裏腹なリアリスト

篠原皐月

第23話 美幸の受難

 帰宅する為に校門を出たところまでは、美幸の日常風景そのものだったのだが、その日、友人に腕を軽く引かれた瞬間、彼女に厄介事が降りかかった。


「ねえ美幸。ちょっと、あの人」
「何? あの人って……」
 そして友人が指で示した方向に目を向けた美幸は、通りの向こう側に佇んでいる淳を見付けて軽く顔を引き攣らせた。そして同行している友人達に、断りを入れる。
「……ごめん、あんみつはまた今度ね」
 既に一度、淳を目にしている美幸の友人達は、気分を害した様子も無く、あっさりと美幸を解放してくれた。


「了解」
「あんたも色々大変そうね」
「美幸、今度はあのイケメンとの関係を、ちゃんと教えてよ?」
「だ~か~ら~! 三番目の姉の元カレだって、この前教えたじゃない!」
 幾分ムキになって言い返した美幸だったが、友人達はからかう気満々で口々に言い合う。


「そのお姉さんの元カレが、どうして美幸に会いに来るのよ?」
「ひょっとしてお姉さんの元カレで、今は美幸の彼とか?」
「うっわ! ドロドロの略奪愛!? 美幸ったら、意外に鬼ね~」
「ちっがーう! 誤解を招く発言は止めてよね!?」
 血相を変えて叫んだ美幸に、周りは苦笑いしながら歩き出した。


「冗談よ、冗談」
「今度、本当のところを教えてね?」
「楽しみにしてるわ」
「だからこの前、正直に話したから!」
 その美幸の訴えにも、彼女達は軽く手を振って応じたのみで、美幸は本気で頭を抱えたくなった。


(全くもう! 洒落にならないし、見当違いな事ばかり好き勝手に言ってるんだから!)
 からかわれていると分かってはいたものの、美幸はうんざりしながら道路を横切り、この間様子を窺っていた淳の元に向かった。
「お久しぶりです、小早川さん」
 ここに来るまでに平常心を取り戻し、いつもの表情で挨拶した美幸だったが、そんな彼女を見て、淳が申し訳なさそうに言い出す。


「ごめん……。また待ち伏せしたりして。それに、何だか俺の方を見ながらお友達と揉めていたみたいだし、美幸ちゃんに変な噂が立ったりしないと良いんだが……」
 淳が神妙にそんな事を言い出した為、美幸は明るく笑って手を振った。


「そんな心配は無用ですから! それにもし万が一、校内で私に『姉の元カレを奪って略奪愛まっしぐら』なんて不名誉な噂が立ったとしても、名誉毀損で訴えてやるだけの話ですし」
「その時は無報酬で美幸ちゃんの代理人になって、相手が単独だろうが集団だろうが必ず全面的な謝罪と十分な慰謝料をもぎ取ってみせるから、安心してくれ」
「……どうも」
 にこりともせず、真顔で力強く言い切った淳に、美幸は先程とは別の意味で頭痛を覚えた。


(失敗した……。なんか小早川さんの表情が暗いから、笑い話にして空気を変えようと思ったのに。どう見ても目がマジだわ)
 しかし何とか気を取り直し、美幸は目の前の相手を促した。


「ええと……、取り敢えず駅まで歩きながら話しませんか?」
「そうだね」
 そうして駅まで並んで歩き出しながら、美幸は早速切り出してみる。


「それで……、当然小早川さんは、美実姉さんに関する話があるんじゃないかと思うんですが……」
「あ、ああ……、うん。そうなんだが。その……、最近、美実はどうなんだろうか?」
「どう、と仰いますと?」
「最近、急に寒くなってきたから体調が心配だし、それ以上に、先月俺の両親がお宅に押し掛けただけでなく、美実と美子さんに暴言を吐いているし」
「小早川さんは、ご両親から詳しい事を聞いているんですか?」
 美幸は質問に直接答えず、慎重に問い返したが、淳は気を悪くした風情は見せず、軽く頷いてから話を続けた。


「詳細までは聞いていないが、お袋のあの口振りでは、美実の仕事に関して相当色々言ったらしいと分かるし、あいつが気に病んでいないかと思って。妊娠中だし、精神的にも不安定になってるんじゃないかと、心配になったものだから……」
 そんな淳の懸念を理解した美幸は、力強く頷いてみせた。


「私も揉めた時の詳細については知りませんが、取り敢えず美実姉さんは元気に過ごしていますから、安心して下さい」
「本当に?」
「はい。ついこの前もお見合い相手と意気投合して、その直後の小野塚さんのゲイのお友達の誕生パーティーに一緒に出向いたんですが、『すっごいネタの宝庫だったわ! 今度は小野塚さんと一緒に、新宿二丁目に突撃よ!!』ってウッキウキで帰って来ましたし」
 美幸が笑顔で報告したが、淳は瞬時に顔色を変えた。


「ちょっと待った! あいつ妊娠中なのに、どこに行く気なんだ!?」
「小野塚さんが行きつけの、ゲイバーだそうです」
「はぁ!? 美実の奴、正気か?」
「私もそう思ったんですが、小野塚さんの話では、ノンアルコールのカクテルも幅広く揃えているから心配要らないそうです。『またネタを拾ってくるわ!』って美実姉さんがノリノリで、さすがにお父さんとお義兄さんは渋い顔をしてますが、『小野塚さんが一緒なら心配要らないでしょうし、気分転換に行ってらっしゃい』って美子姉さんが勧めてまして」
「美子さん公認か……」
「はい。最近は仕事もすこぶる順調みたいで、正に『水を得た魚』みたいな感じです」
「……そうか」
 正直に報告した美幸だったが、ここで淳の表情が先程よりも沈鬱な物になっている事に、漸く気が付いた。


「ええと、その……。すみません。美実姉さんに関しては心配要らないって事を、サクッと簡潔に説明してみたつもりだったんですが……。ひょっとして、サクッと心に刺さっちゃたりしました?」
「いや、大丈夫だから気にしないでくれ。美幸ちゃんに悪気は無いのは分かっているし」
 そう言って力無く微笑んだ淳を見て、美幸は心の中で反省した。


(そう言われても……、笑顔が黄昏てるし。却って悪い事しちゃったわ。どうしよう……)
 そこで、ふと疑問を覚えた美幸は、そのまま口にしてみた。
「そういえば、驚かないんですね? お見合いの事」
 それに淳は平然と答える。


「ああ。秀明から聞いた。少し前に、あいつがプチ家出をしたのは知ってるかな?」
「話だけは。翌朝、お義兄さんが戻って来てから話を聞いて、美野姉さんと一緒に震え上がりました」
「その家出先が、俺のマンションでね。あいつ、夜に突然押し掛けて来やがったんだ」
「その時に聞いたんですか……。どこに行っていたかまでは聞かなかったので、ホテルにでも一泊したのかと思ってました。そうすると一応小早川さんとお義兄さんは、今でも直接連絡は取り合っていないんですね?」
「ああ。秀明が美子さんの指示を拒む筈は無いさ。この前は例外中の例外だ」
「はぁ……」
 義兄の長姉への服従っぷりをきっぱりと断言され、美幸はどうコメントすべきか本気で悩んだ。その様子を見た淳が、この際美幸の意見を聞いてみようと考え、問いを発する。


「美幸ちゃんは、美実の見合い相手の小野塚って男に、直接会った事がある?」
「はい。美実姉さんを迎えに来たり、送って来た時にチラッと顔を合わせて、挨拶をした程度ですが」
「そいつの事をどう思う?」
「どう、と言われても……」
 途端に美幸は困った顔になり、やはり美子が勧めている相手に関して否定的な事を言えないか、元カレの立場である自分には言いにくいのかと淳は考えたが、その予測は微妙に外れた。


「何となく……、不思議な感じなんですよね」
「どんな所が?」
「どんな所と言われても……。見た目は平々凡々で、優しげな感じなんですよ。これまで接した限りでは、実際に穏やかな物言いで、気配りのできる方だと思うんですが、何となく違和感とは違う威圧感……、じゃなくて、緊張感……、でもないか。うぅ~ん、とにかく上手く表現できませんが、小野塚さんから感じる空気が、ピリピリと言うかチクチクと言うか、微妙に警戒感が拭えないんですよね。でもこの手の事には敏感な筈の美子姉さんが何も言わないし、どうなのかしら?」
 戸惑いながらも自分の意見を述べ、本気で首を傾げて困惑している美幸を見て、淳は思わず少しだけ救われた気持ちになった。


(美子さんは自分や家族に不利益や危害を加えそうな人間には結構警戒心が働くが、それ以外では無防備って事なのかもな。あいつは確かに藤宮家に対して敵対行為をするつもりはなさそうだし、納得と言えば納得だが。一般的な危険人物の判別能力は、美幸ちゃんの方が上かもしれないな)
 取り敢えず秀明と美幸が盲目的に小野塚を信用していないなら、何とかなるかもしれないと安堵していると、美幸が話を進めてきた。


「それで……、小早川さんは、また美実姉さんと話があるんですよね?」
 そう話しかけられて、淳は慌てて彼女に意識を向ける。
「できれば、また骨を折ってくれたら助かる。この前の事もお袋から話は聞いたが、美実には美実の言い分もあるかと思うから、直に本人の口から詳細を聞きたくて。それと、小野塚と言う男の事についてもだが」
「そうですか……」
 途端に美幸は先程以上に難しい顔になり、歩きながら考え込んでしまった。


(正直、とても穏やかに進むとは思えない話題……。でも小早川さん、相当切羽詰まってる感じだし、ここで突っぱねるのは気の毒過ぎるもの。それに小早川さんのご両親と美子姉さんがどんな揉め方をしたのか、皆の口が固くて未だに知らないし。それを知るチャンスよね?)
 最後はちょっとした好奇心に負けて、美幸は条件付きで応じた。


「その……、会える事になった場合、また私が同席しても構いませんか?」
「勿論、構わない」
「分かりました。また美子姉さんにバレないように、美実姉さんに頼んでみます。また暫く小早川さんの番号やアドレスは、応答可能にしておきますので」
「ありがとう、助かるよ」
 同席を願い出るのは想定内だったらしく、淳が即座に頷いた為、美幸は安心して話を進めた。対する淳も明らかに安堵した顔付きで彼女の言葉に頷き、駅で笑顔で別れて歩き出した。


「よし。頑張ろうっと」
 彼の背中を見送った美幸は、一人になってからどう話を進めたものかと真剣に考え始め、帰宅までには粗方の方針を決めた。そして思い立ったが吉日とばかりに、夕食を食べ終えた直後に、美実の部屋に押し掛けた。


「美実姉さん、入って良い?」
「美幸? 良いわよ。何?」
 気安く応じてくれた美実に感謝しながら部屋に入った美幸は、姉の顔色を窺いながら慎重に口を開いた。


「その……、美実姉さん、最近小野塚さんと出かけたり、電話やメールのやり取りしてるよね?」
「そうだけど。それが何か?」
「別に、それについてどうこう言うつもりじゃ無いんだけど……。美実姉さんは、小野塚さんと結婚するつもりなのかな~って」
 控え目にそう尋ねると、美実は困惑した顔付きになった。


「別に今の時点でそこまでは……。向こうだって『まずお友達から始めましょう』って言ってるし。結構気が合って博識な友達って感じだけど?」
「……そういう台詞って、遠回しのお断り台詞か、ステップアップ前提の台詞か、どっちかだよね。どっちなんだろう?」
「美幸。一人で何をブツブツ言ってるの?」
「ううん、何でもないから」
 小声で自問自答した美幸は、ここで密かに気合いを入れて本題を切り出した。


「それなら美実姉さんの口から、それを小早川さんに言ってあげてよ」
「どうしてここに淳が出てくるわけ?」
 急に淳の名前が出てきた事に美実は面食らったが、美幸は真剣に話を続けた。


「秀明義兄さん経由で、小野塚さんの事が小早川さんの耳に入ってるのよ」
「そうなの……」
「それにこの前ご両親が家に押しかけて、美実姉さんに暴言を吐いたから気に病んでないかって心配してるし」
「別に気にしてはいないけど……」
「直に美実姉さんの言い分とかも聞きたいし、小野塚さんの事を含めて他にも話したい事があるみたいだから」
「……そう」
「美実姉さんが構わないなら、会って話をする時に、また私が同席するけど……。どうする?」
 言いたい事をたたみかける様にして言い切ってから、美幸が姉の様子を窺うと、美実は少し考え込んでから、落ち着き払って答えた。


「そうね……。会おうかしら」
「ええと、本当に良い? それなら小早川さんと予定をすり合わせて、日時を決めるけど」
 慎重に確認を入れた美幸に、美実は苦笑いしながら詫びを入れる。


「お願い。美幸に任せるわ。ごめんね? 面倒くさい上に、つまらない話を聞かせる事になって」
「そんな事気にしないで! それじゃあ、早めに調整して教えるから」
「うん、宜しく」
 思ったよりすんなりと了解して貰った為、美幸が笑顔になって部屋を出て行ってから、美実は机の引き出しを開けながら小さく呟いた。


「うん、ちょうど良かったかも。合鍵の件もあるし。しっかりしないとね」
 一方の美幸は美実の部屋を出た途端、小さくガッツポーズをし、意気揚々と自室に向かって歩きだそうとしたが、ここで背後から声をかけられた。


「よっし! 第一関門突破! ここで断固拒否されたら、話が進まないものね! 幸先良いわ~」
「何が進まないのかしら?」
「何がって、それはもち、げっ!?」
 振り返った先に、無表情で佇む美子の姿を認めた美幸は、叫び声は上げなかったものの、盛大に顔を引き攣らせた。そんな妹の様子を見た美子は、軽く眉根を寄せて言い返す。


「美幸。化け物でも見た様な反応をしないでくれるかしら?」
「いえいえ、化け物だなんて滅相も」
「ちょっとこっちに来なさい」
「……はい」
 口答えなど許される筈もなく、美幸は大人しく姉の後に付いて歩き出した。


「それで?」
「あの……、美子姉さん? いきなり『それで?』と言われても、何が何やら」
 姉夫婦の部屋に入り、カーペットに向かい合わせで正座した途端、短く問われてた美幸は、最初愛想笑いをしながら惚けようとしたが、美子は容赦なかった。


「美実と、部屋でこそこそと話していた内容よ。夕飯の時からあの子の方を見ながらそわそわしていた癖に、私の気のせいとか、ふざけた事は言わないわよね? もう高三なんだし、そんな事を口走ったらどうなるか、あくまでしらを切り通したらどうなるか位、見当を付けて欲しいんだけど」
「…………」
 淡々と追及された美幸は冷や汗を流し、咄嗟に室内の机で仕事中だったらしい秀明に無言で助けを求めたが、仕事を中断してマグカップ片手に美子達の様子を眺めていた彼は、幾分申し訳無さそうな表情になって美幸から視線を逸らした。


(お義兄さん……。本当に通常運転なら、美子姉さんに逆らわないんですね……)
「さっさと白状しなさい」
「……お話しします」
 自分が孤立無援なのを理解した美幸は、再度姉に迫られて洗いざらい白状した。


「……と言うわけなんですが」
「…………」
 淳とのやり取りに始まり、美実との話の一部始終を語った美幸は、慎重に美子の様子を窺ったが、彼女は微動だにせず、しかめっ面をしながら黙りこくっていた。


(怖い! この沈黙が怖過ぎる! お義兄さん、ヘルプミー!)
 気まずい沈黙に耐えきれず、美幸が目線で秀明に助けを求めると、今度はさすがに不憫に思ったのか、助け舟を出してきた。


「美子。取り敢えず話はさせても構わないだろう。美幸ちゃんも同席するし、土日なら俺もこっそり付いて行くから。何だったらお前も行くか?」
(お義兄さん、口添えはありがたいんですが、事態が余計に混乱しそうなんですが!?)
 賛同してくれた事には安堵したものの、益々面倒くさくなりそうな提案を聞いて、美幸は内心で狼狽した。しかし予想に反して、美子が冷静に反論してくる。


「私やあなたまで、出向くには及ばないでしょう。美幸、あなたが責任を持って、美実を連れ帰って来れば良いわ」
「良いの!?」
 本気で驚いた美幸だったが、美子は落ち着き払って答えた。


「ええ。ただ私達が知っている事は、あの子達には内緒にしておきなさい。無条件に連絡を取るのを、許したわけでは無いしね。それから詳細について、後から報告して貰うからそのつもりで」
「了解しました」
(取り敢えず良かった……。仲介した事を怒られなくって)
 そんな緊張感溢れる会話が取り敢えず終了した事で、安堵した美幸が何気なく周囲に目をやると、部屋の隅のおもちゃ箱から、美樹が何やらブツブツ言いながらぬいぐるみを取り出しているのに気が付いた。


「……みーちゃん、……、これ、あっちゃん、……と、まーちゃん、うん、できた」
 国民的キャラクターのウサギとクマとトラのぬいぐるみを三角形に並べ、満足そうに頷いている美樹を見て美幸は首を捻ったが、それは美子も同様だったらしく、娘に訝しげな声をかけた。


「美樹。さっきからそれで、何をしているの? 美実がどうかしたの?」
「これ、みーちゃん。これ、あっちゃん。これ、まーちゃん」
 振り返って母親に向かって一つずつ指さしながら説明した美樹だったが、まだ分からない内容について、美子が尋ねた。


「『まーちゃん』って誰?」
「かずま」
「『かずま』って……。もしかして、小野塚さんの事?」
「うん」
「それで? このぬいぐるみを三人に見立てて、遊んでいたの?」
「うん。しゅらば」
「…………」
 邪気の無い笑顔を振りまきながら美樹がそう口にした途端、室内が静まり返った。そしてニコニコしている美樹から夫と妹に視線を移した美子は、断定口調で二人を責める。


「美幸、あなた。二人とも、小さな子供に何て言葉を教えてるのよ。もう少し考えて頂戴」
「ちょっと待て、美子。俺は無実だ」
「私だって教えて無いから! どうして断定口調なの!?」
 幾分狼狽しながら二人が弁解したが、美子はそれを一刀両断した。


「だってお父さんや美野が教える筈無いじゃない。家族の中での信頼度の低い順番よ」
「酷っ!! と言うか、私はともかく、お義兄さんが下から二番目ってどうなの!?」
「私から見たら当然だもの」
「何か最近美子姉さんの、お義兄さんに対する態度が酷いと思う!」
「美幸ちゃん、良いから」
「だけどお義兄さん!」
 抗議する美幸を秀明が苦笑しながら宥めていると、大人達の会話を不思議そうに眺めていた美樹が、立て続けに言い出した。


「しゅらば、どろどろ、ふりん、ふたまた、せくはら、ひるどら、みーちゃん」
 そして再び部屋が静まり返る中、美子がボソッと呟く。
「……なるほど、良く分かったわ」
 それからゆっくりと立ち上がった美子は、無言のまま部屋を出て行った。そして少ししてから、廊下の向こうから彼女の怒声が伝わってくる。


「美実!! あなた小さな子供と一緒に、どんなテレビを見てるの!? 少しは考えなさい!!」
「え、ええぇ!? ちょっと待って! いきなり何!?」
 それを聞いた秀明は、溜め息を吐いて娘を見下ろした。


「美樹。たくさん覚えているのは凄いが、今言った言葉はあまり口に出さない様にしろ」
「ダメ? しゃべるの」
「大きくなったら良い」
「うん」
 美樹が素直に頷き、ぬいぐるみを手にして遊びだした為、秀明は美幸に向き直って、美子の代わりに詫びを入れた。


「疑ってしまって悪かったね」
「いえ、お義兄さんが謝る事じゃありませんから」
「えいっ! やあ! とうっ! ほりゃっ!」
 何やら勇ましい声が聞こえてきた為、二人がそちらに顔を向けると、美樹が淳と和真に見立てたぬいぐるみを両手に持ち、互いに攻撃しているつもりなのか、掛け声に合わせてぶつけていた。


「美樹……。そういう遊びも止めろ」
「ダメ? これも?」
 うんざりしながら秀明が窘めると、美樹がキョトンとした顔で父親を見上げる。それを見た美幸が、思わず頭を抱えた。


(この先、本当にどうにかなるのかしら?)
 かなり不安で一杯になりながらも、美幸は早速予定をすり合わせる為に、自室に戻って淳と連絡を取り始めたのだった。




「部長補佐、駿台興業についての報告書です」
「今、目を通すから、少し待っていてくれ」
「分かりました」
 桜査警公社で残業中だった和真の下に、部下の一人がやって来た。彼が提出した報告書に目を通した和真は、満足そうに頷いて話題を変える。


「ご苦労だった。それで、頼んでいた別件の方はどうなった?」
「旅館の方は、滞り無く仕込みを進めております」
「計画通りなら、そのまま進めてくれ。全面的に任せる」
「はい。それから報告が遅れて申し訳ありません。男の方ですが、即座に女を叩き出しまして。加えて翌日には仕掛けておいた物が発見されて、全て機能不全になりました」
 幾分残念そうに報告してきた彼を、和真は苦笑いしながら宥める。


「奴が底なしの馬鹿ではなかったと言う事だな。尤もこれ位であっさり引っ掛かるようなら、叩き潰すまでも無いだろう。こっちは通常業務の片手間にやって貰っているから、数日報告が遅れても構わない」
「恐縮です。それで部長補佐、今後はどうしましょう。再度仕掛けますか?」
「いや、同じ手は二度と食わないだろうし、鍵の取り換え位はするだろう。別の手を考える」
「そうですか……」
 淡々と答える和真に相槌を打った部下は、口を閉ざして物言いたげな表情になった。それを見た和真が、不思議そうに尋ねる。


「どうかしたのか?」
「その……、部長補佐が随分楽しそうなので」
「ああ、楽しいさ。最近楽しくて仕方が無い。ご苦労だった。もう帰って良いぞ」
「はい、お疲れ様でした」
 下がる許可を貰って一礼した彼は、和真に背を向けて歩き出しながら、上司の遊び道具と化している人物に対して、心から同情したのだった。





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