裏腹なリアリスト

篠原皐月

第41話 急転直下

「小早川、現在位置はどこだ! まだ家裁か!?」
「部長? 今は最寄り駅から、事務所に戻るところですが……」
 挨拶抜きで電話越しに怒鳴りつけて梶原に、淳がらしくないと驚きながらも言葉を返すと、彼はそのままの勢いで叫んだ。


「急いで戻って来い! ついさっき、ここに加積康二郎が来た!」
「何ですって!? どうしてですか!」
 驚愕した淳だったが、そう問いかけた途端、電話の向こうの梶原が一気に声を潜める。


「……お前を訴えたいから、所長に代理人を務めて欲しいそうだ」
「今すぐ戻ります!」
 これ以上余計な話は無用だとばかりに淳は通話を終わらせ、事務所への道を駆け出した。


(御大自ら出向いてくるとは恐れ入った。よほど暇を持て余しているらしいな)
 頭に血を上らせながらも、どこか冷静に考えを巡らせながら、淳は事務所に帰り着いた。


「戻りました。奴はどこでしょうか?」
 自分が室内に入った途端、空気が微妙に揺らいだ気がしたが、それを無視しながら淳が机に自分の鞄を置き、上司の机に直行して尋ねると、梶原は硬い表情で端的に告げた。


「所長室で、所長が対応している」
「分かりました。取り敢えずそちらに行って来ます。報告は後ほど」
「分かった」
 そして周囲からの視線を受けながら、淳は所長室に向かった。


「失礼します。小早川です」
「ああ、入りたまえ」
 ノックをしてお伺いを立ててから室内に入ると、通常運転の榊と向かい合わせに、一組の老夫婦がソファーに座っているのを認めて、淳は心の中で密かに気合いを入れた。


「初めてお目にかかります、加積さん」
 取り敢えず言いたい事を全て飲み込み、笑顔で挨拶して頭を下げると、加積も笑顔らしきものを浮かべながら鷹揚に頷く。


「お会いできて嬉しい、とでも言うべきかな? 小早川君。つい先だっては、なかなか楽しい手紙を、どうもありがとう。妻共々、笑わせて貰ったよ」
「楽しんでいただけたようで、何よりです」
 二人で完全な社交辞令のやり取りをしてから、加積は榊に向かって皮肉げな笑みを向けた。


「ところで榊さん。私は彼を呼んだつもりは無いのだが」
 しかし榊は、平然と笑い返す。
「そうですね。ですが当事者の一方としては、話を聞かせるべきかと思いまして」
「なるほど。それがこちらの事務所の流儀と仰る」
「ええ、その通りです」
 そこで榊は、自分の隣に座るように手振りで促しながら、淳に声をかけた。


「小早川君。こちらの加積氏は、君を名誉毀損と脅迫行為について訴えるおつもりらしい。それで何故か、私を代理人に指名したいと仰っておられる」
 それを聞いた淳は、もっともらしく頷いた。


「確かに、加積氏が懇意にしているスクエア法律事務所には、まともな弁護士はいませんからね。所長を指名するとは、加積さんはお目が高い」
「そうだろう? 君ならそう言ってくれると思っていたよ」
 淳と加積の間で皮肉の応酬がされてから、榊は落ち着き払って口を開いた。


「加積さん。先程の申し出による返答を申し上げると、あなたの代理人就任はお断り致します」
「あら? それはどうしてかしら?」
 ここで口を挟んできた桜に視線を向けて、榊が理由を説明する。


「私は小早川弁護士の上司兼雇用責任者として、彼の判断能力を認めておりますので。彼が違法行為と判断しているのなら、私がそれを行っている人物の弁護を引き受けるつもりはありません」
「それは立派な心掛けだ。しかしそうなると、あなたは彼を弁護するのか? 個人的な感情はどうあれ、大勢のスタッフを抱える雇用責任者としては、その判断は如何なものかと思うのだが」
「個人的にお付き合いが無い方に、ご心配頂いて恐縮ですが……」
 若干凄むように、暗に脅しをかけてきた加積に、榊が冷静に反論しようとしたところで、淳がその会話に割り込んだ。


「何か勘違いされていませんか? 加積さん」
「何がかな?」
「私の職業をお忘れですか? 所長にも誰にも、代理人を頼む必要はありません。法廷では、自分で自分の合法性を主張します」
「なるほど。個人で、か」
「当然です」
「なるほど。良く分かった」
 事務所の力を借りるつもりは無い。あくまで個人で受けるから、そのつもりでかかって来いと、暗に告げた淳に、加積は不気味な笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。


「それでは榊さん。お忙しい所、お約束もせずに押し掛けて、大変申し訳無かった。先程の話は無かった事にしてくれ」
「はい。そうします。うちの小早川がお世話になっているみたいですので、今回は初回の相談料も結構です」
「それはお気遣い、ありがとうございます」
 榊の皮肉に、桜は無言で眉根を寄せたものの、男二人はにこやかに笑って別れの挨拶をしながら部屋の外に向かって歩き出した。


(さすが所長。加積相手に、堂々と嫌みをぶつけるとは)
 黙ってその後に続き、護衛に囲まれた夫婦を二人で見送ってから何事も無かったように事務所内に戻ると、梶原が顔色を変えて駆け寄って来た。
「所長! 一体、どういう事ですか?」
 梶原の他にも、周囲の者達が心配そうに見守る中、榊は笑って彼を宥めた。


「大した事ではない。ちょっと代理人になって欲しいと言われたが、引き受けるまでもない内容だったので、丁重にお断りして、お引き取り頂いた」
「そう……、なんですか?」
「ああ、心配いらん。そもそも彼には、懇意にしている法律事務所があることだしな。ところで皆、手が止まっているようだが、どうした?」
 榊のその問いかけに、梶原以下全員が、慌てて中断していた仕事に取りかかった。そんな中、榊が苦笑いしながら淳の肩を軽く叩く。


「まあ、まともに訴訟に発展するとは思えんが……。来たら来たで受けて立てば良いだけの話だし、その前に彼女の方をどうにかしないとな」
「はい。ご迷惑おかけして、申し訳ありません」
 全く反論できなかった淳は頭を下げ、そんな彼の肩をもう一度叩いてから、榊は所長室に戻って行った。


(確かに、俺の考えが甘かったな。実家にちょっかい出すなら、ここにも来るかとは思ったが、直接、しかもえげつなく来やがった)
 そしてこれからの算段を立てた淳は、自分の机に戻りながら、事務員に声をかけた。


「川内さん、事務所の備品に拡声器はありませんか?」
「え? ええと、ありますけど……。裁判の時に、取材をしようと群がるマスコミ対策用のものと、広い会場で使う機材付属の物と、大小ありますが……」
 唐突に尋ねられた為、戸惑いながらも彼女が答えた内容を聞いて、淳は目を輝かせた。


「小さい方は、比較的容易に持ち運びできる大きさと、重さって事ですよね? そちらを今、貸して下さい」
「分かりました。今出しますので、少し待って下さい」
 依頼した淳は、そのまま自分の机に向かい、引き出しを開けて予め用意しておいた物を取り出した。そして無言で、梶原の机に向かう。


「すみません部長、これを預かっておいて下さい」
「預かるって、何を……、辞表!? おい、小早川!」
 静かに机上に載せられた物に視線を向けた瞬間、淳は既に踵を返して歩き出しており、先程頼んだ物を移動用の袋ごと受け取っていた。


「小早川先生、こちらになりますが」
「ありがとうございます、お借りします。後からきちんとお返ししますので。それでは失礼します」
「おい、小早川! ちょっと待て!」
「先生!?」
 そして拡声器を受け取るなり走り出した淳の背中に、幾つかの困惑と狼狽の声が投げかけられたが、彼は綺麗に無視してエレベーターへと向かった。


(わざわざ直接、出向いてくれた事だしな。こちらも直接ぶちかますべきだろうな!)
 そしてビルを出た直後に首尾良くタクシーを拾えた淳は、一路加積邸へと向かった。


 同じ頃、暖かい日差しが入る座敷で、お煎餅をつまみながらお茶を飲んでいた蓮は、差し向かいで飲んでいる相手の様子を見て、声をかけた。


「美実さん、手が止まってるけど、大丈夫? 具合が悪いわけでは無いのよね?」
「あ、は、はい! 大丈夫ですよ? ちゃんと食べてますから! やっぱりお煎餅にはお茶ですよね? 茶葉も最高級品で、さすがです!」
 慌てて笑顔を振りまきつつ、湯飲みを傾けた美実を見て、蓮は小さく溜め息を吐いた。


(朝に顔を合わせた時も、いつもより食べていた位だったけど空元気に見えたし、これは重症よね。二人で早速お仕置きに行ったみたいだけど、どうなったのかしら?)
 帰ったら早速聞いてみようかと考えていると、タイミング良く廊下の方から人の気配が伝わり、加積と桜が姿を現した。


「戻ったぞ」
「ただいま。私達にもお茶を頂戴」
「加積さん、桜さん、お帰りなさい」
「どうでしたか?」
 二人に上座を譲り、笑顔で挨拶した美実の隣に移動しながら蓮が尋ねると、桜がおかしそうに笑う。


「ええ、それなりに、なかなか面白かったわ」
「そうですか」
 美実には分からないように桜が答えると、蓮も困ったように微笑んだ。そんな中、美実は一人、鬱々と考え込んでいた。
(やっぱり今度こそ、淳に呆れられたかも……。でも、ちゃんと書きたかったんだもの)
 そうして自問自答しつつ、弁解じみた事を考えていると、突如閑静な住宅街に、非常識な音量での叫び声が響き渡った。


「美実、聞いてるか!? 聞いてるよな!? ついでに、そこにいるくそジジイどもも、よ――っく聞きやがれ!!」
「え? な、何?」
 何が起こったのか、咄嗟に判断できなかった美実は、危うく湯飲みを取り落としそうになりながら、慌てて声がした方に向き直った。加積達も不思議そうに、庭の向こうに広がる塀の方に視線を向ける。
「あら?」
「どこから聞こえてきた?」
 そして屋敷内の人間の戸惑いなどは無視して、大音量の台詞が続いた。


「お前が、そこの妖怪ジジイの本を書きたいって言うのは、良――っく分かったがな!」
「これって……、まさか、淳!?」
「美実さんの男? 二人揃って面白過ぎるわね……」
 はっきりと淳の声だと認識した美実は瞬時に青ざめたが、蓮はおかしそうに笑っただけだった。


「そんなしわだらけの、棺桶に片足突っ込んだ死に損ないのジジイの事を書いて、一体何が楽しいってんだ! いいとこ、小金になるだけだろうが!? 第一それ位、俺は楽に稼げるぞ!!」
 その暴言を耳にした桜は、忽ち不快そうな顔になって、部屋の隅に控えていた笠原に声をかけた。


「……笠原、平木は何をしているの?」
「直ちに止めさせます」
「あ、あのっ! 桜さん、笠原さん!?」
 何となく、力ずくで排除するつもりだと感じた美実は、慌てて桜達の会話に割り込んだが、ここで淳が予想外の事を言い出した為、思わず絶句した。


「だいたい『仕事だったら何でも書くけど、楽しいに越した事はない』って言ってたのはお前だろ!? そんなジジイの事を書く位なら、俺の事を書け!!」
「はいぃ!? 何で!」
「……ほう?」
「何言ってるの? あの若造」
「自己顕示欲が強いのかしら?」
 加積は笑いを堪えながら、桜は機嫌が悪そうに、蓮は首を傾げて淳の話に耳を傾ける。


「確かにジジイより金は持ってないし、物騒な手下や子分や手駒なんぞは持って無いがな! 真っ当な社会的常識と、そのジジイに真っ向から刃向かう気力胆力は持ってるんだ! 大体、俺を名誉毀損で訴えるだと? ちゃんちゃらおかしいぞ。やれるもんならやってみやがれ!!」
 その破れかぶれにも聞こえる叫びを聞いて、一連の話を聞かされていなかった、美実は本気で驚いた。


「加積さん! 淳を名誉毀損で訴えるって、本当ですか!?」
「ああ、そのつもりだ。私が美実さんを監禁していると言っているからな」
「それは!?」
 落ち着き払って答えた加積に、美実は狼狽しながら弁解しようとしたが、淳の主張がその声をかき消した。


「だから美実! そんなジジイの側より、若くて顔良し頭良し型破りな俺の側にいた方が、はるかに面白い本が書けるぞ! 守秘義務に違反しない範囲で、内情話もありったけしてやる! だからさっさと出て」
「貴様! 何してる、黙れ!!」
「あぁ? 何しやがる! 離せ!」
 そして複数の男性の声が聞こえた直後、それまでの喧騒とは打って変わって元の静寂が戻り、美実は更に顔を青ざめさせた。
「え? ちょっと淳、まさか……」
 その可能性を肯定するように、桜が満足げに口にする。


「やっと平木が押さえたのね。対応が遅いんじゃない? 随分、好き放題言わせて」
「そう言うな。怪しげな車が大挙して押し寄せたのならともかく、奴は一人で来ただろうしな。取り敢えずカメラで、行動を監視していたんだろう」
「全く、ご近所迷惑じゃない。通報されていたなら、さっさと突き出して頂戴」
 怒りが収まらない様子で桜が言い捨て、加積と笠原が苦笑すると、美実が狼狽気味に叫んだ。


「あの、それは待って下さい!」
「どうしてかな? 美実さん。現に彼は私を誹謗中傷した上に、周囲の家の者にも不快な思いをさせていると思うが」
「それは……、淳も悪気があったわけでは無くて、私がここに居座って帰らないのが悪いわけで……。私が帰ったら、加積さんにご迷惑をかけないと思いますから」
 懇願する口調で述べた美実に対し、加積はここで冷静に尋ねた。


「それでは美実さんは、私の本が書けなくなっても構わないと? 今回はここに大人しく滞在する事との交換条件で、取材を許可したしな」
「はい。残念ですが、今回取材させて貰った物は全て、加積さんと桜さん立ち会いの上で破棄します。ですから、淳を訴える事は止めて下さい。お願いします。こんな事で、淳の経歴に傷を付けたくありません」
 加積の申し出に美実も無言で頷き、軽く頭を下げると、桜がいかにも興ざめだという感じで言い出す。


「あらまあ、つまらない事。自分の仕事より、あの男の仕事の方が大事だなんて、美実さんは間違っても言わないと思ってたのに」
「桜さん、それはちょっと違います。まだ期が熟していないと言うだけです」
「どういう事?」
 即座に否定の言葉を返してきた美実に、桜が怪訝な表情になる。加積と蓮も(何を言い出す気だ?)と訝しげな視線を向ける中、美実は大真面目に言葉を継いだ。


「加積さんに関しての本を書く事は、諦めていませんが、本来なら加積さんについて余すところ無く書ききる為には、今の私の力量では不十分だと思っています。今回はご本人からの申し出に、思わず甘えてしまいましたが」
「そうすると、どうする気かな?」
 冷静に尋ねた加積に、美実も真顔で応じた。


「何年かかるか分かりませんが、これから精進して、加積さんがご満足頂ける力量を持てた時に、改めて取材と執筆許可の申し入れに出向きます。ですから加積さん、あと三十年は長生きして下さい。お願いします」
 そう言って生真面目に頭を下げた美実に、蓮が加積を指差しながら声をかけた。


「美実さん、この人があと三十年生きたら、妖怪そのものになると思うけど。それでも良いの?」
「取り敢えずちゃんとお話ができれば、妖怪だろうが何だろうが構いません。幽霊になったら、さすがにお話しするのは無理だと思いますし」
 力強く頷いた美実を見て、加積と桜は呆気に取られた表情になってから、くすくすと笑い出した。


「そうか……、三十年か。それはなかなか、難儀だなぁ……」
「いやねぇ……、あと三十年も、足腰が立たなくなったこの人の面倒を見なくちゃいけないの?」
「ほら、下手に長生きすると、こいつに嫌がられそうだからな。一応約束は約束だから、帰る前に今回の取材内容は一度きちんと破棄して貰うが、美実さんだったらいつでもここに来て良いぞ?」
「え? それって、どういう……」
 夫婦揃って笑いながらの台詞に、意味を捉え損ねた美実が当惑すると、蓮が苦笑いで解説を加えた。


「だから、今回の記録は一度消して貰うけど、また改めて取材に来なさいって言ってるの。つまり、美実さんだったら、この屋敷の出入りをフリーパスにするって事よ?」
「あの、でもそれは!」
 いきなり提示された好条件に、美実がさすがに動揺したが、加積が笑いを含んだ笑顔で尋ねる。


「何か不服かな?」
「いえ、ありがとうございます!」
「よし、話は纏まったな。笠原、平木に奴をここに連れて来るように伝えろ。美実さんを帰すと言ってな」
「畏まりました」
「やれやれ、なんとか収まるところに収まりそうね。このままうちで、里帰り出産っぽくしてみたかったのに」
 そして桜も仕方がないと言った風情で肩を竦めた時、加積に頭を下げて前傾姿勢のままの美実を、不思議そうに眺めながら蓮が声をかけた。


「美実さん、どうかしたの?」
「ええと……、ちょっとお腹が痛くなってきたのかもしれません……」
 微妙に顔を引き攣らせながら、ゆっくり上半身を起こした美実を見て、尋ねた蓮以外の年長者達が揃って狼狽した。


「え? まさか産まれるのか!?」
「予定日は、まだ先よね!?」
「はい、まだ五週間は先なんですが……」
「変に緊張が続いて、産気付いちゃった? まあ、この時期だと早産でも、十分対応はできると思うし、大丈夫でしょう」
 蓮はのんびりと口を挟んだが、それで彼らの狼狽ぶりが悪化した。


「落ち着いている場合か! 早産になるかもしれないんだろう? さっさと救急車を呼べ!」
「笠原、急いで! 大至急よ!」
「はっ、はいっ!」
 そんな動揺著しい三人を、蓮が冷静な声で制した。


「笠原さん、待って。初産だし、すぐにどうこうしなくて大丈夫よ。美実さん、入院の荷物は纏めてあるわね?」
「はい、部屋にスーツケースに詰めてあります」
「じゃあ笠原さん、車と運転手を手配した上で、彼女の部屋からスーツケースを運んでトランクに入れて頂戴。それから後部座席にはビニールシートの上にタオルケットを敷いておいて。そうすれば、万が一間に合わなくて破水したり出産しても、座席は汚れる心配はないわ」
「……はい」
「れ、蓮さぁぁん」
 口調は淡々としているのに結構物騒な指示をしている蓮に、美実が涙ぐみながら呼びかけると、彼女は苦笑いで宥めた。


「そんなに情けない声を出さないの。大丈夫だから。かかりつけの病院に連絡しながら、ちょっと必要な物を取って来るから、ちょっと待ってなさい」
「……はい」
 そう言いおいて蓮が立ち上がり、室内に取り残された三人が、顔を見合わせておろおろしていると、廊下の方から騒々しい足音と怒声が近付いてきたと思ったら、慌てた様子で淳が飛び込んで来た。


「美実! 陣痛がきてるって本当か!?」
「ええと……、そうかも」
「それなのに、なんでこんな所に座ってるんだ! さっさと病院に行くぞ!」
 そこで暴言以上に無視されて腹を立てたのか、桜が腹立たしげに口を挟んできた。


「こんな所とはご挨拶ね。少なくともあなたの貧相な家よりは、遥かにマシな筈だけど?」
「五月蝿い、黙れババア!」
「本当に礼儀を弁えない若造ね。美実さんとは大違いだわ」
「お前らなんぞに払う敬意は、皆無だからな!」
 どうやらこの二人の相性は最悪らしく、激しい舌戦を繰り広げかけたが、ここで戻って来た蓮が呆れ気味に声をかけた。


「ちょっとそこの一見イケメン、黙りなさい。美実さんは私が病院に連れて行くわ。あんたは他に行く所があるでしょ?」
「はあ? どこに行くって言うんだ?」
「美実さん。さっさとこれ、記入して」
「はい?」
 淳の問いかけを無視して美実の横に座った蓮は、座卓の上に持ってきた物を乗せた。


「経験者として言わせて貰えば、戸籍に片親だけってやっぱり色々あるのよね。後からちゃんと籍を入れるにしても、手続きがちょっと増えるし、産まれる前に済ませておいた方が楽よ? だからこれを提出するのを、ここから出る条件の一つに加えようかな~って」
 蓮が婚姻届を広げながら、チラッと加積達の様子を窺うと、彼らも多少驚いた表情になったものの、無言で頷いた。しかし当事者の美実は、立て続けに生じた予想外の事態に、狼狽えまくる。


「あの……、でも、急に言われても……、淳も困ると思うし」
「美実、さっさと書け!!」
「はっ、はい!」
 しかし淳に一括されて、慌てて婚姻届に手を伸ばした。それに蓮が冷静に必要な物を差し出す。


「はい、ボールペン。それから小野塚が置いていった『藤宮』の印鑑を使って」
「お借りします」
 そこで淳はピクッと眉を上げて不満そうな顔になったが、無言を貫いた。しかし次に蓮が口にした内容に、さすがに文句を付ける。


「じゃあお二人は、証人欄に署名捺印をして下さい。印鑑も二種類持って来ましたから」
「何を勝手に仕切ってる!」
 しかしそれを聞いた加積達は、嬉々として身を乗り出した。


「あら、そういうのは初めて。面白そう」
「俺達に頼む人間などいなかったからな。それなら俺達が、二人の結婚の証人になるわけだな?」
「まあ、責任重大。それなら、私達がしっかり監督してあげないとね? 美実さんの扱いが酷かったら、私達が承知しないわよ?」
「……っ!」
 ニヤニヤと嫌らしく笑いながらの台詞に、本音としては(誰が貴様らに頼むか!)と言いたかった淳だったが、ここで反対しても事態が悪化するだけと理解できた彼は、憤怒の形相ながら無言のままだった。そして美実から夫婦に渡って署名捺印が済まされ、淳の記入分だけが空白のままの婚姻届を差し出した蓮は、せせら笑いながら問いかけた。


「じゃあ、これを持ってさっさと区役所の窓口に行きなさい。本籍地への届け出でないなら、戸籍抄本が必要な筈だけど、あなたの本籍は都内に移してあるの?」
「……ああ」
「それならあなたが取って、美実さんの本籍地の区役所に届け出れば問題は無いわね。婚姻届は二十四時間受付可能だけど、ぐずぐずしてると戸籍抄本の発行窓口が閉まるわよ?」
「甲斐性なしの父親と、産まれてくる子供に罵られるかどうかの瀬戸際だな」
「美実さんの出産とどっちが先かしらね? せいぜい頑張りなさい」
 蓮に便乗して夫婦がからかいの声をかけると、淳は勢い良く婚姻届を掴みながら美実に向かって叫んだ。


「五月蠅いぞ! 美実、産むのはちょっと待ってろ! さっさと出してくるからな!」
「あ、ちょっと淳!」
 そして振り返らずに駆け出して行った淳を見送った面々は、苦笑いで感想を述べる。


「『産むのはちょっと待ってろ』だなんて、横暴ね」
「無茶な事を言う男だな」
「そういえば、あの男。ここに車で来たの?」
「いえ、門の前でタクシーから降りていました」
 生真面目に応じた笠原に、桜が真顔で頷く。


「それなら、事故を起こす心配だけは無さそうね」
「そうだな。慌てて事故を起こしたりしたら、とんでもないからな。じゃあ美実さん、安心して行きなさい。蓮、頼んだぞ」
「分かりました。さあ、美実さん。行きましょうか」
「すみません、お願いします」
 そう話が纏まり、蓮に付き添われた美実は、ゆっくりと病院への移動を開始した。





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