裏腹なリアリスト

篠原皐月

第34話 藤宮家の動揺

 昼食を済ませてから美実は桜に連れられて、屋敷の更に奥へと足を進めた。ガラス戸が付いた渡り廊下を通ってから廊下を曲がり、少し歩いた所で桜がするりと襖を引き開ける。


「じゃあ美実さんには、この部屋を使って貰うわね。室内にある物は、好きに動かしたり使って貰って構わないから」
「ありがとうございます」
 説明され、礼を言いながらその八畳間に足を踏み入れた美実は、左右の壁際に配置されている立派な机や本棚、飾り棚などを見て、内心不思議に思った。


(なんか……、客間って言うよりは、誰かの私室って感じなんだけど。今は誰も使って無いのかしら?)
 そんな事を考えながら美実が窓際に歩み寄り、障子を左右に静かに引き開けてみると、視界に大きな椿の木が入ってきた。その鮮やかな赤に、思わず感嘆の声を上げる。


「お庭が綺麗に整えられてますね。それに冬なのに南天や葉牡丹、蝋梅で華やか。雪が降ったら白に映えて、もっと綺麗ですよね?」
 その誉め言葉に、桜が嬉しそうに頷く。
「ありがとう。この部屋から見える庭の範囲は、冬が見頃になる様に整えてあるのよ」
 それを聞いた美実は、目を輝かせて食い付いた。


「あ、じゃあひょっとして、春夏秋のお庭もあるんですか?」
「ええ」
「さすが! その季節に、是非他のお庭も見てみたいです!」
「じゃあ、ここにこのまま一年居座ってみる?」
「ええと……、どうしましょう?」
 さり気なく尋ねた途端、美実は視線を彷徨わせながら口ごもる。それを苦笑しながら眺めてから、桜が説明を続けた。


「客間を用意しても良かったんだけど、ここには机や辞書が常設してあるし、この庭は今の季節が一番見頃だから、ここで良いかと思ったの」
「はい。ここで結構です。ありがとうございます」
「それなら良かったわ」
 桜が笑顔で頷くと、美実は再度障子の桟をチラッと眺めてから、ちょっとした問いを発した。


「ここを使っていた方は、今はいらっしゃらないんですか?」
「ええ。出て行ってから、二年近く経っているわね」
「その方が、近々戻られる予定とかは無いんですか? それなら急に使わせて貰って、申し訳無いんですが」
「どうしてそう思うの?」
 不思議そうな顔で問い返してきた桜に向かって、美実がその理由を口にする。


「私物がそのままみたいですし、埃が溜まらない様に掃除するのは当然としても、襖も障子も日焼けせずに綺麗なままですから。綺麗と言うか、最近張り替えたばかりみたいなので、近日中に戻られる予定があるのかと思ったんです」
 それを聞いた桜は、納得した様に笑った。


「ああ、なるほど。でも単に部屋を使っていなくても、全室年に一回、張り替えているだけなの。美実さんのお宅では、どうしているの?」
「ええと……、そこら辺は全て美子姉さんがやってるので……。やっぱり襖はともかく、使ってない部屋でも障子は年に一回は張り替えているかもしれません」
「そうでしょうね」
 その後、軽く幾つかの説明をした桜は、「もう少ししたらお茶にしましょう」と言って部屋を出て行った。そして一人残された美実は椅子に座って、ここでの生活と仕事に必要な物をリストアップし始める。


「うん、立派な辞典だわ。結構最近の発行だし。だけど本棚に収納されてる本のジャンルがバラバラで、ここでどんな人が生活してたのか、全然想像できないんだけど……」
 必要な日用品などを列記し、何気なく机周りや本棚に目をやった美実は、この屋敷の主同様、かつてのこの部屋の住人を推測できないラインナップに、難しい顔つきになった。しかしすぐに気を取り直し、闘志に満ちた表情になる。


「でも加積さんの関係者だし、すんなり分からなくて当然よね。俄然面白くなってきたわ。淳の為にも頑張らないと!」
 そうして美実は再び机にかじりついて、必要な物のリストアップに取り組んだ。
 そして書き上がったそれと、美実のメッセージを吹き込んだICレコーダーを携えて、夕刻になる前に藤宮家を訪問した笠原は、怪訝な顔をして迎え入れてくれた美子の前で、ひたすら額の汗を拭う事となった。


「……と言うわけで、加積さんのお宅に暫くの間、軟禁されちゃう事になりました! いやぁ、びっくり予想外。人生、一寸先は闇だよね!? だけど小野塚さんって凄く良い人~って思ってたら、お腹の中は黒い人だったみたい。でもそういうのは、お義兄さんで免疫あるしね~」
「…………」
 語られている内容は、間違いなくとんでもない内容である筈なのに、美実の口調がひたすら能天気である為、美子は無表情のままこめかみに青筋を浮かべた。それを目にした笠原が、恐縮気味に汗を拭ったが、美実のテンションは最後まで変わらなかった。


「だから暫く家に戻れないけど、心配しないでね? この機会にじっくり加積さん達の観察と取材を進める事にしてるし、仕事や妊婦健診にも付き添い付きで出して貰えるから。それで笠原さんに必要な物を書き出したリストを預けたから、悪いけどそれを揃えて渡して欲しいの。それじゃあ、皆に宜しくね!」
「…………」
「あの……、美子様……」
 再生が終了しても無言のまま微動だにしない相手に、笠原が恐る恐る声をかけると、重い溜め息を吐いた美子は、苦々しい声で謝罪しつつ頭を下げた。


「この度は、妹がお騒がせしております。お屋敷の皆さんにもご迷惑をおかけする事になりそうで、誠に申し訳ありません」
 それに笠原が真顔で応じる。


「いえ、これは元はと言えば和真様の八つ当たりと、旦那様の悪乗りから生じた事態ですので。万が一の事態が生じ無いように、美実様の健康管理に関しては私どもで最大限に留意致しますので、ご安心下さい」
「宜しくお願いします。取り敢えず指定された物を揃えて参りますので、少々お待ち頂けますか?」
「はい、こちらでお待ちしております。重い物は待機させております運転手に運ばせますので、遠慮なくお申し付け下さい」
「分かりました」
 そして硬い表情のまま美子が客間を出て行き、彼女の怒りのオーラから漸く解放された笠原が、安堵した顔つきで額の汗をハンカチで拭いていると、襖が開いて美樹が姿を現した。


「か~さ~ちゃん」
「美樹様。お邪魔しております」
 にこにこと呼びかけてきた美樹に、笠原もそれまでの緊張を忘れて顔を綻ばせると、彼女はトコトコと彼の前までやってきた。そして握り拳を差し出す。


「どんまい」
 そう言いながら差し出された掌に乗っている、個包装のチョコを見て、笠原は何度か瞬きしてから、美樹に確認を入れた。
「……私に、頂けるのですか?」
「うん。おつかれ」
 笑顔のままこっくり頷いた美樹を見て、笠原は小さく噴き出した。


「これはこれは、お気遣いありがとうございます。やはり美樹様は将来、人心掌握に長けた方におなりになるかと」
「そーあく? しょあく?」
「総悪でも諸悪でもございませんが」
 聞き慣れない単語を耳にして、不思議そうな顔で首を傾げた美樹を見て、笠原はチョコを摘まみ上げながら再度噴き出し、それから暫く室内には穏やかな空気が流れた。
 しかしその場を離れた美子の周囲には、相変わらず剣呑な空気が漂っていた。


「全くあの子ったら! 一体、何をやってるのよ!?」
 美実の部屋に入った美子は、苛立たしげに叫びつつ、急いで着替えや仕事道具など、リストにある物を揃え始めた。そして一通り取り揃えたところで、怒りに任せて携帯で電話をかける。


「あなた!」
「美子、どうし」
「くだらない事をやってるんじゃないわよ! 四時間以内に帰宅しないなら、即刻離婚よ! ガタガタ言わずにすぐ帰って来なさい!」
 秀明に有無を言わさず言い付けて通話を終わらせてから、美子は仕事中の父親にも電話をかける。


「お父さん!」
「美子、何か」
「一大事発生よ! 人の行き死にに関わる事が社内で発生していないなら、今すぐ帰って来て頂戴!」
 そして相手の反応を待たずに再び通話を終わらせた美子は、憤懣やるかたない表情のまま、揃えた物の箱詰めに取りかかった。


「全くどいつもこいつも……、どうしてくれようかしら!?」
 その美子の腹立ち紛れの叫びを、直接耳にした者はいなかったが、その影響は長引く事になった。




「ただいま」
 夜の早い時間に帰宅した秀明が、玄関で靴を脱いでいると、物音や気配を察知したのか、美野と美幸が涙目で駆け寄って来た。


「おっ、お義兄さぁぁ~ん!」
「お帰りなさいぃ~!」
「……二人とも、どうしたんだ?」
 出張から久々に戻ってみれば、義妹達の様子が明らかに普通では無い為、秀明が少々驚きながら尋ねると、二人が交互に訴えてきた。


「それが……、今朝はお父さんが、常に無い位怖かったんですが……」
「学校から帰ったら、それよりはるかに美子姉さんが怖くなってて!」
「怖すぎて、お父さんといる居間に近付けないんです」
「二人で籠もったきり出て来ないから、夕食も私達で作ったんだけど、それを伝えたら『私達は良いから、あなた達だけで先に食べてなさい』って」
「分かった。とにかく二人は、先に食べていて良いよ。俺はこのまま居間に向かうけど、楽しい話じゃない事は確実みたいだから、暫く近付かない様にね」
「はい。分かりました」
「先に食べてます」
 宥めて言い聞かせると、美野達は素直に頷いて食堂に向かった為、秀明は考え込みながら居間へと向かった。


(何とか四時間以内で、帰って来れたよな? 何故か分からんが美子が激怒しているのは確実だが、あれから電話やメールが丸無視状態だったし、一体何があった?)
 腕時計で時間を確認しながら廊下を進み、秀明はドアを開けながら居間にいる筈の二人に挨拶しようとした。


「美子、お義父さん、今戻って」
「お帰りなさい。座って」
「……ああ」
 自分の台詞を遮り、冷たく言い放ちながら向かい側のソファーを手で示した美子を見て、秀明は瞬時に相当面倒な状況なのを悟った。そして疲れ切った顔つきの昌典の隣に座ると、淡々と美子が説明を始める。


「報告があるの。お父さんには少し前に説明したんだけど」
「何だ?」
「今日、お昼過ぎに笠原さんがこれを持って来てね」
「笠原? どうしてあいつがここに来る?」
「再生するから、取り敢えず聞いて」
「それは構わないが……」
 目の前のレコーダーを指さしながら言われた内容に、加積邸の人間がどうしてここを訪ねて来るのかと秀明は困惑したが、説明する代わりに美子がデータを再生した。


「美子姉さん? 美実だけど、怒らないで最後まで聞いてね? 実はちょっと、家に帰れなくなっちゃったの。その理由だけど……」
 そして聞こえてきた内容を把握した途端、さすがの秀明も頭を抱えざるをえなかった。
「……美実ちゃん」
「小早川さんの実家への嫌がらせは、桜査警公社の人間が実行犯だったみたいね。こっちがびっくりよ」
 相変わらず淡々と口にしながら美子が再生を終わらせると、昌典が心底同情する様に呟く。


「また随分と難儀な連中に、目を付けられたわけだな……」
「それを考えると、責任の一端がこちらにあるのは、十分理解できたけど」
「確かにな。それにどう考えても、小野塚が裏で糸を引いていたらしい」
 昌典の台詞に、夫婦で溜め息を吐いてから、秀明は真顔で確認を入れた。


「どうしますか? お義父さん。例のパーティーでの事も、変に事を荒立てる様に仕向けたのは小野塚のせいみたいですし、今回の事で連中も十分肝が冷えたでしょう。ここら辺で手を引きませんか?」
「……そうだな。私用で手間をかけさせて、すまなかった」
「いえ、翻意して頂けて良かったです」
 自分の提案に昌典がもっともらしく頷いて頭を下げたのを見て、秀明は安堵しながら頷いた。そして難しい表情になって妻に向き直る。


「それで美子、どうする気だ?」
「どうしようも無いわよ!」
「いや、加積邸での滞在自体もそうだが、美実ちゃんが帰宅しないのを美野ちゃん達にどう説明する気だ? さっき二人と顔を合わせたが、何も聞いていない様子だったが」
「え? どう、って……」
 真剣な表情で、この間すっかり忘れていた事を問われた美子は戸惑ったが、そんな彼女に秀明が追い討ちをかける。


「俺達が、加積みたいな物騒な人間と関わっているのは、極力周囲に秘密にしているから、名前を出す事はできない。第一、軟禁されているなんて口にした日には、あの真面目な美野ちゃんならその場で警察に通報しかねないし、あの無駄に行動力のある美幸ちゃんだったら加積邸に突撃しかねない。これ以上面倒な騒ぎにはしたくないから、どちらも回避したいんだが……」
「…………」
 そのもっともな訴えに美子は黙り込み、父と夫に視線を向ける。しかし彼らは揃って微妙に視線を逸らした為、美子の顔が盛大に引き攣った。
 それから約三十分後。秀明に呼ばれた美野と美幸が居間にやってきた。


「美野、美幸。ちょっと話があるから、そこに座って頂戴」
「はい」
「何?」
「実は、小早川さんの事だけど……」
「…………」
 大人しく美子の向かい側の三人掛けのソファーに座った二人だったが、苦虫を噛み潰した様な表情で姉が黙り込んだ為、二人は左右の一人掛けのソファーに座っている父と義兄に視線で問いかけた。しかし彼らも無言を保つ中、美子が嫌そうに話を再開する。


「色々考えたけど、やっぱりあの人の事が気に入らないの。だから美実は当面、私の知り合いの家で預かって貰う事にしたから、そのつもりでね」
 三人で打ち合わせた内容を美子が一気に言い切った瞬間、予想通り妹達から困惑の声が上がった。


「はぁ?」
「何それ? 何で美実姉さんが余所で暮らすわけ?」
「美実が家に居たら、小早川さんがここの周りをうろうろして目障りでしょうが。それにあなた達が変な手引きをするのを、断固阻止したいしね」
 予め用意しておいた台詞を口にした美子に、美野達が盛大に噛み付く。


「ちょっと待って、美子姉さん!」
「いきなり何なの! 話が違うよね!? この前、小早川さんの事は認めるって言ったばかりじゃない!」
「だから、気が変わったって言ってるのよ」
「美子姉さん、横暴よ!」
「何とでも言いなさい。それじゃあ話はそれだけだから、部屋に戻って良いわよ。ご苦労様」
 素っ気なく言い捨てて追い払う仕草を見せた美子に、美幸は勢い良く立ち上がりながら抗議の声を上げたが、横からそれ以上の怒声が沸き起こった。


「ちょっと待ってよ! 第一、美実姉さんはどこに」
「言われなくても戻るわよ! 美子姉さんがここまで頭がガチガチの頑固者だとは思わなかったわ!!」
「……何ですって?」
「ちょっ、美野姉さん! いきなり何!?」
 常には周りに従順で、滅多に声を荒げる事など無い美野の激高ぶりに、美幸は勿論昌典と秀明も度肝を抜かれたが、美野は周囲には構わず、不愉快そうに軽く眉根を寄せた美子に向かって、堂々と言い放った。


「そもそも例の条件を出したのは美実姉さんだし、小早川さんがそれをちゃんとクリアしたんだから、今更美子姉さんが口を挟む筋合いは無いわよね!? 何様のつもりよっ!! 専制君主ぶりもいい加減にして!!」
「悪かったわね、専制君主で……」
 そこで底冷えのする声で呟いた美子を見て、動揺した美幸が美野を背後から羽交い締めにしながら必死に宥めた。


「美野姉さん! 気持ちは分かるけど、ちょっと落ち着いて!」
「何よ、この分からず屋のギスギスババァ!!」
 美野がそんな決定的な一言を放った途端、美子の口元がピクリと引き攣り、美幸の顔が真っ青になった。そして美野を羽交い締めにしながら、ドアに向かって逃亡を図る。


「おっ、お邪魔しましたぁぁ――っ!!」
「美幸! 放しなさい!!」
「絶対無理! 命が惜しいから!」
 火事場の馬鹿力で美野を引き摺る美幸の背後で、素早く立ち上がってドアに駆け寄った秀明がそれを開ける。そして二人が喚き合いながら廊下へと出た瞬間、彼は勢い良くドアを閉めた。


「…………」
 そして再び静まり返った室内で、美子から押し殺した声での呟きが漏れる。
「……どうせ私は、ギスギスババァよ」
 その怒りを内包した呟きを聞いた昌典と秀明は、完全に悪者になってしまった美子を、懸命に宥めた。


「美子。一応言っておくが、あれは美野の本心じゃないからな?」
「それ位は分かってるよな? 美野ちゃんは、ちょっと頭に血が上っただけだからな?」
「勿論、分かってます。二人とも五月蠅いわよ」
 そのままふてくされ顔で美子は立ち上がり、居間を出て行った。それを見送った昌典は、溜め息を吐いて秀明に問いかける。


「秀明。小早川君には、どう説明したものだろうか?」
 そう相談された秀明は、疲労感満載の表情で答えた。


「さすがにちょっと疲れたので、今日では無く明日の夜にでもあいつの所に行って、直に説明してきます。電話で済ませようとしたら、絶対ここか加積邸に即行で押しかけそうですし」
「そうだな……、宜しく頼む」
「いえ……」
 神妙な顔付きで頭を下げ合った二人は、今後益々混迷してくるであろう事態を思って、揃って深い溜め息を吐いた。





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