裏腹なリアリスト

篠原皐月

第42話 見栄と矜持

 その時、加積邸内の座敷の一室には、主夫婦の他に複数人の男女が存在していたが、その中の一組の男女が、緊張感を漲らせながら正座して向かい合っていた。


「美実……」
「……はい」
「俺はな? 何も好き好んで、お前に嫌みや文句を言いたい訳じゃない。言いたい訳じゃないが……、やっぱり一言言わせろ」
「……どうぞ」
 僅かに顔を引き攣らせながら、しかし何とか通常の口調を心がけて述べた淳に、美実が神妙な面持ちで頷く。しかしここで横から、冷やかしの声がかけられた。


「まあ、やっぱり粘着質な男ね」
「美実さん。考え直すなら今だぞ? どんな手を使っても、縁を切らせてやるからな」
 そんな事を言ってニヤニヤと嫌らしく笑っている桜達を、座卓越しに睨みつけてから、淳は美実に向き直って盛大に文句を言った。


「何で慌てて入籍の手続きを済ませて、病院に駆け込んだら、『藤宮さんなら、既にお帰りになりましたよ?』と、あっさり看護師に言われなくちゃならないんだ!? しかも『陣痛ではなくて、単なる食べ過ぎによる腹痛でしたからご安心下さい』って微笑まれたんだぞ!? あの時の俺の、いたたまれなさが分かるか!?」
「あの……、それは本当にごめんなさ」
「あ、あははははっ! やっぱり、陣痛とは違う感じだなとは思ってたのよね! だけど食べ過ぎっ……」
 弁解しかけた美実の声を遮り、蓮がお腹を抱えて派手に笑い出した為、さすがに美実は涙目で八つ当たりした。


「蓮さん! 分かっていたのなら、一言教えて下さいよ!」
 その非難の声に、蓮は苦笑いしながら応じる。


「そんな事を言われても。私、本人じゃないから、どんな痛みなのか正確なところは分からないし」
「それを言ったら私だって初めてですから、陣痛がどんなものかなんて分かりませんよ!」
「それに空元気で朝も昼もモリモリ食べてたし、ひょっとしたら食あたりかもと思ったから、一応病院に連れて行ったんだけど。診察台に乗った途端に、ぴたりと痛みが治まっちゃうなんて」
 そこでその時の情景を思い浮かべたのか、再びお腹を抱えて「あははははっ!」と爆笑し始めた蓮を見て、美実は反射的に叫んだ。


「だって食欲が無かったから、逆に皆に心配かけちゃまずいと思って、余計に頑張って食べちゃったんですよ! もう本当に、先生に申し訳無かったですよ! 周りにいた全員に、苦笑いされちゃうし!」
「それは良い! いや、本当は良くは無いが、俺が一番物申したいのは、お前がどうして当然の様にこっちに戻って夕飯を食べ終えて、さっさと寝る支度まで済ませているのかという事についてだ!」
 美実の叫びに負けず劣らずの声量で淳が割り込み、美実は思わず視線を泳がせながら弁解した。


「どうしてって言うか……、それはその、なりゆきで……。蓮さんに連れられて、気が付いたらここに戻ってたと言うか……」
「結構、地味に精神的ダメージを受けてたし。早く休ませた方が良いわねと、気遣った結果よ。さっさと食べてぐっすり寝て、嫌な事は忘れてしまいなさいって配慮だったのに、蒸し返すなんて無粋な男ね。大体、あんたもここに来るまで、結構手間取ったんじゃない? もうとっくに七時を過ぎてるのよ?」
 平然と反論してきた蓮に冷たい視線を向けられた淳は、一瞬言葉に詰まってから弁解した。


「それは……、区役所で戸籍抄本を取ろうとしたら、印鑑が必要な事に気付いて、慌てて買いに行ったりして手間取って……。それからまた別の区役所に行ってから、病院に向かったから……」
 するとすかさず、桜が皮肉っぽく口を挟んでくる。


「あらあら。窓口に行くまでに、思い付かなかったの?」
「『早産』とか『甲斐性無しになる瀬戸際』とか言われて、慌てない奴がいるか!」
「それでも動じずに物事を処理するのが、本当にできる男って事じゃないのかしらね?」
「…………」
 含み笑いで桜にそんな事を言われた淳は、憮然として黙り込んだ。そんな二人を宥める様に、加積がやんわりと宥めてくる。


「取り敢えず、胎児の状態も落ち着いていて問題が無いのは分かったし、良かったじゃないか。済んでしまった事に目くじらを立てる事もあるまい」
「本当にそうよね。それなのに、これから休むだけの格好になっている美実さんを、まさか今から着替えさせて連れ帰ろうとか、無粋な事はさせないわよね?」
「歓迎はしないけど、夕飯とお風呂と寝間着と布団位は、用意してあげるわよ? 勿論、美実さんの部屋に」
 口々に言われて、淳は言いたい事が山ほどあったもののそれを飲み込み、加積に向かって殊勝に頭を下げた。


「……分かった。一晩、お世話になります」
「ああ。やはり人間は、素直な方が良いな」
「ほら、蓮。美実さんを部屋に連れて行って、休んで貰って頂戴」
「分かりました。じゃあ美実さん。行きましょうか」
「え、ええ。じゃあ後でね」
「……ああ」
 そして美実は微妙な顔をしている淳に断りを入れて部屋に行き、おとなしく布団に潜り込んで休む事にした。
 布団に入ったものの、色々ありすぎてまだ興奮しているらしく、眠気が訪れないまま美実が横になっていると、微かに襖が引かれる音がした。


「……淳?」
 反射的に音がした方に顔を向けると、貸して貰ったらしい寝間着を着込んだ淳が、着ていた服を抱えて部屋に入って来るのが見えた。対する淳は若干困った顔をしながら、持ってきた服を準備してあったハンガーにかけながら声をかけてくる。


「ああ、起こしたか?」
「ううん、何か眠れなくて起きていたから大丈夫。ちゃんと夕飯を食べて、お風呂も入ってきたのね」
「…………」
「どうかしたの?」
 何故か急に口を閉ざした淳を不審に思って問いかけた美実だったが、淳は溜め息を一つ吐いてから、敷き布団に座り込んだ。


「食べながら、あの夫婦と色々な話をして……。と言うか、殆ど一方的に向こうが喋っていただけだが。お前は、事前に連絡を入れて都合が合えば、いつでも取材に来て構わないと、再度言われた」
「そうなんだ……」
 横になったまま、淳の方に少し体を向けて見上げると、淳は再度溜め息を吐いてから、心底嫌そうに話を続けた。


「それとは別に、子供が産まれたら、最低でも一年に一度は連れて来て、顔を見せろだと。……俺は来なくて良いと言われたが」
「あ、あはは……。今回、お世話になったし。それ位は良いわよね?」
「まあ、それ位はな……」
 顔色を窺いながら美実が確認を入れた為、淳は色々諦めた表情で頷き、話を続けた。


「それから、今回ちょっと騒がしくしたから、俺の実家に迷惑料を払ってくれるそうだ。……金を積んで取り敢えず謝罪って形を取りつつ、今後お前を粗略に扱ったら、今度こそ遠慮なく潰すと、えげつなく脅しをかけるつもりだとは思うが」
「『騒がしく』って……、例のキャンセル事件の事?」
「ああ、うん。まあな」
 加積夫妻が直に出向いた事を未だに知らなかった美実は、不思議そうに首を傾げ、それを察した淳は誤魔化しながら話題を変えた。


「それから……、色々落ち着いたら披露宴をするが、その時に藤宮家側の招待客として、あの夫婦に出席して貰う事になった」
 これまで聞いた中で、一番物騒、かつ面倒そうな内容を聞いて、さすがに美実も顔を強ばらせた。


「……それって良いの?」
「本音を言えばまっぴら御免だが、『婚姻届の証人なんだから、是非仲人をやりたい』との主張を、全力で回避した。おかげで、結構豪勢な料理が出たが、全然味が分からなかったぞ」
「お疲れ様……」
「本当に、冗談じゃない。あの夫婦に仲人席に座られでもしたら、出席者の半分が腰を抜かすか失神する。まだ普通の招待客の方がマシだ」
「そうでしょうね。これまで話を聞いた範囲でも、かなり現実離れした内容ばかりだったし」
 淳の本音としか思えない訴えを聞いた美実は、食事の席でどれだけ神経をすり減らしたのかと、本気で同情した。すると淳が真剣な顔で、美実を見下ろしてくる。


「お前に聞きたかったんだが。それを聞いて、加積を怖いとか係わり合いになりたくないとかは思わなかったのか?」
 それに対して、美実はちょっと考えてから、真顔で返した。


「それはやっぱり、怖い人なんだとは思ったわよ? でも実際に親切にして貰ってるし、世間は広いからこういう人もいるんだなって、改めて勉強させて貰ったもの。貴重な体験をさせて貰っていると思うわ」
 それを聞いた淳は、がっくりと項垂れて愚痴めいた呟きを漏らした。


「うん、そうだよな……。あの美子さんの妹だもんな。これ位で、怖じ気づく筈も無いか……」
「ちょっと淳。今の発言、美子姉さんと私の両方に失礼だと思うんだけど?」
「俺の正直な気持ちだったんだが、気に障ったなら悪い。謝る」
 率直に謝った淳だったが、次の瞬間苦笑いの表情になった。


「お前がここにいる間、有意義な時間を過ごせたのなら、それで良い。そう思う事にした。……やっぱり羨ましいな」
「何が『羨ましい』の?」
 不思議な顔になった彼女に、淳が笑いながら指摘した。


「美実は、自分の仕事が大好きだろう?」
「そうね。それが?」
「俺の仕事は、人の一番醜くて汚いところが剥き出しになったり、さらけ出す事になる仕事だからな。明らかにこちらに非があるって人間や、反感を覚える人間の代理人にならなきゃいけない時もあるし、時々俺はどうしてこんな事をやってるんだろうと思う時がある」
 その皮肉まじりの台詞に、淳の本音が多分に含まれている事を悟った美実は、困惑しながら言葉を返した。


「それは……、どんな仕事だって、嫌に感じる時はあるんじゃない? 私だって黙って座ってれば仕事が舞い込む様な事は無いから色々売り込みをかけなきゃならないし、急に続きが書けなくなったりして、何でこんな事をやってるんだろうって、思う事があるわよ? でも淳から、そういう愚痴っぽい話を聞いたの、初めてかしら」
 これまでの記憶を思い返しながら美実が尋ねると、淳が苦笑しながら肩を竦める。


「そりゃあ、まあ……。俺の方が結構年上なのに、お前に仕事上の愚痴を零すなんて、格好悪いだろうが」
 しかし淳の主張を聞いて、美実は不思議そうな顔になった。


「別に、格好付ける程の事でも無いんじゃない?」
「それはそうなんだがな。男って色々、見栄を張りたいものなんだよ」
「つまらないし、くだらないわよね」
「おい!」
 素っ気なく言われて、さすがに淳が声を荒げかけたが、ここで美実がおかしそうに笑いながら告げた。


「だけどそういうのって、結構可愛いわね。美子姉さんがお義兄さんの事を、『結構お馬鹿さんで可愛いわよ』って言ってる気持ちが、やっと分かったわ」
 それを聞いた淳は、うんざりしたように言い返した。


「秀明の事をそんな風に言うのは、世界広しと言えども美子さんだけだ。しかも、俺をあいつと一括りにするな」
「でもどう考えても美子姉さんは、淳達を同類扱いしてるわよね?」
 そこで淳は嫌そうな顔で溜め息を吐いてから、気を取り直したように美実に言い聞かせた。


「とにかく、俺と一緒にいたら守秘義務に違反しない程度なら色々話をしてやるし、絶対退屈させないし、路頭に迷わせたりもしないからな。そこら辺は心配するな」
「分かったわ、期待してる。宜しくね」
「ああ」
 美実が笑顔で頷くと、淳も一気に緊張が解れたように笑って布団に横になった。


「それじゃあ、さっさと寝るぞ。今日は色々あったからな。さすがに俺も疲れた」
「うん、おやすみなさい」
 そして二人は普段の就寝時間より、かなり早い時間帯だったにもかかわらず、これまで緊張が続いていた事もあって、すぐに深い眠りに入った。




 翌朝、気分良く目を覚ました二人は、改めて加積達にこれまでの礼を述べて、荷物を纏めて藤宮家へ向かった。そして門の前まで送ってくれた運転手がトランクから荷物を出している間に、美実は門を開けて敷地内に入る。


「淳。帰る事は、家に連絡してくれたのよね?」
「ああ、朝一番で。ついでに入籍を済ませたから、その報告も兼ねて俺も顔を出すと言っておいた」 並んで玄関まで歩きながら、美実は確認を入れた。


「それって、誰に言ったの? 秀明義兄さんに?」
「美子さんだ。まずあの人に言わないと駄目だろうが」
「それはそうだけど……、怒って無かった?」
 心配そうに尋ねられた淳は、微妙に視線を逸らしながら応じた。


「……取り敢えず、問答無用で電話越しに怒鳴られたりはしなかったから」
「そう……、それなら大丈夫かな?」
 自信なさげに呟いた美実は、持っていた鍵で玄関を開け、条件反射で帰宅の挨拶をしながら静かに引き戸を開けた。


「ただい」
「お帰りなさい。お父さんと秀明さんが待ってるわ」
 しかし玄関の上がり口に仁王立ちで待ち構えていた美子の姿を見て、二人揃って顔を引き攣らせた。そして穏やかではない事を言われて、恐る恐る美実が問いかける。


「え、ええと……、お父さんとお義兄さんは、仕事じゃないの?」
「二人揃って、仲良く風邪だと言って休んだわよ。当然よね?」
「雁首揃えて、待ち構えていたか……」
「当然って……。あの仕事熱心なお父さんが……」
 にこりともせずに言ってのけた美子を見て、淳と美実は揃ってうなだれた。しかし美子は容赦なく話を続ける。


「私も是非、詳しい話を聞かせて貰いたいわ。美実、あなた昨日、陣痛が来たと騒いで病院を受診したんですって?」
 それを聞いた美実は、恨みがましく淳を見上げた。


「……淳が知らせたの?」
「いや、こっちに連絡する事は、すっかり忘れていたんだが」
 動揺しながらも弁解した淳だったが、美子が彼の主張を肯定した。


「美実。あなたが病院に母子手帳を忘れてしまったから、連絡先として登録していたこちらに、その連絡がきたのよ。それでさり気なく様子を聞いたら、看護師さんが『ちょっとした勘違いですから、あまり怒らないであげてください』と言われたわ」
「どうも……、お騒がせしまして」
「本当に、単なる腹痛だったみたいね? 異常が無くて何よりだったわ」
「怒ってる……、絶対に怒ってる……」
 据わった目つきのまま、薄く笑った美子を見て、美実は涙目になって淳の背後に隠れた。淳も動揺しながら、一生懸命弁解する。


「あの、美子さん。本当にご心配おかけして、申し訳ありませんでした。ですが何も問題は無かったですし、連絡を怠ったのは俺も同様なので」
「小早川さん。どうせなら父と夫の前で、申し開きしていただけますかしら? それなら二度手間にならずに済みますし」
 しかし微笑んだ美子に台詞をぶった切られた淳は、色々諦めて玄関に足を踏み入れた。


「分かりました。お邪魔します。今後の事についても、色々とご説明しますので」
「ええ、どうぞ。お上がり下さい。二人とも、待ちかねておりましたので」
 にこやかに微笑む美子に促されて二人が上がり込むまでの間に、ここまで車で送ってくれた運転手が、次々と美実の荷物を玄関に運び込んだ。それが済むと彼は一礼して去って行ったが、淳はそれを一瞬だけうらやましく見送ったのだった。



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