気が付けば奴がいる

篠原皐月

冴子、周囲から奇異の眼で見られる

 ゴンザレスさんから勇気を貰った今を逃すと、絶対返事ができなくなる気がする! そんな焦燥に駆られながら、私は会社の最寄駅から炎天下に飛び出した。
 暑い……。でも今の私には、太陽すらエールを送ってくれている気がするわ!
 熱さ上等!! 夏が暑くなかったら、冬が寒くないわよね!
 自分でも支離滅裂な事を考えつつ、駅からの道のりをひた走った。 


「お……、仕事、中……、失礼、しま……、す」
 さすがに久しぶりに全力疾走なんかしたから、息が切れたし、足がガクガクするわ。


「え? 主任?」
「今日はお休みですよね?」
「それに……、そんな汗だくでどうしたんですか?」
 何とか息を整えながら職場の自分のオフィスに入ると、仕事中の同僚達が、殆ど手を止めて私を凝視してきた。


「橋田君、ちょっと時間を貰って良い?」
「あ、はい。何でしょうか?」
 よろめきながら橋田君の机まで進み、声をかけると、彼は不思議そうな顔で椅子ごと私の方に向き直って見上げてくる。
 う、緊張する。でもここで逃げたら、一生逃げ続ける事になりそう……。ゴンザレスさんも付いているから頑張るのよ、冴子!!
 自分自身に気合を入れながら、無意識にトートバッグの側面に触れる。その不自然な膨らみが、私に勇気をくれた。


「二週間前の返事だけど、今ここでしても良い? と言うかもの凄く個人的な事情で、今すぐ返事をしたいんだけど?」
「あ、ええと……。そっちがそうしたいなら、どうぞ」
「どうも。それなら結婚を前提に、私と付き合って」
「……はい、宜しくお願いします」
「…………」
 私が話を切り出した途端、橋田君は僅かに動揺しながらも了承してくれた為、私は一息に言い切った。
 一瞬遅れて橋田君が返事をしながら軽く頭を下げると、周囲は見事に静まり返り、次の瞬間室内のあちこちから驚愕と歓喜の声が湧き起こる。


「はぁ!? 橋田お前、主任に付き合ってくれって言ってたのか!?」
「橋田さん、ホントですか!?」
「だって主任、この間全くいつも通りだったのに!」
「と言うか、公開告白ですか! さすが主任、男前すぎる!」
「それにしても主任に交際を申し込むなんて、度胸あるよな」
 周囲から早速冷やかされながら、橋田君が微妙に顔を引き攣らせながら尋ねてきた。


「冴子さん。あの……、差し支えなければ、どうして今日この場で返事をしようと思ったのか、聞いても良いですか?」
 橋田君、よくぞ聞いてくれました! ここはやっぱり、最大の恩人をお披露目しないとね!!


「それはね、今日緑の妖精さんから、啓示と力を受け取ったからよ。それを無駄にしない為にも、一刻も早く返事しなくちゃと思ったの」
「緑の妖精さん?」
「橋田君に紹介するわね! ジャジャ~ン! これが緑の妖精さんの、ゴンザレスさんです!」
「………………」
 すっかり嬉しくなって、トートバッグから取り出したゴンザレスさんを橋田君の前に突き出すと、彼は見事に無表情で固まり、周囲が再び静まり返った。そして少しして、あちこちから囁き声が聞こえてくる。


「主任、一体どうしたんだ?」
「どうしてあれが『緑の妖精さん』?」
「実は主任って、色盲だったの? それで茶色が緑に見えているとか」
「色盲の人が見分けにくいのは、赤と緑じゃなかったのか?」
「お前達、論点がずれてるだろ! そもそもあれはどう見ても、クマのぬいぐるみだぞ?」
 そこで私はゴンザレスさんが自己紹介もせず、私の手にぐったりと吊り下げられているだけの状態である事に気が付いた。


「あら? ゴンザレスさん? 元気が無いけど大丈夫?」
「いや、異常なのは冴子さんの方だから。支離滅裂な事を言ってるし、滝のように汗をかいてるし」
「あ、ちょっと駅から全力疾走してきただけだから、大丈夫よ」
 橋田君は変な事を言い出したので何気なく答えた途端、どうしてか周囲が慌て出した。


「はい!? 主任、この炎天下で、全力疾走してきたんですか? 日傘とかも持ってませんよね?」
「まさか熱中症で、意識が朦朧としてるとか!?」
「あり得る!! 普段冷静な主任が、真顔で緑の妖精さんとか言い出すなんてあり得ない!!」
「主任、取り敢えず早く休んで下さい!」
「あの……、私は別に、熱中症とかではなくて……」
 慌てて弁解しようとしたが、誰も私の話を聞いてくれなかった。


「おい、誰か応接室に行って、仮眠用のマットレスを出せ! それから室内の温度も確認しておけ!」
「分かりました!」
「主任、まず水分と電解質を補充して下さい。買い置きしておいたスポーツ飲料です!」
「さあ、一気にグイッと!! あと保冷剤も一緒に、冷蔵庫から持ってきました!! 飲み終わったら、頭と首を冷やしましょう!」
「……いただきます」
 後輩の女性達が、涙目で差し出してきたペットボトルを受け取り、中身を一気飲みした。喉が渇いていたのは確かだし、ここで遠慮したら有無を言わさず口の中に流し込まれそうな、気迫を感じたんだもの……。
 正直に言うと、普段癒し系の高瀬さんの顔が、その時一番鬼気迫った表情で怖かったけど、余計な事は口に出さなかった。
 それから応接室に有無を言わさず連行され、泊まり込みの時に使うマットレスに寝かせられて、仮眠用のシートを体にかけられた直後に、私はだらしなく意識を手放してしまった。




「……ふぁあ~、久しぶりに、良く寝た~」
 もう夕方か……。このところ悩み過ぎて、良く眠れてなかったから熟睡しちゃったわ。うん、気分爽快! これもゴンザレスさんのお陰よね!
 時計で時刻を確認しつつそこまで考えて、私は漸く彼の事を思い出した。


「ゴンザレスさん、ここまで付き合ってくれてありがとう。ちゃんと沙織ちゃんに返すから、もう少し待っててね?」
 そう言いながら自分のトーチバッグを目で探したが、ここで漸く異常に気が付いた。
「ゴッ、ゴンザレスさぁぁぁぁぁん!?」
 自分でも信じられない位の悲鳴が口から出てから数秒後、もの凄い勢いで応接室のドアが開けられた。


「冴子さん、どうしたっ!!」
「ゴンザレスさんが動いてないのよ!!」
 バッグに半分身体を突っ込んだ状態で、ピクリともしないゴンザレスさんを指さしながら必死の形相で訴えたのに、橋田君以下、彼の背後に集まって来た同僚達は、皆困った顔をしたり、無言で私から視線を逸らした。


「ああ……、それは動かないだろうね」
「どうしてよ! だって」
「ゴンザレスさんも、熱中症なんじゃないかな? とにかく、家に持って帰って休んだ方が良いと思う」
 どこか妙に達観した表情で橋田君にそんな事を言われた私は、事態の打開策に気が付いた。


「ゴンザレスさんは私の物じゃなくて、姪の物なのよ。急いで返しに行かないと。そうね! 沙織ちゃんだったら、ゴンザレスさんの介護方法を知っているかもしれないわ。急いで姉の家に行かないと。皆、仕事を邪魔してごめんなさいね! 私、これで失礼するから!」
 慌ててマットレスを畳み始めた私の背後で、部長が橋田君に何か言っているのが微かに聞こえた。


「これは駄目かもしれん。橋田、ちゃんと送って行ってご家族に経過を説明して、取り敢えず保護して貰え。無理そうなら、明日も休みで良いから」
「分かりました。後から報告を入れますので」
 何を二人でボソボソ言っているのかしら。確かに休日に職場に押しかけた上、爆睡するっていう醜態は晒したけど、そこまで問題児扱いされる事は無いのに。


 結局、大多数の同僚達から気遣わしげな表情をされたり、生温かい視線を向けられた私は、沙織ちゃんに再度訪問する事を連絡してから、職場を出て姉の家に向かった。
 何故かゴンザレスさんが反応しなくなった事は、沙織ちゃんに申し訳なくて電話では言えなかった。直接顔を見て、謝ろうと思ったのだ。


 そして……、気落ちした私を心配して強引について来た橋田君と一緒に姉の家を再訪すると、沙織ちゃんから連絡がいっていたのか、普段忙しい姉夫婦が揃っており、一部始終の事情を説明し終えた途端、お義兄さんが口元を押さえながら腰を上げた。


「みっ、緑の妖精っ……、っ! わ、悪い、冴子さん、橋田さん。ちょっと席を外します」
「……お構いなく」
 微妙に顔を歪めながら口にした台詞に私達が頷くと、お義兄さんは足早にリビングから出て行った。その直後、ドアの向こうから響いてくる爆笑。


「ぶわははははっ!!」
「…………」
 一応、部屋を出て行ったのは気を遣ってくれた筈なんだけど……。お義兄さん、相変わらず豪快な笑い方をされるんですね。しっかり聞こえてきます。近所迷惑にはならないんでしょうか?
 そんな事を考えていると、姉さんが如何にも呆れ果てたと言った風情で言い聞かせてきた。


「冴子。あなた本当に、今口にしたような馬鹿な事を、自分の職場でやらかしたわけ?」
「だけど! ゴンザレスさんがそうしろって言ったんだもの! 暑くて疲れたのか、今は呼びかけても全然反応が無いけど!」
 持って来たゴンザレスさんを勢い良く前に突き出しつつ訴えたが、姉さんは盛大に溜め息を吐いただけだった。


「あのね、冴子。これはただのぬいぐるみ。喋らないし動かないし、ましてや人生相談なんか受けないわ」
「だって! 雑巾がけもできるんでしょ!? 沙織ちゃんが言ってたわよ? そうよね?」
「…………」
 そこで渋面の姉さんと一緒に沙織ちゃんに視線を向けたが、沙織ちゃんは何故か幾分狼狽しながら思ってもいなかった事を言い出した。


「ええと、その……、叔母さん? そのぬいぐるみの名前は確かにゴンザレスだけど、普通のぬいぐるみでしかないんだけど……」
「だって沙織ちゃん! ゴンザレスと二人きりで話がしたいって言ったら、同じマンションのお友達の部屋に行ってくるからって、言ってたじゃない!?」
「その……、私、そんな事、してないんだけど……」
「え? そんな!」
「だって私、叔母さんが仏壇に向かって、何だかずっと真剣に拝んでるから、邪魔したら悪いと思ってその場を離れたんだけど、少しして、何だかぶつぶつ独り言を言っている声が聞こえたから様子を見に行ったら、偶々仏間に置きっぱなしにしていたそのゴンザレスに向かって、真顔で話しかけていて……」
「…………」
 姉さんと橋田君の、視線が痛い……。いえ、そうじゃなくて、どうして沙織ちゃんがそんな事をいうわけ!?


「どうしようかと思ったけど、もの凄く真剣な顔だったから、邪魔するのは悪いと思って黙って様子を見ていたら、叔母さんがいきなりゴンザレスをトートバッグに押し込んで、『沙織ちゃん、これ借りるわね!』って叫んで、走って出て行っちゃったから……」
 物凄く申し訳なさそうに語る沙織ちゃんは、とても嘘をついているようには見えなくて、混乱してきた。


「……本当に?」
「うん。だって、ほら」
 そこで私からゴンザレスさんを受け取った沙織ちゃんは、そのままテーブルに置いてから、その胴体に勢い良く拳をめり込ませた。


「ゴンザレスは普通のぬいぐるみだし。投げても踏んでも痛いなんて言わないし、洗濯もできるよ?」
「できるの?」
「うん。じゃあ、ちょっと来て」
 そこで沙織ちゃんに促されるまま後に付いて歩き出し、脱衣所へと向かう。そして沙織ちゃんは手早く洗濯機の蓋を開け、そこにゴンザレスさんと洗剤を投入し、慣れた手つきで操作した。
 動き出すドラム式洗濯機。当然その中から聞こえてくるのは、機械音と水音しかしない。


「ほらね? あのぬいぐるみに緑の妖精なんて、入ってないって」
 明るくそう言い聞かされて、あのゴンザレスさんは本当に私の気の迷いから見た幻覚だったのかと、心底恥ずかしくなった。


「そうみたいね……。ごめんなさい、沙織ちゃん。思い立って急に押しかけたのに、いきなり無断でぬいぐるみを持ち出して飛び出したりして……。しかも、訳が分からない事を言い出すし……」
 本当に、いい年をした社会人なのに恥ずかしいわ。
 でもそんな私を、沙織ちゃんは優しく慰めてくれた。


「叔母さん。今日うちに来た時点で、何だか顔色が悪かったもの。きっと最近暑さが続いていたのと、仕事で忙しかったのと、橋田さんとの事で悩みすぎて、ちょっと幻覚を見ちゃっただけよ。だから本当に気にしないで。大丈夫だからね」
「沙織ちゃん……」
 不覚にも、涙が出て来た。するといつの間にか並んで立っていた橋田君に向かって、沙織ちゃんが軽く頭を下げる。


「橋田さん、叔母さんはいつもはしっかり過ぎる位しっかりしてるんだけど、時々こんな風にうっかりさんなの。これから叔母さんの事、宜しくお願いします」
「うん、大丈夫だよ、沙織ちゃん。これからは冴子さんの事は、俺がしっかり見てるから」
「良かった。安心しました」
 姪に心配されるなんて立場が逆だけど、もう今日はそれだけの事をしてしまったから仕方が無いわ。
 同様に苦笑している橋田君を促してリビングに戻ると、相変わらず呆れ顔の姉さんと、まだ笑いを堪えている風情のお義兄さんが出迎えてくれた。


「冴子、気が済んだ?」
「ええ。姉さん、お義兄さん、お騒がせしてすみませんでした」
「ああ、気にしなくて良いから」
「暫く職場で恥ずかしい思いをするでしょうけど、甘んじて現状を受け入れなさい。自業自得よ」
「……はい」
 本当にその通りで、全く反論できない。
 それから私は姉一家に見送られ、橋田君に自宅マンションに送って貰った。そして独りきりになってから、何となく頭の中で今日の事を反芻する。


「本当に、幻覚だったのかな……」
 ネットサーフィンしながらぼんやりとデスクトップの画面を見ていた時、ある物が私の意識を現実に引き戻した。
「これ!? ひょっとして、同じ物!?」
 その詳細を凝視して確認した私は、即決して購入画面をクリックした。


 ※※※


 職場中から冷やかされながら、橋田君とお付き合いと言うものを始めてから、初めての週末。今日は彼を自宅マンションに招いて、一緒に夕飯を食べる事になった。


「こんばんは。これお土産」
「あ、ワイン! これ好きな銘柄なのよ! ありがとう」
「うん、そう聞いてたから、これにしてみたんだ。それで……」
「どうかしたの?」
 玄関で出迎えてそのままリビングに案内したら、何故か彼が室内に足を踏み入れた途端、足と口の動きを不自然に止めた。不思議に思って声をかけると、彼が壁際の一点を指さしながら、かすれ気味の声で尋ねてくる。


「冴子さん……。あのぬいぐるみ、また姪ごさんに借りたの?」
 そう言われて、彼の戸惑いの理由が分かった私は、すぐに笑いながら教えてあげた。


「ああ、キャシーの事? 違うわよ、買ったの。ネットで偶然、ゴンザレスさんと同じ物を見付けて。普段そんな事はしないのに、即買いしちゃったのよね!」
「……どうして衝動買いしたのか、聞いても良いかな?」
「え? だって、ひょっとしたらあのキャシーの中にも、緑の妖精さんが来るかもしれないじゃない」
 至極当然の事を口にしたのに、何故か彼に驚愕されてしまった。


「あのゴンザレスには、何も入って無かったよな!?」
「ええ、用が済んだから、関係者の記憶も綺麗さっぱり改ざんして消えたのよ。だって沙織ちゃんは、普段嘘なんかつかない、記憶力抜群の素直な良い子だもの。だからやっぱり、妖精さんの仕業なのよ」
 だってそう考えないと、説明がつかないんだもの。やっぱりファンタジーはサイエンスを越えるのよ。本当に人生って、何が起きるか分からないわね。
 そんな感慨にふけっていると、何故か彼が声を荒げてきた。


「あの場合、自分の意識や記憶を疑わないか!?」
「ゴンザレスさんは居たもの。悩んでいるの私を見かねて、両親が私の様子を見て来てくれるように、頼んでくれたのよ」
「あのな……、どうしてそこまで、自信が持てるんだ……」
「大丈夫よ。頻繁に悩み事で、死んだ両親を心配させる事も無いだろうから。ただ妖精さんが来た時に、適当な入れ物が無いと困るじゃない。だから念のためよ。これで今度いつ妖精さんが来てくれても、準備万端問題ないわ!」
 備えあれば憂いなし。これは両親が言っていた言葉だもの。
 するとここで彼が額を手で押さえながら、盛大に溜め息を吐いた。


「……分かった」
「え? 何が分かったの?」
「やっぱり冴子さんは、俺がしっかり面倒を見ないと駄目だ。なるべく早く結婚しよう。よし。まずは新居探しと式場探しだ。気合入れて探すぞ!」
「え? 新居? 式場?」
 何やら真剣な表情で、食事そっちのけでネット検索を始めた彼。
 式場……、結婚式か。その時には、キャシーにも参加して貰おうかな?
 うん、そうしよう! だって何と言っても祝いの席だし、また両親に頼まれた妖精さんが来てくれるかもしれないものね!


 凄いナイスアイデアだと思ったのに、後日、正式な日程が決まってからその話をしたら、彼は勿論、姉さん達からも、こぞって翻意を促される事になった。





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