裏腹なリアリスト

篠原皐月

第33話 軟禁、もとい居座り

 昌典の剣幕に圧倒されて、取り敢えず休んだ翌朝。早く目が覚めてしまった美実は、朝の忙しい時に電話をかけても迷惑かとメールを送ってみると、即刻淳から電話がかかってきた。そして予想通り、実家から一連の騒動の騒動を聞かされているのが分かって、溜め息を吐いて項垂れる。


「そう……。やっぱり実家の方から連絡があったのね。それで、旅館の方は大丈夫そうなの?」
「ああ、変に心配するな。そうそう簡単に潰れるものでも無いからな」
「それなら良いんだけど……」
 結局淳に宥められ、通話を終わらせた美実だったが、全く気分が晴れなかった。


(でも、あの秀明義兄さんが動いているし……。本当に大丈夫かしら?)
 溜め息を吐きながら、それでも朝食の時間が近付いていた為、彼女が食堂に下りていくと、そこでは美子が妹達に言い聞かせている真っ最中だった。


「……詳細は省くけど、お父さんがパーティー会場で小早川さんのお姉さん夫婦と遭遇して、見当違いな事を言われて、腹を立てて昨夜帰って来たの。それで今、お父さんの機嫌が物凄く悪いから、くれぐれも怒らせない様に。分かった?」
「分かりました」
「はぁ~い」
 美野は真剣な面持ちで頷いたが、美幸はどこか不真面目に応じた。その為、美子の雷が落ちる。


「美幸、変に延ばさない! 大体、あなたが一番言動に気を付けなきゃいけないのよ? ちゃんと自覚しなさい!」
「大丈夫だって」
「本当に分かっているの? 小早川さんとか新潟とか旅館とか、お父さんを刺激する様な事を、ポロッと口走らないでよ!?」
「くどいって! それ位、分かってるから!!」
 そこで言い合いになりかけた為、慌てて美実が割り込んで口論を止めさせた。


「美子姉さん、そろそろお父さんが下りて来る時間よ? ほら、あんた達も席に着かないと」
「そうね」
「はい」
 そしてどちらも若干不満そうな顔つきのまま、美子は台所に配膳に行き、美幸達はおとなしくテーブルに着いた。その直後に食堂のドアが開いて、昌典が姿を見せる。


「お父さん、おはよう」
「……ああ」
 しかし言葉少なく応じた父が明らかに仏頂面だった為、声をかけた美野は勿論、美実と美幸も揃って顔を引き攣らせた。


(うっ、分かってはいたけど不機嫌。朝からここまであからさまなのは珍しいわ。さすがに美幸にも、しっかり理解できたみたいだけど)
 そして姉妹揃って戦々恐々とする中、美子が昌典の分を朝食を運び、皆で揃って朝食を食べ始めた。しかし常とは違って静まり返っている室内に、昌典が何気ない口調で、美幸に声をかけてくる。


「何だ、今日は随分静かだな。美幸、具合でも悪いのか?」
「うっ、ううん! そんな事無いから! 今日もご飯が美味しいし! 美子姉さんの糠漬けは、本当に絶品だよねっ!?」
「……そうだな。これはお義父さんもお好きだった」
 半ば狼狽しながら美幸が答えた内容に、昌典は微妙に声のトーンを低くし、美子と美実は顔色を変えた。しかし美幸は姉達の微妙な反応に気が付かないまま、話を続ける。


「うん。おじいちゃんは、おばあちゃんが漬けた糠漬けが一番って言ってたものね」
「ああ。『これが我が家の味だ』と、満面の笑みで仰られていたな。その藤宮家伝統の味を、お義母さんが深美に引き継ぎ、それを美子にきちんと伝え、今でも守られているわけだ……。それに比べたら私は、お義父さんの期待に応える事が、できているかどうか分からんな……」
 そうして自嘲気味な薄笑いを浮かべながら、黙々と冷気を発しつつ食べ続ける父親を見て、美子と美実は目線で美幸を叱り付けた。


(美幸! あんたって子は!!)
(何、余計な事を言ってるのよ!?)
(ちょっと待って! さっきの会話のどこがNGワードだったの!?)
 ブンブンと涙目で首を振った美幸だったが、それ以後状況が改善する事は無く、食堂内には最後まで張り詰めた空気が満ちていた。


「朝から疲れたわ……」
「同感……。暫くは覚悟しないとね」
 妹達の登校と昌典の出勤を見送ってから、美子と美実はぐったりして今のソファーに座り込んだ。しかしそのままダラダラする事も出来ず、お茶を一杯飲んでから、気合を入れて立ち上がる。


「美子姉さん。ちょっと部屋で仕事をしてるから」
「分かったわ。美樹、美実の邪魔をしちゃ駄目よ?」
「うん」
 そうして自室に籠った美実だったが、机に向かっても昨夜の話が頭から離れなかった。


(どうしよう……。今のお父さんに、淳の実家の買収とか止めてくれって頼んでも、まともに聞いてくれる筈無いよね? それにお父さんが濡れ衣を着せられた、これまで旅館にされてた嫌がらせってどういう事かしら?)
 仕事に意識を向けようと頑張った美実だったが、三十分程で白旗を上げた。


「うぅ~、考えても分からないし、気になって全然仕事にならない……。どうしよう」
 そう呻いて机に突っ伏した時、美実の携帯が鳴り響いて着信を知らせた。慌てて発信者を確認したが、ディスプレイに出ている名前を見て躊躇する。


「小野塚さん? どうしよう……、凄く気まずいんだけど、無視したら失礼だよね?」
 迷ったのは一瞬で、美実は即座に通話するべくボタンを押した。


「はい、美実です」
「小野塚です。急にお電話してすみません。ちょっとお話があるのですが、今、宜しいですか?」
「はい、何でしょうか?」
「あの……、いきなり変な事を言ってしまって、申し訳ありません。もしかしたら美実さんのお付き合いしている方の実家が、嫌がらせめいた事をされていませんか?」
「どうしてそれを!?」
 急に電話が来ただけでも困惑したのに、完全に予想外の内容を言われて、美実は驚いた声を上げた。すると和真が溜め息を吐いてから、困ったような口調で続ける。


「やはりそうでしたか……。実は私の職場について以前お話しした時に、大きく二つに分けて信用調査部門と防犯警護部門がある事はお話ししましたよね?」
「はい。それで小野塚さんは、信用調査部門の部長補佐なんですよね?」
「ええ。それでその部門の中には、一部特殊な班があるんです。分かりやすく言うと、特殊工作班なんですが」
 そこまで聞いて、流石に美実は顔を強張らせた。


「……何ですか、そのあからさまに物騒な響きの名前は?」
「要するに、警護でも調査でもそれを容易にする為の、各種工作活動や根回しをする班と言いますか……。特殊な物品調達や事前潜入や陽動活動とか。あまり詳しくは口にできませんが」
「それがどうかしましたか?」
 激しく嫌な予感を覚えながら、美実が注意深く尋ねてみると、和真も若干声を潜めて応じる。


「基本的にそこは部長直轄なので、私がその活動報告資料や報告を目にする事は無いんですが、今日偶々職場で資料を見たら、見覚えのある名前が出てきたものですから。今職場に居るのですが、ここで長々と電話できないので、この近くまで出て来て貰えないでしょうか? 詳細をお話ししますから」
「ええと、それは……」
「場合によっては一連の事を止めさせる事も、可能ではないかと思います」
「本当ですか? 分かりました。すぐに伺います。場所を教えて下さい!」
 さすがに戸惑った美実だったが、和真から嫌がらせを止めさせる事が可能と聞いた途端、警戒心が吹っ飛んだ。そして勢い込んで待ち合わせ場所を確認すると通話を終わらせ、手早く身支度を整えて部屋を飛び出す。


「美子姉さん! ちょっと出かけて来るから!」
 自分達の部屋で美樹を遊ばせていた美子は、勢い良くドアを開けて叫んだ妹を不思議そうに見やった。


「あら、どうしたの?」
「野暮用! 何時に帰るか分からないから、お昼は要らないから。それじゃあ行って来ます!」
「行ってらっしゃい。気を付けてね?」
 しっかり着込んでバタバタと出かけて行った美実を見送った美樹が、不思議そうに尋ねる。


「みーちゃん、なに?」
「さあ? 急用でも思い出したのかしら?」
 そして母娘で不思議そうに首を傾げたが、どうしてここで詳しく話を聞かなかったのかと、美子は数時間後に後悔する羽目になった。




「お待たせしました!」
「いえ、私も今職場を抜けてきたばかりですから」
 息せき切って喫茶店に駆け込んだ美実は、すぐに和真を見つけてそのテーブルに歩み寄った。そしてまず和真は美実を座らせ、注文を済ませて落ち着かせてから話を切り出す。


「それでは早速本題に入りますが、先程電話でお話しした、小早川さん、でしたか? その方の実家に色々嫌がらせをする様に命じたのは、桜さんなんです」
 その爆弾発言を聞いて、気分を落ち着かせようとグラスの水を飲みかけていた美実は、少しむせて慌てて口からグラスを離した。


「はあぁ!? ちょっと待って下さい! どうして桜さんが淳の実家に嫌がらせするんですか?」
「私もわけが分からなかったので、電話した後にこっそり担当者を捕まえて聞いてみたんですが……」
 それから和真は、美子と秀明が桜査警公社の会長・社長である事は綺麗に隠しつつ、美子が美樹と一緒に桜と加積に会いに行った時、良子と揉めた内容をぶちまけ、それに付き合わされた桜が八つ当たりした一連の流れを説明した。


「それで……、美子姉さんの愚痴話に付き合わされて、美樹ちゃんと遊べなかった桜さんが八つ当たりして、小野塚さんの職場のその特殊な部署に依頼して、実家の方に嫌がらせを仕掛けたと……」
「残念な事に、その様です」
 一応、確認の為に短く話を纏めてみた美実に向かって、和真が真面目くさって頷く。それを見た美実は、本気でテーブルに突っ伏したくなった。


(桜さぁぁん! 確かにちょっと気まぐれで我が儘っぽい奥様だとは思ってましたが、幾ら何でも度が過ぎますよっ!!)
 心の中で盛大に泣き言を言った美実だったが、なんとか気を取り直して和真に尋ねた。


「あ、あのっ! 小野塚さん。それを止めて貰う事はできないんでしょうか!?」
「できると思います。そうでなければ美実さんに連絡しませんから」
「え?」
「元々あの女性は気まぐれな方なので、腹立ち紛れに活動資金を渡して指示した後は、放置しているんです。報告書もきちんと提出している筈ですが、きちんと目を通しているのやら。ひょっとしたら言いつけた事自体を、忘れているかもしれません」
「旅館一軒潰しかけて、忘れてるって……」
 困った様に説明してくる和真に、美実は頭を抱えたくなった。そんな彼女に和真が慰める様に言い出す。


「でも幸い、美実さんはもう桜さんと面識がある上に、随分気に入られた様ですから、直接出向いてお願いすれば、すぐに止めてくれると思うんです」
「本当ですか?」
「ええ。それで、もし美実さんの都合が良ければ、これから加積邸にお連れしようと思って、連絡してみたんですよ」
 そう言って微笑まれて美実は救われた気持ちになったが、それと同時に、申し訳ない思いで一杯になった。


「それは大変ありがたいですが……、小野塚さんはどうしてそこまでしてくれるんですか? その……、お断りしたばかりなのに……」
 恐縮しきった声で美実が尋ねてきた為、和真が明るく笑って答える。


「ああ、その事ですか。勿論、多少は傷つきましたが、それは私にそれだけの魅力が無いと言う事ですから」
「いえ、それは!」
「まあまあ、落ち着いて下さい。それでも美実さんと知り合えた縁は無駄な物とは思っていませんし、あなたさえ良ければ、これからも友人付き合いはしたいと思っているんです。その人が困っているのなら、少しでも力になりたいと思うのは、人として当然だと思いますが?」
 にこにこと、どこからどう見ても善人面としか思えない和真の微笑みを見て、美実はすっかり安心して満面の笑顔で礼を述べた。


「すみません。本当にありがとうございます!」
「お礼を言われる程の事ではありません。現に他人様に迷惑な事をやらかしているのは勤務先の同僚で、それを命じたのが自分の遠戚に当たる方ですから……。私としては正直、頭が痛いです」
「はぁ」
 今度は苦笑されながらの台詞だった為、美実も反応に困って曖昧に頷く。そこで和真は、真摯な様子で申し出た。


「それでは美実さんが良ければ、近くに車を停めてあるので、これからお連れします」
「でもお仕事は……」
「有休を取ってきましたので、安心して下さい。このまま職場に戻っても、気になって仕事が手に付かないので」
「ありがとうございます。お願いします」
「じゃあ行きましょうか」
 話の間に注文したハーブティーは殆ど飲み終わっていた為、促された美実はすぐさま立ち上がった。そして近くの駐車場まで和真と並んで歩きながら、心の中でしみじみと彼への感謝の言葉を繰り返す。


(小野塚さんって、やっぱり凄く良い人! この前、思いっきりお断りしちゃったのに、根に持つどころかこんなに親身になって力になってくれるなんて。もう本当に申し訳ないわ)
 そんな事を考えながら、和真の車の助手席に納まった美実は、隣に座った彼の横顔をしげしげと眺めた。


「美実さん? どうかしましたか?」
「いえ、何でもないです」
「そうですか? それでは出しますから」
 視線を感じた和真が不思議そうに尋ねてきたが、美実は笑って誤魔化した。それに不思議そうな顔になったものの、和真は静かに車を発進させる。


(うん、一連のゴタゴタが片付いたら、絶対美子姉さんやお義兄さんに頼んで、小野塚さんにお似合いな女性を探して紹介しよう!)
 そんな事を固く決意して、さっそくあれこれ身近の女性の人選を始めていた美実は、運転しながら和真が不気味な笑みを浮かべている事に、とうとう最後まで気が付かなかった。




 予め連絡を入れたあったのか大きな門の前で一時停車したものの、インターフォンで対応する事無く自動で門が開き、和真の車はあっさりと招き入れられた。さらに玄関でも「いらっしゃいませ。どうぞ」と待ち構えていた使用人に迎え入れられ、和真と美実は奥へと進んだ。


「やあ、美実さん、いらっしゃい。今日はどうかしたのかな?」
「あら、和真とだなんて珍しい組み合わせね?」
 通された客間で、主夫妻と座卓を挟んで座った美実は、挨拶もそこそこに桜に切り出す。


「あ、あのっ! ぶしつけで大変申し訳ないのですが、今日は桜さんにお願いがあって参りました!」
「あら、私に? 何かしら?」
「淳の実家の旅館にしている嫌がらせを、止めて頂きたいんです!」
「淳? それって、誰の事かしら?」
 必死の形相で懇願した美実だったが、向かい側に座る桜は、きょとんとした顔つきで首を傾げた。そこで和真が解説を加える。


「桜さん、美実さんの交際相手の男性の事ですよ。その両親が上京した時に、美子さんと揉めた話を聞いたのでは?」
「ああ、そう言えば、そんな事もあったわねぇ」
(やっぱりすっかり忘れてた!?)
 のんびりとした口調でにこやかに言われてしまった美実は、盛大に顔を引き攣らせた。すると和真が話を続ける。


「それで、桜査警公社の特殊活動班へ指示した内容は、覚えていらっしゃいますか?」
「思い出したわ。あれの事ね。そう言えば、その後の報告ってどうなってるの?」
「毎週、提出されている筈ですよ。全く……、全然目を通していませんね?」
「あら、ごめんなさいね」
 呆れ気味に和真が窘めると、桜はあまり悪いと思っていない口調で謝り、誤魔化す様に「うふふ」と笑う。その横で加積が「仕方の無い奴だな」と苦笑いする中、美実は再度気合を振り絞って懇願した。


「その……、桜さん。その旅館関係の方が相当困っていると思いますので、それを止めて頂けないでしょうか?」
 すると桜が、不思議そうに尋ねてきた。


「どうして美実さんが頼んでくるの? 相手のお母さんに、散々悪口を言われたんでしょう? 謝罪して貰ってもいないみたいだし」
「確かにそうですが、相手の言う事にも一理ありますので。それに反論するなら自分で反論しますし、報復措置とかは考えていませんでしたから」
「ふぅん? そうなの?」
「はい。これ以上無関係の人に迷惑をかけたくないので、お願いします」
 そう言って美実が深々と頭を下げると、桜はちょっと納得しかねる表情になったものの、すぐに笑顔になって了承した。


「美実さんがそう言うなら、すぐに止めさせるわ」
「本当ですか!?」
「ええ」
 喜んで頭を上げた彼女に微笑んだ桜は、早速部屋の隅に控えていた笠原に視線を向ける。


「笠原。早速金田に連絡して頂戴。頼んだ件は終了にして、清算してくれって」
「畏まりました」
 そして連絡の為か、彼がそのまま部屋を出て行くのを見てから、美実は再度笑顔で桜に頭を下げた。


「桜さん、ありがとうございます!」
「良いのよ。私だって意地悪おばあさんだなんて、思われたく無いしね」
「じゃあ失礼します。帰って早速、淳に連絡を」
「悪いけど美実さん。帰す事はできないな」
「はい?」
 上機嫌で腰を浮かせた美実だったが、その腕を軽く捕まえて和真が引き止めた。その為美実は、再び腰を下ろす。


「小野塚さん、まだ何か用事がありますか?」
「ええ。これに署名捺印を。判子はこれを使って下さい」
「は?」
「あらまあ……」
 そう言って目の前の座卓に広げられた用紙と、横に置かれた印鑑と朱肉を見て、美実の目が点になった。桜も困惑した声を上げたが、その横で加積は薄笑いを見せる。そして見返して正確に内容を把握した美実が、まだ当惑した表情で和真に問い返した。


「あの……、これ、婚姻届に見えるんですけど?」
「ええ、仰る通り、婚姻届ですよ? 印鑑は藤宮の物です」
「その……、既に小野塚さんの名前とかが書いてある様に見えるんですが……」
「はい、確かに私の名前ですね。あなたが書いて、証人欄にそこの老いぼれ二人の署名を貰ったら、すぐに提出できます」
 そこで老いぼれ呼ばわりされた二人は無言で笑ったが、美実は半ば茫然としながら問いを重ねた。


「ええと……、これに記入して署名して提出すると、私と小野塚さんが入籍する事になるかと思うんですが……」
「はい、その通りですね」
「あの……、申し訳ありませんが、それはできませんので」
「できないと言うなら、その気になるまでここに滞在して貰う事になりますが?」
「ここに?」
 まだ若干、理解が追いついていない顔つきで、美実が瞬きすると、和真がとんでもない事を笑顔で言い出した。


「はい。はっきり言えば軟禁ですね。私のマンションで一人きりだと、何かあった時に対応が遅れますし。妊婦に対して、そんな非人道的な真似はできません。ここだと使用人は多いし、住み込みの人間も居るので二十四時間対応して貰えますから、安心して下さい」
「軟禁って……、十分、非人道的な行為だと思いますが……」
「この際、些細な事には目をつぶりましょう」
「はぁ……」
(軟禁って……、些細な事なのかしら?)
 美実がちょっと現実逃避気味な事を考えているうちに、完全に面白がっている桜が、若干咎める様な口調で言い出した。


「まあまあ、そんな楽しい事になっていたの? あなた! どうして私に教えてくれないのよ!?」
「悪い。和真から電話を貰ったのが、三十分程前でな。すっかり忘れていた」
「もう! 男だけでそんな悪だくみをしているなんて!」
 苦笑いする加積を、本気で叱り付ける桜。そんな中、美実は極めて現実的な問題を口にした。


「あ、あの……。今、軟禁されたりすると困るんですけど。特にこれから二ヶ月程は、出産予定に合わせて色々仕事を前倒しで進めていまして。出版予定の原稿そのものは殆ど書き上げているんですが、出版社に出向いての構成や編成作業や、装丁や書下ろしや特典の打ち合わせとか、色々目白押しですので」
「それは……」
 そこで何やら言いかけた和真を遮り、加積が機嫌良く言い出した。


「そこの所は心配要らないぞ、美実さん。軟禁だと言っただろう? 仕事の邪魔をするつもりは無いから、ちゃんと護衛を付けて出版社へ出向かせてあげよう。それから仕事に必要な物があれば、家から何でも持って来させて良いから」
「ちゃんと個室も用意するわ。それに欲しい物があったら、遠慮なく言ってね? 幾らでも買ってあげるから」
「どうも、ありがとうございます。ええと、そうなると外部への連絡とかは……」
 一応礼を述べつつも、更に確認を入れて来た美実に、桜は真顔で応じる。


「そうねぇ、軟禁なんだし、一応携帯電話とかはこちらで預からせて貰うのよね?」
「そうだなあ……。その代わりうちの電話やPCは、使いたい時に好きに使って構わないから。外から連絡を貰いたい時は、そちらを教えて構わない」
「はぁ」
 そんな生返事をしながら、美実は頭の中で自分なりに一生懸命考えてみた。


(ええと、何か普通の軟禁っていうイメージよりも、かなり好条件な感じなんだけど……。ひょっとしたらもう少し、融通を利かせて貰えるかしら? そうなったら助かるんだけど)
 そして美実は慎重に、持って来たハンドバックを引き寄せつつ、確認の言葉を重ねた。


「ええと……、大変気を遣って頂いている上に、条件に付いて相当配慮して頂いているのに、あっさりお断りするのは申し訳ないんですが、やはり小野塚さんとの結婚は無理なので、幾ら軟禁してみても無駄だと思うのですが……」
「ほう? そうかな?」
「まあまあ、和真ったらそうとう魅力が無いみたいね」
「五月蠅いですよ……」
 苦笑する夫婦からの視線を受けて、和真が憮然として黙り込む。その隙に美実はハンドバックの中から目的の物を探り出し、慎重に右手の中に握り込んだ。


「それで、こちらの都合で加積さんと桜さんにご迷惑をおかけするのは、申し訳なく思いますから」
 殊勝にそんな事を申し出た美実に、加積達が笑いながら向き直る。


「いや? 別に私達は、美実さんに長期滞在して貰っても、一向に構わないが?」
「そうよ。そんな遠慮しないで?」
「ですが私の仕事に関してまで、加積さん達に色々配慮して頂くのは、流石に心苦しいので……」
「美実さんは謙虚だな」
「女の人が頑張ってお仕事してるんだもの。それに協力するのは当然よ」
 変わらず鷹揚に頷く加積達に向かって、美実は軽く頭を下げてから、再度心配そうに尋ねた。


「ありがとうございます。でもお屋敷の中で働いている方達にとっては、迷惑ですよね?」
「この屋敷は出入りが多いし、滞在者に妊婦が一人増えた所で、皆びくともしないがな」
「そうよ。好きなだけ協力させるわよ?」
「ええと……」
 そこで何故か口を閉ざした美実は、立ち上がって和真の後ろを回り込み、対角線上に座っている加積のすぐそばに腰を下ろした。その移動の途中で、不審に思った和真が「美実さん、どうかしましたか?」と尋ねたが、それを無視した美実が加積に向かって質問を再開する。


「それなら外での出版社との打ち合わせや、資料の収集に限らず、このお屋敷の中に居る方に色々お手伝いをして頂いたり、お話し相手になって貰っても差し支えないでしょうか?」
「それは勿論だ」
「全面的に協力させるわよ?」
 機嫌良く応じた加積達だったが、彼らに向かって何故か美実が、くどいくらいに問いを重ねる。


「それではご迷惑かもしれませんが、加積さんと桜さんにも、お時間がある時には、色々お話を聞かせて貰って構いませんか?」
「構わないが?」
「話すのは好きだしね」
 何気なく夫妻がそう応じた瞬間、美実は座ったまま歓喜の叫びを上げた。


「いよっしゃあぁぁ――っ!! 言質取ったぁぁ――!!」
「え?」
「は?」
「ほう?」
 周りの者が唖然となったり、興味深げな視線を送る中、美実はそのままの体勢で、右手の拳を天井に向かって勢い良く突き出す。


「偉い、私! 良くぞ持ってた! 物書きの必須アイテム、ICレコーダー!!」
「はぁ?」
 まだ唖然としている和真を尻目に、手の中に収まっているレコーダーを操作して「うん、ちゃんと録れてる」と満足げな呟きを漏らした美実は、満面の笑顔で和真に宣言した。


「あ、小野塚さん、やっぱり私署名捺印できないので、暫くここに軟禁されますから! じっくり加積さんと桜さんのお話を聞いて、その内容でノンフィクション大賞を狙う作品を書かせて貰います! ご協力、ありがとうございます!」
「……え?」
 そして呆然としている和真を無視して、美実はレコーダー片手に加積ににじり寄った。


「早速ですが、是非、二人の馴れ初め話を聞かせて下さい!」
 その要請に加積が応える前に、桜がおかしそうに会話に割り込んでくる。
「まあまあ、せっかちさんねぇ。でもどうして馴れ初め話が聞きたいの?」
 その問いに、美実が微塵も臆せず説明した。


「この前お会いした時にも思ったんですが、何かお二人のイメージにギャップが有りすぎて。どういうきっかけでお二人が出会ったのかな~と、想像が止まらないんです!」
「なるほどねぇ。確かにちょっと普通とは言い難い出会いだったかもねぇ」
「やっぱりそうですか! 是非お願いします!」
 くすくすと笑い出した桜に、美実が嬉々として食いつく。すると加積が苦笑いする中、桜がサラリととんでもない事を口にした。


「あれは暑い、夏の日だったわね……。白い日傘をさして歩いていたら、道の反対側で一人をよってたかってボコボコにしている集団が居てね。咄嗟に傘を畳んで、そいつらに向かって投げたのよ。そうしたら一番後ろで仁王立ちになってた、この人の後頭部に突き刺さったの」
「さっ、刺さったぁっ!?」
 流石に動揺して声を荒げた美実だったが、加積が苦笑いしながらそれを宥めた。


「刺さったと言っても、正確には傘の先端がめり込んだ程度だがな。その後、ずっとそこだけ禿げているんだ」
「マジですか……」
 上半身を捻って、後頭部の髪を軽くかきあげた加積の手元が、確かに一部分丸く地肌が見えているのを目にして、美実は恐れおののいた。しかしすぐに我に返り、桜の過去の行動を窘める。


「って、桜さん! 何怖すぎる事やってるんですか!! やり投げの選手だったんですか!? いえ、例え選手だったとしても、傘なんか投げないで警察に通報しましょう! 因縁付けられたらどうするんですか!?」
 しかし桜は、おかしそうに笑っただけだった。


「選手では無かったけど、美実さんったら、笠原と同じ事を言うのね」
「そりゃあ誰だって……。え? 笠原さん?」
 その人物が、加積達の側に控えている老人の事だと分かっていた美実は、反射的に桜の視線を追って、出入り口の襖に目を向けた。するといつの間にか戻って来ていた彼が、疲れた様な溜め息を吐く。


「笠原は、元は私の実家で働いていてね。その日は私が買った物を両手に提げて、私の後ろを歩いていたのよ。……ねえ? 笠原?」
 桜がそう話を振ると、笠原はどこか遠い目をしながら頷いた。


「はぁ……。桜様の代わりに連中に寄ってたかってボコボコにされたのが、つい昨日の様な気が致します……」
 その黄昏っぷりに美実は顔を引き攣らせ、加積が笑って詫びを入れる。


「はは、あの時は本当に悪かったな。俺も若かったからなぁ」
「……いえ。桜様に手出しされなかった所にだけは、感服致しました」
「それは嫌みか?」
「少々……」
 疲れた様に笠原が漏らした言葉を聞いて、加積達は夫婦揃って楽しげに笑った。


(桜さんが結婚する時、心配した実家から付けられたのかしら……。何にせよ、長年ご苦労様です)
 思わず美実が笠原に憐憫の眼差しを送っていると、ここで使用人らしい女性が入室し、昼食の準備が整った旨を告げた。


「美実さんが来ると聞いたから、ちゃんと人数分準備させておいたんだ。どうかな? 話の続きは食べながらでも良いが」
「はい。是非ともご一緒に!」
 自分の申し出に、一もニもなく頷いた美実に苦笑しながら、加積は桜に告げた。


「そうか。じゃあ桜、先に美実さんを連れて行って、食べていてくれ。すぐに行くから」
「分かったわ。美実さん、こっちよ」
「はい。失礼します」
 そうして女二人が楽しげに話をしながら立ち去る気配を感じながら、加積はその場に残って憮然としている和真に声をかけた。


「残念だったな。だがそもそもあの美子さんの妹が、軟禁すると言って大人しく言う事を聞いたり、怖がるとは思えん。お前の判断ミスだな」
「…………」
 笑いを堪える表情で加積が指摘すると、和真の眉間に深い皺が刻まれた。


「で? どうする? 予定を変更して、彼女を帰すか?」
「変更なんかしませんよ。何を言ってるんですか」
「そうか……。まあ、彼女の事は責任を持って面倒を見るから安心しろ」
「お願いします。それでは失礼します」
 不機嫌そうな表情を隠そうともせず、和真は素っ気なく挨拶してその場を後にした。それを見送ってから、加積がしみじみとした口調で感想を述べる。


「あいつも色々と、面倒くさい奴だよな」
「旦那様程ではございません」
「そうか?」
 すかさず入った笠原からの突っ込みに、加積はおかしそうに笑ってから立ち上がり、食事をするべく桜達の後を追った。





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