裏腹なリアリスト

篠原皐月

第17話 不幸と不運が増殖中

 その翌週の日曜日。秀明と美実以外の、美子の厳命を受けた家人が皆出払っていた藤宮邸に、秀明の後輩が二人尋ねて来た。
 玄関先で軽く挨拶した後、居間に通して向かい合って座ったところで、秀明が互いを紹介し始める。


「こちらに座っているのが、妻の二番目の妹の美実ちゃんだ。美実ちゃん。向かって右側が榊隆也で、左側が葛西芳文だ。二人とも東成大時代の、サークルの後輩でね。俺と美子の結婚披露宴に出席しているから、ひょっとしたらその時に顔を合わせているかもしれないが」
 そう説明を受けた美実だったが、軽く首を振ってから改めて挨拶した。


「いえ、なんとなく見覚えがある気はしますが、直接顔を合わせるのは初めてです。榊さん、葛西さん、藤宮美実と申します。今日は宜しくお願いします」
「いえ、こちらこそお邪魔致します」
「存外に、先輩の可愛い義妹さんにお会いする事ができて、嬉しいです」
「まあ、お上手ですね」
 美実は楽しそうに笑ったが、かなり強引にここに呼びつけられた二人の心境は、穏やかなものとは言い難かった。


(先輩はどうして、俺達を呼びつけたんだ? 義妹さんに俺達を紹介する為か?)
(正直、女には不自由してないし、先輩の義妹なんて面倒な女に手を出すのは御免なんだが)
 集中力を切らさない為か、きちんとスーツを着込んで出向いた榊と、人好きする笑顔を浮かべた葛西は、見た目は相反する剛と柔の組み合わせではあったが、考えている内容はほぼ同じだった。そんな後輩達の不安と疑惑を増幅する様に、秀明が含み笑いで説明を付け足す。


「余談だが、美実ちゃんは少し前まで淳と付き合っていてな。……ちょっとした行き違いと見解の相違で、あいつと揉めて最近別れたんだが」
「……はぁ」
「そうでしたか」
 秀明からサラッと投下された爆弾の内容に、二人は盛大に顔を引き攣らせる。


(一体俺達に、どんなコメントを求めてるんだこの人は!?)
(小早川先輩の元カノ……。もう、手を出す出さない以前の問題だぞ)
 内心で戦々恐々としている二人に構う事無く、秀明は美実に向き直って説明を続けた。


「それで美実ちゃん。この二人の職業だが、隆也は警察のキャリア組で、三十そこそこで警視なんだ。今は某警察署の署長に就任している。何年か無事に務め上げたら警視庁に戻って、エリート街道まっしぐらだな」
「まあ! お義兄さん一押しの後輩さんだけあって、本当に将来有望なキャリアさんなんですね! 凄いわ!」
「いえ、それほどでも……」
 嬉々として感想を述べてきた美実に、何故か危険な物を感じた榊は曖昧に頷いた。すると今度は、秀明が葛西を指差しながら話を続ける。


「それから芳文の方は、東成大医学部付属病院の勤務医なんだが、近々独立開業する予定になっているんだ」
「そうなんですか? まだお若いのに、凄いですね! 因みにご専門は何ですか?」
「心療内科です。開業時には、一般内科も併設する予定ですが。ですが先輩。その話をどこから聞いたんですか?」
 訝しんだ葛西に対し、秀明はあっさりと煙に巻いた。


「偶々、風の噂を耳にしただけだ。細かい事を気にするな。それから……、何やら金払いの良い後援者を捕まえたらしいな」
「何も後ろ暗い所はありませんよ? 借入金はきちんと返済しますし」
「そうだな。お前なら大丈夫だろう」
 若干含む様な物言いに、僅かに不快感を覚えた葛西が眉根を寄せて秀明を凝視していると、軽く肘をつつかれて我に返った。そして何事かと榊に視線で尋ねると、相手は無言のまま視線で美実を示す。その視線を追った葛西は、すぐに彼の言いたい事を理解して、僅かに顔を強張らせた。


「ふ、ふふふ……。警察官僚が捜査対象者に抱いてしまった、道ならぬ想い。それを自覚してしまったが故の、苦悩と葛藤と理性の狭間……。それも良いけど、他人の心を切り裂いて苛む事を至上の喜びとするマッドサイエンティストが、自分に接触してきた捜査員に抱いてしまった狂気の愛……。一組で二度美味しいなんて、流石お義兄さん一押しペア。……そうよ。いっその事、お義兄さんに手ひどく振られて愛の放浪者になった淳と、この二人が三角関係に発展するっていう展開は? やだ、どうしよう。笑いが止まらない……」
「…………」
 秀明が生温かい笑みで見守る中、いつの間にか膝に乗せたノートに、何かを一心不乱に書き殴りながら「うふふ」とか「くふふ」とかの不気味な笑いを漏らしている美実を、榊と葛西は変な物を見る様な目つきで観察し、小声で囁き合った。


「おい、芳文。あの女、少し様子がおかしくないか?」
「先輩の義妹を『あの女呼ばわりするな』と言いたいところだが、激しく同感だ。不気味に笑いながら、何をノートに書いてるんだ?」
「さっきからブツブツ呟き続けてるし。何か犯罪者一歩手前と言うか、狂信者っぽいぞ?」
「確かに病んでる感じはするな」
 そこで完全に意見が一致した二人は、すぐに対処法について検討した。


「白鳥先輩の呼び出しを無視したら、ろくでもない事になると思って出向いて来たが、仮病や急用を思い出したって事にして、帰った方が良くは無いか?」
「賛成だ。さっきから悪寒がしてきたしな」
 そして決断も行動も早かった二人だが、それはある意味既に手遅れだった。


「先輩」
「申し訳ありませんが」
「そう言えば隆也。少し前からお前が居る玉上警察署管内で、連続放火事件が発生していたな」
「……それが何か?」
 急に話題が変わった事と、あっさり帰しては貰えない気配を感じ取った榊が緊張しながら応じると、秀明が如何にも気の毒そうに話を続ける。


「最初は空家やゴミの集積場などへの放火だったが、最近では居住している民家への放火も発生して、怪我人も出ているとか。夜もおちおち寝ていられない付近の住人の方々は、気が休まらないだろうな」
「それに関しては全署員一丸となって、事件解決に向けて取り組んでいます」
「そうだな。多摩川を挟んだ神奈川側でも同様の手口の事件が頻発していて、そこの管轄の新崎警察署と、合同捜査本部を設置する事になったんだったな。しかし、大変だろうなぁ……。昔から警視庁と神奈川県警の仲の悪さは有名だし」
 真顔で言い返したものの、何やら揶揄する口調で言われてしまった為、榊は語気強く反論した。


「そんな物は、俗説と与太話に過ぎません。事件を解決し、市民の安全を守る為に、管轄の垣根を越えて一致団結して取り組んでいます」
「そうか。それなら安心だ。まかり間違って手柄争いと足の引っ張り合いなど現場でされたら、捕まる犯人も取り逃がすというものだな」
「……何が仰りたいんですか?」
 徐々に苛つきながら、それでも表面上は穏やかに問い返した榊に向かって、秀明はここで全く悪びれない笑顔で提案してきた。


「最近、とある筋から、今話題に出た近辺での不審者情報を仕入れてな。俺の頼みを聞いてくれたら、お前に教えてやっても良いかと思って、ここまで出向いて貰ったんだが」
 それを聞いた榊は、明らかに顔付きを険しくしながら言い返した。
「先輩? 捜査に有効で有益な情報を警察に提供するのは、良識のある社会人としての義務だと思うのですが?」
 その指摘に、秀明は尤もらしく頷いてみせる。


「そうか。それなら新崎警察署に通報しても構わないよな? 所属が違っても一致団結して取り組んでいるわけだし」
「それは……」
 そこで榊は僅かに戸惑う素振りを見せたが、秀明はそんな彼に気がつかなかった振りをしながら、淡々と言葉を継いだ。


「無事に署長職を務め上げれば勿論問題は無いが、在任中にいがみ合ってる神奈川県警の鼻を明かす事ができたら、上層部の覚えが良くなって、本庁に戻る時に希望通りの椅子を用意して貰えたり、昇進に伴って色を付けて貰えるかと思ったが、素人考えだったな。万が一、神奈川県警に手柄を取られても、お前が冷や飯を食わされる羽目になる可能性が無くて良かった。安心したぞ」
「…………」
 薄笑いを浮かべてわざとらしく納得している秀明を見て、榊は無表情で黙り込む。その二人の反応を目の当たりにした美実は、心底感心した声を出した。


「うわぁ……。やっぱりお義兄さんのえげつなさは、他の追随を許さないわ……。そんな秀明義兄さんに《ドS鬼畜大王》の称号を、謹んで進呈します」
 そんな事を言われた秀明は、実に嬉しそうに美実に顔を向けた。
「ありがとう。学生時代に後輩達から貰った《氷結の大魔王》と、どっちがグレードが上かな?」
「そんな二つ名を、既に貰ってたんですか……。そっちの方が洗練されてますね。さすが東成大、侮れないわ……」
 しみじみと呟いて頷いている美実と、それを見て楽しそうに笑っている秀明を見て、榊と葛西は戦慄した。


「うわ……、本気で喜んでるぞ、この人」
「というか、なんつう会話だよ」
「ところで芳文。独立開業に向けて、頼りになるスポンサーを見つけたは良いが、それだけで経営が軌道に乗るわけでは無いだろう?」
 いきなりお鉢が回って来た事で、警戒度を最大限まで引き上げた葛西は、険しい顔付きになってその問いに答えた。


「それは覚悟しています。院内の患者をそのままごっそり引き連れて行く訳にいきませんし、固定患者が付くまで暫く苦しいとは思っています」
「そうだろうな。それで俺の頼みを聞いてくれたら、金払いの良い有閑マダムの十人や二十人、紹介しようかと思ったんだが。どうだろうか? 女性の口コミは馬鹿に出来ないぞ?」
「いえ……、せっかくの申し出ですが、そういうご紹介は……。お気持ちだけ、ありがたく頂いておきます」
 本音を言えば紹介して欲しいのは山々だったが、目の前の人物に借りを作る事がとてつもなく危険である事と、実際にどんな人間を紹介して貰えるのか不安要素しか無かった為、葛西は控え目に辞退した。すると秀明が、とんでもない事を言い出す。


「なんだ。お前は昔から根っからの女好きだと思っていたが、ちょっと合わない間に宗旨替えしていたとは知らなかった。分かった。それならムキムキマッチョのオネエ様方を、景気良く五十人程紹介してやろう。泣いて喜べ」
 そんな事を、ニヤリと嫌らしく笑いながら宣言された為、さすがに葛西は動揺した。


「は!? ちょっと待って下さい、先輩!」
「オネエ様達もオイルの乗りが悪いとか、プロテインの効果がなかなか出ないとか、日々色々と悩みが多いみたいだしな。親身になってケアしてあげてくれ」
「それ……、紹介じゃなくて、単なる嫌がらせ以外の何物でもないじゃないですか……」
 思わず将来開業した自分のクリニックの待合室が、その筋のオネエ様方に占拠されている光景を想像してしまった葛西は、座ったままがっくりとうなだれた。そんな相方を榊は生温かい目で見やり、美実は秀明に尊敬の眼差しを向ける。


「お義兄さん、その悪人面が素敵です。もう誰にも真似できません!」
「そうかな?」
「はい! やっぱり陰の黒幕として、チョイ役で良いから書かせて貰えませんか?」
「却下」
「本当に惜しいわぁ……」
 即答で拒否された美実が本気で悔しがっていると、秀明は二人に向き直って話を続けた。


「それで話は戻るが、俺のちょっとした頼みを聞いてくれるなら、隆也には不審者情報を渡すし、芳文には金づる女性を紹介するつもりなんだが、どうだ?」
 笑顔でそんな提案をされた二人は、思わず無言で互いの顔を見合わせてから、慎重に秀明に言葉を返した。


「……話の内容にもよります」
「言っておきますが、明らかな犯罪行為に加担するのは勘弁して下さい。こいつの経歴と、俺の医師免許が吹っ飛びますので」
 かなり及び腰になっている後輩二人の懸念を、秀明は明るく笑い飛ばす。


「可愛い後輩のお前達に、そんな危ない橋を渡らせる筈が無いだろう。たかだか一時間強の時間を、美実ちゃんの指示通りにして欲しいだけだ。小説のモデルが欲しいからな」
「小説のモデル?」
「指示通りって……」
 怪訝な顔をしたものの、二人が明確に拒否もしないのを見て取った秀明は、美実に声をかけて促した。


「じゃあ美実ちゃん。二人とも異論は無さそうだし、さっさと始めようか」
 それに美実が力強く頷き、早速指示を出す。
「はい。ちょうど榊さんがスーツで出向いて下さったので、ネクタイを外して貰えませんか?」
「はぁ……、分かりました」
 何をさせる気だと訝しみながらも、榊が素直に喉元に手を伸ばすと、慌てて美実が訂正してくる。


「あ、すみません! 違うんです。葛西さんが榊さんのネクタイを外して下さい」
「え?」
「は? どうしてです?」
 榊は勿論、葛西も当惑して尋ねると、美実はいつの間にか手にしたデジカメを構えながら、理由にもならない事を言い返してくる。


「ビジュアル的にどうなのか、実際に目で見て確かめたいからです。あ、お二人とも、写真を撮らせて下さいね? 外には流出させませんので」
「分かりました。芳文」
「……ああ」
 そして納得しかねるまま二人は美実の指示に従ったが、葛西がネクタイを外すと、更なる要求が降りかかった。


「じゃあ今度はその外したネクタイで、榊さんが葛西さんの手首を縛って下さい」
「え?」
「あの、それって」
「お願いします」
「ほら、さっさとやらないか」
「…………」
 流石に怪訝な顔になった二人だったが、にっこり微笑む美実の横で薄笑いを浮かべている秀明に催促されて、大人しく指示に従った。その手元を、美実が感心した様に覗き込む。


「あ、ただぐるぐる巻きにするんじゃなくて、斜めに交差させるんですね?」
「ええ。こうしないと手首を動かしたり捻ったりしているうちに、緩んで抜ける可能性がありますので」
「なるほど。参考になりました。それじゃあ次に、お二人ともソファーの横に立って、葛西さんが榊さんをソファーに突き飛ばして押し倒してみて欲しいんですが」
「は?」
「ええと……」
「美実ちゃん、それはちょっと止めてくれないかな?」
「どうしてですか?」
 男二人が戸惑った表情になったところで、やんわりと秀明が口を挟んできた。それに美実が不満そうに問い返すと、彼は淡々と理由を説明する。


「女性だったらともかく、こいつらだと体格が良いから、ソファーに勢い良く倒れ込んだらそのまま床に落ちるか、そうでなくてもテーブルに頭や肩をぶつけそうだろう?」
「言われてみればそうですね。これは三人掛けでそれなりに大きいけど、一人暮らしの部屋にこれと同等かそれ以上のサイズのソファーなんて置く人はそんなにいないだろうし、リアリティに欠けるわ」
 うんうんと一人納得して頷いている美実を見て、榊と葛西は密かに胸をなで下ろしたが、その安堵感はすぐに潰えた。


「だから美実ちゃん。日常生活の中で、いきなり押し倒すシチュエーションを作りたいなら、ダイニングテーブルがお勧めだよ? あれなら高さがあるから、急に押し倒しても上半身が倒れ込む位で、怪我をする可能性は殆ど無いから」
「なるほど! さすがお義兄さん! これまでどれだけの女性を、ダイニングテーブルで押し倒してきたんですか?」
「ノーコメント」
「ですよね~。まあ、それはどうでも良いですが。それじゃあ皆で食堂に移動しましょう!」
 上機嫌でそう叫んだ美実は、ノートとボールペン、カメラを手にして、意気揚々と歩き出した。それを見た榊と葛西が、慌てて反論しようとする。


「ちょっと待って下さい。どうして俺達が」
「情報」
「何でそんな事」
「金づる」
「…………」
 しかしもの凄く良い笑顔で二人の肩を叩きながら端的に告げてきた秀明は、後輩達を一言で黙らせると、とどめを刺した。


「美実ちゃん、浴室で色々小物を使ったりとか、階段での段差を使ったせめぎ合いとかも、なかなか面白くはないかな?」
 そう秀明が口にした瞬間、美実が嬉々として振り返る。
「お義兄さん! 師匠と呼ばせて!!」
「ははっ……、『師匠』と呼ばれるのは初めてだな」
「…………」
 そしてそれから小一時間。榊と葛西は暴走義兄妹に、容赦なく翻弄される羽目になった。


「今日はご協力、ありがとうございました」
「いえ、大した事は……」
「お役に立てて、良かったです……」
 身体的疲労をはるかに上回る精神的疲労を自覚しながら、榊と葛西が玄関で靴を履き終えると、秀明が笑顔で大判の封筒を榊に差し出した。


「隆也、これが約束のブツだ」
「……ありがとうございます」
「芳文、開業二ヶ月前には連絡を寄越せよ?」
「二十代から五十代までの“美女”でお願いします」
「分かった」
「それでは失礼します」
 そして一礼して歩き出した二人の背中に、美実の容赦の無い声が刺さった。


「本が出来上がったら、お二人にサイン入りで進呈しますね! お気をつけて!」
「…………」
 非礼だと思われようが何だろうが、二人は振り返る気などさらさら無く、前方を見据えながら黙々と歩き続けた。そして門を出て最寄り駅に向かって歩き出したところで、榊が押し殺した声で悪態を吐く。


「万が一ガセネタだったら、承知しないぞ。あのドS魔王……」
「白鳥先輩に限って、その心配は無いだろう。あの人、どうしてだか昔から鼻が利くから。お前だって覚えが有るだろ? しっかり弱味を握られて、すっかり手玉に取られていた、某学長とか某事務長とか某教授とか某准教授とか」
「分かってる! ……全く、犯人の奴。この時期に、俺のシマでつまらねぇ事件起こしやがって。捕まえたら徹底的にボコって余罪を全部吐かせた上で、余罪をでっち上げて嵩ましして、五十年位ぶち込まないと俺の気が済まん!」
「八つ当たりは止せ。明日の出勤までには、平常心を取り戻しておけよ? しかし先輩は結婚して丸くなるどころか、性格の悪さに磨きがかかったな」
「激しく同感だ」
 相方を宥めつつ葛西が愚痴を零すと、榊が吐き捨てる様に応じた。そんな事を言いながら角を曲がった所で、二人は予想外の人物に出くわす。


「お? 隆也に芳文?」
「こんな所で奇遇だな。元気か?」
「お久しぶりです、松原先輩、篠田先輩」
「どうしてここに?」
 二人のサークルの先輩に当たる二人は、不思議そうに顔を見合わせながら説明してきた。


「それが……、良く分からんが、白鳥先輩から呼び出しを受けてな」
「あからさまに無視もできないし、来てみたんだが。ひょっとして、お前達も呼ばれたクチか?」
「実はそうなんですが」
「隆也、ちょっと」
「何だ」
 自分と同様の用件で呼ばれたのだと察した榊が警告を発しようとしたが、ここで葛西が彼の腕を軽く引いた。その為、榊が訝しみながら相方の方に身体を寄せると、葛西がその耳元で囁く。


「余計な事は口にするなよ? 先輩達が出向かなかったのが俺達のせいだと分かったら、確実にまた酷い目に合わされる」
「だがな」
「不幸は皆で分かち合おう」
「……そうだな」
 真顔で言い聞かせてきた葛西に、榊は僅かに逡巡してから同意した。そして怪訝な顔をしている先輩二人に、愛想を振り撒く。


「おい、二人とも、どうかしたのか?」
「いえ、大した事では無いのですが」
「久しぶりに、白鳥先輩と馬鹿話をしてきたので、それを先輩達に暴露されないか心配だなと」
 それを聞いた二人は失笑した。


「お前達先輩の前で、一体どんな話をしてきたんだ?」
「あの人の前で弱味を見せるとは、油断したな。それじゃあな」
「はい、失礼します」
 そして笑顔で別れた先輩二人の背中に向かって、榊と葛西は無言で合掌したのだった。


「啓介、光、よく来てくれたな。こちらは俺の妻の二番目の妹の、美実ちゃんだ。美実ちゃん、この二人は俺の大学時代のサークルの後輩で、向かって右側が松原啓介、左側が篠田光だ。因みに啓介は東京国税局査察部所属で、光はフリーのジャーナリストなんだ」
「そうなると方向性の違いはあれ、お二人とも調査のプロですね!? 凄いわ~」
「いえ、そんな華々しい物では」
「第三者には、ハイエナ呼ばわりされる職業ですし」
 後輩達に裏切られ、悪の巣窟に誘い込まれたなどとは夢にも思っていない松原と篠田は、秀明に美実を引き合わされてからも如才なく愛想を振り撒いていたが、徐々にその笑顔が強張ってきた。


「うふふっ……、今度も有望。っていうか、もう漠然と話が浮かんできちゃった。『これを世間に公表されたくなかったら、大人しく俺の物になれ』でも良いけど、『お前の為なら、どんな事でも暴いてみせる』とかでも良いよね。やっぱりこの組み合わせでも、何パターンかいけそう。美味しい……、本当に美味し過ぎるわ、お義兄さんの交遊関係……」
 チラチラと時折自分達の方を見ながら、不気味な笑い声を漏らしつつ一心不乱に何かをノートに書きなぐっている美実を、松原と篠田は薄気味悪い物を見る様な目で眺めた。


「なあ……、何かあの義妹さん、目つきが怪しくないか?」
「まさしく、得物を狙うハイエナですよね。白鳥先輩は俺達に、肉食系女子を紹介する気なんでしょうか? 勘弁して欲しいんですが」
「全くだ。女に不自由なんかしてないしな」
 ボソボソとそんな事を囁き合っていると、秀明がさり気なく声をかけてくる。


「ところでお前達、内容は異なるが、今現在偶然にも、同じ人間を調査しているみたいだな」
「え?」
「そうなんですか?」
 互いの顔を見合わせて驚愕した二人に向かって、秀明がおかしそうに笑いながら話を続ける。


「情報漏洩する筈が無い、とでも言いそうな顔だな。はっきり名前を出して、確認するか? 俺が小耳に挟んだのは、重田兼敏衆議院議員と実弟の梶原雅文コクド開発社長に関しての内容だが」
「…………」
 サラリと言ってのけた秀明に、真顔になった二人の視線が突き刺さる。しかし秀明は、それを物ともせずに提案してきた。


「ちょっと面白い内容だったから、俺の頼みを聞いてくれたらお前達に教えてやろうと思って、今日出向いて貰ったわけだ。どうだ?」
「先輩の事ですから、俺達にとって有益な情報に決まっていますが……」
「だからこそ無償で提供してくれるなんて、有り得ませんよね?」
 本来なら飛びつきたい情報の存在を匂わされても、在学中に秀明の底知れなさを嫌と言う程体感していた二人は、慎重に探りを入れた。そんな彼等のやり取りを観察していた美実が、かなり高いテンションで三人を褒め称える。


「やっぱりお義兄さんのふんぞり返りぶりが最高! それにお二人も付き合いが長いだけあって、もうお義兄さんの性根の悪さが身に染みて分かってるんですね!? やっぱり旨い話には、すぐ飛びついちゃ駄目ですって! 戸惑って苦悩して自問自答した末に、情愛の渦に自ら飛び込むんです!!」
「……やっぱり変だぞ、彼女」
「ええ。目をキラキラさせて喜ぶ話の流れでも、空気でもありませんよね?」
 盛大に顔を引き攣らせて囁く二人に向かって、秀明が宥める様に言い出した。


「勿論、無償では情報は渡さない。これから一時間程、美実ちゃんの指示に従って欲しいだけだ」
「義妹さんの指示?」
「一時間? それだけですか?」
 しかしその疑問には、美実が明るく答えた。


「はい。本当にそれだけで結構です。これから書く小説のモデルを探してまして。ですから色々指示した動作をして貰って、そこを写真で撮らせて貰いますが、他には流出させませんので」
「はぁ……。まあ、そういう事なら」
「お付き合いしますが……」
「ありがとうございます」
「快く引き受けてくれて、嬉しいぞ。約束は守るからな。帰る時に手土産に持たせてやる」
 まだ何となく納得しかねる顔付きながら、松原と篠田が了解すると、美実が笑顔で礼を述べた。そして時間を無駄にせず、二人に指示を出す。


「じゃあ早速、ソファーに座ったままで良いので、篠田さんが松原さんの片足を抱えて、靴下を脱がせて貰えませんか?」
「……え? ですが」
「査察」
「あの……、それって何の意味」
「スクープ」
「…………」
 そして絶妙のタイミングで秀明が二人の当惑と講義の声を封じつつ、上機嫌な美実の暴走がエスカレートしていった。




 藤宮邸で、余人には窺い知れない取引が行われてから数日後。
 淳は大学時代の後輩に呼び出されて、仕事を終えてからとある中華料理屋に出向いた。


「よう! 皆、久しぶりだな。こんなに顔を揃えているのは、秀明の結婚披露宴の時以来か?」
 予約した後輩の名前を告げて案内された個室には、大きな円形のテーブルを囲んで既に六人の後輩が座っており、淳は明るく声をかける。しかしそれに対する彼らの反応は、記憶にあるそれより明らかに覇気が無かった。


「……そうですね」
「各自、個別に顔を合わせてはいますが」
「やっぱり白鳥先輩が絡むと、ろくな事が無いな」
「あの人、昔から周囲に甚大な被害を及ぼしても、自分一人だけはちゃっかり無傷だったし。まさに台風の目」
「分かり切った事を言うな」
 何やらボソボソと呻く様に応じた彼等に、淳は一つだけ空いていた椅子に座りながら、不思議そうに問いかける。


「何の事だ? 秀明がどうした? それにそもそも秀明抜きのこの面子で、何の集まりなんだ?」
 その問いに、彼らは益々重苦しい空気を醸し出しながら、口々に呻く様に告げた。


「いえ、まあ……。今回先輩のお宅で、貴重な体験をさせて貰いまして」
「俺達は普段、間違ってもパワハラとかセクハラとか、受ける筈ありませんし」
「そうだな……。疑似体験ができたと思えば、貴重な体験だったとも言えるか」
「寧ろ、それ位ポジティブに考えないと、やってらんねぇぞ」
「俺の中では今、パワハラセクハラ撲滅キャンペーン展開中です」
「弱者救済……、強者許すまじ……」
「おい……、だから一体、何の話だ?」
 全くわけが分からない淳が、周囲を見回しながら困惑気味に尋ねると、隣の席に座っている、後輩達の中では最年長の松原が、ガシッと淳の肩を掴みながら低い声で言ってくる。


「俺達が、小早川先輩に言いたい事は、たった一つだけです」
「……何だ?」
「あんた白鳥先輩の義妹さんに、何してくれやがったんですか!?」
 うっすら涙を浮かべた松原の魂からの叫びと、後輩達からの恨みがましい視線を一身に浴びた淳は、彼等の身に降りかかったであろう不幸のおおよそを悟った。


「ああ……、うん。詳細は分からないが、お前達に迷惑をかけた事は分かった。確実に、お前達が被った被害の原因と責任の半分は俺にあると思う。ここの支払いは全部俺が持つから、今日は好きなだけ飲んで食ってくれ」
 心底同情しながら、せめてもの詫びにと淳が口にすると、彼等は最初からそのつもりだったらしく、やさぐれた空気を醸し出しながら動き出した。


「遠慮無く、そうさせて貰います」
「それ位して貰わないと、やってられませんよ」
「おい、アルコールのリストは?」
「ほら、コースの一皿目を催促しろ。他に食いたい物があれば、単品追加でどんどん頼め」
「呼び出しボタン、押したぞ」
 それからは世間話をしながら大いに飲んで食べ、それなりに笑顔を取り戻した面々だったが、誰一人として藤宮邸での出来事について愚痴を漏らすどころか、秀明の名前を言及する者も皆無であり、淳にはそれで彼等のトラウマっぷりが垣間見えた。


(美実、秀明……。お前達、こいつらに何をした?)
 そして予想外の出費以上に、容赦が無さ過ぎる友人と恋人を思って、淳は頭を抱える事になった。





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