半世紀の契約

篠原皐月

第31話 鬼の居ぬ間に触手

 淳が職場の机で翌日の調停に必要な書類を纏めていた時、ワイシャツの胸ポケットに入れておいた携帯電話が音も無く震え、メールの着信を知らせた。何気なくそれを取り出して内容を確認した淳だったが、友人からのその内容に、僅かに顔を顰める。


(秀明? あいつがわざわざ、こんなメールを送ってくるとは……)
 現在時刻を確認した淳は、数秒考え込んでから立ち上がり、手に取ったジャケットを羽織りながら周囲に軽く会釈して歩き出した。そして雑居ビルのワンフロアを占めている勤務先の弁護士事務所を出て、若干冷気を感じる廊下を進み、突き当たりの大きな窓の前に立つ。淳はそこで外の景色を眺めながら携帯を取り出し、秀明に電話をかけ始めた。


「秀明。聞いていた予定だと、そろそろ搭乗手続きをする頃じゃないのか?」
 それほど待たされずに電話に出た秀明に淳が不思議そうに尋ねると、苦笑気味の声が返ってくる。


「実は今、ゲートの前なんだが……、どうにも嫌な予感がしてな。仕事中に悪かった」
「ちょうど一息入れようとした所だったから、そこは気にするな。それで? メールに『彼女の身辺に気をつけてくれ』と書いたって事は、嫌な予感ってのは美子さん絡みなんだよな?」
 一応確認を入れてみると、肯定の言葉が返ってきた。


「漠然とだがな。自分絡みだったら、迷わずフライトをキャンセルするところだ」
「洒落にならん事を言うな」
 これから長時間飛行機に乗ろうって奴が何を言っているんだと半ば呆れながら、淳は困惑気味に話を続けた。


「だが、あのいけ好かない一家はつい最近関西に追い払えたし、彼女の従弟は国外に出ちまったそうだから、差し当たって美子さんが面倒事に巻き込まれる可能性は低そうだがな。そもそもお前も、一ヶ月したら帰国するし」
「確かにそうなんだが……」
 どうにもすっきりしない物言いを続ける親友を安心させる様に、淳は笑いながら請け負った。


「まあ、そういう時のお前の勘を無視すると酷い目に遭うって言うのは、誰よりも俺が一番分かっているからな。美実とこまめに連絡を取り合って、何かある様なら俺ができる範囲で手を打つさ。あまり心配しないで行って来い」
「ああ、お前に任せておけば、大抵の事は対処できるだろうからな。宜しく頼む」
 いつになく神妙な口調で告げてくる悪友をからかうべく、ここで淳は軽口を叩いてみた。


「しかし早く帰国したいからって、間違っても商談相手を締め上げるなよ?」
「それはできるだけ、そうしない様に心がけるつもりだ」
 それを聞いた淳は、瞬時に真顔になった。


「おい……、本当にするなよ?」
「あまり自信が無い」
 笑いを含んだ秀明の台詞に、淳は若干頭を抱えつつ会話を終わらせた。そして手の中の携帯を一瞬不安げに見下ろしたものの、懸念を振り払う様にして淳は職場へと戻って行った。
 男二人の間で、そんなやり取りがあったなど知る由も無い美子は、同じ日に美野と一緒に、夕飯の支度をしていた。


(あれきり連絡は無いし、本当に南米に行ったのよね)
 手際良く玉葱を薄切りにしていた美子は、何気なく秀明の事を思い出して密かに腹を立てた。


(全く……。『電話もメールも拒否してるだろう』って決め付けてないで、試してから言いなさいよ! 確かにずっと着信拒否のままにしておいた私が、一番悪いんでしょうけど)
 ホテルでのやり取りがあった後に、恐る恐る秀明に電話してみたものの、全く繋がらなかった事を思い出して美子は苛ついたが、自分自身にも非がある事は理解していた為、黙々と調理を続けた。そしてスライスし終えた玉葱をボウルに移してから、今度は大根を取り上げて桂剥きを始める。


(海外で使えない携帯みたいだし、わざわざ会社にあの人の滞在ルートや宿泊先を尋ねるのも大袈裟過ぎるし。第一、一ヶ月すれば帰国するんだから……)
 一心不乱に包丁を滑らせていた美子だったが、料理とは無関係な事に気を取られ過ぎたせいか、そこで彼女には珍しく失態をしでかした。


「痛っ!」
 包丁を滑らせ、大根を回していた左手の親指をかすめてしまった為、斜めに切れた場所からじわりと血が滲んできたのを見て美子は気落ちし、居合わせた美野は慌てた。


「美子姉さん、大丈夫!?」
「平気よ。ちょっと切っただけだし」
「それなら良いけど……」
 苦笑しながら妹を宥めた美子は、冷静に大根に付いた血を洗い流してから、同様に傷口を綺麗にする。しかし美子はそれを見下ろしながら、ぼそりと呟いた。


「ねえ、美野」
「何? 美子姉さん」
「もしかしたら私って……、自分が思っている以上に鈍かったのかもしれないわ」
 実にしみじみとしたその口調に、美野は完全に狼狽した。


「えぇ!? 美子姉さんは鈍くなんか無いわ! 指を少し切った位で、そんな自信を無くしたような事を言わないで!?」
「そう?」
「そうよ! だって美子姉さんは小さい頃から運動神経抜群で毎年リレーの選手だったし、サッカーだって上手だし! 私、小さい頃よく玄関の僅かな段差で転んで顔を打ってたけど、美子姉さんは同じ所で躓いても、華麗に前転して怪我した事なんか無いって美恵姉さんが言ってたし!」
 力一杯見当違いな主張をしてくる美野に、美子は思わず遠い目をしてしまった。


「そういう意味じゃなくて……」
「え?」
「ううん、何でもないわ」
 溜め息を吐いて力無く首を振った美子に、美野は真顔で申し出た。


「美子姉さん、傷口を消毒して絆創膏を貼ったら休んでいて。後は私が作るから」
「でも……」
「良いから。偶には任せてくれない?」
 美野には珍しく押しの強さを発揮して訴えてきた為、何となく気が乗らなかった事もあって、美子はありがたくその申し出を受ける事にした。


「じゃあ、お願いしようかしら」
「ええ。ちゃんと作るわ」
 そして台所から出て行く美子を見送った美野は、思わず「本当に、大丈夫かしら?」と呟いたところで、美子と入れ違いに美恵が顔を出した。


「あら、姉さんは?」
「それが……、ついさっき、包丁で指を切ったの」
 それを聞いた美恵が、姉の珍しい失態に顔を顰める。


「指を切った? 姉さんが?」
「酷くは無いんだけど調子が悪そうだから、今日は私が作る事にしたの。もう少し待っててね」
「分かったわ」
 そこで美恵は難しい顔をしながらも、大人しく自室へと向かった。
 一方、半ば台所を追い出された形になった美子だったが、予想外に空いた時間を使って深美の遺品を整理し、夕食の席でそれについて妹達に告げた。


「皆、聞いて欲しいんだけど」
「何? 姉さん」
「お母さんの四十九日も済んだし、叔母さん達に声をかけて形見分けをしようと思うの。だからその前に皆で欲しい物をより分けておこうと思って。さっき座敷にお母さんの遺品をある程度纏めておいたから、今日は全員早く帰って来ているし、後から確認しない?」
 その提案に妹達は一瞬驚いた顔付きになったものの、すぐさま賛同した。


「それもそうね。叔母さん達も欲しい物があるかもしれないし」
「じゃあ食べ終わったら、早速見てみましょう」
 しかしそこで、美幸が心配そうに確認を入れてくる。
「美子姉さん……。あの人達、呼ばないよね?」
 それだけで誰の事を指しているのか分かった美子は、語気強く断言した。


「勿論、呼ばないわ」
「呼んでも来ないわよ。大阪に引っ越したばかりだし」
「え?」
「引っ越し?」
「どうして?」
 美子の台詞に重ねる様にして、淡々と告げた美実の台詞に他の者達が驚いていると、美実がニヤリと笑いながら詳細を語り始めた。


「あそこの馬鹿息子、暮れに二人揃ってどこぞのヤクザに喧嘩を売って返り討ちにあったのよ」
「全然知らなかったわ」
「四十九日法要の時も、お父さんはあの人達を呼ばなかったし」
「それで終わりじゃ無いの。相当ヤバい相手を怒らせたみたいで、搬送先の病院に連日の様に嫌がらせされたんですって」
「何、それ?」
 流石に穏やかでは無い内容に姉妹達は目を丸くしたが、美実はどこか楽しげに続けた。


「最初は兄弟で四人部屋に入ってたら、病室の前に黒いリボン付きの特大の菊の花束が置かれていたり、病院食の食器蓋を開けたら虫のオモチャが沢山入っていたり、窓の外からペイント弾が打ち込まれて窓が一面真っ赤になったり」
「怖いわね。どんな人間に喧嘩をふっかけたのかしら?」
「周りの人に迷惑だよね?」
 下二人は渋面になって感想を述べたが、上二人は誰による指示なのかをすぐに悟って、盛大に顔を引き攣らせた。そんな対照的な姉妹の表情を眺めながら、美実は素知らぬふりで説明を続ける。


「そんなのが続いて同室の患者さんから苦情が出て、個室に移動後は嫌がらせがエスカレートした上に、本人達だけじゃなくて自宅の敷地内に、早朝ロケット花火を二百発以上打ち込まれたみたいね」
「ロケット花火?」
「二百発?」
 揃って目を丸くした妹達に、美実は重々しく頷いてから続けた。


「偶々目撃した新聞配達員の証言だと、四人組の犯人のうち、まず一人が道路上に瓶を横一列にかなりの数を並べて、他の男がそれに一本ずつ花火を差し込み、更に他の男が一本ずつ点火、次の男が新しい花火を瓶に差し込んでって風に、流れ作業で設置と点火を繰り返して、五分前後で撤収したそうよ」
「凄い騒ぎになったでしょうね。タチの悪い愉快犯だわ」
「本当に物騒だよね」
 顔を見合わせて不快気に頷き合う美野と美幸を見ながら、美子と美恵は内心で頭を抱えた。


(早朝……、傍迷惑極まりないわね。何をやってるのよ、あいつは!)
(五分で逃走って、手際良過ぎ。本当に敵に回したくはないわ)
 そんな中、上機嫌な美実の話は続いた。


「それでご近所中で『橋田さんの息子さんがヤクザに喧嘩を売って襲撃されたらしい。巻き添えを食うかも』と噂になって居辛くなった上、自宅や会社に不審物が立て続けに送り付けられて、旭日ホールディングスとの関係を切られて業績不振に陥った責任を取る形で、あの女の旦那が詰め腹切らされたのに合わせて、旦那の出身地の大阪に引っ越す事になったわけ。かなり急いで、息子達の転院手続きもしたそうよ」
「そうだったの」
「でも美実姉さん、どうしてそんなに詳しいの?」
 美幸が素朴な疑問を口にすると、美実がニヤニヤと笑いながら応じた。


「それはまぁ……、風の噂を小耳に挟んだのよ」
「ふぅん?」
(絶対、男経由に決まってるわ)
(本当に、お母さんに懐いていたみたいね)
 あまりにも白々し過ぎる美実の発言に、美子と美恵は密かに呆れたが、ここで美野が思い出した様に、両手を打ち合わせながら言い出した。


「あ! 形見分けなら、江原さんにも声をかけないと駄目じゃない?」
「そうよね? 江原さんにも、お母さんからの手紙があった位だし」
「…………」
 美幸も賛同してうんうんと頷く中、美子が口を閉ざすと、美恵と美実が妹達を窘める。


「美野、美幸。形見分けするお母さんの私物は、主に着物とか装飾品とか、バッグとかの小物の類よ?」
「江原さんが私達と一緒に『あれが良い、これが良い』って、着物を羽織りながらキャッキャウフフすると思う?」
「…………」
 途端に微妙な顔付きになって顔を見合わせた二人を見て、美恵は呆れ気味に妹達に言い聞かせた。


「美実、それは極端だから。美野と美幸も、まともにそんな光景を想像しないの。江原さんが何か欲しいって言ったら、万年筆の様な男性が使ってもおかしくない物とか、飾り物とかを姉さんが何か見繕って渡せば良いんじゃない? ねえ、姉さん?」
「え? ……ああ、そうね。さすなら簪ね」
「…………」
 急に話を振られて動揺したのか、何か別の事を考えていたのか、美子がかなり的外れな発言をした為、食堂内は静まり返った。しかしその反応に、原因である美子が戸惑った顔になる。


「何? 皆、どうかしたの?」
「姉さん、今、何の話をしてたか分かってる?」
 渋面になった美恵が問い質すと、美子は幾分自信無さげに告げた。
「だから……、髪に挿すなら櫛より簪でしょう?」
 それを受けて他の四人は、何となく落ち着かない表情で互いに頷く。


「うん、そうだよね?」
「簪よね」
「何?」
「何でも無いわ」
 そのままそこで話は終わりになり、何となく居心地が悪いまま美子は夕食を食べ終えた。
 その後全員で深美の遺品を揃えておいた部屋に移動し、多少の揉め事はあったものの、最後には全員納得して形見分けを済ませて解散となったが、自室に戻りかけた美子の背後から声がかけられた。


「姉さん。話があるんだけど」
「ええ、構わないわ」
 真剣な顔つきの美恵に、美子は何事かと思いながら二人で居間へと移動し、ソファーに向かい合って腰を下ろした。すると美恵が早速本題を切り出す。


「単刀直入に聞くけど、この前の俊典さんの騒ぎ絡みで、江原さんと何かあったわね?」
 その問いに、美子は素っ気なく答えた。


「あった事はあったけど、取り敢えず一件落着したわ」
「一件落着ね……。姉さんを見てると、とてもそうは思えないんだけど?」
「気のせいよ」
「本当に?」
 美恵が若干目つきを険しくしながら探る様な視線を向けてきた為、美子は伏し目がちになりながら、控え目に言い出した。


「その……」
「何?」
「ちょっと美恵の意見を聞かせて欲しいんだけど……」
「言ってみて」
 かなり迷う素振りを見せていた美子だったが、ここで急に何かを思い切った様に、すらすらと喋り出した。


「普段傲岸不遜で、人の質問をはぐらかしたり神経を逆撫でする言動をしていても、嘘だけはついた事が無い人に対して、かなり疑っている様な言い方をしてしまったんだけど……」
「それで?」
 そのまま黙り込んでいる美子に腹を立てたりせず、美恵は冷静に姉の話の続きを待ったが、美子は急に口調を変えて言い出した。


「……たった今、思い出したわ」
「何を?」
 困惑する美恵を半ば無視して、美子は独り言の様に続ける。
「あいつ、平気で嘘をついてたじゃない。お母さんと出会ったのは、改めて交際を申し込みに来て以降だって言ってたのに、実は最初に家に出向いた以降から交流があったって、後から自分で言ってたし。……何だ。今まで気にして損したわ。美恵、話はもう聞かなくて良いから。それじゃあ」
 そんな事を言うだけ言って素早く立ち上がった美子を、美恵は慌てて引き止めた。


「ちょっと! 自己完結して、勝手に話を終わらせないで! 大体、こっちの話は終わって無いのよ!?」
「そうだったわね。何?」
 素直に座り直した姉に向かって、美恵は子供に言い聞かせる様に告げた。


「だから、江原さんの事でぐだぐだしてて鬱陶しいのよ。何とかして」
「何とかしろと言われても……。悪いのは向こうだし」
「何があったの?」
「また求婚されて、例の指輪を渡されて、1ヶ月の海外出張に出掛けてそれっきり」
「なるほどね」
 美恵の物言いにムッとしながも美子が端的に告げると、その表情を見て納得しながら、美恵が質問を続けた。


「一応聞くけど、あの男、これまでみたいに利害関係とか面白半分で、姉さんに結婚を申し込んだと思う?」
「一応、真面目に申し出たと思うわ」
 慎重に応じた美子の台詞を聞いて、美恵は軽く両手を広げながら誉め言葉らしきものを口にする。


「それはそれは。姉さんにそう思って貰えたなら、格段の進歩よね」
「……嫌味?」
 美子が軽く睨んでも、美恵はそんな事は全く気にせずに話を続けた。


「こんな事で嫌味を言ってどうするの。それで? それを受けるの? 断るの?」
「そんな事を言われても……」
 明らかに困惑顔になった美子を、美恵はそれ以上追い詰めたりはしなかった。


「姉さんは一見、常識人だものね。姉さんからしたら、一足飛びに結婚は無いか……」
「何なの? その『一見常識人』って」
「江原さんを釣り上げた時点で、平凡な一般人と言えない事位は自覚して」
 容赦なく断言されて、美子は「釣り上げてなんかないし」とぼそぼそと口の中で呟いたが、面と向かっての反論は避けた。すると美恵が苦笑いしながら、ある事を言い出す。


「因みに、この前の俊典さんとの事だけど。話が持ち上がった時、結婚しても構わないとか、結婚を前提にお付き合いしようとか思った?」
 唐突な話題の転換に、美子は何事と思いながらも、真面目に答えた。


「いいえ? 思わなかったけど?」
「即答っぷりが清々しいわね。姉さんらしいわ。だから、そういう事なんじゃない?」
「何が『だから』なのよ? 分かる様に話して」
 次第にイラッとしながら説明を求めると、美恵は苦笑いの表情のまま当然の如く言い聞かせる。


「だから江原さんの場合、即答でお断りじゃないって事でしょ? そりゃあ、あの人が相手だと普通一般的な夫婦像なんて想像できないけど、姉さんだって色々規格外なんだし、頭の中で色々を小難しい事を考えないで、勢いに任せて動いてみたら?」
「あんたは……、他人事だと思って面白がって」
「だって他人事だし」
 堂々と言ってのけてクスクスと笑いだした美恵を、恨みがましそうに美子が眺めたが、少しして笑いを収めた美恵が真顔になって告げた。


「取り敢えず一ヶ月冷却期間をおいて、じっくり考えるのは良いんじゃない? 姉さんはその手の類の事、これまでまともに考えた事なんか無いでしょうし」
「あのね、美恵」
「確かにそれほど頼りにならないし、母さんみたいに安心できないと思うけど、話位はいつでも聞くから。あんまり溜め込まないでよ」
 最初は冷やかし半分で絡んで来たのかと思った美子だったが、どうやら美恵なりに結構心配してくれていたらしいと分かった為、素直に頷く事にした。


「……ええ、分かったわ。その時はお願い」
「取り敢えずボケッとしてると、どこから災難が降りかかってくるか分からないんだから、気合い入れてよね」
「気をつけるわ」
 続けて美恵が言い聞かせて来た台詞に、思わず(本当にそうよね)と苦笑しながら応じた美子は、取り敢えず変に思い悩む事は止めようと心に決めた。




 姉妹の間でそんな会話がされた翌日の、倉田家を訪問しての帰り道。最寄駅への道を歩きながら、美子は溜め息を吐くのを止められなかった。


(俊典君の事がお祖父さんにばれていなかったのは良かったけど、照江叔母さんの気落ちぶりは、見ていられなかったわね。まだまだ長引きそうだけど、大丈夫かしら?)
 久しぶりの孫娘の来訪を、病床にある祖父の公典は手放しで喜んだが、暗い顔で申し訳なさそうに出迎えてくれた照江には、美子は却って申し訳なさを感じてしまった。


(それにしても失敗したわ……。この季節に合うからと思って、うっかり形見分けしたばかりのお母さんの着物と帯で出向いてしまって。叔母さんが覚えていて『美子ちゃんに失礼な事をして、亡くなった深美さんにも申し訳が立たない』って号泣しちゃうし。本当に最近、やる事なす事何をやってるのかしら、私? 昨日美恵にも、発破をかけられたばかりだって言うのに)
 そんな事を考えながら、両手で軽く両頬をペシペシと叩いて密かに気合を入れていると、視線の先に見知らぬ老婦人が現れた。しかし彼女を見るともなしに眺めた美子は、思わず内心で首を捻る。


(この寒いのに、歩きながらソフトクリーム? そんなに好きなのかしら? 確かに今日は風も無くて冬にしては寒く無いけど、季節感がちょっと……。せめて温かい店内で食べれば良いのに)
 歩道の向こう側から手にソフトクリームのコーンを持った和装の女性が、上機嫌にそれを舐めながらこちらに向かって歩いて来るのを認め、美子は彼女に道を譲ってすれ違おうとしたが、その瞬間自分の横で小さな悲鳴が上がった。


「あら、きゃあ!」
「え? はぁ!?」
 トスッと軽く何かを身体を当てられる感じがして、足を止めた美子が何気なくそちらの方に顔を向けると、先程の老婦人がよろけでもしたのか、美子の着物の左肩辺りに手に持っていたコーンを押し付けながら、狼狽していた。


「まあまあまあ、どうしましょう!? 他人様のお召し物を汚してしまうなんて!?」
(申し訳ないと思っているなら、一刻も早くそのコーンを着物から離して欲しいんですが!?)
 おろおろしながらも動揺している為か、自分の着物にべったりとソフトクリームを押し付けているコーンから一向に手を離さないその女性に、美子は珍しく本気で切れそうになった。


「あのですね」
 思わず声を荒げかけたその時、すぐ横の車道に急ブレーキの音が響き渡り、美子の抗議の声を打ち消した。思わず何事かと彼女が目を向けると、五十代ほどに見えるダークグレーのスーツ姿の男性が慌てた様子で運転席から降り立ち、車を回り込んで歩道に駆け寄る。


「奥様! どうなさいました!?」
「ああ、掛橋、大変なの! こちらのお嬢さんの着物に、ソフトクリームが付いてしまって!!」
 狼狽したまま訴える老婦人に、掛橋と呼ばれた男は深々と溜め息を吐いてから、冷静に指摘した。


「ですから座ってお食べ下さいと申し上げましたでしょう、と苦言を呈したい所ですが、まずはそのコーンから手をお放し下さい。こちらの方のお着物への、処置ができません」
「あら、そう言えばそうだったわ」
 軽く目を見開いて女性が手を離すと、掛橋は無言のままコーンを取り上げた。そのやり取りを聞いた美子は、怒りも忘れて半ば呆れ返る。


(そうだったわ、じゃあ無いでしょうが。何? このテンポのずれたおばあさん。物凄い深窓のおばあちゃんなの?)
 掛橋はそのコーンを女性に渡すと、次にポケットから皺一つなくアイロンがけされて折り畳まれた白いハンカチを取り出し、それを広げながら美子にお伺いを立ててきた。


「お嬢様、失礼致します。取り敢えずクリームを取って、汚れた所を拭いてみますので」
「あ、はい……。宜しくお願いします」
 取り敢えずこのままでは歩けない事は分かっていた為、美子は素直に頷いた。すると掛橋は、まず盛り上がっているクリームを全部、器用にハンカチに包み込む様にして取り去り、自分の主人らしき女性に渡した。それで終わりでは無く、更に同様のハンカチを取り出し、少しづつ軽く叩いたり拭き取って、染みを取り去って行く。


(ええと……、この人、ハンカチを何枚持ってるのかしら?)
 次々と白いハンカチを取り出して四枚目を使い終えたところで、掛橋は美子に向かって深々と頭を下げて謝罪してきた。


「奥様が大変ご迷惑をおかけした上、失礼致しました。取り敢えず汚れを拭き取ってはみましたが、染みになってしまうと思います。こちらで弁償をさせて頂きたいのですが」
 真摯にそんな事を申し出られて、美子は却って恐縮した。


「いえ、そんな大層な物ではありませんし、結構です。母の形見の古い着物ですし」
 しかしその場を宥めようとして美子が口にした台詞は、更なる事態の悪化を招いた。


「まあぁ!? 掛橋、どうしましょう!? 私ったら大切なお母様の形見の着物に、何て事をしてしまったのかしら!!」
「あの、ですが」
 目に見えて狼狽える女性を美子は慌てて宥めようとしたが、それより先に掛橋の情け容赦ない指摘が入る。


「本当に、粗忽で無神経で傍若無人な奥方だと、世間様から後ろ指を指されかねません」
「そんな……。酷いわ、掛橋が冷たい」
「旦那様に報告したら十倍は言われますから、少しでも耐性を付けておいて下さい」
(何なの? この男の人、『奥様』って言ってる割には、結構物言いがきつくない?)
 女主人である女性が涙ぐみ始めても、冷ややかな視線を送っている掛橋に美子は混乱しつつ、何とか事態の打開を図ろうと声をかけた。


「あ、あのですね? 本当にこんな着物は幾らでもありますので。普段着みたいな物ですし。そんなにお気になさらなくても宜しいですよ?」
 しかしその申し出に、女性が些か哀れっぽく反論する。


「そう言われましても……、このままお嬢さんをお帰ししたら、見ず知らずのお嬢さんに何て失礼な事をしたと、私が主人に怒られてしまいます。是非とも弁償させて下さい」
 それを聞いた美子は、若干顔を引き攣らせつつ、掛橋の顔色を窺った。


「その……、今のは無かった事にして、ご主人に黙っていると言う選択肢は」
「ございません」
「……みたいですね」
「お願いします。弁償させて頂けませんか?」
(何か、変な人と係わり合っちゃったわね)
 謹厳実直に即答した掛橋の言葉に項垂れ、再度女性に懇願されてしまった美子は、完全に抵抗を諦めた。
「分かりました。それではそちらのお気が済む様にして下さい」
 その途端に喜色を浮かべて、女性が美子の手を握って礼を述べる。


「ありがとう! それではわざわざ出向いて頂くのは申し訳ないので、行き付けのお店に声をかけて、そちらのご都合が良い時に担当の者がご自宅に採寸に伺う様に手配しますね?」
「そういう事ですので、誠に申し訳ございませんが、こちらにお名前とご住所と電話番号をお願いできますでしょうか? 私共の連絡先もお知らせしますので」
「はぁ……、分かりました」
(ちょっと変な人達だけど、こんな高そうな車に乗っているし、着ている物も立ち居振る舞いも洗練されているし、教えても支障は無いわよね?)
 掛橋が手渡してきた手帳に、美子がボールペンでサラサラと必要な事を書き記すと、相手も連絡先を書いたページを切り取って美子に手渡した。そして幾つかの短いやり取りの後、掛橋に促された女性がマイバッハの後部座席に乗り込んでから、笑顔で美子に向かって軽く頭を下げる。


「それでは藤宮さん、後ほど担当者から連絡させますから」
「はい。お気遣い頂きまして、ありがとうございます」
 そして車が走り去るのを見送った美子は、溜め息を吐いてから手元の用紙を見下ろした。


「何か、嵐みたいな人達だったわね……。加積桜さん、か」
 そして相手の名前を確認した時、先程から何となく感じていた違和感に漸く気が付く。


(あら? そう言えばあの人達、私の名前を書き記した物を見た時、「ふじみや」とか「ふじのみや」とか読まずに、最初から「とうのみや」って読んだわね。こちらから名乗る前に一度も間違えずに読まれたのって、これまでの人生で初めてじゃないかしら?)
 普段であればその理由を深く考えたかもしれない美子だったが、その時何となく失調気味だった彼女は「変わっている人だから、感性も変わっているのかもね」とあっさり流してしまい、そのまま家路についたのだった。


 同じ頃、走り去った車内では、桜が満足そうに運転席に向かって話しかけていた。
「ふふっ……、どうだった? 掛橋」
「取り敢えず、怪しまれなかったのでは無いでしょうか? 奥様の事を危険性の無い、世間ずれした深窓の奥方とでも認識して頂けたのではないかと」
 取り敢えず無難な返答をした掛橋に、桜がくすくすと笑いながら満足そうに呟く。


「計画通りね。一緒に話を聞いたうちの人もあの子には興味を持ってるし、余計な男が居ないうちに、無理なく自然な形で事を進めていきましょう」
「藤宮様にとっては、とても不自然な形だと思われるのですが……」
 そんな呟きを桜が気にする筈は無く、彼女は後部座席で年齢にはそぐわない、若々しくて楽しげな笑い声を上げた。



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