気が付けば奴がいる

篠原皐月

沙織、未知との遭遇

 変わり映えしない日常。
 いつも通りの風景。
 そう信じて疑わずに、惰性的に自宅リビングのドアを開けた瞬間、私の視界に非日常の光景が飛び込んで来た。


「ただいま……」
「やあ、おかえり~」


 出迎える人間など誰も居ないのが分かっていながら、ついいつもの癖で口に出した帰宅の挨拶に、明確な返答があった場合、どうすれば良いんだろう……。 
 特に、それが明らかに、今朝まではリビングのラックに飾ってあった、クマのぬいぐるみから発せられた声であった場合。


「…………」


 茶色の三頭身。
 目は丸いボタンが生地に嵌め込む様に縫い付けられ、鼻と口は刺繍で表現。
 どこからどう見ても、朝まではピクリともしていなかった、私のぬいぐるみである。


 この突発事態に、さすがに悩んだ。
 これまでのたった十年だけの人生経験を踏まえて、即座にこの事態に対応できる同年代の人間がいたら、その人物は間違い無く天才だと思う。文句なしに尊敬する。


 しかし私も、普段は冷静沈着、即断即決を売りにしている、リケジョ目指して一直線な小学生である。そのプライドにかけても、ここで無様に狼狽する姿を晒す訳にはいかない。


「あ、あれ? いきなり何をしているのかな?」


 何やらクマ擬きが、手足をバタバタさせて何か言っているみたいだが、無視だ。無視。
 私には至急、しなければならない事がある。


「すみません、そちらは保健医療センターでしょうか?」
「はい、そうです。適切な最寄りの医療機関をお調べしますので、具体的な症状と住所をお願いします」
「突然、有り得ない幻覚が、目の前に見えてきましたので、精神科か心療内科だと思います。あと、そこが小学四年生の女子に対応できる医療機関かどうかも、考慮の上で紹介して貰えれば助かります」


 非常時の為に壁のホワイトボードに貼り付けてある、様々な緊急連絡先の中から選び出した、自治体の医療機関斡旋相談窓口に電話してみると、電話の向こうで「は? あの、すみませんが、もう一度おねがいします」とかオペレーターらしき女性が問い返してきた。


 それでもプロか? 
 おばさん、給料を税金で賄って貰ってる公務員じゃないの? ちゃんと仕事してよ。
 私がピンピンしてるから良いものの、息絶え絶えの病人に対して何度も繰り返させたら、怠慢通り越して鬼だよね?


「はい!? ちょっと待って、そこの君!」


 そして私の発言を聞いたクマ擬きが、何故か益々五月蝿くなった。それで思わず電話の送話口を押さえながら、軽くツッコミを入れてみる。


「どうして私の事、『そこの君』呼びなの? だってあんたはずっと前から、この家に居るんだから、私の名前位は知ってるよね?」
「そんな事、知らないよ! 気が付いたらこれだったんだから」


 その主張、思いっきり矛盾してる。
 一応、指摘してあげよう。何て心優しい私。


「記憶が無い割には、精神科とかの言葉には反応するのね? 意味が分かってないと、そういう台詞は出ないんじゃない?」
「正直、良く分からないけど、何か普通じゃない感じがするよ!! 絶対、普通の子供がサラッと口にする言葉じゃ無いよね!?」
「……そうかな?」
「そうだよっ!」


 どう考えても普通じゃない物体に、『普通』に関して論じられなければいけないのかとか、開く筈の無い刺繍してあるだけの口なのに、どこをどうやって声を出しているんだろうとか、どうしてそんなに私に力説するのかを問い詰めたかったが、ここで重大な用件を思い出した。


「あ……。ちょっと待ってて。……すみません。さっきのお話ですけど」


 すっかり放置しててごめんなさい、お姉さん。(←ちょっとだけ謝罪の気持ち)


「取り敢えず謝って、病院の紹介は止めて貰ったわ」
「全く……、何でいきなり、精神科とか心療内科とかの単語が出て来るんだよ」


 どうして私が、クマ擬きにブチブチ文句を言われないといけないんだろう……。ここは私の家なのに、理不尽過ぎる。


「だって帰ったら朝までは普通のぬいぐるみだった物体が、ソファーに陣取ってリモコン片手にテレビを見ながらくつろいでるんだよ? 自分の正気を疑うのが筋だよね?」
「いやいやいや、もう少し他の可能性を考えてみようよ!」


 他の、と言われても……。当然表情は変わらないけど、口調が微妙に必死だし、まあ、一応考えてあげるか。
 そうだなぁ……。論理的に考えて、ありえる可能性としては……。


「梅雨明け前の酷暑で、知らず知らずのうちに熱中症を引き起こして、脳内の一部に取り返しのつかないダメージを受けた。……あ、やっぱり病院だ。この場合、内科で良いよね? 脳外科は脳梗塞とかだと思うし」
「違うだろ! もし本当にそこまで酷いなら、とっくに行き倒れて家までたどり着けて無いから!」
「それもそうか……」


 ちょっと屈辱。クマ擬きに指摘されるなんて。何か生意気だし、ちょっと締めるか。
 そんな事を考えていると、ソファーの上で立ち上がっていた奴が、何故か微妙に後ずさりした。


「……え? 何? そのジト目が、ちょっと怖いんだけど?」
「何でも無いわよ。その他の可能性だと……、私のぬいぐるみそっくりに化けた、敵対侵略宇宙人とか。そうなると、私のぬいぐるみはどこ? あれは小さな頃からの、お気に入りなんだからね? 手荒な真似をしてたら承知しないわよ?」


 咄嗟にリビングボードの引き出しからアクリル製の定規を取り出し、ピシピシと手のひらを軽く打ちながら脅してみると、奴は明らかに動揺した。


「ちょっと待って! 何なんだ、その『敵対侵略宇宙人』って! こんなにフレンドリーなクマを捕まえて!」
「『クマ』じゃないわ。『クマ擬き』よ」
「分類はどうでも良いけど、俺は周囲に危害や被害を与えたりするつもりは無いから!」
「それなら、友愛観光宇宙人?」


 必死に否定してくるから素直に訂正してあげたのに、なぜかクマ擬きは器用に短い両腕で頭を抱えた。
 もし髪の毛があれば、それをかきむしる様な動きをした奴は、すぐに勢い良く顔を上げて盛大に訴えてくる。


「宇宙人から離れようよ!! 俺は正真正銘、君のお気に入りのクマのぬいぐるみだってば! 手に指が無くて丸くてふわふわだから、テレビのリモコンも上手く押せなくて困ってたんだから! 宇宙人だったら、そんな事は無いだろう!?」


 ……支離滅裂な上、全然納得できない。


「だって、それが私のぬいぐるみなら、中身が外部から来たって事でしょう?」
「そう……、なるのかな?」
「じゃあ肉体を持たない、エネルギー生命体の宇宙人が、その中に入ったって事にすれば、万事解決じゃない」
「いや、それは違うから!」


 こいつ、往生際が悪いにも程がある。
 段々ムカついてきたな~。


「隠さなくても良いのよ。もうバレてるんだし」
「違うから! 俺は絶対、宇宙人とかじゃない!」
「じゃあ、一体何だって言うのよ。そんなのにすっぽり入って、動いて喋るなんて。幽霊? 妖精?」
「それだ!!」
「それって何よ?」


 いきなり叫んだ上に、勢い良く指さしたりしないで欲しい。
 ……尤も、指じゃなくて、腕全体を突き出されたけど。


「俺には生きていた頃の人間の記憶がうっすらと残っているから、君と違和感なく会話できるんだよ。きっと俺の本体は死んでいて魂だけが抜け出て、このぬいぐるみに入ったんだ!」
「却下」
「えぇぇ~!? 何で即答!? 絶対そうに違いないって! 詳しくは分からないけど、俺の勘がそう言ってるんだ!」


 動かない時は可愛かったけど、バタバタ動きながら反論されると、正直ウザい。
 しかも分かりきっている事を、一々説明しなくちゃいけないなんて……。
 溜め息の一つも吐かないと、やってられないわね。


「あのね、クマ擬きには理解できないかもしれないけど、さっきは勢いで口にしてみただけで、世の中に幽霊なんか存在しないのよ?」
「だってさっき、宇宙人は居る様な事を言ってたじゃないか!!」
「宇宙人は居るけど、幽霊は居ないわ」
「何でだよ!?」
「科学的か、非科学的かの違いよ」
「そんな……」


 何か呟いたと思ったら、クマ擬きが再び器用に両足を折り曲げてソファーに膝を付き、四つん這いの状態になった。
 ひょっとしたら私に信じて貰えないせいで、苦悩しているのかもしれないけど、顔は相変わらず能天気な笑顔だし問題無いよね?
 そのまま奴が動かないので、部屋に行って宿題を済ませる事にした。


 学校の宿題も塾の宿題も明日の準備もしっかり終わらせて、さあのんびりするぞとリビングに戻った私を、先程と1ミリも移動していない四つん這いクマ擬きが出迎えた。器用な奴。
 そのまま元のぬいぐるみに戻ったのかな?
 一応、声をかけてみるか。


「まだやってたの? その体勢って楽しい?」


 軽く覗き込む様にしながら、クマ擬きに声をかけてみると、奴は弾かれた様に頭を上げて喚いた。


「楽しいわけあるかっ!? 自分の存在の可能性を全否定されたんだぞ? ショックで動けなくなっても」
「ただいま~。沙織、テレビの音が大きいわよ?」
「おかえり。でもママ、さっきの声はテレビじゃなくてこれなの」
「これって?」
「これ」


 その時、タイミング良く帰って来てきたママに叱られてしまったので、濡れ衣を晴らすべく、諸悪の根源を指し示した。
 通勤用のバッグと駅前のスーパーの袋を提げたママと、ガバッとソファーの上に立ち上がっていた、奴の視線が絡まり合う。


「…………」
「……ども」


 こら、クマ擬き。我が家の主に対して、もっときちんと挨拶せんかい!
 案の定、その反応が微妙に気に入らなかったママは、私に向かってしかめっ面で文句を言ってきた。


「沙織。変なのを拾って来ちゃ駄目じゃない。もう四年生なのに、いつまでも子供みたいな事をやってるんじゃないの」
「拾って無いし」
「ちょっと待った!! 『変なの』って一言で片づけないでくれるかな!?」
「じゃあ何なの? これ」


 奴の抗議は丸無視でママが尋ねてきた為、率直に思うところを言ってみた。


「私のぬいぐるみに勝手に入った、得体の知れない未知のエネルギー生命体」
「……それなら仕方が無いわね」
「仕方が無いの!? それで納得しちゃうの!?」


 ママは「はぁ」と溜め息を吐いて、リビングの向こうのキッチンに移動し始めたけど、クマ擬きは何が気に入らないのか驚愕の声を上げた。正直、五月蠅い。


「だって、中身を取り出そうとしても、私達にはどうにもできないでしょう? 取り敢えずご飯の支度をするわ。手伝って」
「は~い」
「ほら、ここに居座るつもりなら、あんたも手伝いなさい。働かざる者食うべからずって言葉が有るのよ。エネルギー生命体なら知らないかもしれないけど」


 流石ママ。『立っている者は親でも使え』がモットーだもんね。
 娘は勿論、見た目ぬいぐるみに対しても容赦ないわ。


「ええっと……。それなら、何をすれば……」


 おう? かなり恐る恐るだけど、手伝う気? 結構空気読めるクマ擬きじゃない。
 ……だけどその殊勝な心がけは、現実の前に呆気なく崩壊する事になった。


「それならお米を研いで」
「ママ。あの手なら水の中に突っ込んだら、フニャフニャにへたれると思う」
「それもそうね。じゃあジャガイモを剥いて貰うとか」
「あの手じゃ、包丁が握れないと思う」
「何だ……。穀潰しの役立たずなのね。じゃあ勝手にしてなさい。沙織、急いで作るわよ」
「は~い」
「…………っ!?」


 素っ気なく言い放ったママが、奴を無視して次々と指示を出す。それに即座に応じながら、忙しく夕飯の支度を手伝っているうちに、私はすっかりイレギュラーな存在の事を忘れ去っていた。


「よし。出来上がり。テーブルに運んで頂戴」
「了解!」


 うっふっふ~、今日は鶏腿肉の甘辛煮。これ、好きなんだよね~。……あれ?


「ちょっと! こんな所に転がってないでよ。踏んじゃったじゃない」


 すっかり忘れてたけど、どうしてよりにもよってキッチンからダイニングテーブルに移動する時の、動線上で床に突っ伏して寝てるの?
 痛いとか文句を言われても、私のせいじゃない無いからねと思いつつ頭を掴み上げてみて、異常を感じた。


「……あれ?」
「どうしたの? 沙織」
「ママ。これ、しめってる」


 それを手に吊るしたまま、くるっと振り返って見せると、お皿を運んできたママは途端に顔を顰めた。


「やだ……、そのままにしていたらカビが生えるわよ? すぐに洗濯機に放り込んで乾燥させて」
「は~い」
「すぐご飯にするから、さっさとね」
「分かってるって」


 当然よ。せっかくのご飯が冷めちゃうじゃない。
 それなのに手の中のクマ擬きは、ここで一気に正気に戻った様に、バタバタと暴れはじめた。


「ちょっと待って! ちょっと悲嘆に暮れて、泣いてただけだから! そんなのに入れられたら死んじゃうよ!!」
「ボタンの目から、どうやって涙を出すのよ。それにそもそも生き物じゃ無いんだから、大丈夫でしょ? あ、一応ネットに入れるか。形が崩れるかもしれないし」
「気遣いが中途半端過ぎる!! それにちょっとした幽霊の超常現象だと思うから、すぐに乾くよ!!」
「つまり? 何らかの影響で、あんたの身体の周囲に空気中の水分が凝縮されて、それが布地にしみ込んだだけだから、心配要らないと?」
「そうだよ! 分かってるじゃないか!」
「じゃあ、その凝集した水分を拡散させる方法は?」
「……え?」
「乾燥作業、決定」
「ちょっと待ったぁ――っ!!」


 何だかゴチャゴチャ言ってたるけど、こっちはお腹が空いてるのよ。
 問答無用で洗濯用ネットの中に押し込み、更にそれをドラム式の洗濯機の中に放り込んで、勢い良くドアを閉めた。


「ええっと、乾燥だけだと……」
「たーすーけーてー!!」
「五月蠅いなぁ……。スイッチオン!」
「いやぁあぁぁぁ――!!」


 中から扉を叩きながら何だか喚いていたけど、そんな事は気にしないで洗濯機に背を向け、リビングに戻った。
 さあ、ご飯だ!!


「沙織。クマは乾いた?」


 ご飯を食べ終えてから、さっきのクマ擬きを洗濯機から回収して、リビングに戻ってきた。
 当然ママから首尾を聞かれたので、右手で頭を掴んでいる奴を、目の前にかざして見せる。


「うん。ホカホカのフワフワ。ついでに中身も出ていったみたい。さっきからピクリともしないし」
「あら、おもしろいから、もう少しいてくれても良かったのに」
「まだいるよっ! もう! 死ぬかと思ったよ!! 待遇改善を要求する!」


 そこでいきなり手足をバタバタさせて、文句を言い始めたクマ擬き。意外にしぶといのね。


「幽霊だったら、とっくに死んでるんだから、別に良いじゃない」
「ああ言えば、こう言うっ!」
「ところで、あなたは何を食べるの?」
「へ?」


 いきなり言われたクマ擬きが絶句してるけど、私にも質問の意図が良く分からない。


「ママ。口が開く筈ないし、飲んだり食べたりしないと思う」
「じゃあ食費はかからないのね。じゃあ食べないなら当然出ないでしょうから、トイレの躾けも必要無いか」
「一体、何の話!?」
「食費や手間がかかる生き物なんて嫌だもの。それならここに置いてあげても良いわよ? 居住スペースも殆ど必要ないし」


 うん、何と言うか……。我が母ながら……。


「ママって、本当に動じないよね」
「動じ無さ過ぎだろ!? 如何にも君のお母さんっぽいけどさ!!」
「あら、ありがとう」
「褒め言葉だよね、それ」
「…………っ! 通じない! 色々な所が、通じそうで全然通じていないっ!」


 何か悲嘆にくれた感じの小声で唸ってるけど、何なんだろう。熱風に当たって、機能不全を起こしたのかな?


「あ、沙織。それ、テーブルの上に下ろして」
「え? あ、うん。良いけど」


 何? ここを定位置にするとか?


「じゃあここに置いてあげるから、テーブルを台布巾で拭いて綺麗にしておいて。そこにあるから」
「え?」
「ママ?」


 一瞬、言われてた内容が分からずに、奴と顔を見合わせる。するとママは、不思議そうに説明を加えて来た。


「ここで暮らすからには、ちゃんと働いてよね。その台布巾でテーブルの拭き掃除位できるでしょ。雑巾がけの要領が分からなかったら、沙織に教えて貰って」


 流石ママ。部下の人達も、普段、こんな風にこき使われているんだろうな……。
 合掌。


「え、ええと……」
「あれ? 雑巾がけって、分からない? この布巾をこう広げて、床面に対してこう四つん這いの姿勢で、ひたすら前方に滑らせる感じで前進を」
「いや、その、分かってるけど……。俺が? この体で?」


 キョロキョロと自分が立っているテーブルを見回しながら困惑している奴が、エア雑巾がけをしていた私に尋ねてきた為、即座に頷いた。


「うん、そうだよ? あ、濡れ布巾に手を押し付けてたら、そこがまたしめっちゃうか」
「沙織。その時は、終わったらまた洗濯機で乾燥させてあげて」
「うん。分かったー」


 ソファーからのママの指示に何気なく頷いたら、目の前のクマ擬きが両手をわたわたと上下に素早く動かしながら、必死の口調で弁解してきた。


「だだだ大丈夫です、ママさんっ!! そんなにしめりませんし、こうしていればすぐに乾きますからっ!! だから乾燥は勘弁して下さい!!」
「あら。それなら電気代が無駄にならなくて良いわね。宜しく」
「お任せ下さい!!」


 そうして短い腕で器用にビシッと敬礼してから、クマ擬きは一心不乱にテーブルの上で布巾掛けを始めた。
 あれ? 私はそんな事一言も言ってないし、ママとも相談してないのに、こいつ居候決定?


 迂闊にも私がその事実に気が付いたのは、翌朝朝食を食べようとテーブルに着いた時、食べ終わったら即座にテーブルの拭き掃除ができる様に、傍らに台布巾を置いてスタンバイしている奴の姿を目にした時だった。



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