裏腹なリアリスト

篠原皐月

第43話(最終話) 約束

 勘違いで産婦人科を受診後に家に戻った美実は、それまでの事を美野と美幸に問い詰められながらもその都度誤魔化し、無事に予定日の翌日に男児を出産した。
 そして母親となって五日目。個室で見舞いに来た美子夫婦と談笑していると、軽くドアが叩かれて淳が姿を現した。 


「美実、調子はどうだ?」
 病室に足を踏み入れた途端、美子と秀明と鉢合わせしたのが分かった淳が若干怖じ気づく素振りを見せたが、美実はそれに気が付かなかったふりで、隣の小さなベッドに寝せられている子供に目を向ける。


「大丈夫よ。今、ちょうど淳志きよしも起きてるわ」
「それなら良かった。これまで来た時は、いつも寝てたからな……。本当に目を開けてるぞ。おい、淳志。お前本当に、いい面構えだよな」
 ベッドに歩み寄って小さな手を微かに動かしている息子を見下ろして、淳が嬉しそうに述べた。それを眺めた美子達が、遠慮の無い事を口にする。


「自画自賛している様にしか聞こえないのは、私だけかしら?」
「自画自賛以外の何物でも無いな」
「美子姉さん、お義兄さんもそれ位で」
 皮肉を口にした姉夫婦を美実が苦笑しながら宥めると、そこで秀明が問いかけてきた。


「淳。お前、まだ家族で住む所を決めてないだろう。美実ちゃんと淳志君は明後日退院だから、家に連れて帰るからな。さっさと家から近場の物件を探して、契約を済ませろ」
「分かってる。そう急かすな」
 命令口調での催促に、淳がうんざりしながら応じたところで、廊下の方から微かな悲鳴らしき声が伝わってくる。
「きゃあぁぁ――っ!!」
 明らかに女性の声と分かるそれに、室内の人間は互いの顔を見合わせた。


「今何か……、廊下から変な声が聞こえなかった?」
「確かに、悲鳴みたいな物が。落ち着きの無い看護師が、何か派手に落としたりしたのかしら?」
「さぁ……」
 そして怪訝な顔を見合わせて首を傾げていると、淳が神妙な顔付きで口を開いた。


「あのな、美実。実家の方に、淳志が無事に生まれた事を報告した」
「うん。その……、色々あったし……、何か言われた?」
「いや、まあ……、普通に祝いの言葉を貰ったぞ? それで美子さん。これから結婚式と、披露宴の準備も始めるので……」
 気まずそうに淳が口にした内容を聞いて、美子は無言で顔を顰めたが、秀明が仕方がないとでも言うように溜め息を吐いてから、彼女を宥めた。


「美子。何と言っても祝いの席だ。未だに思うところはあると思うが、美実ちゃんの立場もあるし、最低限の体面は取り繕う様にしろよ?」
「私はそんなに大人気ない、我の強い女じゃないわ。顔を合わせたなら、ちゃんとそれなりの対応をするわよ」
「分かっていれば良い」
 拗ねたように顔を背けた美子を見て秀明は苦笑し、美実に向き直って小さく頷いた。


(すみません、お義兄さん! これからもフォロー、よろしくお願いします!)
 そして美実が内心で感謝していると、ドアがノックされて新たな見舞い客が現れた。


「こんにちは、美実さん。体調はどうかしら?」
「やあ、少しお邪魔するよ」
 従えてきた護衛は廊下に残し、呑気な様子で病室内に入ってきた加積夫妻を見て、美実は恐縮しながらも嬉しそうな笑顔になり、他の三人は色々諦めて目配せした。


「桜さん! 加積さんまで、わざわざ来て下さったんですか? ありがとうございます!」
「だって結構うちでお世話していたし、気になってたんだもの。直前に一度実家に帰ったけど、あのまま生まれていれば良かったわね。そうしたら里帰り出産みたいだったのに」
「……誰がさせるか」
 そっぽを向きながらボソッと呟いた淳を、含み笑いで見やってから、加積が美実に尋ねる。


「ところで、名前は決まったのか?」
「はい、淳志きよしにしました」
「あら、名前も顔も格好良いわね。美実さんに似て、目元がキリリとしてるし」
「ありがとうございます」
 そんな風に和気あいあいと会話している美実達を見ながら、秀明は淳に囁いた。


「淳、色々言いたい事があるかとは思うが、連中が出て行くまでは黙ってろよ?」
「分かってる」
 淳が微妙に不穏な気配を醸し出している事には気が付かないまま、美実は幾つかのやり取りの後、加積に向かって神妙に口を開いた。


「あの……、実は加積さんに、お話があったんです。退院して落ち着いてから、話をしようかと考えていたんですが」
「おや、何かな?」
 そこで気安く彼が応じてくれた為、美実は顔付きを改めて話し始めた。


「お屋敷から出る時に、『加積さんがご満足頂ける力量を持てた時に、改めて取材と執筆許可の申し入れます』と言って、加積さんから『取材自体はいつでも良い』と言って頂けましたが」
「ああ、その時に『だから長生きしてくれ』とも言われたな。こいつに嫌そうな顔をされたが。それで?」
「その条件に追加させて下さい。ここに書いてある文学賞のどれかを受賞する事ができた時に、本の出版を許可して頂く事にしたいんです」
「文学賞?」
 枕元のサイドテーブルの引き出しから一枚のレポート用紙を取り出した美実は、真面目くさってそれを加積に差し出した。対する彼は笑いを収めてからそれを受け取り、怪訝な顔で見下ろす。それを横から覗き込んだ桜は、面白そうな表情になった。


「あら、さすがに芥川賞とかは書いてないけど、それなりに有名で歴史がある賞の名前が並んでるわね。これを取るのはなかなか大変よ? 自分でハードルを上げてどうするのよ」
 そう言ってころころと楽しそうに笑った桜に、美実も苦笑を返した。


「確かに、書いても良いって言われているなら、それに甘えるのが楽だし当然だと思っていましたが。淳志を生んで、ちょっと考えが変わりました。この子が大きくなった時、『お母さんは加積さんに実力を認められて書かせて貰ったのよ』って自慢したいんです」
「ほう?」
「だからその時に『実力を認められた』って言う、客観的な指標が欲しいと思ったんです。加積さんの七光りで本を売ったりしたら、淳志に恥ずかしいですから」
「……なるほど。親として、子供に対して恥ずかしい事をしたくないか」
 妙にしみじみとした口調で加積が頷く横で、桜が陽気に笑い飛ばした。


「美実さんったら、変なところで融通が利かないのね? うちに出入りする人間なんて、大抵はこの人の力や威光を利用しようと虎視眈々としている人達ばかりなのに」
「いえいえ、十分利用する気満タンですが」
「そんな事を言ったら、世の中の人間の殆どが、欲の皮の突っ張った狸や狐よ? 取り敢えず、この人が骨と皮だけになる前に、これらの賞が取れるように頑張ってね?」
 苦笑いで激励してきた桜だったが、美実は満面の笑顔で頷いた。


「はい。実は入院してからあちこちでインスピレーションを感じてて、色々書きたくてしょうがないんですよ!」
「あら、入院中に色々考えてたの?」
「はい。分娩台の上で『痛い、死ぬかも! 死んだらバケて出てやる!』って心の中で叫んだ瞬間、『幽霊になったら本が書けないじゃない!!』って本当に声に出して叫んでしまいまして……。その場にいた看護師さん全員にびっくりされたんですが、それで幽体離脱しちゃった作家の話が、頭の中に思い浮かびまして」
「そ、そう……。それはなかなか面白そうね」
「それから入院中の給食の保温容器を見ながら、子供の好き嫌いを無くす為に奔走する、ちょっと空回りな妖精の話とか、給湯室で看護師さん達の裏話を小耳に挟んで、病室内の派閥抗争の話とか、他にも色々ありますが」
「何事も経験と言う事だな。初めての出産でなかなか良い経験ができたようで、何よりだ」
「はい!」
 笑いを堪える為か、微妙に顔を引き攣らせている桜の横で、加積が綺麗に話を纏め、それに美実が嬉しそうに頷いた。


「あの子ったら……。入院中に何を考えてるの」
「取り敢えず、色々なジャンルに進出しそうで良いんじゃないか?」
「本当に、どんな事でも抜け目なくネタにしそうで、油断できない」
 美実達の話を傍観しながら、美子達は溜め息混じりに囁きあっていたが、ここで桜が夫を促した。


「あなた。病室に長居したら、美実さんも疲れますから、そろそろお暇しますよ? 美子さん、これは出産祝いよ。預かっておいて頂戴」
「ありがとうございます」
「加積さん、桜さん、すみません。ありがとうございます」
 差し出されたご祝儀袋を美子が受け取り、美実が笑顔で礼を述べると、加積達は機嫌良く病室から出て行った。


「何か普通のご祝儀袋で安心したわ」
「分厚い奴でも、押し付けてくるとでも思ったのか?」
「案外、中には札じゃなくて、小切手が入っていたりしてな。あはははっ!」
「…………」
「え?」
 美子達が苦笑いしながら感想を述べ、淳が笑いながらその会話に加わったが、途端に室内が静まり返った。そして美子と秀明が微妙な顔付きで、預かったご祝儀袋を淳に押し付ける。


「取り敢えずこれは、小早川家に対する出産祝いだからな」
「あなたが責任持って、頂いた金額に相当する内祝いをお返しして下さいね」
「ちょっと待て! まさか本当に、小切手とか入って無いだろうな!?」
「俺は知らん」
「おい!」
 顔色を変えて淳が秀明に詰め寄り、美実がその光景を眺めながらくすくす笑っていると、再びドアがノックされた。


「……失礼します。ご無沙汰しております」
 そして引き戸を開け、恐縮気味に姿を現した潔を見て、その場全員が驚愕した。
「え?」
「親父! 何でここにいるんだ!?」
「その……、お前から美実さんがここで出産したって聞いたから、一度お見舞いをと思ったんだが……」
 いきなり登場した父親を見て、淳は思わず額を押さえて呻いた。


「だから……、そういう時は、事前に俺に一言連絡をくれ……。親父だけだよな? お袋は来てないよな?」
「いや、良子も一緒に来たんだが……」
「どこにいるんだ!?」
 はっきりと顔色を変えて問い質した淳だったが、潔はもの凄く申し訳なさそうに話し出した。


「それが……、さっきこのフロアまで中央のエレベーターで上がって来て、この病室に向かって歩いていたら、手前のエレベーターの扉が開いて、中から加積さんがご夫婦で出てきてな……」
(まさか、さっき微かに聞こえた、悲鳴みたいな声って……)
 思い当たる節があり過ぎた美子達が顔を見合わせる中、淳が話の先を促した。


「あんまり聞きたくないが、一応聞かせてくれ。どうなったんだ?」
「驚いて悲鳴を上げて気絶してな。ストレッチャーで運んで貰って、今は一階の処置室で寝かせて貰っているんだ。目が覚めたら連れて帰るから」
(やっぱりそうだったか……)
 潔がそう告げると、室内にいる全員から憐憫の眼差しが向けられ、美実が慌てて口を開いた。


「あのっ! でもわざわざここまで来て頂いたのに、お会いしないで帰って頂くのは。私、一階まで行きますので!」
「いや、美実さん。こっちが勝手に押しかけたし、良子の奴が怖がって話にならないだろう。無理に顔を見せなくても良いから」
「でも!」
 そこで咄嗟に美実は姉に視線を向けたが、それを受けた美子は、溜め息を吐いてから言い聞かせてきた。


「わざわざ出て来て頂いたのは申し訳ありませんけど、無理強いする事も無いでしょう。美実。淳志君を連れて遠出できるようになったら、一家揃って小早川さんのお宅に、ご挨拶に行きなさい」
「良いの!?」
「それにどのみち、落ち着いたら挙式と披露宴をする事にはなっているし。その時に改めて挨拶しても良いでしょう。取り敢えず今日のところは、お義父様にだけ淳志君の顔を見て貰いなさい」
 思わず問い返した美実に、美子が僅かに眉根を寄せながらも頷く。それを聞いた潔は、再度頭を下げた。


「幾重にも失礼な上、誠に申し訳ありません。後ほど改めて、藤宮さんにもきちんとご挨拶致します」
「分かりました。私の方から、父に伝えておきますので」
「じゃあ親父、淳志の顔を見てやってくれ」
「ああ。失礼します」
 そして一礼してベッドサイドに歩み寄った潔が、小さな赤ん坊を見下ろした。


「手足がしっかりむっちりしてるな。淳志君は大きく育ちそうだ。お前もそうだったしな」
「そうなのか?」
「ああ。ただ名前がな……」
 そこで微妙な顔付きになった潔を、淳が軽く睨む。


「何だ。何か気に入らないのか?」
 あれだけ散々悩んで付けた名前なのにと、淳が少々気分を害しながら尋ねると、潔が真顔で頼んできた。


「いや、良い名前だとは思うが……。漢字は違うが、俺と同じ『きよし』だろう? なるべく俺の前で淳志君を叱らないでくれ。息子に叱られている気分になりそうで、ちょっと切ない」
「…………」
 その真顔での訴えに室内は一瞬静まり返り、次に爆笑に包まれた。


「確かにそうですわね!」
「おい、淳。お前、実家の人達の前で、本当に淳志君を叱りつけるなよ?」
「本当。お義父さんがそのたびに自分の事かと一瞬ビクッとするなんて、気の毒だわ」
「誰がするか!」
 そして当初の気まずい空気など吹き飛び、美実も本気で笑ってしまった。


(淳志、お母さんはあなたのおかげで、これからもたくさんの物を得られそうよ? お母さんは頑張るからね?)
 そして一気に賑やかになった周囲を、特に気にする事もなく、小さなあくびをして再び眠りに入った息子を、美実は慈愛の眼差しで見守ったのだった。




 ※※※




 美実との結婚と出産に関して、大揉めしてから早五年。淳志の下に娘の淳実も生まれて夫婦揃って多忙を極めていた淳だったが、ある日の夕方、美実から電話がかかってきた。


「あっ、淳ぃっ! でっ、電話……、さっき、きてぇぇっ! うぇぇっ……」
 応答するなり、涙声で訴えられ、さすがに淳は面食らいながら、電話越しに声をかけた。


「はぁ? 美実、いきなりどうした。ちょっと落ち着け」
「かっ、加積さんっ! お別れ、したいなら……、うちに、いらっしゃいって……、桜さんがっ!」
「そうか……」
 なんとか言うだけ言って、美実が電話口で泣いている為、淳は無意識に頷いた。そして少し考え込んでから、冷静に言い聞かせる。


「構わないから、淳志と淳実を連れて屋敷に行って来い。ただし、自分で運転して行くなよ? タクシーを呼べ。分かったな? 夕飯の準備は良いから」
「うん、行って来ます!」
 泣きながらも力強く返事をして美実は通話を終わらせ、淳志もスマホを耳から離して、憮然とした顔付きで手の中のそれを見下ろした。


「……思ったより、随分早いじゃないか。殺しても死なない様な顔してやがったのに」
 幾分寂しそうに呟いた淳は、すぐに顔を引き締めて歩き出した。
 私用電話だと分かっていたので廊下に出ていたのだが、自分の席には戻らずに、そのまま所長室へと向かう。


「失礼します。所長、今、ちょっと宜しいでしょうか?」
「ああ、構わないよ、小早川君。どうかしたのか?」
 ちょうど部屋にいた所長の榊に向かって淳は進み、机の前で落ち着き払って告げた。


「先程、妻から連絡がありました。加積康二郎氏が危篤だそうです」
「……そうか。それで?」
 直接間接に因縁があった相手の名前を耳にしても、榊は穏やかな口調で問い返した。それで淳も、事務的に話を続ける。


「実は妻は、加積氏の許可を貰って彼の自伝を書いておりまして。ただ、彼の名前で売るのでは無く、ある程度自力で名を売って、それなりの文学賞を受賞したら出版する事になっていました」
 それを聞いた榊は、ちょっと考え込んでから指摘してきた。


「そう言えば奥さんは今年、吉崎文学賞を受賞していなかったか? 傷害事件の加害者家族と被害者家族の葛藤と、心情を細やかに書いた作品で、内容が内容だけに君が監修したとか実際に書いたのではと、馬鹿な記者が取材に来ただろう?」
「はい。その節は、ご迷惑おかけしました。それでタイミング良くと言うか悪くと言うか、その自伝が来月出版の運びになっていますので、また事務所にご迷惑をおかけする事になるかもしれません」
 そう言って深く頭を下げた淳を見て、榊は納得して頷いた。


「表舞台に出なくなって久しいとは言え、亡くなったらマスコミも取り上げるだろう。そのタイミングで売り出したら、宣伝効果は抜群だろうが、逆に色々叩かれそうだな」
「こちらはそのつもりが無くとも『加積氏の死去に合わせた、えげつない売り方だ』と罵倒されたり、『作者は加積の愛人だから書かせて貰ったんだろう』と、邪推される可能性も考えています」
「それは見当外れの誹謗中傷だろう。まともに相手にするな」
「そのつもりですが、事務所にご迷惑をおかけする可能性がある以上、所長には早めにご報告しておこうと思いました」
 そこで再度一礼した淳に向かって、榊は断言した。


「分かった。万が一こちらに問い合わせや取材申し込みがあった場合は、規定に従って対処する事を、事務所内の全員に徹底させる」
「よろしくお願いします。それでは失礼します」
「ああ。ところで小早川君。葬儀には出るのか?」
 その問いに、淳は一瞬動きを止めてから、困ったように笑った。


「なんとなくあの爺さんは、派手派手しい葬式などさせない気がしますし、うっかり顔を出そうものなら、夫人に『そんなに暇で生活費をちゃんと入れているのかしら?』と嫌みを言われそうです。妻と子供達だけ出席させれば、夫人にも文句は言われないでしょう」
「そうか」
 そして苦笑いの榊に見送られ、淳は再び廊下を歩き出した。


「二ヶ月前に『原稿全てにちゃんと目を通して貰った』と言っていたし、ギリギリ間に合ったな……」
 そんな事を誰に言うともなしに淳が呟いていると、冬の早い日没で既に窓の外が暗くなっているのに気が付いた淳は、足を止めて窓に映り込んだ自分の顔を凝視した。


「心配しなくても、俺の家族は俺がしっかり守る。……だから化けて出たりしないで、成仏しろよ?」
 そんな自分なりの、加積を送る言葉を呟いてから、淳は中断していた仕事を再開するべく、自分の机に戻って行った。


(完)





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