裏腹なリアリスト

篠原皐月

第35話 迷走する事態

 美実が非常識にも程がある、加積邸での滞在を決めた翌朝。秀明が自室で着替えを済ませたところで、傍らの机の上に置いておいたスマホが着信を知らせた。


「来たか……。来るとは思っていたが……」
 途端にうんざりした顔になりながらそれを取り上げた秀明は、ディスプレイに浮かんでいる名前が予想通りであった為、更に渋面になりながらそれに応答した。


「俺だ」
「秀明。朝からすまんが、昨夜から美実に連絡が付かないんだ。あいつのスマホが壊れたか何かしたのか?」
「ああ……、うん。昨日から連絡は付かないだろうな……」
 挨拶もそこそこに尋ねられた秀明は、思わず遠い目をしながら他人事のように呟くと、途端に淳が苛立たしげに言葉を継いだ。


「何だ? その煮え切らない返事は。美実は家に居るんだろう? 固定電話にかけたら、出して貰えるんだろうな?」
「それが……。実は美実ちゃんは、昨日から留守なんだ。ちょっと泊まりがけで出かけていてな」
「はぁ? そんな話、聞いてないが。猫達も一緒にか?」
「いや、猫はうちで面倒を見ているから心配するな」
 ここではっきりと異常を察知した淳が、声のトーンを低めながら凄んでくる。


「それで? 美実は“どこ”に“いつまで”出かけてるんだ? あいつは妊婦なんだぞ?」
「それに関しては、色々込み入った話になるから、できれば今日の夜にでも時間を取って貰えるか?」
「俺のマンション。十九時だ。一秒でも遅れたら、お前が何と言おうと押しかける」
「分かった。時間厳守で行く」
 有無を言わせぬ口調で指定され、秀明は彼にしては珍しく、素直にそれに従った。そして通話が終わったところで、美子が部屋に来て顔を見せる。


「あなた。そろそろ食堂に下りて食事を……、どうかしたの?」
 朝から珍しい程不機嫌な表情の秀明を見て、美子が不思議そうに尋ねてきた為、彼は小さな溜め息を一つ吐いてから、先程の会話の内容を口にした。


「今日は帰りに淳の所に寄って、諸々の説明をしてくるから遅くなる。夕食の準備はしておいてくれ」
「分かったわ……。お願いね」
 自分でも説明するのは面倒な上、身内として面目なかった美子は、神妙に秀明に対応を丸投げする事にした。


 そんな風に姉夫婦が、朝から自分の事で頭を痛めているとは夢にも思っていなかった美実は、その日の午後、加積から付けられた護衛役兼運転手を意気揚々と従えて、契約をしている出版社の宝玉社に向かっていた。


「すみません、日下部さん。早速出版社での打ち合わせにまで、付き添いをお願いする羽目になって。駐車場の車中で待っていて頂くか、打ち合わせが終わる目処がついたら電話しますので、それまで時間を潰していて貰っても良かったんですが……」
 最寄りの駐車場から目的のビルに向かって歩きながら、美実が申し訳無さそうに隣を歩く男性に声をかけると、四十代後半でベテランの空気を醸し出している日下部は、鷹揚に笑って言葉を返した。


「お気遣いありがとうございます。ですがそもそも護衛とは、不測の事態に備える為の存在ですから。それにこれ位、負担でもなんでもありません。普段、桜様の気紛れで予定が変更に次ぐ変更で、きりきり舞いをさせられる事に比べたら……」
「ご苦労様です」
 些か哀れっぽく愚痴を零した相手に、美実は苦笑の表情になった。そこですかさず日下部が、笑顔を向けながら申し出る。


「加えて藤宮様は身重ですし、万が一の事があったらいけないと、加積様に厳命されております。ですから空気……、は無理かと思いますが、側にマネキン人形が立っている位のお気持ちで頂けたらと」
「はい、分かりました。今日はお屋敷に戻るまで、お世話になります」
 美実はそれ以上余計な事は言わず、ありがたく加積からの好意を受ける事にして、日下部を引き連れて編集部に足を踏み入れた。


「紫堂先生、お待ちしてました! さすがにお腹が目立つ様になりましたね」
「お久しぶりです、木原さん。今日は宜しくお願いします」
「ところで先生、そちらの方は?」
 担当の木原に、不思議そうに付き添っている日下部を見られて、美実は慌てて説明した。


「事前に伝えておくのを忘れていましたが、日下部さんは、私の護衛兼運転手なんです。この身体ですから、周りの人間が心配して付けてくれまして」
 それを聞いた木原は、さほど驚く様子も見せずに笑顔で頷いた。


「そうでしたか。紫堂先生は良い家の方ですし、付き添いを頼む位、わけないですね。ただでさえお腹が大きくなってますから、周りが心配されるのも無理ありませんよ。それでは日下部さんも、どうぞご一緒にこちらにお座り下さい」
「失礼します。お仕事のお邪魔にならない様に、見学させていただきますので」
 二人掛けのソファーを勧められた日下部は、恐縮しながら美実の隣に腰を下ろした。すると向かい側に座った木原が、二人の目の前に次々と原稿を広げる。


「それでは紫堂先生。彩華先生から『気怠い残照』の表紙イラストが上がってきてますので、まずこちらをご覧になって下さい」
「もう上がってきてたんですか? 凄い! この黒に近い紅の質感とか、銀に近い白の光沢とかを表現できるなんて、流石彩華先生!」
「ですよね! やっぱり平置きした時に手に取って貰うには、何と言っても第一印象が重要ですから!」
 途端にハイテンションになってイラスト談義に突入した女二人だったが、何気なく目を向けた日下部は、かなり乱れたスーツ姿の男性二人が絡んでいるそれを見て、微妙に顔を引き攣らせながら視線を逸らした。


「それから、最新話プロットの再確認に入る前に、『君への華燭』のラフ画が届いていますので、それに目を通して貰いたいんですが」
「あ、これですね? ……あれ? でもこの前の電話では、イラストは八十ページ位と、百二十ページ辺りに入れるとか言ってませんでした?」
「そうなんです。ここら辺にと、考えているんですが」
 すかさずノートパソコンで、該当する部分の原稿を提示した木原に、美実が難しい顔になる。


「それならちょっと、ここまで脱がさなくても良いんじゃありません? 表情的にも、微妙に文の内容とはずれている感じがしますが」
「そうなると、表情もポーズも、もっとアンニュイ的にでしょうか?」
「そうですね。これも魅力的ではありますが、これだと微妙にツンデレ感が滲み出ていると言うか……、そうなると構って貰えるのを期待しているとも、読者に捉えられませんか?」
「なるほど。確かに文章内の描写と、微妙にずれるかもしれませんね。こちらの方が読者受けはするかと思いますが」
「その代わり、こっちの百五十ページ付近のイラストは、もう派手にやらかして下さって結構ですので!」
「そうですよね! 焦らされた分、萌えは割増ですよね! 流石紫堂先生、分かっていらっしゃる!」
(いや、分からないから! 彼女達は何を意気投合して、そんなに盛り上がっているんだ!?)
 目にするのはかなり精神的に色々削られる代物であった事に加え、本能的な恐怖を感じながらも、日下部は至近距離で座っている為、あからさまに顔を背ける様な失礼な真似をする訳にもいかず、本気で進退窮まった。しかしここで彼に、予想外の声がかけられる。


「あの、宜しかったら、お待ちの間に珈琲でも飲みませんか?」
「あ、いえ……」
 反射的に顔を上げると、自分と年代が変わらない男性を認めて、日下部が戸惑った。すると彼は笑顔のまま、手振りで移動を促してくる。


「原稿が汚れる可能性がありますので、向こうで飲んでいただく事になりますが、それで宜しければ」
「……え?」
 それを聞いた日下部は、どうやら相手が自分が席を離れる口実を作ってくれたのだと察し、美実も笑って促してきた。


「日下部さん、お気遣いなく。私は大丈夫ですので、良かったら休憩してきて下さい」
「そうですか? それでは少々、失礼します」
 内心で安堵しながら日下部は立ち上がり、目の前の男性の後に付いて歩き出した。すると彼は壁際のコーヒーサーバーでカップに珈琲を注いでから、それを日下部に手渡す。


「ご苦労様です。ここの編集長の上条です。宜しかったらどうぞ」
「ありがとうございます、いただきます」
「なかなか通常の日常生活では、目にする機会が無い物ばかりではないですか?」
「……お気遣い、恐れ入ります」
 手近な椅子を引き寄せ、手振りで座るように促された為、日下部は大人しくそれに腰を下ろした。すると上条が、苦笑いの表情のまま話を続ける。


「すみません。彼女達はあれが仕事なので。これ以上は無い位、真面目に仕事をしているんです」
「はぁ……、その、お仕事に並々ならぬ情熱をお持ちの方々だとは、充分に理解できますので……」
「それは良かったです。宜しければお待ちの間に、こちらでもお読みになられていて下さい。他にも、こちらの本棚にある物は、どれでもお手に取って頂いて構いませんから」
「ありがとうございます。お借りします……」
 引き攣り気味の笑顔の日下部に、上条はさり気なく何かの雑誌を手渡し、更に近くの本棚を指し示してから、自分の席に戻って行った。それから何気なく日下部が膝の上に置かれた雑誌を見下ろしたが、その《仏像の美》と言うタイトルを見て表情を消す。


「…………」
 更に指し示された本棚は、マゼンダ文庫の発行物で埋め尽くされており、日下部の思考は完全に停止した。


「お疲れ様でした」
「お気をつけてお帰りください」
 首尾良く打ち合わせが終わり、笑顔の木原に見送られて編集室を出た美実は、並んで歩き出した日下部に詫びを入れた。


「日下部さん、すみません。打ち合わせに夢中になって、殆どほったらかしの状態になっていまして」
「いえ、出版社などに立ち入る機会は、普通なら殆どありませんから、興味深く観察させて頂きました。時々編集長が、話し相手になって下さいましたし」
 それを聞いた美実は、笑顔を深めた。


「ええ、上条編集長って、何をやらせてもそつがないって言うか、気配りも仕事もできる人なんですよ」
「見るからに、そんな感じがいたしますね」
「そうなんですが社内で妬まれて、元々男性誌の編集部に居たのに、かなり特殊な業界誌の編集部に回された事があるそうです」
「それは難儀な事でしたね……」
 心から同情しながら、(特殊な業界誌って……、さっきの仏教関係の雑誌とも関係があるんだろうか)などと考えていた日下部に、美実が怒りを露わにしながら訴えた。


「でも、そこで斬新な紙面改訂と特集を次々と組んで成功させて発行部数を増やしたら、今度はマゼンダ文庫の編集部に回されて。何でも公衆の面前で『お前は女にモテるから、購買層が女性の所はうってつけだろう』と、かつての同僚に言われたとか。完全にやっかみですよね! 仕事で見返しなさいよ!」
「それは……、編集長はなかなかの苦労人でいらっしゃるみたいですね」
 本気で同情した日下部だったが、すぐにその感想を撤回した。


「そうしたら編集長が就任二年で、マゼンダ文庫の売上が五割増になりまして。今年で就任五年目になるんですが、売上は就任以前の二倍を越える見込みになってるんです」
「それは……、素人が聞いても凄い数字ですね」
「ですよね!? だから二年目の時に、かつて嫌みを言った同僚に向かって『君の所は年々売上を減らしてるな。男性が購買層なんだから、君の持論だと君はもっと男好きにならなければいけないんじゃないか?』って会議の席で微笑んで、出席者全員を凍り付かせたそうです。さすが編集長!」
「それは……、なかなか非凡な方でいらっしゃいますね」
 他のコメントのしようが無かった日下部だったが、美実は益々上機嫌になって話を続けた。


「ええ。数多くの応募作の中から私の作品を選んで下さったのも編集長って聞いてますし、私にとっては、もう神に等しい存在なんです! もう一生付いて行きます!」
「そうですか……」
 思わず遠い目をしながら、言葉を返した彼は(この女性を拾った段階で、既に非凡な方だろうな)と完全に達観しながら停めてある車へと戻った。


 その後、無事に美実を加積邸に送り届けてから、桜査警公社に戻った日下部は、報告の為、直属の上司の席に直行した。


「只今戻りました」
「ああ、日下部、ご苦労。今日頼んだ護衛対象者は特Sだったな。護衛中、何か異常か支障は無かったか?」
「いえ……。特にそのような事は無く、無事に屋敷に送り届けました」
 その報告を聞いた警備部門部長の杉本は、満足そうに頷いた。


「そうか。それなら良かった。これからも引き続き頼む」
「あの、その事なのですが……」
「どうした?」
 あっさり話を終わらせるつもりだった杉本は、通常とは違って口を挟んできた相手に少々驚いた視線を向けたが、対する日下部はかなり躊躇しながらも、意見を述べた。


「その……、誠に申し訳無いのですが、次回から警護担当者を変更した方が良いのではと思ったものですから……」
「やはり何か問題があったのか? 若い女性だし、我が儘な振る舞いや無茶振りがあったとか」
「その様な事はありません。通常の事柄であれば藤宮様は大変常識的で、周囲への気配りも欠かさない方だと思われます。ただ……」
「ただ?」
「その……、もう少し若い人間の方が、藤宮様と色々と話も合うかと愚考致しまして……。何しろ身重の方ですし、少しでも精神的負担を軽くして、気分転換を図れる相手が護衛の方が良いかと愚考いたしまして……」
 冷や汗を流しながら、控え目に主張してきた部下を見て、杉本は真顔で考え込んだ。


「なるほど……。それも一理あるか。護衛と言うのは、対象者の身柄だけ安全に保てば良いのでなく、精神面でも負担を生じさせてはいけないからな。ベテランの君がそうそう対象者を不快にさせるとは思えないが、君がそう懸念するなら、次回の外出時の護衛は他の者に担当させる事にしよう」
「差し出がましい事を申しました。宜しくお願いします」
 そこで日下部は胸をなで下ろし、簡単な報告書を作成するべく、自分の机へと戻った。


 その日の夜。秀明は久しぶりに訪れた淳の自宅マンションで、普段傲岸不遜な彼にしては珍しく、もの凄く居心地の悪い思いをしていた。


「おい……。このふざけた内容は何だ?」
 持参したICレコーダーの再生を終えた途端、唸るように問いかけてきた淳に、秀明が渋々と言った感じで答える。


「たった今聞いた通り、美実ちゃんの加積邸滞在宣言だ」
「ふざけるな!! 何でこんな事になってるんだ!」
「それは俺が聞きたい位だ……」
 勢いに任せてローテーブルを叩きながら怒鳴った淳に、秀明はうんざりとしながら応じたが、相手が憤怒の形相で立ち上がった為、慌ててその腕を捕らえた。


「ちょっと待て、淳。どこに行く気だ」
「美実を連れ戻しに、加積邸に行くに決まってる」
「だから、それは待て! お前が押し掛けても、あの屋敷内に入れて貰える筈が無いし、下手したらその場で不法侵入で捕まるぞ! 弁護士の肩書きに、傷を付ける気か!?」
「そうは言っても!」
 双方、険しい表情で言い募ってから、秀明が愚痴めいた呟きを漏らす。


「確かにこれまで私生活が謎に包まれてきた、あの加積の回想録や自伝なんかを出版できたら、作家としては一目置かれるだろうしな。美実ちゃんがその誘惑に勝てなくて、ついつい居座りたくなった気持ちも、分からなくはないが……」
「分かるなよ、そんな事!」
「とにかく、現実問題として、俺達が外で騒いでもどうにもならないんだ。桜査警公社の社長は確かに俺だが、未だに加積の支配下にあるから、加積を叩く為にそこの人員は動かせない。寧ろ直接お前を、どうこうしてくる。その危険性を分かっていて、お前に好き勝手させられるか!」
「……それは十分、分かってる」
 真剣に危険性を訴えると、淳が忌々しそうな顔つきながらも、一応おとなしく腰を下ろす。それを見た秀明は幾分安堵しながら、彼を宥めた。


「取り敢えず、美子が加積夫妻、もしくは美実ちゃんに直接連絡を取って、翻意させるように働きかけてみると言っているから、少しだけ待ってくれ」
 それを聞いた淳は、まだ納得しかねる顔付きながらも、一応頷いてみせた。


「分かった。取り敢えずはお前達に任せる。そして今手掛けている面倒な奴を、なるべく早く片付ける目処を付けて、加積をつつく為のネタを集める事にする」
「だから……、そういう不穏な発言もするな」
 物騒な気配を醸し出している淳を見ながら、秀明は(この俺が、押さえ役に回る事になるとはな。本来こいつの方が、遥かに常識的だった筈なのに)と複雑な心境に陥っていた。





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