半世紀の契約

篠原皐月

第12話 男女の機微

 深美に言い聞かされて、お詫びの品を選んでもらう為に迎えに来た秀明の車に乗り込んだ美子は、普段足を踏み入れない複合商業施設に連れて来られた。そして駐車場から施設内に入り、あれやこれやと話しかけてくる秀明に適当に相槌を打ちつつ足を進めたが、「ここだ」と彼に指示された場所で思わず足を止めた。


「ここは……」
「ご覧の通り、オーダーメイドのランジェリーショップだ」
 ショーウインドーの向こう側に展開されているディスプレイを見れば一目瞭然な事を、秀明は含み笑いで告げた。それに早くも切れそうになる自分自身を抑えつつ、美子が静かに問いを重ねる。


「どうしてここに?」
「実用品を、細部までとことん君の好みに合わせて作れるから。深美さんの条件に合致するだろう? どんな奇天烈な物でも作れるから、遠慮無くどうぞ」
「誰がどんな物を作るって言うのよ!?」
 思わず秀明に掴みかかって声を荒げた美子だったが、秀明は苦笑しながら難無くその手を解き、さり気なく手を繋いで店内へと足を向けた。


「さあ、入口の前で立ち止まっていると店や他のお客の迷惑だから、さっさと入ろうか」
「ちょっと! 手を離しなさいよ!」
 そしてムキになって手を振り払おうとしたが、入店してすぐに白いブラウスに紺のタイトスカートの制服らしい格好の女性達に頭を下げられて、あまり見苦しい真似はできないと、その動きを止めた。


「いらっしゃいませ」
「江原様、お久しぶりです」
「やあ、また寄らせて貰ったよ」
「ありがとうございます。精一杯ご希望に適う物をお作り致します」
 美子の手を離さないまま、秀明は二十代から三十代の女性スタッフ三人に愛想良く笑いかけ、その様子を美子は半ばうんざりしながら観察した。


(常連客っぽいし……。これまで一体何人の女を、ここに連れて来たのよ。パッと見て、確かにディスプレイや店の雰囲気は悪くないんだけど)
 周囲を見回しながらそんな事を考えていると、奥の方から五十代に見える綺麗に髪を纏めた女性が足音を立てずに歩み寄り、秀明に頭を下げて挨拶してきた。


「江原様、いらっしゃいませ。本日はこちらの方の物を、お作りすれば宜しいのですね?」
「ええ、宜しくお願いします」
「畏まりました」
 そして美子に向き直った女性は、軽く頭を下げてから穏やかな微笑みを浮かべつつ、名刺を差し出してくる。


「お客様、初めまして。私はこの店舗のオーナー兼主任デザイナーの、春日と申します。以後、宜しくお願いします」
「藤宮と申します。今日はお世話になります」
 美子も会釈を返し、ここで漸く秀明が手を離してくれた為、春日の名刺を受け取ってハンドバッグにそれをしまった。そこで春日がお伺いを立ててくる。


「それではまず、江原様には向こうのソファーでお待ち頂いて、藤宮様の採寸をさせて頂きたいのですが」
「分かりました。お願いします」
「それでは奥で採寸をさせて頂きます。高原さん、お願いね」
「はい。藤宮様、こちらにどうぞ」
 そして秀明は店内の一角にある応接セットに、美子は高原の先導で奥に設けられている試着室へと向かった。そして靴を脱いで、足が冷えない様にカーペットが敷かれたスペースに上がり込む。
 そこは試着室とは言っても三方が鏡張りの四畳半程の十分余裕があるスペースで、一瞬美子は戸惑ったが、続いて高原ともう一人が入って来た為、その広さの理由が分かった。


「それでは服を脱いで頂けますか?」
「はい。ハンガーをお借りします」
 女同士であり、下着を作る為の採寸であるなら想定内の事であった為、美子はその指示を聞いても今更恥ずかしがる様な真似はしなかった。そして淡々と服を脱いで皺にならない様にハンガーにかけていくと、ブラジャーとショーツだけの状態でもう良いかと思いきや、それを察したらしい高原から控え目に声をかけられる。


「藤宮様、ブラも外して頂きたいのですが。正確な採寸ができませんので」
「……分かりました」
 それもそうだわと思い直した美子が素直に背中のホックに手をかけた時、何やら小さく笑った様な気配を感じた。さり気なくそちらの方に視線を向けると、高原に続いてクリップボード片手に試着室に入って来た、二十代半ばに見える女性が目に入る。するとどこからともなく取り出したメジャー片手に、高原が指示を出した。


「じゃあ青田さん、記録を宜しく」
「はい、分かりました」
 どうやらベテランっぽい高原が採寸で、青田がその記録係と分かったが、採寸を進めていくにつれて、時折青田が自分に向けてくる視線に、美子は若干白けた。


(ふぅん? この人何だか、私に色々思うところが有りそうね。確かに美人の部類に入ると思うし、スタイルは良いみたいだけど。そんなに顔に出るなんて、あまり頭は良く無さそうだわ)
 しかし高原の動作や指示には全く無駄が無く、測り直しなどは皆無の上、肌に当てるメジャーもどうやってか適度に熱さを感じない程度に温めてあるらしく、自分でメジャーで測る時のひんやり感を予想していた美子は、良い意味で予想を裏切った彼女の仕事ぶりに好感を覚えた。
 そうこうしているうちに、あちこちのサイズを測り終え、青田から受け取ったボードの内容を確認していた高原が、笑顔で作業が終わった事を告げる。


「ありがとうございました。これで採寸は終了です。服を着て下さって構いません」
「どうも」
 短く礼を述べて手早く服を元通り身に着けた美子は、試着室から出ると控えていた高原に案内されて、秀明が座っている場所とは別の応接セットに向かった。そこでソファーから立ち上がった春日が、恭しく頭を下げる。


「藤宮様、お疲れ様でした。こちらにどうぞ。珈琲と紅茶ではどちらが宜しいですか?」
「それでは紅茶をお願いします」
「畏まりました。少々お待ち下さい」
 そこで春日が目配せすると、高原は心得た様に下がって行った。そして美子にソファーを勧めて自らも座り直した春日が、かなりの厚さのあるサンプル表を開きながら、美子に向けて差し出す。


「それでは早速、デザインの打ち合わせに入ります。江原様からはブラジャーとショーツ、キャミソールとペチコート、ロングスリップとガードルのセットでお話を伺っておりますが、他に追加したい物や、こうして欲しいという優先希望はございますか?」
 真摯な表情で問われた美子は、思わず真顔で考え込んで要望を伝える。


「追加する物はありませんが、なるべくワイヤー無しでお願いしたいのですが。後はあまり締め付けるタイプの物は、普段使用しておりませんので」
「勿論、大丈夫です。それではデザインを決めていきましょう。サンプル画を出しますので、それを元にアレンジしていきます。ある程度考えが纏まったら、そのデザインに合わせて素材も選定していきますので」
「分かりました」
 大体こんな物で、という感じで決まるかと思いきや、春日は大まかな方針が決まると、それを元に細かい長さや幅、デザインに関して細かく質問を繰り出した。しかし的確に美子が考えているイメージを汲み取って彼女を変に迷わせる様な事は無く、デザイン帳にサラサラと彼女の頭の中に浮かんだ内容を描き出していく。それと同時に生地や金具などの見本も従業員に指示して次々持って来させ、目の前のテーブルで吟味しつつ選択していく春日の手際の良さに、美子は心底感心した。


(こういうのも、結構楽しいわね)
 普段見る事が無かった職種の、そのプロの仕事ぶりを目の当たりにして、美子が気分良く受け答えをしているうちに、一通り確認が済んだ春日が鉛筆を置き、笑顔で告げてきた。


「それではこの様に致します。完成まで少々お待ち下さい」
「楽しみにしています。それにしてもお上手ですね」
 差し出されたデザイン画を見て美子が思わず感嘆の溜め息を漏らすと、春日は若干照れくさそうな表情になった。


「これで仕事をしておりますから。他に何かご質問やご要望はありませんか? あれば遠慮なく仰って下さい」
「そうですね……」
 そこでこの間すっかり存在を忘れていた秀明に視線を向けると、どうやら茶を出したらしい青田が、その場に立ったまま秀明と談笑している様子が目に入った。それを無言で見やってから、美子は春日に視線を戻す。


「江原さんはこれまでに何回か、こちらで同伴した女性の下着を作った事があるんですよね?」
「はい、ご贔屓にして頂いています」
「その時は彼の趣味で作ったんでしょうか? それとも女性の趣味で作ったんでしょうか?」
 その問いに、春日は一瞬顔を強張らせてから惚けた。


「さぁ……、どうだったでしょうか? そこまで個別には記憶しておりませんので」
(何かしっかり覚えているっぽいわね。そうなると……)
 何となく推察した美子は、何気ない口調で話を続ける。


「そうですか。毎回彼の趣味で作らせて、趣味の悪い物が仕上がったのではないかと思いまして」
 淡々とそんな事を言ってのけた美子に、今度こそ春日の顔が引き攣った。
「……どうしてそう思われました?」
 その控え目な問いかけに、美子は小さく肩を竦めつつ答える。


「何だか頭が悪そうな女に合わせて、大層趣味の悪い物を平気で作らせて、何も考えていない女がそれを身に着けて得意満面で見せびらかす情景が、何やら自然と目に浮かんだものですから」
「は?」
「そんな頭の悪そうな女の後釜に座った女が、勤務中にその男に色目を使ったり、その男が同伴した女性に勘違いな優越感丸出しでにやにやしているのは、店のイメージや信用に傷が付きかねないと思いまして。従業員教育は、きちんとされた方が良いかと。これは要望では無く、単なる推測と感想ですが」
 それを聞いた春日は一瞬呆気に取られたものの、すぐに真顔になって秀明の方に顔を向けた。そして彼の横に立ってヘラヘラと何やら話している青田を認めて、そ知らぬ顔で紅茶のお代わりを飲んでいた美子に頭を下げる。


「お話は確かに承りました。以後、重々気をつけます」
 それを受けてカップを口から離した美子は、悠然と微笑んだ。
「そうして下さい。お店の雰囲気は良いし、出来上がりによってはこれから贔屓にしたいと思いますので」
「ありがとうございます。必ずご満足頂ける物を仕上げてみせます」
 そこでプロの顔付きになって請け負った春日に、美子は再度好印象を覚えてその店を後にした。


「あの店、あなた出入り禁止になるかもしれないわね」
 美子が帰りの車中で運転席の秀明に告げると、秀明は途端に笑いを堪える表情になった。
「オーナーと随分楽しそうに話し込んでいたが、何か俺の悪口でも吹き込んでいたのか?」
「そんな事はしないわ。ただ、お客のどんな要望にも応えなくちゃいけないなんて、客商売って本当に大変だわって、改めて思っただけ」
「それはそうだろうな」
 そう言って含み笑いをする秀明に余計に苛付きながら、美子はこれだけはきちんと言い聞かせておかないといけないと、語気強く宣言する。


「とにかく、今回のこれで、貸し借り無しですからね! もう品物を送り付けたりしないでよ!?」
「了解。そんなに力一杯主張しなくとも、分かったから」
 面白そうな表情になりながらも、取り敢えず了承の返事をしてきた秀明に美子は取り敢えず安堵したが、残念ながらその平穏な生活は、一週間と持たなかった。


「ああ、美子。今日の午後、江原君が来るからそのつもりでな」
 その週の土曜日の朝、唐突に父親から言われた内容に、美子は瞬時に顔を引き攣らせた。
「え? あの人、何をしに来るんですか?」
「私と碁を打ちにだ」
「……いつの間に、そんな仲になったの?」
 思わず脱力しながら問い返した娘に、昌典が笑いを堪える風情で答える。


「この前、社内で偶々顔を合わせた時に、彼が『将棋は嗜むが、囲碁は経験が無い』と言っていてな。私が『囲碁は自信があるが、将棋はからっきしだ』と言ったら『教えて下さい』と言われたんだ。『今度出向くまでに本を読んで基本を覚えておきます』とは言っていたが、さて、どれ位物にしているやら」
 そう言って面白そうに笑いつつ書斎に向かった父を見送りながら、美子は必死で自分自身に言い聞かせた。


(あいつ……、どうあっても家に乗り込んでくる気ね? でもこちらがまともに相手をしなければ、良いだけの話なんだから。適当に笑って流せば良いのよ、流せば)
 そんな風に心掛けていると、昌典の予告通り、午後になって秀明が藤宮家を訪ねてきた。


「こんにちは、美子さん。お邪魔します」
「お久しぶりです、江原さん。どうぞお上がり下さい」
 嘘臭い笑みで挨拶してきた秀明を、社交辞令以外の何物でもない笑みで美子が出迎える。
「相変わらず、お元気そうで何よりです」
「江原さんも、あちこち駆けずり回っていると聞き及んでおりますが、お元気そうで何よりですね」
「健康と体力には自信があるもので。しかし私の消息を尋ねてくれたんですか? 嬉しいですね」
 廊下を歩きながらそんな事を言ってきた彼に、美子は思わず小さく舌打ちした。


「……父を初め家族が色々と、聞きもしないのに私の耳に入れてくれるもので」
「そうですか」
 それ以降は薄笑いだけで無言になった彼を連れて、美子は廊下を進んだ。そしてとある部屋の襖を開けながら、中にいる父親に声をかける。


「お父さん、江原さんがいらっしゃったわ」
 そして部屋に入った畳に正座した秀明が、神妙に口上を述べた。
「社長。お休みの日にお時間を頂きまして」
 しかし昌典は、ニヤリと笑いながら言い返す。


「休日なら、肩書は必要ないんじゃないか? 江原課長」
「そうですね。お邪魔します、藤宮さん」
「ようこそ、江原君」
 そんな打ち解けた会話を交わしてから、秀明は持参した大きな紙袋から、きちんと包装された包みを取り出し、昌典に向けて押しやった。


「こちらはつまらない物ですが、どうぞお納め下さい」
「やあ、これはどうも」
「それから、お嬢さん達にもお土産を持参していまして。これが美恵さん、これが美実さん、これが美野さん、これが美幸さんの分になります」
 大きさも形状も異なる四つの包みを、目の前に次々と並べられた昌典は若干不思議そうな顔になったが、余計な事は言わずに美子に顔を向けた。


「そうですか。それなら美子、早速美恵達を呼びなさ」
「うわぁい! ありがとう、江原さん。開けて良い?」
「美幸! 何飛び出してるのよ!? それに貰ったその場で、開ける様な真似は止めなさい!! 失礼でしょうが!」
「これに関しては、美野の意見に一票かな~?」
「ところで江原さん。姉さんの分が無いみたいだけど、ひょっとして嫌味? わざと忘れた?」
 昌典が言い終わらないうちに、襖の向こうで様子を窺っていたらしい四人のうち、美幸が勢い良く襖を開けて乱入してきた。他の三人もそれぞれ異なる表情で入って来るに至って、昌典は苦笑いし、美子はもう小言を言うのを諦めて、深々と溜め息を吐く。そんな光景を面白そうに見やった秀明は、皮肉っぽい美恵の問いに、笑顔で答えた。


「まさか。ちゃんと持って来ているよ」
 そう言いながら再び紙袋の中に手を差し入れ、中身を取り出した秀明は、それを手にして美子の方に膝を進めた。
「それでは美子さんの分は……、これになります」
「これって……」
 美子に向かって軽く畳の上を滑らせた物は、海外の物と思われるDVDケース一つだけで、藤宮家の面々は意表を衝かれた。しかしそのタイトルを読み取った美子は、大きく目を見開く。


(あのドイツ語……、え? 十年前にクラウディオ・ジンガーが引退するのを記念して、所属クラブチームが特別に限定制作した特別編集DVD! あの仕事師クラウディオの死闘激闘、名プレーが収められて、コアなファンが頑として手放さない幻のDVDがここに!? 嘘!? 夢じゃないかしら!!)
 現役時代に名MFとして名を馳せた彼のプレーに惚れ込み、時折放映される衛星放送の解説を直に聞きたい一心でドイツ語まで習得してしまった美子にとっては、以前から喉から手が出るほど欲していた物が目の前に出現した事で、一瞬現状を忘れた。しかし穏やかな秀明の声で、すぐに我に返る。


「幸い、ドイツと日本はリージョン・コードが同じなので、再生に支障はないかと思いますが、万が一お手持ちのDVDプレイヤーで再生が不可能なら、対応した物も併せてプレゼントします」
(夢じゃなくて、紛れもない現実だわ)
 したり顔で言葉を重ねた秀明を見て、美子は項垂れたいのを必死に堪えた。そして何とか声を絞り出す。


「いえ、パソコンなら再生に問題はないかと思いますが」
「ああ、その手もありましたね」
(この男……、どこまで狡猾なのよ! 中身が見えない状態だったら、遠慮なく突っ返したのに。それを見越して他の物とは違って、これだけわざと剥き出しのままなんて……)
 不敵に微笑んでいる秀明を見て、美子は膝の上に乗せた手を握り締めながら、内心で激しく葛藤した。そんな彼女の心情が手に取る様に分かっていた秀明は、飄々とした口ぶりで再びDVDに手を伸ばす。


「どうかしましたか? 美子さん。お気に召さないなら、これは止めて、何か別の物をお持ちしますので」
「あのっ!!」
「はい、何か?」
 DVDに手をかけて引き寄せようとした秀明の手首を、美子は反射的に掴んで引き止めた。そしてかなり逡巡する素振りを見せたものの、全面的に降参する。


「…………せっかくですので、ありがたく頂戴致します」
「そうですか。どうぞ、お納め下さい」
 そして勝ち誇った表情の秀明がDVDから手を離した為、美子も彼の手首から手を離した。
(勝ったな)
(負けたっ……)
 明らかに対照的な二人の表情を見て、この一部始終を目の当たりにしていた昌典は口元を押さえて必死に笑いを堪えた。そんな中美野と美幸が、無邪気に小声で囁き合う。


「少しハラハラしたけど、美子姉さんが受け取ってくれて良かったわ」
「本当。江原さん、良かったね」
 しかしその感想に、上の二人が水を差した。
「そうでもないんじゃないの?」
「そうよねぇ……」
「え?」
「どうして? 美子姉さんが受け取ってくれて、江原さん、凄く嬉しそうだけど?」
 途端に怪訝な顔になった下二人に、美恵と美実は顔を見合わせて苦笑する。


「まだまだ男女の機微ってものが、分かってないわね」
「ま、二人ともまだお子様だから、仕方が無いか」
「お子様って……。私、もう高校生なんだけど?」
「中学生は、子供じゃないでしょ!?」
 互いに声を潜めてのやり取りではあったが、通常では十分聞き取れる至近距離であったにも係わらず、敗北感にまみれていた美子の耳には全く届いていなかった。




 その日の夜。例のDVDは淳の伝手で手に入れた物だった事もあり、秀明は手土産の酒持参で彼の部屋に押し掛けた。そこで美実からの電話を受けた彼は、美子の様子を伝えて来たのだろうと見当を付け、せっかくだから調達に一役買った親友にも聞かせてやろうと、スマホのスピーカー機能を起動させた。


「それでね? 江原さんが帰った後、美子姉さんったらPCにかぶり付きでDVDを見てるのよ」
「楽しんでくれているみたいで、嬉しいよ」
 一通り説明を聞いて、男二人は満足げにグラス傾けたが、穏やかな時間はここまでだった。


「もう美子姉さんったら、常には無い位うっとりしちゃて。『凄い、今のプレー。もう神業としか思えない。ええ、そうよ、クラウディオ様は神そのものだわ……』とか寝言を言いながら凝視してるのよ。もう端から見たら笑えるったら!」
 そのセリフに秀明は手の動きを止めて、僅かに眉を寄せた。しかし口調はいつもの調子を貫く。


「へえ? そんなに思い入れのある選手だったんだ」
「過去形じゃなくて、現在進行形。引退後はあちこちのナショナルチームのコーチとか監督を歴任してるから、その人が所属してるチームがその時点での美子姉さんの贔屓チームなのよね。知らなかったと思うけど」
「ああ……、知らなかったな」
「……おい、秀明。グラスを握りつぶすなよ?」
 何やら不穏な気配を醸し出してきた友人の手に、妙に力が入ってきた様に感じた淳は、慌てて警告の言葉を囁いた。しかしそんな声は届かなかったのか、スマホからは美実の楽しげな声が引き続き聞こえてくる。


「ワールドカップの時期なんか、もう大変。そのスケジュールで美子姉さんの生活パターンが決まるし。日本と韓国で共催した時は、忘れたけどどこかの監督をやってたから、高校をさぼって追っかけやったわよ。あの普段の堅物ぶりからは、想像できないでしょう? あれが無ければ皆勤賞だったのにね」
「普段の彼女からは、想像できないな」
「因みに、今日はPCの前から離れないから、美恵姉さんと私で夕飯を作ったのよ。だけどご飯ができたって呼びに行っても、『ああ、そう』だけで動かないし。重症だわ。明日には回復するかなぁ……。確かに情報を流したのは私だけど、まさか本当に探し出して持って来るとは恐れ入ったわ。姉さんへの愛? それともつまらない意地?」
「そこは迷わず愛だと言ってくれないか?」
 茶化す様に尋ねてきた美実に、幾分秀明は調子を取り戻しながら皮肉っぽく言い返した。しかし彼女は容赦なく断言する。


「今の所美子姉さんの愛は、迷わずクラウディオ様一直線だけどね!! じゃあそういう事で、以上、報告終わり。それじゃあね! あははははっ!! ホント、笑えるっ!!」
「………………」
 言うだけ言って最後は爆笑で通話を終わらせた恋人の仕打ちに、淳はがっくりと項垂れた。


(おいおい……、勘弁してくれ美実。こっちの状況が分かっていなかったとは言え、そういう報告は俺が居ない時にしてくれ、頼むから。さっきまでこいつ滅茶苦茶機嫌良かったのに、豹変しちまったぞ)
 通話が終了した途端、面白く無さそうな表情で黙々とグラスを傾け始めた秀明を見て、淳は溜め息を吐いてから声をかけた。


「残念だったな、秀明」
「何がだ?」
「要するに、彼女に勝って、どこぞの一線退いた中年親父に負けたって事だろ?」
 そんな的確な指摘をしてきた腐れ縁の悪友を、秀明が一睨みする。
「……五月蠅い」
「へいへい」
(本当に、こいつがこんな顔をするのは、彼女に関する事だけだものな)
 困った奴だとは思いながらも、最近では得体の知れなさが幾分鳴りを潜め、時折妙に人間臭い表情をする様になってきた秀明の変化を、淳は微笑ましく見守る事にした。




 その三日後。深美の見舞いから帰る途中の美子は、エレベーターで一階まで降りて広いロビーを横切りながら、緩みがちの自分の頬を、軽く手のひらで叩いていた。


(うう、顔が緩む……。顔を見せるなり、お母さんにも『何か良い事でもあったの?』って聞かれちゃうし。あんまりニヤニヤしてると、周りから変だと思われちゃうわ。あのDVDを貰ってから、もう三日も経ってるんだもの。平常心、平常心……。あら?)
 そんな風に自分自身に言い聞かせていた美子だったが、自分とは逆に、正面玄関から入って来る人物を見て、驚いた表情になった。


(お父さん? 平日のこんな時間に、どうしてここに? 今日、見舞いに行くとか言ってなかったけど、予定外の纏まった空き時間ができて、お母さんの顔を見に来たのかしら?)
 そんな予想をしながら、美子はまっすぐ昌典に向かって歩いて行った。
「お父さん、こんな時間にどうしたの?」
 何気なく声をかけたつもりが、昌典は何かに気を取られていたのか、至近距離まで美子に気が付かなかったらしく、僅かに動揺した。


「……あ、ああ、美子。帰る所か?」
「ええ。お父さんはお母さんの顔を見に来たの?」
「そうじゃなくて……、桜井先生と話があってな」
「桜井先生と?」
 常には見られない父の態度と、唐突に出てきた母の主治医の名前に、美子は怪訝な顔になったが、昌典は何やら真顔で考え込んでから彼女に告げた。


「そうだな……。私一人で話を伺うつもりだったが、お前にも同席して貰うか。何か急ぎの用事でもあるか?」
「いいえ。後は家に帰るだけだから……」
「それでは一緒に来なさい」
「……はい」
 そこで幾分硬い表情の父に続いて、美子は嫌な予感を覚えながら、言葉少なに今来た方に向かって再び歩き出した。





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