半世紀の契約

篠原皐月

第28話 醜聞と動揺

 待ち合わせ場所でほぼ一年ぶりに従弟と顔を合わせた時、美子は内心で色々思う事はあっても、それを面には出さずに笑顔で声をかけた。
「お待たせ、俊典君。久しぶりね。元気だった?」
 それに相手も同様の笑顔で応える。


「ええ、美子さんも元気そうで何よりです。深美伯母さんの事があったから、心配していたから」
「ありがとう。家の中の事も何とか落ち着いたから、大丈夫よ」
「それは良かった。じゃあ、行きましょうか」
 祖父や叔父とは良く似通った顔立ちながら、美子は心の中で(良く言えば貴公子然だけど、確かに気概や迫力に欠けるかもしれないわ。そこら辺が照江叔母さんには、不満で不安なんでしょうね)と、並んで歩きつつ冷静に彼を評した。
 そんな事など微塵も想像していない俊典は、そつなく話題を振って時折美子を笑わせながら、予約してあった店に彼女を連れて行った。 


「本当は家族全員で通夜や葬儀にも出向きたかったけど、父が『外戚が大挙して押し掛けたら、昌典の立場を悪くする』とか言って、俺達を同行させなかったから。その……、母さんの話では、精進落としの席で問題が起きたそうだけど、その後、困った事になったりはしていないのかな?」
 テーブルに案内されて注文を済ませると、早速俊典が一番聞きたかったらしい内容を口にした。さすがに他家の事情に首を突っ込み過ぎかと、懸念しながら問いかけられた内容に、美子は思わず苦笑しながら頷く。


「それも父や藤宮家の親族達で、上手く取り計らっているから心配要らないわ。余計な騒ぎにしてしまってごめんなさい」
「そうか、それなら良いんだ。やっぱり美子さんは凄いよな。あれから本当に母さんが感心しきりで」
 一人で納得した様にうんうんと頷いている俊典を見て、美子の頬が僅かに引き攣った。


「私としては、後から思い返したら傍若無人過ぎて赤面物だから、皆には早く忘れて貰いたいわ」
「母に限っては無理だと思う」
「……そうみたいね」
 真顔で断言されてしまった美子は、がっくりと肩を落とした。するとマッシュルームのポタージュを持って来たウエイターが下がったのを見計らって、俊典がまた控え目に声をかけてくる。


「それで、母から話を聞いていると思うけど……」
 さっそくスプーンを取り上げてスープ皿に入れた美子は、手の動きを止めて彼に視線を向けた。
「私との結婚の事よね? いきなりの話で、正直驚いたわ」
 そう言ってスープを口に運んだ美子に、俊典は同意する様に頷いた。


「同感。俺だってまだ秘書としての仕事を覚えてこなすのに精一杯だし、二年後に控えている区議会議員選挙に立候補しろって言われて、これから地元の有力者との関係を綿密にしていかなきゃいけない時期だって言うのに、そんな事落ち着いて考えられるかよ」
 最後は彼らしくなく、些か乱暴に文句を言ったのを聞いて、美子は一人納得した。


「なるほどね……、それで分かったわ」
「え? 何が?」
 当惑した俊典に、美子は更にスープを一口飲んでから、自分の推測を口にした。


「俊典君が二年後に立候補するからこそ、ここで私との結婚話が持ち上がったのよ」
「は? どうして?」
 まだ良く分かっていない従弟に、彼女は噛んで含める様に説明を始めた。


「だって、立候補者の母親が横に立って『息子を宜しくお願いします』って頭を下げてたら、とんだ過保護と思われるか、露骨な世襲議員だと思われそうだもの。妻が夫の為に頭を下げるなら、内助の功以外の何物でも無いでしょうけど」
「…………」
 そこまで言われて分からない俊典では無く、無言で美子を凝視した。その視線に構わず、美子は話を続ける。


「加えて、これまでの叔父さんの選挙の時、体調を崩すまでは母が、その後は私がいつも選挙事務所のお手伝いをしていたから後援会の主だった方とは顔見知りだし、政治活動の内情なんかもある程度は分かっているし」
「確かにそうだね」
「だから叔母さんにしてみれば、これから手取り足取り政治家の嫁教育をする必要が無い、後援会から反対される可能性も無い、ある程度気心のしれた私を嫁に迎えて、来るべく選挙に備えて今のうちに万全の布陣を作ろうって考えたわけよ。気持ちは分かるけど……」
「…………」
 そう言って溜め息を吐いてから、美子はこれまで通りスープを飲み始めたが、向かい側の俊典の手と口が全く動いてないのを見て、怪訝な顔で尋ねた。


「俊典君、どうかしたの?」
 その声で我に返ったらしい俊典は、何回か瞬きしてから苦笑いの表情になった。
「やっぱり美子さんはさすがだなって思って。俺は正直、今回の話と選挙が結び付いているとは思って無かったから」
 そう言って食事を再開した俊典に、美子は宥める様に言い聞かせた。


「本来結婚は自分の意志で決めるものだし、叔父さんも政略結婚とか画策するタイプじゃないし、そういう風に考えられなくても無理ないわよ。叔母さんだって全くの打算だけで話を持って来たわけじゃないんだし、気に入らないからって親子で揉めないでね?」
「いや、美子さんは何事もそつがなくて任せておけば安心って感じがするし、どんな人にも分け隔て無く優しいし、母の見る目に感心する事はあっても、文句を付けるつもりは無いよ?」
「……そう?」
「ああ」
(何だか困った流れになりそうだわ。どうしたものかしら?)
 如何にも感心した様に、俊典が好感度の高い笑顔で述べてくる為、美子は笑顔を返しながら内心で頭を抱えた。そしてスープを食べ終え、黒ムツのポアレにアオリイカの煮込みが添えられた皿が運ばれてきたところで、何やら急に俯いて難しい顔をしていた俊典が顔を上げ、重々しく言い出してくる。


「それで……、ちょっと参考までに、美子さんの意見を聞いてみたい事があるんだけど……」
「何かしら?」
 相手の様子を見て美子が不思議そうに尋ね返すと、俊典が尚も小声で念を押してくる。
「くれぐれも、ここだけの話にして貰いたいんだけど……」
 如何にも心配そうに言われて、美子は流石に若干腹を立てた。


「それなりに口は固い方だと自負しているけど、そんなに心配なら話さないで貰える?」
「いや、ごめん! 嫌味とかじゃないから!」
「それは分かっているわよ?」
(何なの? 鬱陶しいわね)
 美子は何とか微笑みながらも内心で苛付いていると、俊典は更に声を潜めて、周囲を憚る様にして話し出した。


「実は……、父には二十年来懇意にしている女性がいるんだけど……」
「え? 懇意って……」
(後援会や常任委員会で、親しくお付き合いしている女性の方は何人も……。じゃなくて、この場合、意味する所はひょっとして!!)
 何気なく切り分けて口に運んだ魚の身を噛みしめながら頭の中で考えた美子は、その意味する所を悟った瞬間、勢い良く口の中の物を飲み込んで声を張り上げてしまった。


「えぇぇぇっ!? まさかあの叔父さんに限って!!」
「美子さん! 声が大きいっ!!」
「ご、ごめんなさい」
 血相を変えた俊典が中腰になって制止してきた為、美子は慌てて謝罪した。そして声を潜めて相手に抗議する。


「俊典君、こんな所で笑えない冗談は止めて。お願いだから」
 それは本心からの懇願だったのだが、俊典は真顔で告げた。
「俺も初めて知った時は、冗談かと思った」
 それを聞いた美子は、フォークとナイフを置いて本気で愚痴る。


「……お願い、勘弁して。この事、叔母さんは知ってるの?」
「全く。だからくれぐれも」
「言えるわけ無いわよ」
「ごめん」
 申し訳なさそうに謝られたものの、美子は聞かされた内容に頭痛を覚えた。


(こんな事聞かせないで……。今度叔父さん達の前に出た時、平常心を保てるかしら? 第一、今までの話の流れで、どうしてこの話題が出るの? 全然意味が分からないわ)
 短時間のうちに目まぐるしく考えを巡らせた美子だったが、全く相手の意図が分からなかった為、自棄になって再び切り身を口に運んだ。そして食べた事で幾らか冷静さを取り戻せた為、なるべく慎重に尋ねてみる。 


「それで? どうしてそんな事を私に聞かせたの?」
「その……、美子さんが、それについてどう思うか聞きたくて」
「どうして?」
「まあ、ちょっと色々あって……。そう言うのって言語道断だと思うかな?」
 顔色を窺う様にしてそんな事を言われた為、美子は渋面になりそうなのを堪えつつ慎重に述べてみた。


「幾ら身内と言っても、それぞれの家庭や夫婦間の事情は有るでしょうし、頭ごなしに否定するつもりは無いし、特に何も言うつもりは無いわ」
「そうなんだ。やっぱり美子さんは冷静だよな」
(何一人でほっとしてるのよ。まさか……)
 如何にも安堵した様に自分を評した俊典に腹を立てつつ、そこでろくでもない考えが頭の中を過った美子は、相手を軽く睨む様にしながら尋ねた。


「俊典君。まさか結婚話を進める為に会うって言うのは方便で、叔母さんには内緒で叔父さんとその女性との別れ話に、一枚噛んでくれとか言わないわよね?」
 それに俊典が慌てて否定しようとした時、至近距離で女性の悲鳴が上がった。


「まさか! そんな事を美子さんに頼むなんて」
「きゃあっ!!」
「うあっ!! 何だ!?」
 皿を運んでいたウエイトレスの一人が、自分達のテーブルのすぐ近くで何かに躓いて転び、彼女の手から離れた皿が宙を舞って、皿が俊典の右肩に、それに乗せられていた牛フィレ肉のローストと、その付け合せの野菜が彼の側頭部に命中する様を、美子はばっちりと見てしまった。


「お客様、申し訳ございません!」
 あまりの出来事に、被害者の俊典同様固まってしまった美子だったが、その原因を作ったウエイトレスが勢い良く頭を下げて謝罪してきたのを耳にして、膝の上のナプキンを掴みつつ勢い良く立ち上がった。
「俊典君、大丈夫!? あなた、ここは良いから、急いで何か拭く物を持って来て。できれば濡らした物を」
「畏まりました!」
 再度頭を下げて走り去るウエイトレスと入れ替わる様に俊典の横に来た美子は、取り敢えず自分が持って来たナプキンを使って、未だ呆然として微動だにしない彼の頭や肩に乗ったままの肉や野菜を取り除く。


「ソースがべったり付いちゃったわね。クリーニングで落ちれば良いけど」
 取り敢えず落ちている皿に取った物を乗せてから、今度は俊典が使っていたナプキンで髪やスーツのソースを拭き取ってみたが、流石に簡単に拭き取れる物では無かった。
「全く! この店は、どんな従業員教育をしてるんだ!」
 ここにきて呆然とするのを通り越して、俊典が怒りを募らせ始めていると、それを宥める間もなく、黒の上下で固めた責任者らしい初老の男性と、先程のウエイトレスが連れ立って戻って来た。


「お待たせしました。こちらをお使い下さい」
「ありがとう」
「お客様。この度はこちらの者が、大変失礼を致しました。誠に申し訳ございません」
 おしぼりを受け取った美子は素直に礼を述べたが、俊典は憤然としてテーブルを拳で叩きつつ声を張り上げた。


「謝って済むか!! この店では皿の上にでは無く、客の頭に料理を乗せるのか!?」
 その怒声に、店内の客が一斉に自分達に非難めいた視線を向けて来たのを察した美子は、舌打ちを堪えつつ事態の打開を図った。
(拙いわ。この店は客層が良くて、政財界でも利用している方が多いのに。確かにこの失態は酷過ぎるけど、俊典君も頭に血が上り過ぎよ。どこで誰に顔を見られているか分からないのに)
 そこで美子は、まず俊典に声をかけた。


「俊典君、取り敢えず落ち着いて」
「美子さん? そうは言っても!」
「いいからちょっと黙って、これで頭と服の汚れを拭いていて。ええと、あなた? つまずいたみたいだけど、怪我とかはしていない?」
「あ、はい! 私は大丈夫です。本当に申し訳ございませんでした!」
 尚も言い募ろうとした俊典を、美子は有無を言わせぬ口調でおしぼりを握らせつつ黙らせてから、ウエイトレスに向き直ってやや強引に話を変えた。そして彼女が盛大に頭を下げるのを見ながら、神妙に傍らの男性に声をかける。


「今の様な事は、今回が初めてですよね? こんな失態を繰り返す様なスタッフを、父や叔父達が贔屓にしているお店が雇用している筈ありませんし」
「勿論この様な失態は、こちらの者を含めて店の者全員、犯した事がございません。あの……、それでお父上と仰いますと、どちら様でしょうか?」
 更に懸念を浮かべつつ慎重に尋ねてきた相手に、美子は内心で(かかった)と安堵しつつ、さり気なく父と叔父の名前を口にした。


「彼の父親は倉田和典で、私の父は藤宮昌典と申します。二人は実の兄弟で、私達は従姉弟同士なんです。私は今回初めて来店したのですが、父達から『料理も雰囲気も良い』と何度か話を聞いた事があります」
 それを聞いた相手は益々恐縮しきりの態になって、再び頭を下げた。


「倉田議員と、藤宮社長のご家族の方でいらっしゃいましたか。確かにお二方にはご贔屓にして頂いております。この度の不手際、誠に申し訳ございません」
「予想外の事で思わず声を荒げてしまいましたが、父達が贔屓にしている店でこれ以上騒ぎを大きくしたりはしません。父達にこれからも気持ち良く、こちらの料理を味わって頂きたいですし」
「ありがとうございます。お二方にも、宜しくお伝え下さい」
 美子に気圧されて黙っていた俊典は、ここに至って父親の面子を潰す訳にはいかないと、これ以上余計な事は言わない事に決めた。そんな彼の様子を横目で確認して安堵した美子は、男性に向かって申し出る。


「取り敢えずここのテーブルを整え直すか、他のテーブルに移動させて頂いた上で、続きのお料理を出して頂けますか? そして食べている間に、彼の上着の大まかな汚れだけ取っておいて貰いたいのですが。流石に食事が済むまでの間に、クリーニングは無理でしょうし」
 そう提案した美子に、彼は納得した様に深く頷く。


「畏まりました。上着をお預かりします。それから後程、クリーニング代はこちらにご請求下さい。それから、本日の御飲食代はお支払いは結構ですので」
「ありがとうございます。それと、できれば厚かましいお願いを一つ、させて頂きたいのですが……」
「何でございましょう?」
 若干申し訳なさそうに言い出した美子に、男性は勿論俊典もどうしたのかと首を傾げたが、美子はささやかな提案を口にした。


「店内のお客全員に希望を聞いて、グラスワインかソフトドリンクを一杯ずつ、またはデザートの追加を提供して頂けるかしら? 必要以上にお騒がせして、不快な思いをさせてしまった事に対する、私達からのお詫びとして」
 それを聞いた相手は、快く請け負って恭しく頭を下げる。


「畏まりました。勿論そちらも当店の負担と致しますので、最後までお食事をお楽しみ下さい」
「ありがとうございます」
 そんな会話の間に、男性の目配せを受けてスタッフが手早く整えておいたらしく、すぐに別のテーブルに案内された美子達は、席に落ち着くと同時にカトラリーも揃えられ、すぐに次の料理である和牛サーロインのローストが提供された。きちんとタイミングを見計らって出されたそれを早速切り分けながら、美子が満足そうに微笑む。


「取り敢えず、支払いはせずに済みそうで良かったわ」
 しかしその呟きは些か能天気に聞こえたらしく、俊典が苛立たしげに応じる。
「当然だ。だけど美子さんは人が良過ぎるよ」
「そうでもないわよ? けっこうえげつない事をしちゃったもの」
「どう言う事?」
 小さく笑った従姉に俊典が不思議そうな顔になると、美子は苦笑しながら解説した。


「突然サービスの事を言われたら、大抵の人は訝しんで理由や誰からの物なのかを尋ねるでしょう? そこで名目上の提供者の倉田の名前が出るわ。わざと名乗る様に仕向けたもの」
「それで?」
「ここの客層はそれなりだし、『あんな酷い扱いを受けながら寛大にも許した上、周囲への気配りも忘れないとは』と他のお客様に感心して貰えたら恩の字よ。どこかで話題として倉田の名前を出して貰うだけでも良いし。下世話な言い方だけど、グラスワイン一杯分の金額で一票に繋がったら安いと思わない? あ、でも、店側で負担してくれるわけだから、こちらの懐は痛まないし、益々結構ね。あれ以上怒鳴りつけても周囲から眉を顰められるだけだから、あそこが引き時だと思ったの。不愉快だとは思うけど、ここは我慢してね?」
 そう言ってにっこりと微笑んだ美子を見て、俊典は呆気に取られた顔付きになった。


「計算ずくで?」
「まあね。こっちを見ている他のお客と目が合ったら、微笑んで軽く会釈しておいて頂戴」
「……分かった」
 そう説明しながら、早速サービスの提供を受けた少し離れたテーブルの客から会釈されたらしい美子が、自分の肩越しに微笑みつつ軽く会釈したのを見て、俊典も素直に頷いた。そして自嘲気味に感想を漏らす。


「本当に、美子さんには敵わないな」
「そんな事は無いわよ」
 そうして二人は何事も無かったかのように食事を再開したが、そんな二人を密かに観察していた二人組のテーブルにも、ウエイターがやって来てお伺いを立てた。


「お客様、あちらの倉田様からお騒がせしたお詫びとして、ワインかソフトドリンク、もしくはデザートの追加を承っておりますが、どれをご希望されますか?」
 手振りで美子達のテーブルを指し示したウエイターに、尋ねられた客は素知らぬふりで尋ね返す。


「ああ、さっき料理をぶちまけられた人物か。しかし倉田と言うとどちらの? ここの常連なのかな?」
「あのお客様は初めてのご来店ですが、お父様が衆議院議員の倉田和典様で、良くこちらをご利用になっておられます」
 スラスラと説明してきたウエイターに、男は如何にも感心した様に頷いてみせる。


「なるほど。さすがは代議士の家の方だと、物の道理を弁えていらっしゃるらしい。ありがとう、それではこれと同じワインを頂くよ。お前もそれで良いな?」
「ああ」
「畏まりました。少々お待ち下さい」
 自分のワイングラスを指差しつつ同席の男に尋ねると、短く即答した為、ウエイターは一礼してその場から立ち去った。それと同時に、男二人が声を潜めて苦笑いする。


「白々しい物言いだな、啓介。しかしあの坊ちゃん、なかなかやるじゃないか」
「仕切ったのは彼女じゃないのか? ここから見た感じ、主に喋ってたのは彼女の方だし、何と言っても白鳥先輩の女だぞ?」
「なるほど。それもそうか」
 そこで相手を納得させた啓介は、丁度近くを通りかかったウエイトレスを、軽く片手を挙げて呼び寄せた。


「お客様、お呼びでしょうか?」
 そのウエイトレスは先程俊典に向かって失態をやらかした女性だったのだが、その彼女に向かって、彼が折り畳まれた何枚かの一万円札を指で隠す様にしながら、テーブル上を滑らせる。
「約束のチップだ。予想以上に頑張ってくれたから、上積みしてある」
「お心遣い、誠にありがとうございます」
 すると彼女はさり気なくそれを掌で握り込み、白いエプロンのポケットに滑り込ませると、何事も無かった様に店の奥に戻って行った。


 そしてコースもデザートまで進んだところで、俊典が若干言い難そうに話を切り出した。
「それで……、最初の話に戻るんだけど、実は今、付き合っている人がいるんだ」
「え? そうなの?」
「ああ。そんな状態で母に先走られて、俺としても困ってたんだけど……」
「それならその事を、きちんと照江叔母さんに言わないと」
(何だ、俊典君にちゃんとそういう人がいるなら、どうやって穏便に断ろうかと悩む必要は無かったんじゃない。それに最初にそう言ってくれれば良いのに、本当に時間の無駄だったわ)
 ちょっと脱力しつつ安堵した美子だったが、俊典は益々重苦しい空気を纏わせながら話を続ける。


「それが……、父さんや母さんに言っても、快く賛成して貰えないと思って。寧ろ『そんな相手じゃなくて、美子さんにしなさい』って益々強硬な態度に出られたり、彼女に嫌がらせしたりする可能性があると思ったから、はっきり言い出せなかったんだ」
 それを聞いた美子が、困惑して眉根を寄せながら考え込む。
「和典叔父さんも照江叔母さんも、そんなに頭の硬い人じゃないと思うけど……。まさかひょっとして、人妻とか?」
 そんな可能性を美子が口にした為、俊典は慌てて否定してきた。


「まさか!? 彼女は独身で未婚だよ! 未亡人でも無いし!!」
「ごめんなさい、つい。……でも、何だか複雑な事情がありそうね」
「そうなんだ。だけど彼女は本当に気立ては良いし、万事控え目だし、確かに政治家の妻としては向かないかもしれないけど、良い人なんだよ」
「そうなの」
 切々と訴えてくる彼に、美子は内心どうしたものかと困惑していると、俊典が予想外の事を言い出した。


「それで、絶対美子さんも気に入ってくれると思うから、今度一度、彼女に会って貰えないかな?」
「彼女も交えて、三人で会うって事?」
「そう。……駄目かな?」
 若干縋る様な目で見られて、美子は正直面倒事に巻き込まれたくはないと思ったものの、縁談をごり押しされるよりはマシかと、快諾する事にした。


「そんな事無いわよ? 俊典君がそこまで言う人に興味があるし、都合が付けば会ってみたいわ」
「良かった、ありがとう。近いうちに都合を擦り合せてみるよ」
(要するに、叔父さん達が渋い顔をしそうな恋人をまず私に紹介して、叔父さん達に口添えして欲しかったわけね。こんな面倒な事を頼むのに、電話で済ませるのは拙いと思ったわけか。でも叔父さん達が渋りそうな人って、気になるわね。どう考えても拙そうだったら、やっぱり悪者になるつもりで、私からも一言言ってあげないと)


 言うだけ言って、如何にも安堵した様に珈琲を飲み干している俊典を眺めながら、美子は相手に分からない様に小さく溜め息を吐いた。
 それから食事を終えた二人は、預かって貰っていた上着とコートを身に纏い、何人ものスタッフに頭を下げて見送られて店の外へ出た。そして表通りに出て歩きながら、笑顔で言葉を交わす。


「俊典君、今日はご馳走様」
「あ、いや……、今日は結局、支払いはせずに済んだから」
「そう言えばそうだったわ。じゃあ災難だった上、ご苦労様でした」
 そう言って美子が軽く頭を下げた為、俊典は苦笑しかできなかった。


「本当に、笑い話だな。頭からソースを被ったなんて、初体験だよ」
「これからも無いでしょうね。もう宝くじの売り場窓口が閉まっていて残念ね。買ったら何か当たったかもよ?」
「それはちょっと酷いな」
(良かったわ。俊典君もお店の失態は水に流してくれそうだし、お互いに気分良く帰れるわね)
 気まずい思いをして別れずに済みそうだと、美子はほっとして笑顔を振り撒いたが、そんな二人を少し離れた所から様子を窺っている一団が居た。


「啓介、翔、待たせたな」
「ああ、ご苦労様です、先輩。獲物はあそこですよ」
「馬鹿面晒して笑ってます」
 仕事帰りの秀明が、長い付き合いの後輩達に背後から声をかけると、二人は笑いながら前方を指差した。そして何気なく目をやった秀明は、仲良さ気に笑い合って歩いている男女を見て、僅かに目を細めながら囁く。


「……ブツは?」
「抜かりなく、ここに準備してありますが」
「俺にもやらせろ」
 翔が手に提げていた紙袋を指し示すと、秀明が予定外の事を言い出した為、二人は不思議そうに尋ねた。


「先輩?」
「面が割れない様に、今まで彼女と面識が無い、俺達に声がかかったんじゃないんですか?」
「気が変わった」
 不穏な気配を漂わせながら、紙袋の中から特殊蛍光染料が封入された防犯用のカラーボールを取り出した秀明に、啓介や翔は反論や口答えなどする気など微塵も起きず、黙って自分達もボールを手に取った。


「じゃあ、美子さん。近いうちにまた電話で連、うあっ!?」
「え? ちょっ、な、何!?」
 いきなり背中に感じた衝撃に、俊典が思わず声を挙げて背後を振り向くと同時に、彼の胸、腹、足と立て続けに何かが当たり、黒のコートが忽ち蛍光オレンジにまみれた。


「何だ、どこから? いてっ!! おい! 誰だ!?」
 振り返った美子は、七~八メートル程離れた所から三人の男性らしい人物が、次々とカラーボールを俊典目がけて投げつけているのは分かったが、唖然として咄嗟に行動できなかった。


(どうして俊典君を狙って投げてるの!? それに、はっきり識別できないけど)
 疑念を抱いた美子だったが、ここで漸く我に返って、両手を広げつつ歩道に蹲った俊典を庇う様に彼の前に立った。
「ちょっとあなた達!! 公道で悪ふざけは止めなさい!! 警察を呼ぶわよ!!」
 その美子の行動に啓介と翔は思わず小さく口笛を吹き、俊典に対して悪態を吐く。


「おいおい、女に庇われてんじゃねーぞ」
「とんだヘタレ野郎だな。どうします? ここから投げたら彼女に当たるんですが」
 そうお伺いを立てた二人に、秀明は即答した。
「もう、お前達は帰って良いぞ。すり抜けざまに当てて最後にしろ。俺が注意を逸らす」
「了解!」
「お疲れ様でした」
 即座に話が纏まった為、二人は一つずつボールを掴むと、背中を向けて逃げるどころか、美子と俊典に向かって突進してきた。


(え、何? こっちに向かって……、って、ちょっと!?)
 さらに残った一人もボールを持ち、自分に向かって振りかぶった為、当てられると思った美子は反射的に頭を庇って蹲る。
「……っ!!」
 しかし予想外に駆け寄る足音が通り過ぎても衝撃を感じなかった為、(外した?)と美子が不思議に思ったのと同時に、背後で俊典の悲鳴が上がった。


「うわっ!!」
「俊典君!?」
 慌てて頭を上げると、駆け寄って来た二人は至近距離から俊典の頭めがけて二つのカラーボールを命中させた為、彼の頭部が悲惨な事になっていた。取り敢えず彼にバッグから取り出したハンカチを渡してから、思い出して周囲を見渡したが、当然不届き者はとっくに立ち去った後であり、美子は盛大に歯軋りする。


(もういない……、まんまと全員に逃げられたわ。だけど……、最後の一個だけ外した? 偶々?)
 そして目の前の歩道に一個炸裂したボールの残骸を見ながら、美子の頭の中にある疑念が浮かんだ。


(それに……、街頭の近くじゃ無かったし、あそこの店舗の看板や照明だと、はっきり見えない上に逆光だったから確信を持てないけど、あの男だった様な気が……)
 無意識に携帯を取り出して、相手を問い詰めようと電話をかけようとして、美子は何となくかけるのを躊躇った。


(まさかね。第一、どうして彼が、俊典君に嫌がらせをする必要があるのよ。最近はどこも物騒になってきているから、偶々ろくでも無い事をして遊んでいる連中の標的になっただけよ)
 そしてショックの余り茫然自失状態の俊典に声をかけ、タクシーを止めて座席が汚れない様にコートを脱がせてから乗り込ませた美子は、すっきりしない気持ちを抱えながら同乗してその場を離れた。


「あれで俺が分からなかったか? それとも、確認するのも馬鹿らしいと?」
 襲撃の現場から一時間かからずに自宅マンションに帰り着いた秀明だったが、この間沈黙を保っていた携帯を取り出し、それを見下ろしながら薄く笑った。


「やはり……、微塵も遠慮する必要は無いらしい」
 そう呟いた秀明が、机の引き出しからUSBメモリーを取り出して目の前にかざすと、透明なカバーに覆われたその金属部分が、室内の照明を反射して不吉な輝きを見せた。





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