に、連絡を入れますから」
「はい、失礼します」
 そうして取り敢えず交渉を終わらせた美子は、大量発注を回避できて心からの安堵の溜め息を吐いた。


「良かった……。そうだわ。席を立ったついでに、お茶を淹れ直していきましょうか」
 そう呟いた美子は早速台所に向かい、新しくお茶を淹れて完全に気持ちも落ち着かせてから座敷に戻った。


「お待たせしました。お茶のお代わりを淹れて来ましたので、宜しかったらどうぞ」
 そう言いながら美子が新しい茶碗を差し出すと、鹿嶋と桐原が飲み干した茶碗と交換しながら礼を述べた。


「ありがとうございます」
「頂きます」
「そう言えば、藤宮様。先程店から連絡がありまして、加積様から『やはり仕立てるのは一着のみで』とのお話があったそうです」
 鹿嶋が茶を一口飲んでから、何気なく口にした内容に、美子は素直に感心した。


(早速電話するとは言っていたけど、連絡が早いわね。老舗だけあって仕事が早いみたい)
 それと同時に、店にとっての稼ぎ話を潰してしまった事に思い至り、自分だけのせいだとは思えなかったものの、取り敢えず頭を下げる。


「そうですか。その……、色々と申し訳ありません」
 それを見た鹿嶋は、鷹揚に微笑みながら頷いた。
「構いませんわ。ご依頼を頂けた事には変わりありませんし。きっとご満足頂ける物を仕上げてみせますので、ご来店をお待ちしております」
「はい、近日中にお伺いします」
 そうして頭の中で近日中の予定を思い浮かべながら、仕事を終えた鹿嶋と桐原を見送った美子は、二人の姿が見えなくなると同時に、深い溜め息を吐いた。


(取り敢えず三桁の着物を仕立てるなんて、ふざけた話にならなくて良かったわ)
 座敷の茶碗を片付けながら考えを巡らせた美子は、ふと、先程の桜とイメージが重なる男の事を思い出した。


(桜さんってどこか飄々としていて、他人の迷惑を考えないで、自分の思っている方向に他人を誘導する所が、あの男と似ている様な気が……)
 そこまで考えて、いつの間にか手を止めていた事に気付いた美子は、勢い良く首を振る。


(あいつとは違って、桜さんの方に悪気は無いのよ。だから二人を同列視するのは、桜さんに失礼だわ)
 そうして、暫く音沙汰が無い秀明に対する文句を無意識に口にしながら、美子は片付けを続行した。


 その日の夕食時。同じテーブルを囲んでいた美実、美野、美幸に対して、美子は日中あった事を掻い摘まんで説明した。
「そういう事が、日中あったのよ。その二人が帰った後、何か精神的な疲れがどっと出ちゃって……」
 そう言って小さく溜め息を吐いた美子に、美幸が納得した様に頷く。


「だから帰って来た時、何も掛けずにソファーに横になったまま、熟睡してたのね」
「美幸ならいざ知らず、美子姉さんはそんな事をした事は無かったから、美幸から話を聞いた時、余程具合が悪かったのかと心配しちゃったわ」
「美幸ならいざ知らずって、何よそれ!」
「本当の事じゃない」
 口を挟んできた美野に美幸がいつも通り噛みつき、いつもの事ながら美子がうんざりしながら宥めに入る。


「二人とも、そんな事で喧嘩しないの。ちゃんとご飯を食べなさい」
 そこで唐突に、美実が問いを発した。
「美子姉さん。それで今度、華菱に出向く事になったのね?」
「ええ。きちんと納得できる物を選んで、一着だけ仕立てて貰う事にするわ」
「それで終われば良いけど……」
「どういう意味?」
「何でもないわ。独り言よ。ところで、その太っ腹過ぎるおばあさん、何て名前の人なの?」
 何やら意味深に呟く様に口にしてから、美実は真顔になって尋ねた。それに美子は正直に答える。


「桜さんって言うのよ」
「ふぅん……、佐倉さんね」
 そこで二人の認識に若干の齟齬が生じたが、どちらもそれに気が付かないまま話を続けた。


「因みにその佐倉さんって、どこら辺に住んでる人?」
「桜さんに住所を書いて貰ったけど、詳しい番地まで暗記していないわ。三田に住んでいるのは確実だけど」
「三田の佐倉さん、ねぇ……」
 そこで“謎のおばあさん”の話題は終了し、美子達は世間話などをしながら、楽しく夕食を食べ終えたのだった。




「そう言う話を夕食時に美子姉さんから聞いたんだけど、淳はどう思う?」
 自宅マンションに帰り着いたのを、狙った様にかかってきた電話の内容に、淳は無意識に渋面になった。


「少々胡散臭くないか? 最初から店舗に出向いて選ばせるとなると、さすがに美子さんも遠慮すると考えて、嫌でも出向いた方がマシって状況を作り出したとも考えられるが……」
「でも、本当に善意から申し出た可能性も、捨てきれないのよ。相手はおばあさんだし。美子姉さんが警戒心を抱かない位だから、そんなに変な人じゃ無いと思うし」
「確かにそうなんだよな……」
 珍しく困惑を露わにしている口調の美実に、淳は判断に迷ったものの、取り敢えずの最善策を口にしてみた。


「そのばあさん、三田に住んでいる佐倉って名前だと言ったよな?」
「ええ、そうよ」
「話の内容ではあの華菱の常連らしいし、そんなに羽振りが良いなら、名前と住所が分かればどんな人物か位は分かるだろう。少し時間がかかるだろうが、こっちで調べてみる。色々調べ方はあるからな」
「お願い。何か引っかかってて」
 妙に神妙な口調で礼を言ってきた恋人がおかしくなって、淳は小さく笑いを漏らした。


「お前も美子さん絡みでは、結構心配症だったんだな。秀明を笑えないぞ?」
「……悪かったわね」
「麗しい姉妹愛だと誉めてるんだぞ? それじゃあな」
 若干拗ねた様に返してきた美実を宥めながら通話を終わらせた淳は、無意識にカレンダーに視線を向けながらひとりごちた。


「まあ、秀明に知らせる程の事では無いな。軽く調べるだけで良いか」
 無理矢理自分を納得させる様に呟いた淳は、早速『三田の佐倉』なる人物について調べられそうな人物に、連絡を取り始めた。





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