半世紀の契約

篠原皐月

第13話 依頼

 母から頼まれた物を持参して、病室を訪れた美子は、出入り口の前までやって来たもののそこで立ち止まり、取っ手に手をかけるのを若干躊躇した。そして一回深呼吸をして、呼吸と共に気持ちを落ち着かせてから、いつもの表情でノックをして室内へと入った。


「お母さん、調子はどう?」
 するとベッドを起こし、テーブルの上に置いた本を読んでいた深美が、それを閉じながら娘を出迎えた。


「いらっしゃい。調子も気分も良いわよ」
「そう。今日は頼まれた物を持って来たけど、こういう物で良いかしら?」
 そう言いながら、美子が紙袋から取り出してテーブルの上に乗せた便箋や封筒、万年筆などを確認した深美は、満足そうに微笑んだ。


「ありがとう。取り敢えずはこれ位で、大丈夫だと思うわ。足りなくなる様なら、また頼むわね」
「ええ……」
 素直に頷きながらも、どこか沈んだ様子の美子を見て、深美は思わず顔を顰めて、夫に対しての愚痴を零す。


「本当に、昌典さんも困った人ね。何も美子を同席させなくても良いでしょうに……」
 それを聞いた美子は、慌てて父親を庇った。


「偶々、病院で出くわしたのよ。それに遅かれ早かれ聞かされる事になった筈だし、早く分かって却って良かったわ」
「それでもね……。美子に色々負担をかけてしまいそうで」
「どのみち家の中の事は、お父さんには分からないもの。気にしないで」
「ありがとう」
 短期間のものも含めると、最初に発症した時から数回入退院を繰り返している深美としては、学生の頃から家の事を任せざるを得なかった美子に対して負い目を感じ、不憫に思っていたが、そんな事を口にしてもお互いが気まずくなるだけだと分かっていた為、それ以上は口にせずに笑顔で礼を述べた。
 美子も母の心情は理解できていた為、話の流れを変えようと窓際に向かいながら声をかける。


「取り敢えず、お茶を淹れてくるわ。それからリストアップを手伝うから。ついでに、あのしおれたお花を捨てて来るわね。新しいお花を持ってきたし」
 しかしここで、慌てたように深美が美子を止めた。


「あ、その花はまだ大丈夫だから、もう少し飾っておいて」
「え? でも……」
 花瓶に活けられているそれが、何枚か花弁も落としている状態を見た美子が戸惑っていると、深美がちょっと困ったように笑う。


「秀明君から貰ったのよ。最近忙しいみたいで、なかなか来てくれなくてね」
 それを聞いた美子は軽く眉を顰めてから、深美に背を向けつつ花瓶を持ち上げる。


「水を入れ替えるついでに、水切りしてくるわ」
「そう? お願いね」
 その声を背に受けながら、美子は黙って棚の引き出しに置いてある水切りばさみを取り出すと、花瓶片手に給湯室へと向かったのだった。




「ごちそうさまでした……」
 姉妹揃っての夕食を殆ど無言で食べ終えた美子が、真っ先に席を立って食器を手にして台所へと姿を消すと、食堂に取り残された妹達は互いの顔を見合わせた。


「何だか最近、美子姉さんが変じゃない?」
 この間、何となく疑問に思っていた美野が周囲に同意を求めたが、隣の美幸は素っ気なく応じた。


「この前から、ずっと変だと思うけど? 江原さんからDVDを貰ってから、ニヤニヤしっぱなしだったじゃない」
「確かにそうだけど! それがまともになったと思った途端、今度は頻繁にボーッとして、難しい顔をして何だか考え込んでいるみたいだし。何か悩んでいる事でも、あるんじゃないかしら……」
 いかにも心配そうに美野が訴えると、美幸が真顔で頷く。


「それはそうかも。目の前で廊下を走っても怒られないし」
「あんたって子は! 他の判断基準は無いわけ!?」
「五月蠅いわね。ごちそうさま」
 美野が眦を険しくして叱り付けると、美恵が顔を顰めて立ち上がった。そして美子同様台所に向かってから、美野が美幸に文句を付ける。


「ほら、美恵姉さんに怒られちゃったじゃない」
「騒いだのは美野姉さんでしょ!?」
「ああもう、あんた達、本当に五月蠅いわよ?」
 そんな騒々しい妹達の声を背中で受けながら、美恵は先ほど美野が口にした事を考えた。


(最近、姉さんの様子が変なのは確かだけど、悩みとかがあっても自分から進んで口にするタイプじゃないしね。江原さんはあれ以降、変なちょっかいは出していない筈だし……)
 さて、どうしたものかと考えながら美恵は台所に入り、流しで後片付けを始めていた美子の横に立った。


「ごちそうさまでした」
「ええ、そこに置いておいて」
 言われた通り台に使った食器を置いて立ち去ろうとした美恵だったが、洗い物の手を止めた美子が急に振り向き、声をかけてきた。


「ねえ、美恵」
「何?」
「最近、田村さんとはどうなの?」
「和斗? 『どう』って、何が?」
 問いかけられたのも唐突なら、その内容も完全に予想外だった為、美恵は完全に面食らった。そんな彼女に、美子が幾分言い難そうに言葉を重ねる。


「だから、その……、去年からお付き合いしてる方だし、そろそろ結婚とか考えていないの?」
 そう言われて、美恵は漸くその質問の意図が分かった。
「結婚? しないわよ。第一、和斗とは二か月前に別れたし。今は別な男と付き合っているけど?」
 淡々と事実を述べた美恵だったが、美子は目を丸くして思わず苦言を呈した。


「別れた? 美恵、あなた付き合っているって言った相手が、田村さんで一体何人目だと思って」
「付き合った男の数なんて、私が一番良く知ってるわよ! 賢しげな顔で、さも自分だけは良識人だって物言いで、人の人生に口出ししないで頂戴! 端から見ても気分悪いわ!」
「ちょっと、美恵!」
 美子の言葉を怒声で遮り、美恵は憤然として台所を出て行った。


(確かに……、余計なお世話かもしれないけど)
 そして美子が一人で項垂れていると、美実がやって来て明るく声をかける。


「ごちそうさま~。二人で何を騒いでいたの? まあ、姉さん達が揉めるのは、珍しく無いけど」
 そこでゆっくりと顔をあげた美子は、控え目に尋ねてみた。


「美実……」
「何?」
「その……、小早川さんとは、上手くいっている?」
 その問いかけに、美実は怪訝な顔になった。


「いきなり何? そんな事、今まで聞いた事あったっけ? 淳が江原さんの親友だって分かってからも、特に文句とかは言って無かったわよね?」
「ちょっと気になって。付き合い始めて暫く経つし、もう成人したし、ひょっとしたら学生結婚とかしないのかと思って」
 それを聞いた美実は、益々変な顔になった。


「はぁ? 淳と? 学生結婚?」
「ええ」
 真顔で尋ねてくる美子を見て、美実は困ったように言い返した。


「何か、変な心配をしてない? そこまでガツガツしてないわよ。確かに淳も三十になったけど、焦る理由も無いでしょう。第一、面倒臭いわ」
「……そうでしょうね。ごめんなさい。変な事を聞いたわ」
「まあ、良いけど……」
 溜め息を吐いた美子に背を向け、美実は台所を出て行ったが、頭の中は疑問符で一杯だった。


(何でいきなり結婚? 確かに今まで淳との交際を反対されてはいなかったけど、推奨されてもいなかったわよね? どういう事なのかしら?)
 幾ら考えても答えは出ず、美実はその日は寝るまでの時間帯を、すっきりしない気分で過ごす事になった。


「ごちそうさまでした」
 次に美野が食器を持って来ると、美子は迷わず頼み事を口にした。
「ああ、美野。ちょっとお願いしたい事があるんだけど」
「何? 美子姉さん」
「江原さんに、連絡を取って欲しいの」
 そう言われた美野は一瞬当惑してから、嬉しそうに言い出した。


「え? あ、じゃあ連絡先を教えるから、美子姉さんが直接」
「連絡は、あなたからして頂戴。それから、この事は誰にも言っちゃ駄目。分かった?」
「……はい、分かりました」
 語気強く自分の言葉を遮って言い聞かせてきた美子に頷き、美子は怪訝な顔をしながらも頼まれた内容について、秀明と幾つかのやり取りをする事になった。




「やあ、君の方から呼び出してくれるとは嬉しいな。一体全体、どういう風の吹き回しだ?」
 二年前に一度指定した、旭日食品本社にほど近い喫茶店に美子が出向くと、前回同様既に秀明が待ち受けていた。そして挨拶代わりにからかい混じりの声をかけてきた彼を半ば無視して注文を済ませてから、俯いてだんまりを決め込んでしまった美子に、秀明は最初から異常を感じたが、特に自分から話しかけたりはせず、黙って事態の推移を見守る。
 そして美子の前にカフェオレが運ばれ、ウエイトレスがテーブルに伝票を置いて立ち去ると同時に、漸く決心した様に彼女が顔を上げた。


「その……、この前はDVDをありがとうございました」
 いきなり真顔で頭を下げた美子を見て、不審そうに秀明の片眉がピクリと上がったが、いつも通りの声で話の続きを促した。


「どういたしまして。だが、わざわざ礼を言う為だけに、俺を呼び出した訳じゃないだろう?」
 そこで美子は再び黙り込み、秀明は渋面になりながらもそのまま彼女の様子を観察した。すると美子はかなり逡巡してから、恐縮気味に話し出す。


「その……、江原さんは半年前から母が入院中なのは、ご存じかと思いますが……」
「ああ。それで?」
 そこで秀明は表情を消したが、俯きながら話している美子には、その変化は分からなかった。


「六年前に心臓機能に異常が認められて治療を始めて、三年前に心筋の機能しなくなった部分を切除する大掛かりな手術をして、心臓自体の負担を少なくしたんです」
「……それで?」
「普通だったら予後は良い病気なので、運動制限と投薬治療の継続で、十分延命を図れる筈なんです。でも母の症例はかなり特殊な病変で、最近切除した以外の部分の冠血管とその周辺が壊死している所が出てきて、症状が悪化して半年前に入院する事になりました」
 ぼそぼそと詳細を説明する美子に、秀明が淡々と問いを発した。


「ペースメーカーの導入とかは?」
「一部を代替えすれば良いと言う問題では無いらしくて……」
「心臓移植は?」
「希望者数に対して、ドナー数が絶対的に不足しているのは、江原さんもご存じですよね?」
「結論を言って貰おうか。回りくどい話は御免だ」
 ここではっきりと秀明の口調に苛立ちを感じた美子は、慌てて顔を上げて秀明を凝視し、その顔に一切の表情が浮かんでいない事を見て取って、再び俯いて話を続けた。


「この前、父と一緒に、主治医の先生から説明を受けました。……あと保って、4ヶ月だそうです」
 消え入りそうな声での告白に、秀明は思わず小さく溜め息を吐いた。


「下手をすれば、新年を迎えられないか……。元気そうに見えるがな」
「ベッドで寝ている分には、負担は少ないでしょうから。これから徐々に心機能が低下するに従って、呼吸器系や消化器系の機能が落ちていくそうです。それと同時に、意識も混濁し易くなるとか」
「随分、冷静だな」
 思わず秀明が発した言葉に、美子は顔を上げ、そして秀明の顔を見てから視線を逸らす。


「取り乱して、どうなるものでもありませんから」
 その顔を見て、自分が常に無い失態を犯した事を秀明は悟ったが、特に謝罪する事はせずに、やや強引に話を進めた。


「深美さんの、現時点での病状は分かった。それで? 普通なら赤の他人の俺に、そんな事をペラペラ喋らないだろう?」
 暗に問いかけた内容に、美子はかなり迷う様な口振りで言い出した。


「その……、この話を聞いてから色々考えてみたんですが……。最後に母を、少しでも安心させてあげたいと思いまして……」
「…………親孝行な事だな」
 美子がはっきりと口にしなくとも、何を考えているのか秀明には正確に理解できた。しかしこの際自分の口からはっきり言わせようと、素知らぬ振りを貫く。
 自然に彼の口調には若干皮肉が含まれていたが、美子はそれを気にする事無く、自問自答する様に話し続けた。


「でも美野と美幸は論外だし、美恵と美実は全くそんな気は無いみたいだし。男性で親しくお付き合いしている方とかはいないし、従兄の誰かにお願いしようかとも考えたんですが、元々親戚筋から勧められていた相手ばかりなので、後々面倒な事になりそうな気がして」
「三つ、条件がある」
「条件?」
 いきなり話を遮られた上、思いもよらなかった事を言われて、美子は面食らった。しかし何もかも分かっている表情と口調の秀明が、自分主導で話を進める。


「俺だったら、迷惑をかけても後腐れが無いから、頼みやすいんだろう? それならこちらが提示する条件位、飲んで欲しいものだな」
「……はい」
 全く反論の余地は無く、美子は素直に頷いた。そんな彼女に秀明が早速条件を並べ立てる。


「まず一つ目。悪いが日時は、俺の都合に合わせてもらう。色々と立て込んでいるからな」
「それは構いません。全面的にこちらが合わせます」
 当然の事だった為美子は力強く頷いたが、秀明はさほど感銘を受けた様子も無く、更なる要求を繰り出した。


「二つ目。衣装や小物の手配、病院との折衝は一切俺がやる。幸いあそこの付属病院には俺の後輩が勤務中だから、口を利いて貰う」
「え? あの……、衣装や小物の手配は分かるけど、病院との折衝って?」
 戸惑いながら疑問を呈した美子に、秀明は冷静に説明を加えた。


「新郎新婦の姿を見せようとしても、その格好で病院の正面玄関から乗り込んだら騒ぎになるし、衛生上の問題になるかもしれない。事情を病院側に伝えて了解を取り付けた上で、手間暇を考えても同じ病棟内で着替えるスペースを貸し出して貰って、そこで身支度を整えるのがベストだ。どうせなら本格的にやるから、メイク担当や着付け担当の人間もそこに出張して貰う。その病棟に、規則に煩い医師や看護師がいないと助かるな」
「そう言えば、そうね……」
(そこら辺の事を、すっかり失念していたわね)
 指摘されて呆然となった美子だったが、秀明は容赦なくたたみかけた。


「三つ目。妹達から俺の連絡先をきちんと聞き出した上で、言いたい事があったら、俺に直に連絡をよこせ」
「え?」
 先の二つとは明らかに違う内容に、美子は(それにどんな意味が?)と不思議そうな顔になったが、ここで秀明ははっきりと不機嫌な顔付きになって、苛立たしげに告げた。


「会社に近いここをまた指定したって事は、相変わらず俺の住所を知らないし、知るつもりも無いよな? 連絡も美野ちゃんが寄越したし、電話番号もメルアドも、自分では控えていないんだろう?」
「それは……、皆が知っているから、わざわざ聞かなくても良いかと思って……」
 かなりの後ろめたさを覚えながら弁解した美子だったが、そんな彼女の主張を、秀明は一刀両断した。


「仮にも婚約者なら、連絡先位把握しておくものだ。演技だとしても頼む以上、礼儀ってものがあると思うがな。それじゃあ、諸々が決まったら連絡する」
 そう言いながら伝票を手に立ち上がった秀明を、美子は慌てて呼び止めた。


「え? あの、ここの支払いは!」
「何だ? 俺のする事に、何か文句でも?」
 そこでテーブルの横で足を止めた秀明に冷たく見下ろされた美子は、とても「呼びつけたのは私なので、支払いは私が持ちます」と言い出す勇気は無かった。


「……いえ、何でもありません」
「そうか」
 それきり美子の方を見ずに秀明は歩き出し、さっさと会計を済ませて歩き去ってしまった。それをぼんやりと眺めながら、美子は密かに悩む。


(どうして急に、あんなに機嫌が悪くなったのかしら……)
 しかし容易にその答えは出ず、次に美子は秀明から言われた内容について考えてみた。


(でも確かに……、婚約者を演じて貰う相手の連絡先を全く知らないって、ある意味問題だし、有り得ないかも……)
 そんな風に納得した美子は、少し悩んでから今後の方針を決めて帰宅した。


「ただいま」
「お帰りなさい、美子姉さん」
 家に帰るとすぐに、廊下で美野と出くわした美子は、丁度良かったと思いながら、早速彼女に申し出た。


「美野、後で江原さんの連絡先を教えてくれないかしら?」
 それを聞いて、その日の姉の外出先と一緒に居た人物を家族の中で唯一知っていた美野は、不思議そうな顔になる。


「それは構わないけど……、今日江原さんと会っていたんでしょう? 直接聞かなかったの?」
 もっともな問いに、美子は少し口ごもってから、気まずそうに言い返した。


「……うっかりして、聞き忘れたのよ」
 いつもの美子らしくない行動に美野は内心で首を捻ったものの、素直な性格の彼女は、それ以上食い下がったりはせずに了承した。


「分かったわ。後からメモに書いて、美子姉さんの机の上に置いておくから」
「お願いね」
 そして自室へと向かう美子の後ろ姿を見ながら、美野は嬉しそうに微笑む。


「そうか……、江原さんも頑張ってるのね。一歩も二歩も前進かな? 早く『お義兄さん』って呼べるといいな」
 そうして秀明の連絡先を書き取る為に、美野は早速上機嫌で自室へと戻った。





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