裏腹なリアリスト

篠原皐月

第24話 困惑のプレゼンテーション

 美幸を連れて、指定の日時に喫茶店に出向いた美実は、待っていた淳と落ち着き払って挨拶を交わした。


「久しぶりだな」
「そうね。この前この店で顔を合わせてから、何だかんだで三ヶ月近く経っている筈だし」
「この前、美幸ちゃんから近況は聞いていたが、元気そうで良かった」
「心配かけてるみたいね。取り敢えず順調だから。健診でも異常は見られないし」
「そうか」
 そんな会話を交わす間に美実達は淳の向かい側の席に収まり、メニューを引き寄せて注文を済ませた。そしてウエイトレスがそのテーブルから離れると同時に、美実が思い出した様にハンドバッグの中を漁り出す。


「あ、そうだわ。忘れないうちに淳に渡しておくから」
「何を?」
 戸惑う淳の前に、美実は予めキーホルダーから外しておいた、彼のマンションの鍵を置いた。
「これ。私が持ったままになっていた、淳の部屋の鍵」
 そう説明を加えた美実に、淳は僅かに顔を強張らせて尋ねる。


「どうして返す?」
 その反応は予想外だった美実は、不思議そうに問い返した。


「え? お義兄さんから聞いたんだけど、淳の部屋に泥棒が入ったんでしょう? それで合鍵を落としてないかって、お義兄さんに聞かれて思い出したの」
「だから……、どうして返す?」
「だって……、付き合ってるわけじゃ無いのに、合鍵を持ってるなんておかしいでしょう?」
 多少自信なさげに付け加えた美実に、淳は溜め息を吐いてから右手を伸ばした。


「一応、貰っておく。尤も、玄関の鍵は丸ごと取り替えたから、これはもう使えないんだが」
「あ……、そ、そうなんだ……。それもそうね、ごめんなさい。余計な事だったわね」
「いや……、別に、余計な事とかじゃ無いから」
 そこで互いに俯き加減で黙り込んでしまった為、本来は部外者の美幸はあまりの居たたまれなさに、運ばれてきたケーキを食べる事に専念するふりをした。


(うぅ、気まずい。いきなり二人揃って、無言にならないで欲しいんだけど。居心地悪さが半端じゃ無いわ。どちらからも緊張感が漂ってくるし)
 早くも付いて来た事を後悔し始めた美幸だったが、一心不乱にケーキを食べ、紅茶を飲みながら考えを巡らせた。


(これは取り敢えず、無理やりにでも話を進めた方が良いわね)
 そう腹を括った彼女は、カップをソーサーに戻して控え目に声をかけてみた。


「あ、あの~、美実姉さん? 取り敢えずこの前小早川さんから言われた、ご両親が家に来た時の顛末を説明しない?」
 そう言われた美実は気を取り直し、再びハンドバッグの中を確認しながら申し出た。
「あ、そうだったわね。実はあの時の一部始終を録ったデータがあるのよ。私から話すより、それを聞いて貰った方が正確だし早いと思ったから持って来たんだけど。聞きたい?」
 その提案に、淳が真顔で頷く。


「そうだな。だが、構わないのか?」
「ええ、そのつもりで持って来たし。イヤホンも有るから、ここで聞いて」
「じゃあ、そうさせて貰う」
 そして淳が差し出された長方形のICレコーダーにイヤホンを差し込んでいると、美幸が恐る恐る言い出した。


「美実姉さん、次に私にも聞かせて欲しいんだけど、駄目?」
「それは構わないわ」
 するとここで顔を上げた淳が、予想外の事を言い出した。


「それなら美幸ちゃん、一緒に聞くかい?」
「良いんですか?」
「ああ」
「それじゃあ、失礼します」
 淳からの申し出に目を丸くした美幸だったが、すぐに座席を移動して向かい側の淳の隣に座った。そして淳が右耳に、美幸が左耳にイヤホンをセットしたのを確認した美実が、若干テーブルに身を乗り出し、レコーダーのデジタル表示を見つつ操作する。


「えっと……、じゃあここら辺からね。再生するわよ?」
「分かったわ」
「頼む」
 そして問題のやり取りの実況を耳にし始めた二人だったが、すぐに両者とも無意識に呻き声を漏らした。


「うわぁ……、聞くんじゃなかった……」
「……勘弁してくれ」
 しかし顔色を悪くしながらも、それ以上に余計な事は言わずに一部始終を聞き終えた二人は、のろのろと耳からイヤホンを外した。そして美幸は元の席に戻り、淳はレコーダーを美実に返しながら頭を下げる。


「わざわざ持って来て貰って悪かった」
「大した荷物でも無いし、それは気にしないで」
 苦笑気味にそれを受け取り、ハンドバッグにしまっている姉を見ながら、美幸は疲れた様に声をかけた。


「美実姉さん……。この前の美子姉さんの怪我の理由って、音だけだと良く分からなかったんだけど、この時何があったの?」
 その問いに、美実は冷静に答えた。
「淳のお母さんが美子姉さん目掛けて、思い切り本を投げつけてね。その角が姉さんの手の甲に当たったのよ」
 それを聞いた美幸が、更に顔色を悪くする。


「座卓を挟んだだけの至近距離から? それじゃあ、ああなるわけだ……。目とかに当たらなくて、本当に良かったわ」
 しみじみと感想を述べた美幸だったが、淳も同感と言わんばかりに頷き、幾分険しい口調で言い切る。
「一応、親から話は聞いていたが、美子さんが激怒した理由は良く分かった。怒って当然だ」
 しかし険しい表情の淳を見て、美実は思わず良子を庇う発言をした。


「でも、美子姉さんも色々挑発まがいの内容を口にしていたし、淳のお母さんが怒るのも無理ないと思うわ。わざわざ東京まで出て来たのにこれじゃあ、申し訳無いわよ」
「だが、美実の仕事にケチを付けただけでは無く、一方的に藤宮家の事を誹謗中傷する内容を口にしたわけだし。全面的にこっちが悪い」
 そしてそのまま不毛な言い合いに突入しかけた二人だったが、本来傍観者の美幸が冷静に指摘してきた。


「あの……、二人とも。ここで身内の事で謝り合ってても、どうにもならないと思うんだけど……」
 それで瞬時に我に返った淳は、決意も新たに断言した。
「確かにそうだな。やっぱり両親に言い聞かせて、今度きちんと美子さんに詫びを入れさせる事にする」
 しかしこれに、美実が待ったをかけた。


「ちょっと待って。お父さんはともかく、お母さんにそんな事言っても無理じゃない? もの凄く怒っていたし、余計にこじれそうよ?」
「だが、お前や藤宮家に対して失礼な事を言った挙げ句に、美子さんに怪我をさせたのは事実だろうが」
「それは確かにそうだけど、お母さんが私の事を気に入らなかったのは仕方がないし」
「それはちょっとした誤解と偏見だろうが。お前は別に他人と比べても見劣りなんかしないし、自分の仕事に引け目を感じてもいないだろう?」
「それはそうだけど、どうしても相容れないって人は居るだろうし、自分の価値観を無理に他人に押し付けたくは無いのよ。お母さんが嫌だって言う物を、無理に認めさせる様な事はしたくないわ」
 そこまで聞いて、淳ははっきりと顔を顰めた。


「俺は不愉快だ。確かに無理強いするつもりは無いが、一方的に誹謗中傷して良いと言う訳でも無いだろう。気に入らなければ、話題に出さずに黙っていれば良いだけの話だ。これ以上ガタガタ言うなら、すっぱり親子の縁を切るつもりだ」
 その発言を聞いた美実は、瞬時に血相を変えて問い質した。


「ちょっと待って! どうしてそんな事で、縁を切る、切らないの話になってるのよ!?」
「当然だろう。お前と家族とどっちを取るかとなったら、お前なんだから」
 サラッと自分の家族に対して薄情な事を口にした淳だったが、美実は即座に真顔で返した。


「私、淳と家族のどっちを取るかって言われたら、家族なんだけど」
「…………」
 すこぶる冷静に断言されて、淳は思わず黙り込んだ。そして姉の薄情過ぎる発言を聞いて思わず頭を抱えた美幸は、すぐに気を取り直して姉に取り縋った。


「美実姉さん! 家族より自分の方が大事って言って貰ったんだから、ここは一つ素直に、ありがとうって言っておこうよ!? それで円満解決じゃない!」
「だって淳に向かって、嘘とか適当な事は言いたく無いんだもの」
「あ、あのねえっ!」
 あくまで本気で言い返してくる美実に美幸は絶句し、彼女の腕から手を離してテーブルに突っ伏した。


(駄目だ……。そう言えば、美実姉さんって思い込んだら一直線な所があって、美子姉さん並みに頑固な所があったっけ……)
 もう打つ手無しの気分で美幸がそのままでいると、何を思ったか、隣で美実が淡々と話し出した。


「お互いの家族の話、時々していたじゃない?」
「え? ……ああ。それが?」
 唐突な話題の転換に、淳が戸惑いながらも応じると、美実は軽く頷いて話を続けた。


「休み毎に旅館の手伝いをさせられて、面倒だし力仕事ばっかりさせられるのが嫌で、東京に出て来たって言ってたでしょう?」
「そうだな」
「婿養子のお父さんはちょっと気が弱くて優柔不断で苛々する事があるとか、女将のお母さんは気が強くて万事押し付けがましくてウザいとか、しっかり者のお姉さんは忙しい両親の代わりに淳の面倒を見ていて口うるさいとか、色々文句は言ってたけど、一度も家族の事を嫌いだって言った事は無いわ」
 そう断言した美実に、淳はちょっと自信なさげな表情になった。


「……そうだったか?」
「ええ、そうなの。口では色々悪態を吐いてても、本気で家族を嫌いになったりしない所は、結構素敵だと思うもの」
 そこで美実は小さく笑ってから、話を続けた。


「勿論、淳の性格的に客商売なんか無理だと思うから、東京に出て来たのは正解だと思うわ」
「そうだな。客に頭を下げるのは、高校までで一生分やった筈だ」
「だからと言って私を理由に、あっさり家族を切り捨てて良い筈は無いわ。私は淳の話を聞いて、楽しそうだなって思ってたし」
「実家の話がか?」
「ええ」
 急に真剣な口調になって訴えてきた彼女に、淳が若干困惑しながら尋ねる。それに頷いてから、美実が話を続けた。


「賑やかそうだなって。家族だけじゃなくて、昔からの従業員の人達とのやり取りとかも聞いて、淳がすぐ他人と仲良くなれる、社交的な人間になった理由が良く分かったもの」
「それは確かに、子供の頃から大勢の大人に囲まれていた事が、影響しているかもしれないが」
「私、こだわりが強いって言うか、人に合わせるのが苦手だから、元々交友範囲が狭いもの。だから淳のそう言う所も好きだし、もし結婚したら淳の実家の人達と、仲良く賑やかに交流できたら良いなって思ってたし……」
 そこで言葉を濁した美実を見て、美幸は(それじゃあ笑いものにされたりしたら、怖気づいたり嫌になるよね)と納得し、彼女の育った環境を知っていた淳は、微妙に顔を歪めて謝罪した。


「藤宮家は家族が多いし、父方母方共に親戚付き合いが良好だしな。俺の母親が、狭量な人間で悪かった」
「別に、お母さんに対して文句を言ってるわけじゃないから」
 また話を蒸し返されて、美実は困った様な表情になったが、ここで淳が冷静に問いかけた。


「話は変わるが……、最近見合いをしたんだよな?」
「……そうだけど」
 若干後ろめたそうに視線を逸らした姉を見て、美幸は慌てて会話に割り込んだ。


「あの、ええと、それはですね! 漏れ聞く所では、何やら断りにくい筋からの話だったみたいで!」
 血相を変えて美実を擁護しようとした美幸を見て、淳は思わず苦笑気味に宥める。
「うん、それは秀明から聞いて分かってるから。気を遣わせて悪いね、美幸ちゃん」
「……いえ」
 どうやら事情は知っているらしいと安堵して、美幸が安心して口を噤むと同時に、淳は淡々と問いを重ねた。


「別に嫌味を言っているわけでは無いんだが、美実はこれからも他の奴と見合いをしたり付き合ったりする気はあるか?」
 その質問に、美実は真面目に考え込みながら答えた。
「別に、そういう事は……、取り立てて考えてはいないけど……」
「それなら、お袋の様な身内を持ってる俺に、愛想が尽きたか?」
「良い年の親の事まで、一々責任は負わなくて良いでしょう? 寧ろそれであっさり切り捨てる様な人間の方が、嫌なんだけど」
「じゃあ現時点で、俺の事はどう思ってる?」
「好きだけど?」
 美実があまりにもさらっと答えた為、淳は眉根を寄せて再度尋ねた。


「……友人としてか?」
 それに美実は、変わらず真顔で答える。
「一人の男性としてだけど。見た目は良いし、頭の回転は早いし、皮肉屋だけど陰険じゃないし、八方美人っぽいけどそれは人好きするって事だろうし、体格が良くて腕が立つから安心だし、力仕事を任せられるし。これで子供が並みに育ったら、私の遺伝子のせいじゃない? 頑張って育てないとね」
「…………」
 そんな事を気負う事無く言い切って、一人でうんうんと頷いている美実を見て、淳は驚いた様に瞬きし、美幸も唖然として黙り込んだ。そして会話が途切れた事を不審に思った美実が、不思議そうに問いかける。


「ねえ、どうして二人とも黙ってるの?」
 すると美幸が美実の肩を掴みながら、盛大に訴えてきた。
「そこまではっきり言い切っちゃうなら、お願いだからさっさとくっついてよ! もう周りの迷惑って言うか、公害レベルだと思う!」
 その訴えに、美実はムキになって反論する。


「仕方が無いでしょ! 淳との結婚観とか価値観とかが違い過ぎるんだもの!」
「そんな物は結婚してから、摺り合わせいけば良いじゃないのよ! 案ずるより産むが易しって言うし。もう、今の美実姉さんの状況に、ピッタリの言葉だと思うんだけど!?」
「あんたは他人事だと思って、また好き勝手な事を!」
「だって本当の事じゃない! 小早川さん、そうですよね?」
「……え?」
 当事者の一人に意見を求めた美幸だったが、何故か相手は当惑した様に見返してきた。その反応に少し驚きながら、美幸が確認を入れる。


「あの……、ひょっとして今の話、聞いてませんでした?」
「あ、ああ……、悪い。ちょっと驚いたのと嬉しくて」
「はい? 何がですか?」
 意味が分からず首を傾げた美幸に、淳は片手で口元を押さえながら、ボソボソと弁解してきた。


「その……、美実から真顔でそこまで誉められたのが。話のついでに言われたりとか、茶化す風に言われた様な事はあったが、面と向かってそういうのは……」
「……そうだったかしら?」
 そこで思わず考え込んだ美実に向かって、今度は淳が真顔で断言する。


「ああ。俺も一言言わせて貰えば、変に媚びたり周囲に流されないで、自分の意見を持ってるお前は立派だと思うし、交友範囲が狭いって言うのも、広く浅くじゃなくて良く相手を観察して厳選してるって事だろうし、何事にも真面目に取り組む姿勢は魅力的だと思うぞ? 俺は寧ろ、子供は俺より美実の方に似た方が良いと思う」
「……ありがとう」
 そして微妙に淳から視線を逸らしながら、言葉少なに美実が礼の言葉を口にしてから、二人は再び俯いて押し黙った。その二人が醸し出す空気と、表情を目の当たりにした美幸は、完全に呆れかえる。


(何? この二人、まさかこの状況で照れてるの!? 六年以上付き合って、やる事やって子供までできてるのに、何やってんのよ!!)
 美幸の心境は「もう知らない、勝手にして!」的な物であったが、これ以上美幸が口を挟む必要は無く、何やら決意した様な顔つきの淳が、徐に口を開いた。


「よし……、分かった。取り敢えず結婚云々の話は、一旦棚上げする」
「小早川さん!?」
「その代わり藤宮家側には、俺が美実の子供の父親だと認めて貰いたい」
「え?」
 思わず悲鳴じみた声を上げた美幸だったが、淳の申し出を聞いて、恐る恐るその真意を問いただした。


「あの……、それってちょっと変な話じゃありません? 普通認知して欲しいって訴えるのは、母親側だと思うんですけど……」
 その指摘に、淳は尤もだと言わんばかりの表情で頷く。


「勿論、出産までに入籍できなかったら、きちんと認知する。だけど俺が言っているのは戸籍上の問題じゃなくて、認識上の事なんだ。法律上は父親となっても、今の状態だったら藤宮家、特に美子さんの意識では、単にそれだけの赤の他人だ」
(と言うか、小早川さんを目の敵にしてるのって、家では美子姉さんだけだよね?)
 思わず遠い目をしてしまった美幸だったが、淳の訴えを聞いた美実は真剣な顔付きで考え、すぐに了承した。


「淳の気持ちは分かったわ。私もできればすっきりとした気持ちで出産したいし、お父さんと美子姉さんにこれ以上不愉快な思いをさせたくは無いもの」
(何か益々、話がややこしくなってきた気がするのは気のせいかしら?)
 話がスムーズに進んでいる様で、益々迷走してきた予感を覚えた美幸だったが、その予感は不幸にも的中した。


「それじゃあ、淳。お父さんや美子姉さんに対して、淳が子供の父親としてどれだけ相応しいか、それから子供に対してどんな責任を負って、どう果たすつもりなのかを、きちんと示して欲しいんだけど。それで二人が満足したら、私と結婚しなくても淳を家族の一員と認めてくれると思うわ」
 その提案に、淳は少し考えてから、冷静に確認を入れた。


「要するに、子供の父親としてのプレゼンみたいなものか」
「そう言う事ね」
「確かにその通りだな。それなら俺は、何をどう証明すれば良い?」
「それは淳が考えて」
「え?」
「そんな無茶苦茶な! 美実姉さん、無茶振り過ぎるわよ!! まず方法を考えて、それを認めて貰った上で、きちんと遂行しなくちゃいけないって事でしょう!?」
「だって、そんな事今まで考えていなかったから、自分でもどうすれば良いのか、良く分からないんだもの」
 まさかの丸投げ状態に淳は呆然となったが、美幸は慌てて美実を非難した。それに美実が困った様に弁解していると、淳が押し殺した声で了承の返事をしてくる。


「……分かった」
「小早川さん!?」
 慌てて美幸は淳に視線を向けたが、彼は淡々と話を進めた。


「条件を飲もう。まずは俺から、藤宮家と子供に対する誠意を示す方法を、提示すれば良いんだな?」
「ええ。それで美子姉さん達が納得したら、それをきちんとやり遂げるか、その計画とかを示して欲しいの」
「それじゃあ、期限は?」
「私の出産予定日までに、諸々をきちんと終わらせるって言うのは?」
「十分だ。美子さんにもそう伝えてくれ」
「そうするわ」
 美実とすこぶる冷静に話を纏めた淳は、そこでテーブルに有った伝票を取り上げて立ち上がった。


「じゃあ、俺は先に行く。支払いはしていくから、二人はゆっくりしていってくれ」
「あ、あの……、御馳走様です」
 かなり恐縮して頭を下げた美幸に軽く笑いかけて、淳はそのまま会計を済ませて店を出て行った。その間、静かに座っていた美実に、美幸が心配そうに囁く。


「美実姉さん。本当にあれで良かったの?」
 それに美実は、小さく笑いながら頷いた。
「ええ。気まずい思いをさせちゃったわね。そのケーキセットは淳の奢りだけど、他に食べたい物があったら私が奢るわよ?」
「本当? それならもう一回、ケーキセットお願い」
「ええ。どれにする? 私も一緒に頼むわ」
 そして緊迫感溢れる会談が終了した事で、それから二人はリラックスしてケーキを味わってから帰路に就いた。




 その日の夜。台所の片付け等が終わった時間を見計らって、美実は美子夫婦の部屋のドアをノックした。
「美子姉さん、入っても良い?」
「ええ、構わないわよ?」
 そして部屋に入ると、椅子に座って何やら話していたらしい義兄の姿を認めた美実は、慌てて頭を下げる。


「お義兄さん、お邪魔してすみません」
「気にしないで良いから。それより、美子に話があるんだろう? 俺は席を外そうか?」
「いえ、できればお義兄さんも一緒に、話を聞いて欲しいんです」
「そうなんだ。今は二人とも暇だし、遠慮無くどうぞ」
 そして秀明が立ち上がり、座っていた椅子を勧められた美実は、恐縮しながらそれに座って美子と相対した。


「ええと……、それでは、ですね。美子姉さんから、未だに接触禁止令が出ているのは重々承知の上で、今日、ある所で淳と会って来たんですが……」
「あら、そう……」
 ビクビクしながら話を切り出した美実だったが、美子は頭ごなしに叱り付けるわけでも無く、言葉少なに応じた。しかしそれで逆に不気味さを感じてしまった美実は、かなり萎縮しながら話を続ける。


「その……、一応、美幸も一緒に行ったので、和気藹々とした会話をしてきたわけでは無くて、寧ろ、どちらかと言えば、殺伐とした会話だったのでは無いかと……」
「御託は良いから、さっさと本題に入りなさい」
「はっ、はいっ!」
 ピシッと命令され、美実は慌てて手短に淳とのやり取りを語って聞かせた。そして話し終えてから、恐る恐る美子の顔色を窺う。


「ええと……、以上です」
「良く分かったわ。あなた。小早川さんに了承したと伝えて頂戴」
「良いの?」
「良いのか?」
 あっさりと了承した美子に、秀明は勿論、美実も意外に思って問い返したが、美子は無表情のまま素っ気なく言い放った。
「ええ。どんな内容を考えてくるか楽しみね。美実、話が済んだならもう良いわよ?」
「う、うん。失礼します」
 まだ少し動揺しながら美実が部屋を出て行くと、秀明が溜め息を吐いて感想を述べた。


「これはまた……、美実ちゃんも随分面倒な課題を出したものだな」
「私に言わせれば、それ位当然よ」
「因みに、お前だったらどんな事をしたり、どんな内容を提示したら納得するんだ?」
「…………」
 さり気なく秀明が問い掛けた途端、美子は夫を冷たい目で睨んだ。それを見た秀明が、苦笑いで応じる。


「ちょっと聞いてみただけだろう、そう睨むな。淳に情報を流すつもりも無いし」
「そういう事にしておいてあげるわ」
「本当に信用が無いな」
「今更な事を言わないで」
 何かする事を思い出したらしく、若干不愉快そうな顔で立ち上がって歩き出した彼女の背中に、秀明が何気なく声をかけた。


「美子」
「何?」
「どんな内容を考えてやらせても、最後に不満だからと拒否すれば良いだけの話だとか、考えてはいないよな?」
「あなたじゃあるまいし、どんな性格破綻者よ。一応ちゃんと正当に評価はしてあげるわ」
「……そうか」
 正直、どうだろうかと思った秀明だったが、ここでわざわざ口にしたら怒られるのは確実な為、無言で部屋を出て行く彼女を見送った。すると何やらスラックスを引っ張られているのが分かった秀明は、足元を見下ろしながら娘に声をかける。


「美樹、どうした?」
 すると、父親のスラックスをくいくいと引いていた美樹は、その手を離して見上げながら尋ねてきた。
「あっちゃん、ぷち?」
 その問いかけの意味が分からず、秀明は困惑顔で尋ね返す。


「美樹? 『ぷち』って何だ? 淳は小さくは無いぞ? 萎縮して小さくなったりもしていないし」
「がけっぷち」
「………………そうだな。色々な意味で崖っぷちで、踏ん張りどころだな」
 娘の口から唐突に出て来た言葉を聞いて、秀明は一気に疲労感を覚え、深い溜め息を吐いたのだった。 



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