裏腹なリアリスト

篠原皐月

第25話 動揺

 和真に連れられてゲイバーに出向いた美実は、遅くなる前にタクシーで送って貰い、自宅の門前で彼に頭を下げた。
「小野塚さん、今日はどうもありがとうございました」
 運転手に待機して貰い、自身も降り立った和真は、そんな彼女に向かって何でも無い事の様に笑いかける。


「どういたしまして。皆も美実さんに会えて、喜んでいましたし」
「でも本来なら、妊婦が行く様な場所じゃ無いですよね? 嫌な顔をされたらどうしようかと思っていたんですが、逆にあんなに歓待して貰えて。小野塚さんのお陰です」
 本心からお礼を述べると、和真は苦笑いの表情になった。


「そんな事は無いから。寧ろ妊婦が身近に居る奴の方が少ないから、皆、興味津々だったし。お腹撫でさせてくれって、何人にも言われていたでしょう?」
「ええ。『まだ目立つほど出てませんし、胎動も分からないですよ?』って言ったんですけど」
「気安くお腹を触らせてくれる妊婦さんなんて、普通はいないから。身内とか家族ならともかく」
「なるほど。子供の頃に妊婦が近くにいなかったとか、家族と絶縁したりしていると、意外に経験とか知識は無いんですね」
 美実が納得して頷いていると、和真がさり気なく尋ねた。


「それにしても、誰にでも撫でさせてたね?」
「悪い人じゃ無さそうな人達ばかりでしたし。タケルさんとリョウさんに、『もっと大きくなってボコボコ動いてるのが分かる様になったら、また触らせてあげます』って約束しちゃったので、その頃になったら、また連れて行って貰えますか?」
 にこにこと笑いながらそんな事を言い出した美実を見て、和真は一瞬呆気に取られて小さく呟く。


「さすがは会長の妹……、妙な所で肝が据わってるな。しかしあいつら、俺がちょっと目を離した隙に、ちゃっかり何を約束させてるんだ……」
「小野塚さん? 今、何か言いました?」
 怪訝な顔で尋ねてきた美実に、和真は瞬時に笑顔を作って別れの挨拶を口にした。


「いいえ、単なる独り言ですから、気にしないで下さい。それじゃあ、ここで失礼します」
「はい。わざわざ送って頂いて、ありがとうございました」
 そして互いに軽く頭を下げた二人だったが、頭を上げると同時に和真が予想外の事を言い出した。


「ああ、そうだ。忘れていた」
「え? 何かありましたか?」
 美実は戸惑った顔になったが、その間に和真は素早く距離を詰めた。更に片手を彼女の肩に乗せて軽く引き寄せながら、さり気なく唇を重ねる。


(は? え? ちょっと!?)
 理解が追い付かないまま美実が固まっていると、和真は舌の先を滑らせて彼女の唇に触れてから、あっさりと身体を離した。


「これまで食べさせて貰った事が無かったので、ちょっとだけ味見させて貰いたかったので。やっぱり今度行った時は、あいつにカルボナーラを作らせる事にします。それじゃあ」
「あ、はい……、どうも……」
 実に爽やかに別れの言葉を告げた和真は、呆然としている美実を残し、再びタクシーに乗り込んだ。その動き出した車内で和真はポケットからスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始める。それに即座に応じた相手に向かって、和真は冷え切った声で命じておいた仕事の首尾を尋ねた。


「俺だ。ちゃんと撮れたか?」
「はい、バッチリです」
「そうか。早速現像して、送りつけてくれ」
「了解しました」
 そして言葉少なに会話を終わらせた和真は、不敵な笑みを浮かべながら藤宮邸から遠ざかって行った。
 その頃の美実は、タクシーが走り去ったのにも気付かないまま、呆然と立ち尽くしながら自問自答していた。


「えっと、味見って……。キスしても、大して味は分からないんじゃ……」
 そんな事を口走ってから、漸く正気に戻った美実は、ブンブンと激しく何度か首を振って、現実的な問題を考えてみる。
「そうじゃなくて! 良く考えてみたら、淳以外の人とキスしたのって、初めてかも……」
 その事実を認識した途端、美実は真っ赤になって狼狽えた。


「え、えぇ! ど、どうしよう!? いや、別に困る事は無いんだけどね? ちょっと心の準備が欲しかったなとか、小野塚さんって意外に手が早かったのねとか、結構手馴れてる感じがしたなとか、これが淳にばれたら血の雨が降りそうだなとか!」
 少しの間、門の前で立ち尽くしたまま支離滅裂な事を口にしていた美実だったが、近所の顔見知りの男性が通りかかって挨拶をしてきたのを契機に、何とか平常心を取り戻し、門の中へと入った。
 そしていつもの顔で玄関を開けて家の中に入り、まず居間に顔を出すと、珍しく美子と秀明が二人だけでお茶を飲んでいた。


「お帰りなさい。どうだった?」
 室内に入って帰宅の挨拶をすると、美子がさり気なく尋ねてきた為、美実はコートを脱ぎながら感想を述べた。
「楽しかったわ。落ち着いた雰囲気のお店だったの。ちょっと目立たない所にあるから、単なる話のネタにとか、物珍しさで面白半分で出向くような女性は来ない様な店だし」
 するとここで、秀明が幾分茶化す様に口を挟んでくる。


「美実ちゃんもある意味、話のネタを仕入れる為に出向いたんじゃないのかな?」
「幾らなんでも、他の人が静かに飲んでいる所で、初対面の人間を質問攻めにしたりしませんから。今回はあくまで店の雰囲気を実感したくて、小野塚さんにお願いしたんですし」
「それは悪かった」
 僅かに気分を害した様に美実が言い返した為、秀明は苦笑しながら謝った。それで美実もすぐに気持ちを切り替え、話を続ける。


「それにしても、本当に小野塚さんは交友関係が広いみたい。店に居た従業員や、お客の殆どと知り合いで驚いちゃった。私を連れて行ったものだから何事かと驚かれたみたいで、皆が入れ替わり立ち替わり挨拶しに来てくれたの」
「仕事柄、そうだろうな……」
「それに、そういう微妙なネットワークって、横の繋がりが強固そうですものね」
 美子達は揃って微妙な表情になっったが、美実はそのまま話し続けた。


「皆、気の良い人ばかりだったわ。『妊娠中なのでソフトドリンクだけで失礼します』って断りを入れたら、『それなら少しでもきちんと食べないとね』って、スタッフの方があれこれメニューを勧めてくれたりして。しっかり食べて来たから、何も要らないから。ちゃんとバランス良く食べて来たし」
 それを聞いた美子は、一応美実用に準備しておいたおかずや食材は明日に回そうと頭の中で考えながら、笑顔で頷いた。


「それは良かったわね。バーに来て酒を注文しないのかと、白眼視される様な所じゃなくて」
「うん。そこら辺は小野塚さんが行きつけのお店だったから、周囲の人に色々説明してくれたし。そうしたらさっき言ったスタッフの人が、特別にカルボナーラを作ってくれて」
「特別にって?」
「通常のメニューに載ってない、所謂賄いメニューらしいの。だけどスタッフの人に『これは絶品だから食べてみて』って勧められたから食べてみたら、それがもの凄く美味しくて! 茹で加減はバッチリ、ソースの絡み具合や味付けも今までで食べた中で最高で、あれなら十分お金を取れるわ!」
 美実が嬉々として力説してくる為、秀明と美子は思わず笑ってしまった。


「本当にそんなに美味いのかい?」
「どんな物か、興味があるわね」
「それを美味しい美味しいって夢中で食べてたら、小野塚さんが『旨そうだから俺にも作ってくれ』って言い出して頼んだの。でも『お前は可愛くないから駄目だ』とあっさり拒否されて周りは笑い出すし、小野塚さんはちょっと拗ねてみせるしで、益々場が盛り上がって……」
 そこでつい先程、その和真にさり気なく唇を奪われた事を思い出した美実は、傍から見ると不自然に言葉を途切れさせたと思ったら、瞬時に赤面した。その異常に気が付かない美子達ではなく、訝しげに尋ねる。


「美実? どうかしたの?」
「何かあったのかな?」
 そう声をかけられて我に返った美実は、狼狽しながらバッグとコートを掴んでドアの方に後退した。


「う、ううん! なっ、何でもないから!! え、ええっと、そういう訳でしっかり食べる物は食べてきたし、大丈夫だから! じゃあ部屋に行くね! お邪魔様でした!」
「ええ」
「お疲れ様。ちゃんと休むんだよ?」
 そして慌ただしく彼女が出て行くのを見送ってから、秀明は面白く無さそうに呟いた。


「……何かあったな」
「何かあったわね」
 しかし自分とは異なり、再び平然とお茶を飲み始めた美子に向かって、秀明が僅かに眉根を寄せながら確認を入れる。
「良いのか? 静観していて」
「実害は無さそうだもの」
 淡々と懸念に答えた良子を見て、秀明は諦めて溜め息を吐いた。


「お前は大概の事に関しては、肝が据わっているからな」
「今更な事を言わないで」
 全く動じていない様に見える妻を観察しながら、秀明は不憫で不利な悪友に対して、心の中で同情した。そして同じ藤宮邸内に、彼と同じ位、淳に同情している人物が存在していた。


「それにしても『子供の父親としての責務を果たす資格と力量を示す』なんて、曖昧過ぎる内容。逆に幅が広すぎて絞れないわよ。それにどんな事をしても、美子姉さんが難癖付けて却下しそうだし」
「よくよく考えてみたら、そうなんだよねぇ……」
 美幸の部屋に押し掛けて愚痴を零していた美野だったが、殆ど他人事の様に妹が頷きながら述べたところで、早くも堪忍袋の緒が切れた。


「『そうなんだよね』じゃ無いでしょう!? 全く! どうしてその場に居合わせたのに、もう少し何とかしなかったのよ?」
「そんな事言われても! 何をどうすれば良かったって言うのよ!?」
 思わず怒鳴り付けた美野に、美幸がムキになって反論していると、何やら廊下から簡単なリズムを付けたメロデイーが聞こえてきた。


「ぷち~、ぷち~、がけっぷち~、ぷち~、ぷち~、がけっぷち~」
 その声に、思わず怒気を削がれた二人は、互いの顔を見詰めながら首を傾げる。
「今のは何?」
「美樹ちゃん、だよね?」
 疑問に思った二人がドアの所まで行って押し開け、廊下を覗き込むと、沢山の足がくるくる回りながら進むムカデ型のプルトイを引きながら、二階の廊下を歩いている美樹の姿が目に入った。


「ぷち~、ぷち~」
「あ、あの……、美樹ちゃん?」
「のーちゃん、ゆーちゃん、なぁに?」
 控え目に美野が声をかけると、美樹はピタリと足を止めて振り返った。そして不思議そうに首を傾げた為、疑問に思った事を尋ねてみた。


「今、何か歌とか歌っていた?」
「うん、リズム、とってる」
「何の歌なの?」
「てーま」
 それを聞いて、今度は美野が首を傾げた。
「それってひょっとして、テーマソングって事かしら?」
「うん、あっちゃん」
「…………」
 真顔で断言された内容を聞いて、美樹が言うところの『あっちゃん』が淳の事だと知っていた二人は、何とも言えない表情で黙り込んだ。するとそれで話は終わりかと思ったのか、美樹が再びプルトイを奥に向かって引きながら、先程と同様に歌い出す。


「ぷち~、ぷち~、がけっぷち~、ぷち~、ぷち~」
「美樹。お風呂に入るわよ? それを片付けて来なさい」
「うん!」
 そこで階段を上がってきた美子が声をかけた為、美樹は上機嫌で自分の部屋に向かった。それを見届けてから二人は再び部屋の中に入り、美子達が階下に下りて行ったのを気配で確認してから、美野が涙目で妹に訴える。


「美幸! あなた小早川さんが可哀想だと思わないの!? もう本当に、気の毒過ぎるわ!! 美樹ちゃんにまであんな事を言われて、しかも否定できないなんて!!」
「それは確かに同感だけど、あたしのせいじゃないから!!」
 それからひとしきり揉めていた二人だったが、ここで揉めていても何の解決にもならないと互いに悟り、疲労感満載の表情で別れた。しかし美野はそのまま自室には戻らず、一人階段を下り始める。


「私が口を挟んで、どうにかなる問題では無いと思うけど。本当に小早川さんが不憫過ぎるわ」
 沈痛な面持ちで、そんな事を呟きながら一階に下りた美野は、愚痴っぽく呟きながら廊下を進んだ。


「美子姉さんはこうと決めたら、梃子でも動かない性格だし、この件に関しては、お父さんとお義兄さんは美子姉さんに一任して静観してるし……」
 そこで仏間に到着した美野は、溜め息を吐いて襖を引き開けた。次いで照明を点けて仏壇の前に進み、左右に立ててある蝋燭に点火し、線香をつまみ上げてその先端を炎の中に挿し入れる。


「どうしてあんなに早く死んじゃったのよ、お母さん。お母さんだったら、どうにでも美子姉さんを宥めて、上手く纏めてくれたと思うのに……」
 位牌の前に飾ってある、小さな遺影に向かって愚痴りながら線香を香炉灰に突き立て、きちんと正座した美野は静かに鈴を鈴棒で鳴らした。


「こんな愚痴を言っても、お母さんが化けて出てきて、解決策を教えてくれる筈は無いんだけど」
 殆ど諦めている口調で美野は手を合わせ、淳の為と言うよりは自分の鬱々した気持ちの改善の為に目を閉じて、無心に祈った。するとここで唐突に、自身が小さな子供の頃に母親と交わした会話の内容が、美野の脳裏に浮かんでくる。


〔……から、私、……、……らいよ!〕
〔……たわね。でも、……のよ?〕
〔どう……、……て?〕
〔……はね、私が……〕
〔分かっ……。……らは、この……〕


「思い出した……」
 その一連のやり取りを思い出した美野は、半ば呆然とした表情で両目を開けた。


「今の今まで、すっかり忘れてたわ。お母さんが話してくれた事……。お母さん、ありがとう!」
 嬉々として母の遺影に向かって礼を述べた美野は、勢い良くその場で立ち上がった。
「同じ様な話を、美子姉さんもお母さんから聞いていたら、納得してくれるかも! 早速聞いてみないと!」
 そう叫んで、早速実行に移そうとした美野だったが、数歩歩いた所である事に気が付き、自分自身に言い聞かせる。


「あ、でも、美子姉さんにそれを聞いた後で、小早川さんにその内容を話したら、美子姉さんに私が入れ知恵したって思われて、『自分で考えたんじゃないから無効』って言われる可能性はあるわよね。ここはやっぱり、危険性は低くしておかないと。よし! これは一か八か、確認は取らないで話をしてみて、考えて貰うしか」
「誰と何の話をするの?」
 この場には自分一人しかいないと思っていた美野は、いきなり他人の声が至近距離で聞こえてきた事に動揺し、加えてその相手が美子である事が分かって、激しく狼狽した。


「美子姉さん!?」
「仏間で、何を騒いでいるわけ?」
「ごめんなさい。ちょっとお母さんに相談したい事があって。でも解決したから、部屋に戻ります!」
 慌ててその場を立ち去ろうとした美野だったが、美子が穏やかな口調ながら、反論を許さない言い方で指示を出す。


「そう? 部屋に戻るなら、火を消してからにしなさいね?」
「あ、はい! そうですね! 失礼しました! 今すぐ消します!」
 即座にUターンして即行で手で煽いで蝋燭の炎を消した美野は、美子と目を合わせずにバタバタと走り去って行った。


「美野ったら……、何をやってるのかしら? あの子にしては、珍しいわね」
 そんな怪訝な視線で妹の背中を見送った美子だったが、それ以上追及する事無く照明を消して仏間を出て行った。


 一方、藤宮家の一部であまりの不憫さに同情されていた淳は、美実との会談後、思考の迷路に嵌り込んでしまっていた。
(美実にはああ言ったものの……、具体的に何をどう証明したり行動すれば良いのか、なかなか判断が付かない)
 その日も、仕事の合間に悶々と考え出した淳は、傍から見ると相当切羽詰った表情をしていた。


(安定した暮らしと言う面から、家族で暮らせる間取りの物件の購入でも良いかと思ったが、この前聞いた美実の希望に合わせても、一々聞かないと希望の物を把握できないのかと嫌味を言われたり、自分の考えは無いのかと難癖を付けられそうだし)
 そこでがっくりと項垂れた淳は、何気なく係争中の事案の資料を目に入れ、更に迷走気味の思案を巡らせる。


(堅実な職業に就いているから、経済的に心配は無いって事を前面に出して、これまでにどんな事案をどんな風に処理してきたかを説明するか? でもそれならいっその事、事務所所属では無くて、独立も視野に入れるべきだろうか?)
 そんな事を淳が悶々と考えていると、いきなり肩を掴まれながら声をかけられた。


「小早川」
「何ですか? 森口さん」
 ゆっくりと顔を上げて振り仰いだ淳を、森口が厳しい表情で見下ろしてくる。
「今晩、付き合え。言っておくが、お前に拒否権は無い」
「……分かりました」
 先輩からの明らかな命令口調に対し、とても反論する気力は無かった淳は力無く頷き、その日の仕事を終えるなり、職場の近くの居酒屋に連行されたのだった。


「それで? お前が事務所内で、先週から辛気臭過ぎる百面相をしている理由を、聞かせて貰いたいんだが。おそらく……、と言うか、確実に振られた元交際相手に関する事だろうが」
 テーブルに落ち着くなり断定口調で切り込んで来た森口に、淳は顔を引き攣らせながら控え目に反論した。


「『振られた』とか、『元交際相手』とか、容赦が無さ過ぎます。美実にはこの前ちゃんと、惚れてるとは言われました」
「現実を直視しろ。惚れてても突き放されてるんだから、余計にタチが悪いんだろうが。さあ、洗いざらい吐け」
「……分かりました」
 バッサリ切り捨てられて早速心を折られた淳は、この間の事情を洗いざらい説明した。話しているうちに淳は徐々に気持ちが落ち着いて来たが、逆に森口は難しい顔付きになって頭を抱えてしまう。


「それはまた……、随分漠然とした話だな。逆に色々考えられるから、お前にとっては不利じゃないのか?」
「そうなんです。先程も言った様に色々考えても、美子さんが悉く難癖を付けてきそうで」
 しみじみと淳が述べた事を聞いて、森口は思わず口を滑らせた。


「姉妹揃ってキツいな。悪い事は言わないから、この際すっぱり諦めるってのは」
「冗談でもそういう事を口にするのは止めて下さい」
 途端に鋭い視線を向けられた森口は、本気で肝を冷やす羽目になった。


「……悪かった。俺も少し考えてみる。だからくれぐれも自棄を起こすなよ?」
「分かっています。ありがとうございます」
 それからは森口に愚痴を聞いて貰い、慰められながら酒を飲んで、幾らか気が楽になって自宅に帰り着いた淳だったが、帰宅早々不愉快な事態に遭遇した。


「何だ? この封筒は」
 淳宛てに届いた差出人が無記名の白い封筒をポストから回収した淳は、思わず顔を顰めた。取り敢えず部屋まで持って行ってから、封を切って中身を取り出してみた淳は、目に入った代物を見て盛大に顔を顰める。


「陰で嘲笑ってやがるな、あいつ」
 それは和真と美実が一緒にゲイバーに出かけた時の隠し撮り写真の束で、二人が仲良さ気に歩いていたり、笑い合っている所を一応一通り眺めていた淳は、最後に二人がキスしている写真を目にした途端、それを勢い良く握り潰した。


「あの野郎……」
 呻き声を漏らして歯軋りした淳だったが、スマホの着信音が鳴り響いた為、何とか気持ちを落ち着かせてそれをポケットから取り出した。そしてディスプレイに浮かび上がった発信者名を見て、意外そうに呟く。
「美野ちゃん?」
 しかし疑問に思ったのは一瞬で、淳はすぐにいつもの声で応答した。


「はい、小早川です。美野ちゃんだよね? どうかしたのかな?」
「夜分すみません、小早川さん。ちょっとお話がありまして」
「構わないよ。何かな?」
「できれば電話で無くて、直にお話ししたい事があるんです」
 これまで以上に恐縮気味に告げてくる美野に、淳は慎重に尋ねてみた。


「美実に関する事だよね?」
「はい。あの……、例の条件の話を聞いたんですが……」
 そこで美野が幾分戸惑う様に言葉を区切った為、淳は完全に怒りを消し去り、素早く算段を立てた。


「分かった。確かに話が長くなりそうだし、頭をすっきりして聞いた方が良さそうだ。今日はちょっと飲んでいるし、少し頭に血が上っている状態だから、明日か明後日の夕方はどうかな?」
「それならその時間帯に特に用事は無いので、私が小早川さんの事務所の近くまで出向きます。それならお仕事の途中でも抜けやすいでしょうし。明日の日中にでも、都合の良い時間帯を教えて貰えませんか?」
 願っても無い申し出をされて、淳は心から感謝しながら言葉を返した。


「そうしてくれると助かるよ。悪いね」
「いえ、それでは今日の所は失礼します」
「ああ、明日メールで連絡するから」
 そうして通話を終わらせた淳は、少しでも頭を冷やすべく、無言のまま入浴の支度を始めたのだった。





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